#831/1158 ●連載
★タイトル (sab ) 10/04/16 10:59 (262)
ひっきー日記21 ぴんちょ
★内容
ヨーコさんをおちょくった奴のブログ。
某月某日
キューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』の中で終末期の患者
がどの様な葛藤を経て死を受容するかについて書いてい
る。それは「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」
→「受容」という流れなのだが平たく言えば、「こんな
のは嘘だ」→「何で俺が」→「何か方法は無いだろうか」
→「お手上げ」→「涅槃」、なのだけれども、涅槃の境
地に落ち着いた人に、実は助かる方法があるかも知れな
い、などと教えても面白くないだろう。折角諦めがつい
たのに心を乱されたくないから。
人間ってDNAから生成していって肉体を得て、最後に
は死という涅槃に至るのだろうけれども、最初のDNA
と最後の涅槃はなんとなく科学的真理に似ている。
若い医者が、まだ肉体は活発に生成しているのに医学的
知識があるというのは(医学も科学だから)涅槃間近の
患者の心を乱すかも知れない。だから法律家が法衣を着
る様に医者は白衣を着るのだろうか。
某月某日
解剖実習初日、ボーリング場のロッカールームを思わせ
る更衣室で白衣に着替える。タバコ、ガム、携帯等もロッ
カーにしまう。実習室の中は飲食禁止、禁煙、写真撮影
も勿論禁止の為カメラ付携帯は持っていない方がいいと
判断したのだ。ホルマリンに弱い人はマスク、ゴーグル
着用可。ゴム手袋も使用可。昔は全員素手だった。完全
武装していざ鉄扉の向こうに。業務用のステンレス流し
台という感じの解剖台の上に25体のご遺体がシーツに
包まれて並んでいる。
キターーーーーーー。
ご遺体を前に黙祷。それから教授のありがたいお話。
「山でも川でも現地に行った事のある人だったら、自分
の部屋で地図を広げても具体的にイメージ出来るでしょ
う。それと同じで諸君もご遺体をよく見て、手で触れ、
においをかぎ、完全に体で感じて欲しい。そうすれば触
診や聴診器や1枚のレントゲン写真からでも大変多くの
イメージを得る事が出来る。それでは始めて下さい」。
今日は首から下腹部までの皮剥ぎ、及び、脂肪結合細胞
を取り除くことになっている。誰が最初にご遺体にメス
を入れるか。我々4人は目を見合わせた。一人女子が居
て、帽子のかわりに花柄の頭巾を被っている。白衣が何
気に割烹着に見える。「私がやる」と彼女が言った。小
ぶりの果物ナイフの様な柄のついたメスで後頭部から尾
てい骨までメスを引いて行く。「じゃあこっちは俺がや
るよ」と背骨から脇腹にかけてメスを入れた。あとは皮
膚を剥がしながらひたすらピンセットで脂肪を取り除い
て行く、筋肉の表面を走っている血管や神経を傷つけな
いように。静脈の中には血液が残っているので判別しや
すい。神経は静脈に沿って走っているのだが素麺の様に
白っぽくて油断するとすぐに切ってしまう。こういう地
道な作業を続けていると緊張や不安が薄らいで行くのが
分る。俺はご遺体の顔を見た。大きなガーゼで覆ってあ
る。それから手を見た。内臓よりも手の皮剥ぎの方が滅
入ると聞いた事がある。ご遺体の茶色い腕に覆いかぶさ
る様に花柄頭巾の女子の顔が見える。ひたすらピンセッ
トで脂肪を取り除いている。鼻の頭に汗をかいているん
じゃないのか。患者が恐れているのはこの生成ではなか
ろうか。
ご遺体は既に背中の皮をすっかり剥がれている。元々死
んでいるにも関わらず何か我々は不可逆的な事、取り返
しのつかない事をしているのではないかという気持ちに
襲われた。昔、原発の臨界事故でバラバラになった染色
体を見た時にもこんな気持ちになった。ご遺体は土砂崩
れで地肌がむき出しになった山の様である。
ここから数ヶ月、延々と解剖の事が書いてあるのでマウ
スのホイールでスクロールダウン。
某月某日。
これから俺が語るのは解剖も中盤を過ぎてご遺体も上肢
下肢が切断されてバラバラになった頃の事だ。
或る夜、俺は自分を慰撫するために渋谷道玄坂を歩いて
いた。すれ違うポロのカーディガンにミニスカートの女
子高生も、タトゥーにシルバーのマッチョな兄ちゃんも、
まさか俺がご遺体を切り刻んでいるとは思わないだろう。
そう思うと、丸で屋根裏の節穴から覗いているような気
分になってくる。
ところが道玄坂小路に入った所で背後から声を掛けられ
た。「お兄さん、薬臭いなぁ。臭いを落としていかない?」
ドキッとして振り返ると黒服の客引きだった。俺は手首の
臭いを嗅いでみた。ホルマリンの臭いはしない。「溜まっ
ている顔しているなぁ。どう、みんな十代のいい女なんだ
よ。1万円ぽっきり」
入口で1万円払って店内に入るとマジックミラー越し女を
選んで個室に通された。シャワーでペニスと肛門を洗って
もらう。
「本番だったら1万円いただけますかぁ」。胡桃でも握る
ように睾丸をぐりぐりマッサージしながら女が言った。
「ああ、いいよ」
バスタオルを敷いたベッドに移動して、正常位コイタスに
て射精する。
「まだ20分も時間がある」と女が言った。
「じゃあ、マッサージしてあげるよ」
俺は女の肩から上腕を擦りながら皮膚を摘まんでみた。今
扱っているご遺体よりも脂肪が薄い気がする。勿論生体だ
から脂肪は軟らかいのだけれども。俺は鎖骨に沿って指を
這わせて、首に手を当てると扁桃腺の下あたりを親指と人
差し指で揉んだ。
「何やってんの」
「いーってやってごらん」
「え?」
「奥歯を噛み締めて、いーって」
女が奥歯を噛み締めると首の筋は浮き出たがその下の筋肉
は触診出来ない。諦めて僧帽筋を軽く鷲づかみして揉んで
みる。
「ここの下に細い筋肉が走っているんだ。それが肩凝りの
原因になる」
「ふーん」
しばらく肩を揉んでから、乳房の下を手の甲で触れるよう
にして、脇の下に差し入れた。女はびくっとして身を捩っ
た。
「ここに力を入れてみな」俺は脇腹の筋肉を押した。「もっ
ともっと」。
女が踏ん張るとボクサー筋が触診出来た。皮膚を摘まみな
がら指で触れる。
「この筋肉がねえ、肋骨から肩甲骨につながっていて、こ
こを切断すると肩が外れる」
「何言ってんの」ぎょっとして女は身を離した。「さっき
から何言ってんの?」
「あぁ」俺は手を引っ込めながら言った。「俺、解剖やっ
てんだよ」
「解剖?」
「そう」
「じゃあ医学部とかの学生?」
「いや、看護学校に行ってんだ」
「なーんだ。医学生だったらよかったのに。私、医者の友
達が結構いるんだよ。色々相談に乗ってくれるんだ。私の
親戚が病気でも色々相談に乗ってくれるの。看護師でしか
も男じゃあ使えないよ。下の世話だって男の看護師じゃあ…」
「ああ、医者じゃなくて悪かったよ」と言いつつ乳房を揉
んで覆いかぶさる。2回目のコイタス。
それからその女と店外デートするようになった。女は会う
度に俺の事を看護師と馬鹿にしていたが、彼女の医者の友
達というのは実は彼女の母親の主治医である事が分った。
彼女の母親は終末期のがんだった。
或る晩、店外デートの後六本木で飲んでマクドナルドで酔
いを醒ましている時に彼女が言った。
「私最近、最後はどうなるんだろうなあーって調べている
の。インターネットでメルクマニュアルとか読んだり。最
後は居ても立ってもいられない全身の痛みに襲われて、息
も…気管支の先っぽから声帯のところまでタンが染み出し
てきていて、息も出来ないんだって。だからもうここでモ
ルヒネを打たないと、何て書いてあったかなあ、発狂と苦
しみの内に死んで行くとか。でもモルヒネを打って安楽に
死ねる人って数パーセントしかいないんだって。やっぱモ
ルヒネって緩和ケアとか言っても安楽死だものね。あと10
日間苦しみ続けてから死ぬんだったら、9日間の安楽な最
期をと思うけれども。でも1日分殺した事になるからやり
たくないんでしょ、お医者さんは。だったら私がやるから
薬をくれればいいのに。マツキヨで売っていればいいのに。
でもそれはやってくれないんだよね。制度が通せんぼして
いるんだよね。その制度のお陰で当たり前のようにいい暮
らしをしているんだよ。お医者って。でも制度を信頼した
いから、ちゃんとしていると思いたいから、苦しみながら
死ぬしかない」
その時、芋洗坂の下の方から、ベンツBMベンツBMと5台
ぐらいのドイツ車が上ってきた。クラクションを鳴らしな
がら、若い奴が窓から身を乗り出し、黄色と黒の縞模様の
旗を振っていた。
「阪神タイガースが勝ったのかなあ」と女が言った。
「陸の王者だよ」と俺が言った。
「陸の王者?」
「慶応の学生だろう。早慶戦でもあったんじゃないの。あ
りゃあ医学部かも知れないな」
女はガラスにへばりつくと眼球を突出させて睨んだ。「あ
いつらは堕落している。医学生はもっとちゃんとしている
べきなんだ。医学生なんて宦官のように去勢されるべきな
んだよぉーーー」
その晩を限りに彼女とは会わなくなった。俺としては、生
でやって腹に出す代わりに顔射してやって「俺は看護師な
んかじゃねえ、俺は正真正銘の医学生なんだよ」とでも言っ
てやろうかと思ったが、それは思っただけの事だ。
さらに1年後。
某月某日。
日曜日。時刻は午前11時。
渋谷区K町のマンションにて。今、絨毯に寝そべりながら
カシュー・ナッツにラムレーズンのアイスを食べつつこれ
を書いている。部屋の中は消灯してあって薄暗い。60イ
ンチのプラズマディスプレイには古今亭志ん生のモノクロ
映像が流れている。その明かりがぼんやりと俺の足元を照
らしている。窓からは薄曇りの日の光が射してきていて、
風が吹くとレースのカーテンを膨らませる。風向きが変わ
ると代々木公園の方からロックが流れてくる、というのが
ちょっとすかしているのだが今の風景。それから昨日の風
景は…夕方病院の屋上に行ったら夕焼けで東京タワー方面
が綺麗なオレンジ色に染まっていたが、秋葉原方面はすっ
かり夜空で、青っぽいネオンが輝いていた、というどうで
もいい風景。
で、昨日の風景の方がまったりする。何故かと考えるのだ
が一つには生物学的に或いはキルケゴールの『反復』的に
考えて、生体だから生成しているから、ひょっとしたらが
ん細胞に突然変異するかも知れないという不安は拭えない
のだが、過去に関して言えばその様な不安がないからまっ
たり出来る。
もう一つは物理学的ライプニッツ的e=mc自乗的に考え
て、二次曲線上に振り子が振れていると考えて、振り子の
位置が高ければ高い程位置エネルギーは大きいから猛烈に
引っ張られるのだけれども、地面すれすれの所に来た時、
つまり対象に最も接近した時には欲望は最も小さく、しか
し振り子のスピードは最速になる、だから楽しいことはす
ぐに終わってしまう、そして振り子は大きく反対側に振れ
て、またまた遠くから楽しかった過去を思い、焦がれる。
何れにしても前提として、野生状態にあるわけではなくて
制度の中で生きているのだから、制度の担い手にでもなら
ない限りは一回も当事者になれないのではないかとも思う。