AWC 詩篇 空中の書26     直江屋緑字斎


        
#355/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ     )  87/ 9/26   9:25  ( 52)
詩篇 空中の書26     直江屋緑字斎
★内容
<誘惑(2) 52行>

   誘惑

 (2)
地図にない場所というのは、区劃(くかく)整理上のミスティフ
ィケイションとか住居表示変更の際のケイオスなどといったもの
ではない。また所蔵の地図が不備だというわけでもない。もちろ
ん実在する場所が明記されていないというのは地図としての最大
の欠陥だが、それはこの地図に限ったことではない。というより、
完全無欠を標榜(ひょうぼう)するなら、そのような地図は世界
中のどこを捜してみてもあるはずがないのだ。だが、地図が実在
している土地を明示することを放棄しているとき、それは地図を
空想した贋物でしかない。現にこれから行こうとしている場所は、
誰もが知っている場所なのに、いかに精密で権威のある地図にも
載っていないのだ。
  一般に女性、というよりも少女たちは暦に関して独特の畏敬
  の念を持っている。それも初心な少女ほど暦の下で困惑する。
  それから幾年か経た後には、多情な女ほど暦と親しくなる。
  だが、自らの失策で痛い目にあいはじめると暦を憎むように
  なる。バーのマダム連が客とのデートの刻限に遅れるという
  のは、そのような憎しみの現われなのかも知れない。もっと
  も、女は自らの失敗を棚に上げて強くなってゆく。

疾りつづけると街燈がますます揺れはじめた。その街燈に貼って
ある緑色の住居表示標を調べるだけで時が奪われる。息切れ、眩
暈(げんうん)。だが、それよりも、闇の中を電信柱相手にうろ
ついていることに、ある不審と不気味さを感じていた。騙(だ
ま)されているのではないかという、品性の下劣さを窺わしめる
ような言葉もつい出てしまう。けれども、あの電話の声−−その
ときにはもう魂の誘惑と名づけていた−−を想い返すと、そのよ
うな想いがいかにもみすぼらしく思え、改めて胸を張り、ついで
にネクタイを糺(ただ)してみるのだった。
指定の場所に到着したのは約束の刻限を大幅に超過してからであ
る。実は我慢できずにタクシーを拾ったのだが……。
その住所をいうと運転手は、それじゃああの辺ですな、といった
きり一言も口を利かずに走りつづけた。ルームミラーを介してそ
の男の顔を見ようとしたが、驚いたことに、そこに映っているの
は深い闇と後ろに走り過ぎる街の燈ばかりであった。車は迷路の
ような露地を何遍も曲ったあげく、面倒臭そうにタイヤの音を軋
(きし)ませて停った。
この辺ですよきっと、と運転手は語尾を濁してこちらを振り返っ
た。そのとき帽子の下に見えたものは、それをいうのが憚(はば
か)られるような類のものであった。さりとて猥褻(わいせつ)
でもなんでもありはしない、ただそんなことをいいだす者の精神
状態が疑われる性質のものにすぎない。世の中に魑魅魍魎(ちみ
もうりょう)の類など数限りないし、それほど気にかからなかっ
たのだが、一瞬怯む隙を衝いて、車はバックし、料金も取らずに
走り去ってしまったのである。
だが、この袋小路がその場所であるのに間違いはなかった。なぜ
なら、電燈の壊れたこの電信柱にはあの緑色のプレートがついて
いないからだ。




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