#848/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ ) 88/ 2/29 15:24 (114)
毀れゆくものの形 四−1 直江屋緑字斎
★内容
四
空気中に、油の粒子が隙間なく漂っていた。眩(まばゆ)く照り
つける太陽がそんな妄想をもたらす時刻だった。鶉町は山間にある
せいで、夏のうちの何日かが北国とは思えぬほど暑くなる。寂れか
けた炭鉱町から離れられないでいる煤けた顔の人々は、まるでその
時刻に詰め込まれた鰯(いわし)の死骸のように、ぎらぎらした暑
さにうだっていた。
蝋涙のように熱を帯びて滴る火が陽炎をつくりだし、その頼りな
げな影が人の輪郭をとり始めていた。ふらふらと宙をさまようよう
な足どりで、一人の老人がこの町に現われた。
道端で擦れ違う人が何処からともなく伝わる冷気を感じて目をや
ると、老人の眸(ひとみ)に陰鬱(いんうつ)な翳(かげ)りが宿
っているのを見て、思わず足を止めた。人々は老人の後ろ姿を振り
返りながら、その痩躯から漂う気配に、夏の夜に忽然と訪れる幽霊
を連想した。身慄(みぶる)いする頃には、老人の姿は再び光と光
の織りなす蜃気楼の間(あわい)に閉ざされていた。
有木老人が垢じみた遍路姿に頭陀袋(ずだぶくろ)一つで矢継医
院を訪れてから、一週間程の日が過ぎた。老人はしみの浮いた日灼
け顔をし、異様な臭いを発散させていたが、身を清め、新しい衣服
に着替え、胡麻塩の蓬髪を撫でつけると、いかにも学者然とした、
人品の浅ましからぬ印象を人に与えた。院長の賓客として迎え入れ
られた老人は二階の特別室を居室に提供され、日中のほとんどをそ
こで過ごし、そこから出ることはなかった。けれども、夜になると
忍ぶように診察室の隣の研究室に赴き、遅くまで院長と何ごとかを
語らっていたのである。
その日の午後、早彦は、病院の裏口に面した道を通りかかると、
片足を引き摺(ず)った犬が後足を舐(ねぶ)るようにして丸くな
り、塀の傍に蹲(うずくま)っているのを見かけた。その犬は目や
にを溜め、だらしなく耳の折れた、みるからに哀れで汚い老犬だっ
た。老犬はブロック塀に背をもたせかけ、暖かな日溜りの中で日光
浴を楽しんでいる風情だった。早彦は陽に当たりながら目を細めて
いる老犬をしばらく眺めていたが、何を思ったか、足下の砂利を一
掴みすると、礫(つぶて)を痩せた犬めがけて次々と放り始めた。
居眠りを妨げられた老犬は赤く充血した目を瞠(みひら)き、力の
ない弱々しい唸り声を洩らした。その声が甲高い吠え声になるのに
さほどの時間は要さなかった。
犬の鳴き声を聞き咎(とが)め、数人の患者が二階の窓から身を
乗り出していた。病人たちは非難のこもった目つきで早彦を睨(に
ら)んだ。けれども、早彦は臆する素振りも見せず、悲鳴をあげる
老犬めがけて小石を放り続けた。たまりかねた患者の一人が、「可
哀相に、そんな悪さ」と叫んだとき、早彦は挑戦するように二階を
振り仰いだ。だが、早彦が目にしたのは、叱声を浴びせた入院患者
ではなく、彼らと隔離された特別室で佇(たたず)んでいる有木老
人の、窓越しに見える微笑だった。老人は吸い込まれてしまいそう
な柔和な目をゆるませ、まるで子供のあどけない悪戯を楽しんでで
もいるかに見えた。早彦は目を逸らすと、掌に握りしめていた最後
の石を、思いきり犬の胴体に叩きつけた。病んだ犬は呻くような鈍
い音を発した後、尻尾を垂れ、まろぶように逃げ出していった。
その夜、鶉町に地震があった。棚から物が落ちるということもな
かったのが、地盤が安定していて原子力発電所建設の候補地にも上
ったほどの鶉町にしてみれば、たしかに異変といえた。町の中には、
その時、山鳴りのようなものを聞いたという者も現われた。二階の
勉強部屋にいた早彦は、地震の直後、窓の向こうに見える山並の際
が縁取りされたように薄く光っているのに気づいた。夜空と接した
稜線に仄(ほの)かな赤い光が走り、山頂近くでその色が強まり、
山容が何本もの鬼の角のようにくっきり浮かんで見えた。
何度かの余震も過ぎ去り、早彦は寝床に就いていたが、赤い光の
中に聳(そび)える山々の暗い姿が妙に心に残り、なかなか寝つく
ことができなかった。そのうち、昼間見た有木老人の穏やかな微笑
が目に浮かんできた。そういえば、あの表情は、この間の冬、火傷
で死んだ人のものに似ている、何げなくそう思った。そう思ってか
ら、早彦は慄然(りつぜん)とした。息苦しさを覚え身を起こすと
寝台を離れ、月光の青白く洩れ入る窓辺に寄って、暗闇の涼しげな
空気を吸い込んだ。つまり、有木老人の微笑は死者の嗤(わら)い
だった。
早彦は階下の一部屋から明かりが洩れているのに気づいた。その
部屋は矢継院長の研究用の部屋だった。父親は自分以外の者が入室
することを固く禁じていた。けれども、近頃は有木老人がそこを訪
れているのを知っていたので、この夜中にと思いながらも、早彦は
強い好奇心が募ってくるのを抑えきれなかった。
病院のぐるりには一メートル半ほどの高さのブロック塀が建物に
接して廻らされていた。早彦は物干しからロープを外すと机の脚に
括りつけ、その端を窓から下へ垂らした。ロープを伝って塀の上に
降りると、モルタル塗りの壁で体を支えながら明かりの洩れる研究
室の窓に近寄っていった。カーテンが明り採りの小窓にもかかって
いたが、金具と金具の間にできた布地のたるみから部屋の中を覗く
ことができた。
研究室の壁にはいくつもの棚が並び、そのどれもが書類や標本で
埋められていた。窓の近くに黒光りした大きな机があり、その前に
坐っている父親のがっしりとした背が見えた。最近まで応接室にあ
った簡易ソファとテーブルが運び込まれていて、テーブルに置かれ
た滑石製の灰皿で烟草(たばこ)が燻(いぶ)っていた。早彦の覗
いている小窓が開けられているのは、充満する烟(けむり)を抜く
ためなのだろう。
有木老人は入口のそばのソファには腰掛けずに、壁際を往ったり
来たりしながら書類や標本に目を通していた。矢継院長は一枚のレ
ントゲンフィルムを手にすると、押し殺すような声で喋り始めた。
「ここを見て下さい。そうです、この微妙な突起が側頭部に大きな
影響を与えている。そして、私が運び出したサンプルに共通してみ
られるのが、このラムダ状縫合における突起なのです」
院長は変色したフィルムを手許のスクリーンに透かしながら、太
い指でその部分を示した。有木老人は標本棚から頭蓋骨を一つ取り
上げ、皺(しわ)だらけの手でその後頭部を擦った。院長が人差指
で示したのは、白く浮かび上がった頭部側面写真の、頭頂骨と後頭
骨の繋ぎ目の部分だった。それは、ぼんのくぼを頭頂へと辿(た
ど)っていくと途中にある箇所で、早彦の目にも白い光を透かした
突起が褐色の地から際立って見えた。老人は手にしている頭蓋骨の
拇指(おやゆび)大の尖った部分を痩せた指でなぞった。
院長は背凭(せもた)れのついた廻転椅子をめぐらしながら太縁
の眼鏡を外し、セルロイドの蔓をハンカチで丁寧に拭った。
「ははあ、やはりお分かりですか。「「もっとも、それほど大きな
角が生えたものは他にありませんからね」
低い声音の底に、上ずる声を押えようとする無理が潜んでいた。
そのため、院長の喉から数回、引き攣(つ)るような咳(せき)が
洩れた。
「これか……」
有木老人がひっそり呟いた。それから、何ごとかを案ずるような
遠い目つきをして、掌の上の頭蓋骨を見つめた。