#1348/1850 CFM「空中分解」
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『熱帯魚』(4) 栗田香織
★内容
(4)
恭子の呪縛から解かれたように、美佐子に平穏な日々が戻ってきた。
そんなある日、美佐子が買物からの帰り道、家の前の坂道を上っていると、上の
方から大きな叫び声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、もの凄いスピードで自転車が突進して来る。乗っているの
は哲夫だった。避ける暇もなかったし、美佐子はとっさに受け止めようとしたのか
もしれなかった。
だが、坂道で惰性のついた自転車はまともにぶつかり、美佐子と哲夫は自転車も
ろとも坂道を転げ落ちた。
美佐子は、気がつくと病院のベッドに横になっていた。目の前には島野と哲夫が
心配そうに見守っている。
「気が付いたね。どこか痛む?」
島野がその大きな手で美佐子の手を握りしめて言った。
「哲夫君は……大丈夫だった?」
美佐子が哲夫の方を向いてそう言うと、
「僕はかすり傷だったよ。ごめんね。僕がぶつかっちゃったから赤ちゃんが……」
と済まなそうに、うなだれた。
「赤ちゃん、だめだったの?」
「ああ……」
島野は苦しげに眉根をよせて答えた。
「そう、だめだったの……」
美佐子は自分がやけに冷静なのに驚いていた。もし流産でもしたら死んでしまう
ほど悲しむに違いない、そう思っていたのに、今のこの気持ちの静けさは何だろう。
結局、お腹の子供は美佐子にとって、心の負担になっていたのだろうか。
島野が哲夫をかばうように言った。
「でも、哲夫が悪いわけじゃないんだよ。警察が哲夫の自転車を調べたら、ブレー
キに細工がしてあったらしい。なんでも一昨日くらいからこの近くで同じようない
たずらが頻発してて、哲夫の事故が四件目なんだそうだ。まだ犯人は捕まっていな
いけどね」
「そうね。とんだ災難だったけど、哲夫君が無事でよかったわ」
美佐子は哲夫の心の負担を少しでも軽くしてあげなければと、微笑みさえ浮かべ
ていた。
「美佐子さんが僕を避けずに受け止めようとしてくれたから良かったんだって。あ
のまま大通りまで飛び出してたら、大怪我してたかもしれないから……ありがとう」
哲夫は最後の『ありがとう』を照れくさそうにつぶやいた。それを見て、島野と
美佐子は顔を見合わせて、微笑んだ。
「また明日来るからね」そう言いおいて、哲夫たちが帰った後、面会時間の終わる
ぎりぎりになってから、伊沢真智子がやってきた。
美佐子は疲れる相手が来たものだと、内心うんざりしながらも、暗い顔をしてい
たらまたいろいろかんぐられ、ク恁ヒ端会議のかっこうのネタにされると思い、精
杯の笑顔で迎えた。
「わざわざお見舞いにきてくださって、ありがとう」
「ほんとに、おどろいたわよ。あのとき、庭で洗濯物を取り込んでいたら、外で大
きな声がして、ガシャーンでしょう? あわてて道に出てみたら、あなたと哲夫君
が坂の下の方でころがっているんだもの。あ、あの救急車を呼んだのは私なのよ」
「それはどうもありがとう」
「ううん、そんなことはいいのよ。当り前のことをしただけなんだから。ねえ、警
察の人にちょっと聞いたんだけど、ブレーキにいたずらしてあったんだって?」
(おや、おや、さっそく地獄耳だこと)
「そうらしいわ。一昨日くらいから、あちこちでそういういたずらしている人がい
るんだって」
「でも、変ねえ……」
「え、なにが?」
「うちの伸一がね、二階の自分の部屋の窓から見てたのよ。哲夫君が公園の方から
自転車でやってきて、お宅の門の中に入って行ったのを。で、入って行ってからし
ばらくしてまた出てきたら、自転車にまたがったまま、門の陰に隠れているみたい
に見えたんですって。何してるんだろうって不思議に思ってたら、急に坂道に走り
出て、何かわめきながら、あとはあなたも知ってるとおりになったんだけど」
「……」
「ねえ、変でしょう? だって公園の方からくると坂道を下ってくることになるの
よ。つまりそのときはブレーキに異常はなかったことになるでしょ。それから哲夫
君が出てくるまでの間に、誰もお宅に入って行った人はいないのよ。それに門の陰
であなたを待ち伏せしてたような行動。これ、どう思う?」
真智子は楽しくてたまらないというふうに、目を輝かせてしゃべり続けた。
「なんだか気分が悪くなってきたわ。悪いけど帰っていただけるかしら」
美佐子にそう言われても、なおも10分ほどしゃべり続け、真智子はやっと御輿
をあげた。
驕@美佐子は一人になると、真智子の言ったことをよく考え直してみた。
もし、伸一が見たということが事実なら……それはあまりにも恐ろしい空想だっ
た。
あのとき……一番大事なものはなんだと聞かれたとき、哲夫は『もう、いいよ。
どうせ赤ちゃんに決ってるんだから……』と言ったけど、あれは『もう、いいよ。
どうせ(標的は)赤ちゃんに決ってるんだから……』という意味だったのかも知れ
ない。
美佐子は、その夜、恐ろしい想像に震えて、なかなか眠れなかった。