AWC 詩篇 空中の書29     直江屋緑字斎


        
#363/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ     )  87/ 9/30  10:52  (100)
詩篇 空中の書29     直江屋緑字斎
★内容
<誘惑 100行>

   誘惑

 (5)
  もちろん偶然適中することはある。それはあくまでも偶然で
  あってそれ以外の何物でもない−−。(綿谷雪『術』)
卵の内部を模して造られたホールの中央にルーレットの台があっ
た。その周りに集まる人は数少ないのだが、それでも彼らはひど
く熱中している様子だった。楕円形のテーブルそのものは白い大
理石でできていたのだが、賭台の三十六までの数字が記された部
分にはそれぞれ異なった色の薄い水晶の板が嵌(は)め込まれて
いた。また、ルーレットの文字盤の仕切りの中も水晶かダイアモ
ンドでできているようだった。テーブルの周縁部には雪花石膏
(アラベスター)でも貼りめぐらしているのか、そこだけ粉を吹
いたように見え、ゲームに参加している人たちが真赤な液体の入
ったリキュールグラスを置いている。
先ほどの女主人がいつのまに持ってきたのか、きらきら光る空の
リキュールグラスを差し出し、耳許で鈴のような声を鳴らして、
あのルーレットは一風変っているのです、賭ける場所は三十六ま
での数字のうちのただ一つだけで、それ以外は認められません、
まったく胴元のためにだけあるようなルーレットですのよ、まあ、
見ていてごらんなさい、そういうと愛らしい唇を結んで、いたず
らな仕種で空のグラスに接吻した。
いわれるままにルーレットを見つめていると、廻転盤がひとりで
に廻りはじめ、同時に人々の溜息がホールに谺(こだま)した。
廻転する数字のあたりから、虹のような幾種類もの色彩を持つ光
が筋になって宙宇に迸(ほとばし)ったのである。光は空中の一
点で焦点を結ぶようにも思われたが、紫、金色、赤、緑、薄い青
色……とめまぐるしく旋回し、絡み合い、錯綜し、とりとめもな
い乱舞になっていった。そして賭台の水晶板の数字からも色のつ
いた光の帯が四方八方へと放たれ、もの凄い速度で動き始めると、
ホール全体があらゆる色の光の粒子によって翻弄され、洪水に遭
遇したかのようである。
もちろんホールの中の紳士淑女のすべてが椅子から立ち上がり、
この見事な光景を見つめていた。けれども、心を奪われている様
子はありありとしていても、一様に、どこかもの寂しげな雰囲気
が漂っていた。
ほどなく光の渦の廻転が緩やかになり、動きの中心に一種類の色
が現われ、それが橙、藍色、ピンク、黄色という具合に順次変っ
てゆき、銀色の光のところで動きを停めると、それきり光の変化
は見られなかった。賭台の中からも、同じように銀色の光だけが
天井に向かってまっすぐ伸びていた。ルーレット盤から発せられ
た方の光は傾きをもっていたため、賭台から伸びている光と交錯
していたのだが、中空のそのあたりが血の色を帯びているように
感じたのは錯覚だったのかも知れない。
テーブルの周りにいた人々の中には賭けに勝った者は誰もいなか
ったらしく、皆、すごすごとその場から離れ、賭台の上には空に
なったリキュールグラスだけが残されていた。
素晴しいルーレットですね、そういいながら少しく腑に落ちぬと
ころがあったので、ハンドラーはいないのですか、そういえば賭
金もチップも見当たりませんね、皆さん、あれほどうちしおれて
いるというのに……、沈んだ様子の女の深い憂いがこもった瞳を
見つめて呟(つぶや)いてみた。
ハンドラーは必要ないのです、そしてこのルーレットにはお金な
ど賭けないのです、賭けているものにお気づきになりませんこと、
そういうと女はグラスを目の高さに掲げた。このお酒、そうです、
このお酒を賭けているのです、空のグラスが酒で満たされている
かのように附け加えた。
そうか、そういうわけか、それで負けるとグラスが空になるのか、
そう考えると無性に嬉しくなった。それでそのお酒はよほど強い
のでしょうか、私はアルコールには自信があるのですが、ひとつ
銘柄をお聞きしたいものですね、招待客に酒を振舞う趣向なのか
と納得したのである。
そうではないのです、あなたは思い違いをなすってらっしゃる、
……あのグラスに入っていた真赤な液体は夢なのです、皆さん、
ご自分の夢を賭けてらっしゃるのですわ。
なんですって、夢ですと−−なるほど夢を賭けるとはうまい比喩
(ひゆ)ですね、たしかにそれは男のロマンというものだ、面白
い、では私も遊ばせてもらいましょうか。
よろしいのですか、負けると夢が減っていくのですよ、女は気に
かかることをいったが、好奇心には勝てなかった。
どうすればこの空のグラスに夢を注いでいただけるのでしょう、
先ほどからの疑問を口に出してみた。
あの雪花石膏(アラベスター)の上にこのグラスを置くのです、
そして見つめていると、じきにグラスの中に夢の液体が注がれる
のですわ。
まるで手品だな、あの台の下に酒樽でもあるのだろうと考え、グ
ラスを受け取ると、いわれたとおりにしてみることにした。しか
しその前に、数字がどのような出方をするか研究しなければなら
ない。見えざるハンドラーとの闘いである。
プロフェッショナルがどこからか操作しているのだろうと考え、
賭ける者が一番多く集まったときを見はからい、光の廻転が始ま
った瞬間、赤い酒の入ったグラスを00と書かれた水晶板の上に載
せた。ルーレットはゼロの他に米国式にダブルオーが附加されて
おり、賭ける場所は三十八通りあるのだ。
激しくも狂おしい光の饗宴が収まる間、負けてもあの酒を呑むだ
けだが、万が一勝った場合にはどうなるのだろうかと考えていた。
ようやく光の廻転が弱まり、原色のけばけばしい光がゆっくりと
入れ替り、ついにルーレット上の光の帯がすべて失われてしまっ
た。
光の沈黙。そしてその後に、いくら待っても何の色も現われはし
ない。
廻転盤を見ると、ダブルオーの上に暗黒の玉が乗っている。見事
に適中したのだ。
女主人が驚きに目を輝かせて、鈴の音のような声をいっそう高鳴
らせた。ああ……、と叫んだかと思うと、その声は異様に艶かし
いアルトに変じた。ゼロは透明、ダブルオーは無、三十六通りの
光の色の総合なのよ、そしてそれは試煉、あなたの取り分は試煉
なのよ、いつのまに入れ替ったのか、目の前にはその女がいた。




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