#817/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ ) 88/ 2/27 8:56 ( 79)
毀れゆくものの形 三−2 直江屋緑字斎
★内容
肌寒さを感じて目を覚ましたとき、空では細かく千切れた夕焼雲
が急速に翳(かげ)りを帯び始めていた。山の中は夜を迎え、深々
として物音ひとつ聞こえず、紺色の空に浮かぶ月が次第に色づき始
め、いっそう凄寥(せいりょう)としてきた。そのとき、林の奥か
ら鋭い悲鳴が迸(ほとばし)った。早彦はあわてて飛び起きたが、
まだ裸のままなのに気づいた。裸のまま立ち上がり、薄暗闇に呑ま
れた林の奥にじっと目を凝らした。そこから甲高い叫びが数度涌い
たが、早彦の目には何も捉えられなかった。山奥に潜む魔物の一族
が騒ぎたてているような気がした。しばらくすると、それは激しい
女の泣き声に変わった。
早彦はこのあたりに誰かがいるのだと思った。そう考えていると
き、ふっと女の泣き声がかき消された。耳を澄ましてみたが、暗い
松林は異変を暗示する静寂だけを残していた。魅入られでもしたよ
うな強い好奇心に囚われると、早彦は足音を忍ばせ林の中に踏み入
った。背を跼(かが)めて隈笹の繁みを手探りで掻き分けながら闇
の中を進んだ。確かに、その向こうに人の気配がした。かすかだが、
苦しげに息つく音が伝わってきた。早彦は静かな動作で、一本の木
の蔭に裸体を滑り込ませた。
湿気のある黴臭(かびくさ)い空気が漂っていた。早彦は林の中
をずいぶん奥深くまで侵入していた。ようやく闇に馴れた目に浮か
んだのは、叢の中で縺(もつ)れて蠢(うご)く人影だった。顔は
はっきりしないが、男の方が女の方を下にして蔽いかぶさっていた。
そして、頻りに首を振る女の口に何かの布きれが押し込まれている
ように見えた。
西陽の没しきったのが梢の色の変化から窺(うかが)われた。林
の奥は完全な暗闇と化していた。男の低い唸(うな)り声が徐々に
獣のような咆哮(ほうこう)に変わり始めた。笹の葉の擦(こす)
れ合う音が忙しくなった。そのとき、重なり合った枝の破れ目を縫
って冴え冴えとした月の光が射し込んだ。早彦は二人の下半身がす
っかり剥き出しにされているのを見た。そして、男の体の位置が変
わるたびに、月光に晒されては明瞭に浮かぶ、二人の体毛に包まれ
た箇所から目を逸らすことができないでいた。肉体の、あまりに単
純で猥雑(わいざつ)な仕種に魅了されていた。早彦は自分の性器
が脹(ふく)れ上がってきていることに気づかなかった。
早彦に背を向けている男は、女の細い脚を片手で抱えながら激し
く動いていた。青白い月の光がその光景を妖しく映し出し、あたり
の闇だけが静謐(せいひつ)を湛(たた)えていた。光の輪と暗が
りの境界で何かが鋭く光った。早彦がその白い光を見定めようとし
たとき、月光は松の梢によって遮られ、闇が戻るのと一緒に叢の中
の光も失われた。ふさがれた女の口の端から洩れる息が間歇的にな
り、抑えがたいほど煽情的なものに感じられた。早彦は木蔭から裸
体を現わすと、闇に乗じてするする忍び寄り、叢を貫いて地面に突
き刺さっているものを引き抜いた。蝋を握りしめたような滑らかな
感触がして、掌にすっぽり収まった。
月が再び顔を見せたのはそのときだった。月光を浴びて立ちつく
す早彦を、押し拉(ひし)げられた女が驚愕(きょうがく)の目で
捉えた。初めて出会ったその目は助けを求めるどころか、次の瞬間、
みるみる恐怖の色に染められていった。女の視線は早彦の腰に釘づ
けにされ、そこには今にも破裂しそうなほどおえきった性器があっ
た。早彦は自分の股間を見て動顛(どうてん)した。頭の中を走る
熱いものが何によるものなのかは分からなかった。しかし、自分が
何をしようとしているのかを、突然に霧のような曖昧(あいまい)
さで知った。
早彦は両手で登山ナイフを握りしめ、頭上に振りかざすと、青い
光の中に裸体を躍らせ、男の背中に深々と突き刺していた。女の白
い下肢が激しくわななき、男の腰に絡められた。男は凄じい叫び声
をあげると、身を(もが)き、女の体から離れようと試みた。け
れど、離れることは不可能だった。その男めがけて、刃物が何度も
突きたてられた。後ろを振り返った男の顔に、早彦の体が放った白
い澱(おり)がおびただしく注がれ、男は濡れた顔を背けて再び女
の体に重なると、そのまま絶命した。後ろ手に縛られていた女は、
その間中、全身を痙攣(けいれん)させ、鼻孔から泡を吹き、身を
のけぞらせていたが、早彦が気づいたときには、すでに苦悶の表情
を浮かべて窒息していた。
早彦は男の死体を押しのけると、女の口に詰めこまれていた下着
を引き摺り出し、それで血に塗(まみ)れた女の細い顔とナイフの
象牙の柄を拭い、かすかな笑いを洩らすように唇を歪ませた。充血
した眸(ひとみ)が妖しく炯(ひか)った。早彦は女のまだ生温か
い死体に蔽いかぶさると、依然として勢いを衰えさせない自分の性
器を握った。月光の加減でそう見えるのか、叢に映る影が一角獣の
ように不気味だった。
林から出て来た早彦は、捕虫網の中に戻しておいた奇怪な植物の
突起を沼の上に放り投げた。それから、血だらけの体を水に沈め、
口笛を低く洩らしながら、その突起の浮かんでいる方へと進んでい
った。夜空ではいつのまにか月が赤く爛(ただ)れ、水の面を同じ
色合いに染め始めていた。沼に棲む蛙の群が不吉な鳴き声を発した。