AWC 毀れゆくものの形 三−1     直江屋緑字斎


        
#808/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ     )  88/ 2/24  13:53  (172)
毀れゆくものの形 三−1     直江屋緑字斎
★内容
  三

夏休みの始まった日の朝、早彦は食事を済ませると二階へ上がり、
窓を開け放した勉強部屋に閉じ込もっていた。外は雲一つない青空
だった。その透明な空を背景にして、強い風の一吹きでもあれば瓦
解(がかい)してしまいそうな、みるからに華奢(きゃしゃ)な竹
細工の虫篭が浮かんでいた。
 早彦は窓に吊られたその篭の中を覗き込み、ナイフで鋭く尖らせ
た十二本の色鉛筆をめまぐるしく取り替えながら、細かい一本一本
の線や、微妙に色合いの異なるそれぞれの部分を白い画用紙に念入
りに描いていた。
 陽の光に灼けた篭の中には、病院裏の野菜畑に植わる大根の葉か
ら採取した青虫が、黄色いしみのできた葉と一緒に入れられていた。
初めのうちは大根の葉や雑草のように棘々(とげとげ)しく青味を
帯びてしまった芹などを摘んできて虫の餌に与えていたが、揚羽蝶
の幼虫はすぐに蛹化(ようか)し、野菜屑は虫喰いの跡を残したま
ま緑色から次第にひからびた色を呈して篭の底にくずおれ、スケッ
チの数が十枚を越えると、いびつな形状をした蛹(さなぎ)が虫篭
の天井にぶら下がり、濃い褐色の肌を晒していた。その蛹(さな
ぎ)がこのところ一段と膨みを増してきていた。
 早彦は最初の頃、青虫の這い回る姿が気味悪く思われ、部屋の中
に置くことをためらい、窓の外の軒下に吊るしていたのだが、しば
らくするうち、眠たげに蠢(うごめ)くこの緑色の小さな虫に愛着
を抱くようになった。それで窓の内側の棧(さん)に釘を打ち、そ
こから吊ることにしたわけだが、その頃にはもう虫は蛹(さなぎ)
になっていた。
 いってみれば、蛹(さなぎ)はミイラだった。早彦は、幼虫が蛹
(さなぎ)になってしまえば、少なくともその外形に変化が起こる
とは思ってもみなかったのだが、毎朝見つめていると、そうでない
ことが分かってきた。蛹(さなぎ)はその内側から衝き上げるよう
な微妙な動きをするたびに、ぶら下がった体の一部分がどこかしら
膨れてきて、それと逆に表面はかさかさに乾き、艶をもった鉱物の
ような褐色に変わっていった。
 画用紙に描かれていく虫篭の中の世界は、まるで晩秋のような暮
色に溢れていた。黄色という色彩は、緑と合わせて使うと軽快で新
鮮な生命の溌溂(はつらつ)さという印象を与えるが、茶系統の色
と一緒にすると、どこか枯れた老齢を思わせる。早彦はそのような
色ばかり使ううちに、この蛹(さなぎ)は死んでしまっているので
はないかと考えていた。篭の中で喰い荒された野菜はすっかり水分
を失い、たしかに陰湿な壊疽(えそ)のような色をした腐敗を経る
ことなく、生気の脱け殻のようにミイラとなってくずおれていた。
夏の日差しが一瞬にして腐敗から救ったのだ。恐らく、そこにはい
かなる生命作用もありえないのだろう。そして、永遠に小さな篭の
中でぶら下がりつづけるはずの蛹(さなぎ)もまた、強烈な夏の陽
光に晒され、ついに崩れ去るのだろう。
 早彦は蛹(さなぎ)が揺れているのを見ていた。風のせいだろう
と思いながらも、描き終えたばかりのスケッチを右側の画用紙の山
に重ね、木目の浮き出た机に肘をついて眺めていた。しかし蛹(さ
なぎ)は、篭の天井との接点から揺れているのではなかった。蛹
(さなぎ)は自分の体の中央の部分を運動の起点にしていた。それ
は体をくの字に曲げたりするような、唐突でぎごちのない動きだっ
た。蛹(さなぎ)は生きていた。そして、その中から恐らく蝶がは
ばたき出るのだろう。早彦は机の右側に積んだスケッチの上に時刻
を書き加え、蛹(さなぎ)が動き出す、と記した。その文字の色は、
これまでこの観察記録のどこにも用いたことのない赤い色だった。

「蝶々が、ほら」
 妹の甲高い声が、居眠りしていた早彦を揺り起こした。尖った頤
(あご)をつたってこぼれた一筋の唾液が机の上を濡らしていた。
半ズボンからはみ出た太股に触れる椅子がひんやりと感じられた。
早彦がぼんやり瞼(まぶた)を開けると、傍で五歳になる妹が人差
指を突き出していた。その方向を見上げると、虫篭の中に、蛹(さ
なぎ)を破り、くしゃくしゃの羽を引き摺り出そうと苦闘している
蝶の姿があった。竹細工の篭が虫の(もが)くのに刺激され、小
刻みに揺れ動いていた。
「気味悪い」
 もう一度、妹の声がした。振り向くと、妹が色鉛筆を握りしめて
いた。早彦には、幼い妹がどうしてそんなことを言っているのか分
からなかった。何げなく机の上に視線をやると、描き上げたばかり
のスケッチが意味のない真赤な線で塗りたくられているのを知った。
そして、その線が蛹(さなぎ)を崩壊させ、蝶を生み出したかのよ
うな錯覚に囚われた。
 早彦は理不尽とも思われる激怒に駈られた。その怒りが、肩から
腕へ、そして掌へと伝わる明瞭な感覚が走った。それは突風だった。
早彦の腕は突風のように旋回し、五歳の少女を殴りつけていた。妹
は兄の一撃を受けて、リノリウムの床に這いつくばった。恐怖で呆
けたように、つぶらな眸(ひとみ)が瞠(みひら)いたまま滞って
いた。
 そのとき妹は大声で泣き喚くかわりに、憎悪のこもったまなざし
で早彦を射竦(いすく)めた。それは兄妹にはあるまじき、得体の
知れない異物に向けられるまなざしだった。早彦はその凍えるよう
な視線をはねのけるようにして、窓に吊られた虫篭を仰いだ。羽化
した黄揚羽が、皺(しわ)だらけの羽を伸ばそうとよろめいていた。
早彦は篭を掴むと吊り紐を渾身(こんしん)の力で引き千切り、小
脇に抱えたまま部屋を飛び出した。

 白い捕虫網と虫篭を持った早彦は、裏山の中腹にさしかかったと
ころに来ると立ち止まり、そこから下界を見下ろした。墨を刷いた
ような黒い川が水面を燦かせながら流れていた。山道からは、ゆる
やかに蛇行する川に沿ってだらだら続く鶉町の、南北に長い姿が見
渡せた。積出し炭を満載した貨車が何十輛(りょう)となく繋がり、
それを牽引する機関車が濛々(もうもう)たる烟(けむり)をたな
びかせながら家々の間を動いていた。そのとき追い縋(すが)るか
のような長閑(のどか)な響きを伴って、正午のサイレンが鳴った。
 山の裏側に廻り込むと、そこには石切場の跡があり、傍に湧水で
できた小さな沼があった。早彦は、このあたりで銀色の蝶を見かけ
たという噂を耳にしたことがあった。それが銀色の鱗粉をもつ新種
の蝶なのか、ただ光線の加減によってそう見えるだけなのか、その
話からは知ることができなかった。
 沼の向こうには松林が広がり、下生えには斑らな模様をした隈笹
が繁っていた。沼の反対側に廻り込もうとしたとき、早彦は畔近く
にある松の木蔭で奇妙なものが突き出ているのに気づいた。それは
青味がかった、白く細長い穂のようなもので、根元の方が黒ずんだ
赤い葉で包まれていた。落葉に寄生する茸の一種なのだろうとは思
ったが、まるで死人の指のように見えて不気味だった。
 その不思議な植物のそばに近寄ろうとしたとき、鬱蒼(うっそ
う)とした隈笹の繁みから涌き出るように舞い上がるものがあった。
午後の陽光を受け、銀色の光を湛(たた)えた一匹の蝶が、中空で
眩(まばゆ)く輝いているのを早彦は見た。噂のとおり銀色に燦く
蝶は、光に包まれた羽をひらひらさせて沼の上を回り始めた。大型
の蝶が頭上近くを掠め、薄い二枚の羽が太陽を遮ったとき、早彦は
羽を透かした光が紫色であったような気がした。そして、その蝶が
烏揚羽の仲間ではないかと思った。
  早彦を誘いかけるような仕種を見せて何度か旋回を繰り返した蝶
は、空中からゆらゆら舞い降りると光を帯びた銀色の羽を静かに畳
み、例の奇妙な植物の突起にとまった。それを見定めると、逸る気
持を抑え、早彦は一面に生えた雑草を踏み分けながら近づいていっ
た。松の根方からは青臭い匂いが立ち昇っていた。早彦は捕虫網の
白い尾をはためかせ、飛び上がろうとする寸前の銀色の蝶めがけて
斜めに振り下ろした。笹の葉の何枚かが乾いた音をたてて宙を飛ん
だ。早彦はあたりに蝶の逃れた形跡がないのを確かめてから、網を
水平に振り、長い嚢(ふくろ)をくねらせて草の上に投げ出した。
 峰を伝って郭公の鳴き声が響いた。嚢(ふくろ)の中には、あの
奇妙な植物も一緒に囚われていた。早彦は蝶を摘み出してみたが、
銀色の蝶は黄色い液を吐き、すでに死んでしまっていた。蝶の死体
から指先で鱗粉を削ぎ落とすと、その部分だけが紫色に見えた。早
彦は屍と化した蝶を沼の上に放り投げた。くるくると不規則に回転
しながら落下した蝶が泥土の混じった水に浮かぶと、銀色の鱗粉が
溶け出して鮮紅色の液体になるような気がした。そのとき、泥水の
中に細かい泡が生じたかと思うと、水音をたてて飛沫があがった。
しばらくして波紋が収まると、沼の上の蝶の姿は跡形もなくかき消
えていた。早彦は、その濁った水の奥に、脂っこく光る鱗を見たよ
うに思った。
 奇妙な植物の方は、あの黒ずんだ赤い葉がとれていた。その葉を
裏返したりして見ていた早彦は、蝶のように二つに折り畳むと沼の
中に放り込んだ。葉は蝶の消えたあたりに浮かんだまま、太陽の光
を反射していた。死体の指のような突起の方は、気味が悪くて触る
気になれなかった。
 北国の夏とはいえ、午後も盛りになると、さすがに暑くなってく
る。早彦は裸足になると沼の水に足を突っ込んでみた。べとりとし
た感触が足を包んだが、その冷たさが幾分気に入って、水を勢いよ
く蹴り上げると、褐色の泥水が真白な飛沫に変わった。水飛沫が頭
上の太陽まで達して落下するとき、空に七色の帯が漂っているよう
に思った。しかし次の瞬間には、頭からずぶ濡れになっていた。早
彦は面倒になって、シャツと半ズボンを脱ぎ捨てると、水の中で肩
まで漬かり、それから犬掻きを始めた。沼は向こう岸まで十五、六
メートルほどの距離なので、難なく往復することができる。けれど
も数メートルも行かないうちに、早彦はあわてて引き返してきた。
沼に浮かんだ水草の蔭で、鉛色の光沢を帯びた鮒が腹を上に向けて
死んでいるのを見たためだった。早彦は、裸の肌が妙な違和感に包
まれているような気がした。まるで、激しい蕁麻疹(じんましん)
にでも襲われているみたいだった。脹脛(ふくらはぎ)や脇腹をく
すぐる得体の知れない生き物が、水の中に無数に潜んでいるのでは
ないかと思った。
 急いで沼から這い上がると、草原を狂ったように転げ回った。泥
のついた裸に濃緑の汁が沁(し)み込んでいった。雑草の中には、
薄い柔毛を生やし、端が剃刀のように鋭い草が混じっている。気が
つくと、早彦の体のあちこちに軽い切り傷ができ、そこから血が薄
く滲(にじ)み出ていた。
 松林を外れた傍に小さな畑があった。その一画に、畑の玉蜀黍や
豌豆(えんどう)に給水するため、水道管が引かれていた。木の杭
に蛇口を括りつけただけの簡素なものだったが、早彦はそこで汚れ
た体と衣服を洗った。
 早彦は捕虫網を放り出してあるところに戻ると、濡れた服を草の
上に広げて、松の木の下で寝転がった。青空が、きらきら輝く光の
せいで罅割(ひびわ)れてゆくような気がした。何げなく、白い網
の中に残されているあの奇怪な植物を取り出してみた。それはひん
やりとして冷たかった。肉穂花序のようにぶつぶつしていて、ヤン
グコーンを繊細にしたように柔かだった。青白いと思っていたのだ
が、手にとるとほんのり黄みがかっていた。鼻を擦り寄せると甘い
匂いがして、早彦は脳の芯がぐるぐる回るような感覚に囚われた。





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