AWC BookS!(03)■依頼■       悠木 歩


前の版     
#545/1159 ●連載
★タイトル (RAD     )  07/07/10  20:17  (129)
BookS!(03)■依頼■       悠木 歩
★内容                                         07/10/04 23:40 修正 第4版
■依頼■



「すいませんねぇ、暑いでしょう?」
 穏やかな笑みを湛えた男の手が、テーブルへグラスを置いた。まず相手の前
へ、続いて自分の元へと。
 汗をかくグラスの中には白色の乳飲料。解けた氷が、心地いい音を奏でる。
「エアコンが故障してしまいまして………お恥ずかしい限りですが、修理する
のにも予算が儘ならない有様でして」
 まるで寝起き直後の如く、ぼさぼさに乱れたまま、手入れされていない髪。
一目で度の強さが知れる分厚いレンズの丸眼鏡。肩の近くまで袖を捲くった、
よれよれの白衣。
 どれを取っても古い漫画の中から抜け出して来たような出で立ちの研究者、
磯部慶太は途切れることのない笑顔で来訪者を迎えていた。
「大事な話ですので、人払いを」
 突然何かを思い出したように、外では一斉に蝉たちが鳴き始める。そのため
ぼそぼそと話す来訪者、藤代と名乗った男の言葉は少々聞き取りにくいものと
なった。
 男の視線の先、通気のため開かれた窓の横に立っていたのは若い女性であっ
た。長い髪をアップに纏めた理知的な女性、磯部の助手、空知小桃である。
「あっ、私、邪魔ですか?」
 少々つり上がりってはいるが嫌味のない目がおどけて見せる。磯部同様、白
衣に身を包む小桃もまた、乳飲料の入ったグラスを手にしていた。
「ああ、じゃあ丁度調べ物がありますので、図書室に行って来ますわ」
 そう言いながら、小桃は狭い研究室を出ようとする。が、ふと途中で足を止
めた。
「これ、持っていったら、怒られちゃいますね」
 ずずっ、と音を立てて手にしていたグラスの中身を一気に飲み干す。
 それからグラスを置くと、まるでショッピングにでも出掛けるような軽い足
取りで、研究室を後にした。
「見て頂きたい物があります」
 小桃の退室後、やや時間を空けて、男が話を始める。テーブルの上には、一
冊の本が置かれた。黒い革の表紙、何かの専門書だろうか。かなり立派な装丁
である。
「この本を解読して頂きたいのです」
「ちょっと失礼」
 磯部は本を手に取り、ぱらぱらと捲った。見覚えのない、何か古代文字のよ
うなものが並んでいる。
「何ですか、これは?」
「見た通りの古代文字です。そう、三、四千年は前のものでしょう」
「またまた、ご冗談を」
 そっと本を閉じた磯部の表情には、笑みの上に更なる笑みが重なっていた。
「そう、確かにその頃パピルスは存在していましたが、現代で言う紙とは異な
るものです。あとは中国でかなり以前に紙が発明されていたようですが………」
 言いながら、磯部は本の上に手を翳して見せる。
「この本の紙は上質過ぎる! 変色、シミの類も一切ない………大体このよう
な装丁は、近代のものでしょう。そうですねぇ、いいところ百年、いやそれも
怪しいなあ」
「それについては、どう思われようとご自由です。ただ我々はこの本を読める
よう、して頂きたい、それだけです」
 男は別段慌てることも、気分を害した様子も見せない。冗談とも、いや冗談
にしか思えない依頼であるが、それにしては男の表情は固すぎる。
 どこかの洋書専門店で購入した本を、古代のものだと言っているのではない
か。
「率直に言いましょう。私にはあなたの依頼は冗談にしか思えません」
「そう思われても仕方ないでしょう。では、決して私が冗談を言っているので
はない証をお見せしましょう」
 言うや否や、男は傍らに立てていたアタッシュケースをテーブルの上に置き、
開けた。それから中身を無造作にテーブル上に広げる。
 それは帯封の付いた紙幣の束であった。ざっと見た限りでも、その数は二桁
を超す。
「千五百万あります。依頼を受けて頂けるのでしたら、その成否に関わらず、
これは寄付させて頂きます。そして解読に成功した暁には、更に千五百万の寄
付を用意しています」
「………」
 磯部の顔から笑みが消える。
 確かにそれは冗談で出せる金額ではない。
 目の前に置かれた金は、喉から手が出るほど欲しい。だが金のこと以上に、
磯部の研究者としての血が騒いでいた。
 見知らぬ文字の素性が知りたい。男が話したことの真偽などどうでもいい。
文字が解読出来れば、それも自ずと知れる。
「わ、わっかりました。お引き受けしましょう」
 磯部の返答で、無表情だった男の顔に微かな笑みらしきものが浮かぶ。
「感謝致します」
 差し出された男の右手を、磯部は強く握り返した。

「どうですの、先生?」
 パソコンに向かう磯部の背中から声が掛かる。振り返るまでもなく小桃のも
のだと分かった。
「ふああっ、さっぱりだよ」
 磯部は大きく伸びをしながら答えた。
 男の出した条件に、依頼について一切他言はしないと言うものがあった。だ
が磯部の強い希望で、助手の小桃だけには伝えることを承知させていたのだ。
実際小桃は優秀な助手で、彼女の協力は必要不可欠である。いや、協力がなく
とも小桃が傍にいるだけで、磯部の仕事の効率は上がるのだ。
「全くノーヒントだからねぇ。せめて本の出所さえ分かれば、その近辺で接触
があったかも知れない他の文明の文字と、比較も出来るんだけど」
「まあ、あまり根を詰めても捗りませんわ。一休みされては如何です?」
 そう言って、小桃はキーボードの横にグラスを置く。中身はいつもの、少し
濃い目の乳飲料であった。
「ああ、ありがとう」
 丁度喉が渇いていたところであった。相も変わらず磯部の望む事をタイミン
グよくしてくれる小桃に感心しつつ、グラスを口元へ運ぶ。中身の三分の一ほ
どが、一気に喉の奥に消える。
「それでいま、どんな作業を?」
「うん、本の文字を、と言ってもまだ五ページほどだが、パソコンに取り込ん
でみた。これで各文字を比較して、同じものを探そうとしたんだが………」
「だが、と言うことは、何か問題があったのですね」
「ご名答。同じ文字が一つもないのだよ。確かにまだ五ページではあるが、こ
んな馬鹿な話があるかい? この文字はアルファベットのようなものじゃない」
「それでは、表音文字ではなくて中国の、漢字のような表意文字なのではない
でしょうか」
「そうも考えたけれど………しかしそれにしたって、同じ文字の一つや二つは
出てくるはずだろう。何よりおかしいのは、その文字の形なのだよ」
「形ですか」
「ああ」
 磯部がマウスを操作すると、幾つかの文字がパソコンのモニターへ表示され
た。
「象形文字や楔形文字、一つの文明の文字には何かしら共通した形があるもの
だ。しかしこの文字にはその形にも、まるで一貫性がない。ほら、これはまる
で楔形文字だし、これは象形。これなんかは、まるで漢字だ」
 次々と表示されて行く文字には、磯部の言う通り共通性が存在しなかった。
「まるで文字を知らない子どもが、適当に書き殴ったようだよ。本当にぼくは
あの彼に担がれたのではないかって思えて来る」
「ですけれど………」
「分かっている。前金の千五百万円は、担ぐためだけに出せるお金じゃないさ。
これで成功報酬と併せて三千万円。予算がなくて机上だけだったプロジェクト
も実行に移せる」
「そうですよ、先生。我が研究室の命運は、先生の肩に掛かっているんですか
ら」
 柔らかい掌が磯部の両肩を包み込む。すると不思議に心が落ち着き、萎え掛
けていた気持ちが再び奮い立つ磯部であった。


                          【To be continues.】

───Next story ■久遠紫音■───






前のメッセージ 次のメッセージ 
「●連載」一覧 悠歩の作品 悠歩のホームページ
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE