#1185/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (GDG ) 88/10/14 12:13 ( 88)
K&D>「梅花一枝之香」 槙 淨秀
★内容
K&D>「梅花一枝之香」 槙 淨秀
ある日、友を訪ねた。
わざわざ玄関で案内を乞うほどの仲では無論ない。何やら奥で友の声がしたのを
良いことに、勝手に彼の書斎兼寝室へと上がりこんだ。
入って正面、南向きの窓の下には、いつものようによく磨かれた文机が置かれて
いて、それはいつ頃の時代のものなのか、形態(かたち)、材、金具などから推察
するに、幕末から明治初期にかけての木工の特徴を顕著に備えているように思える
が、その「明窓浄机」と呼ぶに相応しい机の上には、梅を一枝、素朴な徳利に生け
てあり、それらが壁土の色とも相まって美しく、良い趣であった。
六畳の部屋の真中には、すこし小さめの長火鉢を据えていて、その上で瓜形の鉄
質の良い鉄瓶が、瑪瑙のつまみを付けた「龍文堂」製の、ちょっと洒落た蓋を斜め
にかぶって湯気をたてている。――こう書くと、何やら骨董屋の店先じみてくるが、
決してそれほど悪趣味ではない。
やがて主(とも)が入ってきた。
「やあ」
「やあ」
別に用件があって来たわけではないから、自然とりとめの無い話になる。しかし
この友は大体、話の筋をとんでもない方へと飛躍させる大家といってよく、人の話
の腰は折る、話題はくそ忙しいほどに転変を繰返す、しまいには、彼自身何を喋っ
ているのか判然としなくなるのか「えへらえへら」と訳の分からぬうすら笑いを浮
かべてごまかすといった技倆の持ち主である。
この日は梅の話から始まった。
「梅というやつはいつ見てもきれいだが、食ってもうまいもんだな」と友が言う。
「ああ、そうだな。梅干、梅酒、梅酢、……」
「近頃、エイズはどういう状況なんだ?」
「??、なんで、そこにエイズが出てくるんだよ」
「ニュース見てないからな、ちょっと気になるなあ」
まるで人の話など聞いていないのである。こうなってくると、こっちも半ばやけ
くそ気味になり、ひつこく梅の話でくいさがる。
「ハハ、梅干はやはり多少かための方が美味だな。それから、なんと言っても梅酒
は半年以上ねかさないと駄目だし、梅酢は……」
「おお、俺はなんと不幸な時代にうまれたんだ! 神よ、仏よ!」
「………。」
「あれ? そう言えば『神よ、仏よ』とは言うが『仏よ、神よ』とは普通言わない
な。何故だ? 単に語呂が悪いからなのか、それとも何か他にわけでもあるのか、
それにこの場合の『神』はキリスト教的な唯一絶対神なのか、それとも日本古来の
シャーマニズム的な意味での神なのか、どっちなんだ?」
もはや、たちうち出来得る段階はとうに過ぎたようである。
彼の恐るべき話しを聞き流し、ふと窓外に目をやればひよどりが二羽、中庭の蹲
いに水浴にきている。ひよどりの大きさが大きさだから、蹲いの中に一度に二羽は
入りきれず、片方は静かに相棒のそれが終わるのを待っている様子である。
――つがい、かな――と思ったとたん、慌てたように二羽同時に飛び去り、私の
短い想像も終わった。
「……だから、黄身と白身というのはだな」
今度はどうやら卵の話をしているらしく、しきりと卵を(何か器に入れているの
だろう)掻き混ぜるしぐさをしている。それはいいのだが、話に熱がはいってきた
のか唾をしきりと吐き散らしている。これには閉口する。飛んでくる唾をさけて長
火鉢の前から少し後へさがろうとしたら、急に話がやんだ。
やれやれと思いながら友の顔を見ると、例の「うすら笑い」をうかべている。ど
うやらまた何を喋っているのか分からなくなったらしい。今日はおまけに口笛まで
吹きだす始末である。
あまりの見事さに、私は発すべき言葉も知らずただ敬服の念を催すのみであった。
*
少し傾いたとはいえ、はるの陽光は依然として畳の上に優しく差し込んでいる。
さっきから友は、便意を催したとかで雪隠に籠ったきりである。近頃彼は痔を患
っており、その先端は四五口径の弾丸ほどもあると聞いたが、よほど悪いらしく、
今日もかなりの疼痛に耐えていることは推察に容易い。
だが、彼の家の雪隠はいわゆる温水トイレと称するものである。スイッチさえ入
れれば適度な強さで温水が患部をきれいに洗い流し、あとは温風が温め乾かしてく
れるという至れり尽くせりの代物である。こんな結構なものがあるなら、かえって
痔にならなければ損である。
斯く言う私も彼ほどひどくはないが、同病のため時々この有難い雪隠を拝借させ
て貰っている。
用を足して帰ってくるなり、友は座布団を二枚敷き込み、辛そうな顔をして長火
鉢を抱え込むようにして座った。
「どんな具合だ?」と訊ねると、
「ウウ…、い、た、い」と彼にしてはまともな答えが返ってくる。
「梅がきれいだな」
「ウウ……、い、た、い」
「仄かな梅の香りと、鉄瓶がたてる松風、いいねえ」
「ウウウ……、い、た、い」
「お、この扁額は変わってるね。いったい誰の書なのかな?」
「い、た、い、よう」
「明日の天気はどうだろう、晴れるかね?」
「…、た、い、よ…」
もはや友は「いたい」しか知らないようである。
この辺できりあげておかないと、あとが怖い。冷たくなった煎茶を飲み干して病
状の快復を祈り、早々に書斎を辞去した。
あとは、早春(はる)の陽光に優しく包まれた一枝の梅が、文机の上で微かに匂
いを放ち、我が莫逆の友は、長火鉢で尻を炙りながら、法悦の溜息をもらすのみで
ある。
――春とは名ばかり、依然、外は冬である。