#1498/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (PKJ ) 89/ 3/29 13:32 ( 85)
混沌 (壱) バベッティー
★内容
その日はかなり曇っていた。じめじめした黒い雲が、憂欝そうに空の
隅々をおおって、それでもまだ足りず、まるで初夏の入道雲の様に、こ
こかしこから、暗い色の太い腕を、不安定にぶらさげていた。雨の降っ
ていないのが、不思議なくらいであった。もともとあまり奇麗でない町
並みも、空一面の黒いカーテンのおかげで、さらに薄汚なく、さらに陰
気な風景をつくりあげていた。
この古いTという町の、中心地からやや北寄りのうらびれた横町に、
一軒の小さな下宿屋が在る。建物自体は大して古くない筈なのだが、木
造の薄黒くくすんだ様な外壁は、やはり、寂れた、何か叙情的な雰囲気
をかもし出している様であった。部屋は、全部あわせても四戸しかなか
った。それでも、ひとつひとつの部屋がそれぞれ独立した玄関と台所を
持っており、外から見ると、この建て物は、少し小さめの長屋の様に見
えた。
一番右側の、通りから最も目立たない部屋、その部屋の中で、井沢佳
之は、いらいらした気持ちで横になっていた。彼はしばらく前から目を
覚ましていたが、何やらしきりにつぶやきながら、布団の中で寝返りを
うっていた。
井沢が事実上学校をやめてから、六カ月になる。家にはまだこのこと
を知らせていなかったが、先々月から仕送りがとだえているところを見
ると、もうすでに、何らかの形で通知が行っているのかも知れなかった。
彼の生活は日々随落していた。自分でも、それには気づいていたが、
だからといってどうしようという考えも起こらず、ただ、流れに身を任
せていた。この様な事態になって、ぬけぬけと田舎に帰れる筈もなかっ
たし、何より彼には、働くという行為が、精神的にも思想的にも不可能
なのであった。と言っても、それは別に一貫した高まいな考えを持って
いるわけではなく、彼は、所謂お坊ちゃんなだけであった。
学校を退学せざるをえない程に度を越した遊とうは、現在ではその極
みに達し、次々と売り払った衣服や書物で得た金も、そろそろ底をつき
始めていた。
けれども、彼の様な人物を、果たして怠慢と呼べるであろうか。確か
に、彼は甘えている。生活力のなさを、改善しようという意志が見られ
ない。しかし、これは仕方のない事なのである。怠慢は、井沢の持って
生まれた性質なのだ。体質と言っても、いいかもしれない。彼は時々、
この自分のだらしなさについて真剣に考える事もあるが、その度に、何
故だか突然遊びの楽しさが思い出され、実際に町へ出て遊びまわって、
最後にはうやむやにしてしまうのであった。
今朝の井沢は、無性に気が立っていた。昨晩、あまりに大きな金額を、
馬鹿々々しく遊びに費してしまったのである。その空虚めいた苦しみと、
もう金は殆ど残っていないのだという焦燥とが混ざり合って、自分の様
なのがこの世に存在する事自体、たまらなく恥しい、くやしい事だと思
われた。彼は布団にうつ伏して、大声をあげて泣こうとしたが、涙は一
粒も出なかった。
のろのろと起き上がって、時計を見た。もう昼を過ぎて、夕方に近か
った。もう一度床に戻ろうかとも考えたが、思いとどまって、上着を羽
織った。シャツやズボンは、着けたまま眠っていたのである。彼は窓か
ら外を見て(外を見るといっても、この窓からは汚れた小さな裏庭が見
えるだけであった)、そうして、少し考えて、外套を着ようとその方へ
目をやった。外套はなかった。狭い部屋の四方を捜したが、やはり見つ
からなかった。数日前、質に入れて、遊とう費にしてしまったのを、彼
は奇麗に忘れているのだ。
井沢は外套を諦めて、半ば怒りながら部屋のドアを乱暴に開けて、往
来に出た。どこへ行こうというあてはなかった。
《何故こんな人間が生きているのだ》彼は歩きながら考えた。《俺は
やはり余計者なのだろうか。否、それどころか、罪悪とさえ言えるのか
も知れぬ。サラリイマンめ。俺が余計者の象徴なら、サラリイマンは美
しき貢献者の象徴か》彼は憎々しげに笑った。《俺ひとりが、これだけ
苦しんで、わざと苦汁をなめて、そうして何の役にも立っていない。阿
呆め。考えが甘かったのだ。悩んで、悩んで、あとは死ぬだけ》
気がついてみると、いつの間にか細い横町を抜けて、大通りと交わる
四つ角の少し手前まで来ていた。通る人間はほとんどいなかった。井沢
は少しの間、何か思い出す様に、その場にぽつりとつっ立っていた。と、
その時、彼の背後から足音が響いて来て、ぼんやりしているうちに彼を
は急いでいる様子だった。スーツの地味な色調から見て、どうやら会社
員らしかった。彼は一度もふり返らずに、四つ辻を横切って、そのまま
まっすぐ歩いて行こうとした。
「すみません」井沢は妙に落ち着いた口調で、声をかけた。
男は数歩進んで立ち止まり、面倒臭そうに後ろを見た。
「何です」露骨にいやな表情をして、井沢の顔に視線を向けた。
「あなたは何だと思います? 私の様な存在を、どう考えますか」自
分でも、何を言っているのやらわからなかった。あまりに不安な気持ち
になると、頭が混乱して、あらぬことを口走る癖が井沢にはあるのであ
る。「僕は仕事をしないし、勉強もしません。僕は、やはり余計者です
か。待って下さい!」
男は馬鹿にした様な顔で、何も答えず、再び歩き始めたのだ。井沢は
かけ寄って、その腕を掴んだ。
「何をするんです。私は急ぐのだ。手を放しなさい」どうやら男は、
井沢の事を狂人と思ったらしく、顔を青くして、腕をふりほどこうと必
死であがいた。
「もう一度聞く。俺は余計者か!」
井沢は力をこめて、男の頬を殴りつけた。鈍い音がして、ふらり、倒
れた。もう節制がきかなかった。彼は半狂乱になって、男の頭を、腹を、
無我夢中で蹴り飛ばした。
けれども、それは長くは続かなかった。近くにいた人が通報したのか、
それとも偶然通りかかったのか、あわてふためいた警官がひとり、警棒
を構えて走り寄って来たのだ。