#765/1159 ●連載
★タイトル (sab ) 09/10/21 22:52 (101)
She's Leaving Home(27)改訂版ぴんちょ
★内容
朝、どん、どん、どん、どん、とドアを叩くので、ユーコにしては早いし乱暴
だな、と思ったら「開けろー」という声がした。
きたー、と思った。私は4畳半で寝ていて布団をかぶっていたけれども奥の部
屋から何も知らないエコテロさんが玄関を開けに行って、おお、とか、どけー、
とか、娘はどこだー、とか言う怒鳴り声と共に土足で上がりこんでくる足音が
して、私も布団から顔だけ出してみた。
「何やってんだ」と私を怒鳴ってから、キッチンの方に行くとエコテロさんの
胸をドンと押して何かを探すようにきょろきょろしていた。
包丁でも探しているんじゃないだろうなあ。流し台の横にリポビタンDの空き
瓶が5、6本あった。「こんなもの飲みやがって」お父さんは1本握るをエコ
テロさんめがけて投げようと振り上げる。
「それはアキコが勝手に飲んだんですよ」
「アキコだと」それからがちゃーんと瓶を割れる音。「てめー人の娘を」
「暴力はやめてください」
「なにいっていやがる」とかもみあっている。「何歳だと思っているんだ」
「何歳なんですか」
「まだ18になったばかり」
エコテロはお父さんを振りほどくと壁にへばりついて「セーフ」と言った。
「セーフ」
タクシーに乗るとお母さんも乗っていた。車が動き出すとお父さんは両手で私
の肩をぐいぐいおしてきて「やったのかっ」を連発した。「あの男とやったの
か」お父さんってこんなに出っ歯だったっけ。ラクダかロバのような感じ。私
が苦労かけたから痩せてしまって歯がむき出てきたのかもね。
お母さんは「お父さんやめてよ」といってからタクシーの運転手に「どうもす
みません」と謝っていた。
病院に到着すると婦人科の診察室に連れていかれて、カーテンで仕切ったエリ
アにでっかい診察台があってマスクをした看護師に言われて下着を脱いでから
診察台に座ると自動でリクライニングになって足置きが開いた。「ちょっとまっ
て」と看護師が言った。「先生ー、お願いしまーす」
おっさんの医者が覗き込んだ瞬間に「うっ、くせーーーー。せんじょー」
これが今年のクリスマスイブの事。
翌日お母さんに連れられて今度は同じ病院の精神神経科に行った。最初にカウ
ンセラーだか臨床心理士みたいな感じの人の部屋に通されて、この人は下調べ
をするのかなあ。最初から全部話してくれというので、人体の不思議展で肉が
食べられなくなったとかスマトラの地震のせいで魚が食べられなくなったとか
菊池桃子せいで生野菜が食べられなくなったとかスルメ、しいたけ、大根の切
干、昆布もダメになった、アスファルトも生物の死骸だから気持ち悪いとか話
した。男は私の話を逐一端末から電子カルテに打ち込む。大和撫子のうんちは
何故臭いかとか、街はどうしてぎらつくのかとか、実は世界はなくてみんなが
世界と呼んでいるのは喪男が見るやる気満々野郎の足跡だとか、その様な世界
は無視して太陽を相手にするべきだ、というのは言わなかった。だって臨床心
理士はのっぺりとした大人しそうな男だし、部屋も清潔なんだけれども、シャ
ルメーヌなんて流れていて、余計な事を言ったら「17歳のカルテ」を通り越
して「カッコーの巣の上で」になるんじゃないかと思えたから。
面接が終わると男は「すぐに治りますよ」とさらっと言った。
それから心理テストみたいなの、人の視線が気になるかとか、何時でも悪口を
言われている気がするかとか、自分を必要としている人がいない、誰とでもす
ぐに打ち解けられる、人には絶対に言えない秘密がある、などという100ぐ
らいの設問に印をつけて、それから採血して、それからやっと診察室に通され
た。
夜回り先生をこわもてにしたようなガチンコラーメン道みたいな人。「肉が食
えないのかぁ」私の顔は見ないで電子カルテを見ながら言った。「それでどう
なりたいの?」と私の方に向かって言った。
「ひとことじゃあ」
「肉を食べられるようになりたいの?」
「別に。ポールだって肉は食べないから」
「ポール?」
「ポールマッカートニー」
「あー。じゃあ魚や昆布も食べられないのは異常だとは思わないの?」
「先生はマックとかケンタッキーとか異常だとは思わないんですか?」ときい
たら、じーっと私の目を見詰めて絶対に目をそらさない。私から目をそらした
けれども、なーんだ、ただのオスじゃん、ゲーセンにいる工業高校のDQNと
変わらないじゃん。
「世の中が狂っているのに、狂った世の中に適応する必要があるのかっていう
のはよく言われるんだけれども」と医者は言った。「戦争中の症例なんだけれ
ども、座布団恐怖症っていうのがあってねえ、巡査かなにかで座布団に拳銃を
置いた時に出来たくぼみが脳裏に焼き付いて、拳銃を忘れるんじゃないかとい
う強迫観念から座布団が怖くなって、世の中から座布団がなくなればいいと。
その患者は世界中で戦争をしている世の中が狂っているのだ、と言ったかも知
れないけれども、世界中から座布団をなくせというのはやはりその人がおかし
いでしょう。だからあなたがベルトコンベアーにつるされて流れていく牛だの
鶏だのが異常だと感じてもスルメとしいたけと昆布がくっついちゃうんだった
らやっぱりあなたの脳味噌に問題があるんだよ。あなたの脳の中はもう今ぐる
んぐるんしているんだよ。下敷きで髪の毛を擦ったみたいにバチバチ火花が散っ
ているんだよ。その火花がでなくなる薬を出しまーす。まあ、摂食障害とか拒
食症じゃなくてただの強迫神経症の類だからすぐによくなると思うよ」
「強迫神経症ってなんですか」
「気のせいって事」
「ポールのベジタリアンも気のせいなんですか」
「ポールは牧場持っているよ。馬の世話もするだろうし死ねば死体の始末をす
るんじゃないの? しかしアスファルト恐怖症っていうのは面白いなあ」と言
うとなにやら電子カルテにかちゃかちゃ打ち込んだ。60年ぐらい経ったら昔
こういう症例があったと紹介されるのだろうか。まあいいけど。
私はどうしても聞きたい事があった。「先生」私は言った。「私はグロいから
肉を食べられないというのがずーっと気になっていたんです。動物が可哀想だ
から食べられないのならいいんだけれども、グロいから、というのは。だって、
そんな事言ったら、臭いからあっちに行け、汚いからあっちにいけと言ってい
る様なもので自分の心が醜いと思えるから。昨日も看護師さんに色々やっても
らって、あの人達はもっとすごい病気やケガ人を普通に手当てしているのに、
私はグロいからあっちにいけなんて。でも、普通は緊張すれば汗をかくとか脈
拍があがるとかいうのが、私の場合には胃にきているだけですよね」
「違うよ」とあっさり言われた。「神経症の人は、そうやって、自分は優しい
人間の筈だ、自分はいい人間の筈だ、だから汚いケガ人でも手当てしてあげら
れる筈だ、臭いものにも耐えられる筈だ、って思っているんだよ。そのプライ
ドの高さがあなたのまわりを狭き門にしているんだよ。普通の人はそんな事考
えないんだよ。グロいかどうか分からないままに接していく。接してグロかっ
たら、俺はこれが苦手だなぁと思うだけだよ。だからって別に自分が劣ってい
るとも思わないし、普通に生きていくよ」
もらった薬はテシプールという抗鬱剤、ドグマチールとソラナックス。別に私、
うつ病じゃないんだけれどもなあ。ところがこの薬がきいて1週間後の元旦に
は魚を食べていた。さらに七草粥の頃にはビーフシチューを食べていた。