#405/566 ●短編
★タイトル (AZA ) 12/01/26 21:47 (486)
お題>羊飼い 永山
★内容 12/10/18 10:28 修正 第2版
風に勢いはなく、生暖かいばかりであった。とはいえ、例年ならまだ寒さを
覚える季節だけに、不快感は少ない。
犬塚千央が仕事場を出たのは、夜九時近かった。彼女の仕事場は、地域では
随一の賑わいを誇るアミューズメントビルの三階。様々な占い師が店を構える
ことから、“占いゾーン”とあだ名されるフロアだ。商売道具の水晶玉は、以
前は持ち歩いていたが、齢五十を超えた今では店の奥で保管してある。
電車に乗り、自宅の最寄り駅で降りると、いつものように徒歩で帰途に就く。
所要時間は、普段通りなら十分ほど。
だが、今夜は違った。呼び止められた犬塚千央は、外灯の列が途切れて暗く
なった一角だったが、聞き覚えのある声に自然と足を止めた。
「あら、あなたは以前いらした――」
顔にも見覚えがあった。気を許す。笑みを浮かべた。途端に衝撃を食らった。
「羊の声を聞け」
そんなささやきと共に、腹に痛みが走る。殴られたのか刺されたのかすら判
断できなかったが、ひどい激痛だ。息を詰まらせ、転がった。助けを呼ぼうに
も声が出せない。
息を整える努力をする犬塚へ、襲撃者は素早く駆け寄り、喉元に銀色にきら
めく刃物を当てた。一気に引くと、血が噴き出した。
襲撃者は返り血を気にする様子もなく、落ち着いている。手のひらサイズの
紙切れを懐から取り出すと、被害者の身体の上に放った。白地に黒で何か書か
れていたが、暗がりで読み取れない。その内、血が滲んで行った。
数秒後、ハッチバックタイプの乗用車が滑るようにやって来た。グレーがか
った車体が、襲撃者のすぐ横で停まる。どこかの商用車なのか、両サイドには
戯画化した羊の顔が大きめに描いてあった。その助手席のドアが開くと、襲撃
者は当たり前のように乗り込んだ。
現れたときと同様、静かに発進した乗用車は、襲撃者を乗せたまま、夜に消
えた。
同時に、女占い師も消えて行く……。
* *
「吉野さん。襲われた女性、亡くなったそうです。病院に着く前に」
部下の大越がもたらした凶報に、吉野刑事は「そうか」とうなずき、口元を
引き締めた。現場を検証する彼の指先は、アスファルト道に記された血文字に
向けられている。
「これ、どう読める?」
意見を求められた大越は、くだんの一画を手持のライトで照らしてから、
「ひつじ、ですか。漢字の羊」
「おまえにもそう読めるか。位置から見て、被害者が書き残したらしいんだが」
「そういや、さっきの死亡報告と一緒に伝えられたんですが、被害女性は搬送
される際に、一言だけ言い残したんだそうですよ。『ひつじ』か『しつじ』か
聞き分けられなかったとのことでしたが、これは『ひつじ』で決まりでしょう」
そういう重要な情報を一瞬でも言い忘れるなと注意してから、吉野はもう一
つの明白な遺留品を、改めて調べた。被害者の傍らに落ちていたという紙片で
ある。
「『羊の声を聞け』か」
「恨み節、ってニュアンスですね」
「決めつけるのは早い。たとえば、神を気取った無差別殺人かもしれん。が、
怨恨の線を優先して進めることになるだろうな」
現場検証の折に吉野が予感した通り、捜査は怨恨の線を最優先にしつつ、他
の可能性も残す形で進められる方針が立てられた。
犯行時刻は、現場に遺された被害者の出血具合から、発見・通報される三十
分以内と割り出されていたが、有力な目撃証言はなく、非常線が即座に張られ
た訳でもないため、捜査はまだとっかかりを求めて動き出した段階と言えた。
「こりゃ、思った以上に根が深いかもしれんぞ」
被害者宅であるマンションの一室を訪れていた吉野は、思わず声に漏らして
いた。
机上にあった故人の日記を、ひとまず新しい方からざっと遡っていく内に、
気になる記述を見つけたのだ。
<あのお客さんがまた現れるなんて。おかげで思い出させられた。二十年ほど
前になるか。仕舞い込んでおきたいが、もしかすると正直に打ち明けろという
暗示? 羊を生贄にしろと言ったばかりに、大勢死んだ。法的に罪に問われな
いなら、白状してもいい頃かもしれない>
犬塚千央は几帳面な性格だったと聞くが、日記の日付は飛び飛びになってい
た。問題の記述は彼女が殺される三日前、三月十八日の日付になされていたが、
三月十八日当日の出来事なのか、過去を思い起こして書いたのかは分からない。
あのお客さんとやらの正体もさっぱりだ。
吉野はさらに数ページを遡ったが、関連ありそうな記述を見つけられなかっ
た。持ち帰り、詳しく検討することになるのだから、現時点で日記にかかり切
りになる必要はない。ただ、もっと古い日記が存在するのか否かは、早く確認
せねばならない。今、吉野が持っている物は、約二年半前の日付が最初になっ
ていた。
「独り暮らしで、日記を特に隠す気はなかったようだから、過去の日記帳があ
るのなら、そんな凝った場所に仕舞ってはいまい。物置小屋がある訳でなし、
そこらの抽斗か棚、押し入れの中辺りにあるはず」
推測を声に出し、心当たりを探した結果、四冊の日記帳が新たに出て来た。
表紙の書き込みから、十四年前の元日から付け始めたと知れた。
「これ全部を読むのは、骨が折れそうだ」
嘆息したところへ、大越が部屋に入ってきた。五百メートルばかり離れた一
戸建てに住む、マンション管理人のところへ話を聞きに行かせていたのだ。
「管理人は女性で犬塚千央と同世代でした。そんなに頻繁にではないが、顔を
合わせれば立ち話をよくしたそうです。十年ほど前に入居してきたが、支払い
が滞ったことはないとか」
「それよりも、占いの客について、何か話していなかったか?」
促すと、大越は小さな手帳のページを繰ってから、ゆっくりと読み上げた。
「若い頃のいい思い出という感じで、お客の若い男性に家までついてこられた
ことがあったと語っていたそうです。多分、二十年以上前の話だろうと言って
いました」
「……関係なさそうだ。他には? 客かどうか分からないが、不審者につけら
れている気がするとか、見張られている気がするとか」
「ありませんでしたね。ただ、一つだけ、ある事件のことを話題にしたら、あ
まり触れたがらないというか、早々に切り上げたがったのが見え見えだったと」
「何の事件だ」
日記から部下へと視線を移した吉野。大越はまた手帳のページを繰った。
「三年前の初夏、小学校に男が乱入して、児童十数人を斬りつけた事件ですよ。
犠牲者が何人か出た上に、犯人は逃走中に橋から川に飛び降り、溺死したあれ」
「ああ……てことは」
吉野は再び日記に目をやった。二番目に新しい日記帳を選び取り、三年前の
六月の日付を探す。事件は確か十日だった。話題にするのなら、その翌日か翌
翌日だろうか。
吉野の読みは当たっていた。六月十二日の記載に意を留める。
<子供が死ぬ事件は、いつも気分が悪くなる。二十四のとき以来、特にその傾
向が強くなった気がする。あれが私のせいでなければ。>
その日の記述はこれだけだった。さらに、このあと七月二十一日まで、日記
は書かれていない。犬塚の日記がいくら飛び飛びとはいえ、こんなに間隔が開
くのは、他にまだ見掛けていない。五週間以上の空白の後、再開した日記は、
その日の日常的な出来事が書かれたのみだった。
「おい。二十六年前に小さな子供が犠牲になるような事件、覚えがあるか?」
被害者の現在の年齢が五十だから、二十四のときとは二十六年前。
「二十六年前ですか。私は記憶力に自信ある方じゃないですが、たとえあった
としてもその当時は私自身が子供でしたから……」
それでも記憶をたぐる風に、斜め上を見つめる仕種をする大越。
「すまん、それもそうだったな。覚えているとしたら、俺の方だ」
そう言って思い出そうとする吉野だが、該当しそうな事件がいくつも浮かん
で定まらない。殺人事件や誘拐事件だけでもかなりの数にのぼる。
五分近く考えた末、吉野は気付いた。二十六年前、犬塚千央がどこに住んで
いたかを知る必要がある。
犬塚千央が間接的であろうと何らかの事件に関与したのなら、事件そのもの
は犬塚の近辺で起きた可能性が高い。二十六年前に彼女がどこで何をしていた
か。辿ってみると、幸いにも犬塚千央は明白な痕跡を残していた。
短大を出てしばらく商社勤めをするも、二年余で退職。辞めた理由ははっき
りしないが、当人は寿退社のつもりが、結婚詐欺に遭っていたと噂が流れたと
いう。故郷のNに引っ込んだ彼女は、その心の痛手がきっかけなのか、占いに
傾倒し出した。若い時分の彼女はなかなかの愛らしさで知られたらしく、堀崎
ほまれという女占い師に付いて修行を重ね、堀崎の店に占い師として立ち始め
ると、人気を博したようだ。一年で独立し、好調の波に乗った時期――N市で
多数の子供を巻き込む大事件が起こっている。市内の別々の小学校に通う小学
六年生の男児四人が、次から次へと絞殺されたのだ。
地域一帯の警戒が高まる中、四名の犠牲を出した時点で犯行はぴたりと止み、
犯人は見つからないままでいる。
「当てはまりそうな事件は、これしかない」
全ての記録を当たった吉野は、大越相手にそう言った。
「他に火事が一件、交通事故が一件あるが、どちらも亡くなった子供は二人。
軽視してよい訳では決してないが、“大勢の子供が死んだ”という条件からは
外れるだろう。案件としても決着しとるしな」
「でも、この小学生連続殺害事件のどこが、羊と関連してるんでしょうか」
大越の疑問に、吉野もまだ答を持ち合わせていない。
「とりあえず、事件の流れを想像してみるぞ。占い師の犬塚千央を、何らかの
相談で犯人が訪ねる。犬塚は占いの結果を、『羊を犠牲にしなさい』ってな形
で伝えたんだろう。多分、象徴的な意味を込めていったんだろうが、犯人はま
ともに受け取り――」
「それはおかしいですよ。まともに、つまり額面通りに受け取ったんでしたら、
本物の羊を殺す事件が起きていなくちゃ」
「そうだな。では……生贄にする羊イコール弱い者、というイメージで、犯人
は子供を犠牲者に選んだ」
「いい線行ってる気はします。でも、ですね。弱い者として、六年生の男子を
わざわざ選ぶでしょうか。同じ小学生からなら、もっと低学年を選ぶ方が、犯
行は楽なはずです」
「うむ、確かに。おまえも否定ばかりしてないで、考えてくれ」
「占いに羊と来れば、決まってませんか?」
間髪入れぬ、文字通りの即答に、吉野は一瞬たじろいだ。大越の年代にとっ
ては当たり前だが、年寄りには解せない何かがあるのかと内心、焦りを覚える。
だが、じきに閃いた。
「ああ、こりゃあ迂闊だった。星占いか」
「それとまだ一つ、干支があります」
「干支か。干支なら、特定の年齢の者を狙うのも不思議じゃなくなるな。で、
二十六年前、小学六年生は未年なのか?」
指折り数えようとした吉野だったが、大越がそれを止めた。
「待っててください。今、ネットで調べてますから」
何やら携帯端末をいじる大越。やがて「四月から十二月生まれだと、該当し
ません。一月から三月生まれなら未年なんですが」との返事があった。
「被害児童の生まれ月が分かるか?」
「データベース化されていればすぐですけど、どうだか……あ、未解決事件だ
から当然、優先的に処理されているか」
それでも回答を得るまでに意外と時間を要したが、結論から言うと、殺され
た男子児童は四人全員、未年の牡羊座だったと判明した。
「完全に決まりだな」
「やりましたね、吉野さん」
「どこがだ」
犬塚千央が殺される前にこの事実を突き止めていたのならまだしも、今とな
っては殺人鬼に転じた占い客を追跡するのは、困難を極めそうだった。
停滞しつつあった捜査に進展をもたらしたのは、大越刑事の一つの発見であ
った。犬塚千央が殺害されてから、ちょうど一週間が経過していた。
「N市では十四年前にも小学六年生男児が二人、相次いで死亡していますね。
一人は塾帰りに川に架かる橋から転落、もう一人は友達の住むマンションに遊
びに行った帰り、そのマンション六階から転落。いずれも小六の春休みの出来
事で、二人とも未年生まれの牡羊座ですよ」
偶然にしてはできすぎている。関連事件とする見方に同意する声が上がる一
方、「同一犯なら何故、絞殺じゃないんだ?」という疑問も出た。加えて、被
害者を二人出した時点で、犯行が止んだらしい点も不可解とされた。十四年前
の二件はともに、事件事故の両面で捜査され、はっきりした結論が出ないまま
今日に至っている。殺人鬼なら犯行が連続殺人と世間に認知され、捜査や警戒
が厳しくなるまでは続けるものではないのか。
「それを言うなら、二十六年前に四件で止めたのも妙ですよ。快楽目当てや信
念に従った殺しなら、警戒が厳しくなろうが、心にブレーキが効くとは思えな
い。だからたいていの連続殺人鬼は捕まる」
犯行がぴたりと止んだり、十二年後に再開したりしたのは、犯人が別の犯罪
で服役していたためではないかとの見方も出た。
「十四年前の二人が死んだ件も含めて、犯人は被害者が条件に合うことを、ど
うやって知ったんですかね」
会議の場で、吉野が投げ掛けた。根本的な問題が、まだ手付かずであったこ
とに気付かされる。大越があとを引き取り、続ける。
「二十六年前の犠牲者四名に関して調べたんですけど、それぞれの通っていた
小学校では、卒業アルバムを作るに当たって、各児童の個人情報――住所や電
話番号、それに生年月日をリストにし、実際にアルバムに載せているんですよ。
当時は一般的だったようです」
「では、そのリストを手に入れられる立場の者が、容疑者候補になるんだね。
特定のアルバム制作業者が一括して請け負っていたとしたら、絞り込みやすい」
陣頭指揮を執る警部が、“朗報”に目を細めた。
「はあ。そこなんですが、すでに卒業アルバムが配られたあとに事件が起きて
ますから、学校関係者の目もないとは言い切れない訳で」
「しかし、学校関係者、たとえば保護者の一人だとしても、手に入れられる名
簿のリストは自分の子供が通う学校の分だけだろう」
「仰る通りです」
引き下がる大越。代わって、再び吉野が口を開く。
「何にせよ、N市の事件を管轄したところに協力を仰ぐべきと思いますがね。
あちらさんは時効を迎えた事件をほじくり返されて、いい気はしないだろうが、
そのときの犯人が犬塚千央を殺した奴かもしれないとなれば、動いてくれるん
じゃないですか」
「私も当然、考えていたよ。手柄の争いになるのが目に見えてるから、協力が
必要ないならうちだけで解決したいんだが……あなたが言うのであれば、仕方
がないか」
揉め事は御免、もしものときは自分に責任はないよとアピールしたげな言い
種だ。吉野はかみ潰した苦虫を隠し、「よろしく頼みますよ」と言っておいた。
「二十六年前に会ったきりの客が、今になって突然現れて、見分けが付くもの
ですかね」
県外からの刑事の来訪を受け、説明を聞いた早矢仕刑事は、確認を取る風に
始めた。吉野より年下であるが、大越よりはキャリアを積んでいる。柔和な顔
立ちをしており、よその捜査機関から来た者への応対役をしょっちゅう任され
るというのも頷ける。
「容貌は相当変わっていると思いますし、占い師と客という関係から言って、
顔を合わせたのは恐らく一度、多くても二度がいいところじゃないでしょうか」
「占い師という職業柄、客の特徴を覚えるのが得意なのかもしれない。実際、
日記には過去の客が現れたことを示唆する記述があったんですし」
吉野は穏やかに否定した。早矢仕刑事もまた穏やかに質問を重ねた。
「仮に覚えていたとしましょう。吉野さん達の見解を全面的に採用すると、占
い師の犬塚千央からすれば、その客は殺人鬼かもしれないと思ってる訳ですよ
ね。それにしては、日記の反応は薄すぎやしませんか」
「……仰る通り、確かに」
今度は認めざるを得ない。連続児童殺害犯かもしれない人物が、再び目の前
に現れたら、できる限り早く警察に知らせるのが常識だ。犬塚千央に心理的な
負い目があったとしても、日記にはもっと慌てふためいた様が綴られていてし
かるべきだろう。
「思うに、殺人犯自身が現れたんではなく、事件の関係者が姿を見せたんじゃ
ないかと」
「事件の関係者というと、たとえば遺族ですか」
「あるいは、被害者を出した学校の当時の教師なんかも考えられます。あり得
ると思うんですよ。二十六年前の事件の前に犯人が客として現れ、事件後、関
係者が救いを求めて占いに頼ろうと、やはり客として犬塚千央の前に現れてい
た」
「なるほど。関係者は大勢いる。その中の一人でも、犬塚の店を訪れていたな
ら、成り立つ訳だ」
犬塚と犯人、そして事件関係者の生活圏も重なっていよう。
「でも、事件関係者が今になって、どうして犬塚千央の店を訪ねる必要があっ
たんでしょうか」
大越が言った。
「犯人なら口封じか、新たな“お告げ”を求めて来ることも考えられます。事
件関係者には、どんな理由が……事件が解決していないのだから、懐かしさと
かではしっくり来ません」
「その通りです。でも、他の理由が考えられないこともありませんよ。根拠は
現在のところ見当たらないが、想像をたくましくするなら……占い師が犯人に
『羊を生贄に』どうこうと告げたことを、事件関係者が知ったとしたらどうで
しょうか」
「子供が殺された責任の一端は占い師にある、と思い込んでも不思議じゃあり
ませんな。それが殺意にまで発展するかどうかは、個人差が大きいが……」
「事件の関係者達の最近の動向を当たれば、怪しい人物が浮かび上がるかもし
れません。犬塚千央という占い師の店に行ったのなら、一時的にでも地元を離
れているでしょうしね」
そのためのリストを作成し、手分けして調べることになった。
二十六年前の四つの殺人及び十四年前の二つの不審死、それぞれの関係者の
内、Nを離れ、関東圏で暮らす者が二十五名。犬塚千央が殺害される前の時点
から一時的にNを不在にしていた者が二名。これに、元々関東圏に住居を構え
る、Nでの事件の被害者と血のつながりがある者を加えると、合計でちょうど
三十名になった。
この内の大半がアリバイを認められたのは、捜査員達にとって幸運であった。
ある者は職場の花見に出ていた。ある者は独りで仕事をしていたが、犯行時刻
まで現場に到着できない地点に職場があった。またある者は、子供を託児所に
迎えに行く途中で、やはり犯行時刻に間に合わないと証明された。
篩に掛けられ、残ったのが九名。うち四人は、アリバイ証人が家族ではあっ
たが、年老いており、とても単独で殺人を行うことはできまいと見なして問題
なかった。
こうして五名までに絞り込めた。簡単なプロフィールは、次の通り。※便宜
上、二十六年前の殺人を一括して第一事件、十四年前の不審死を一括して第二
事件と呼ぶ
・甲斐紗由美(かいさゆみ)三十歳。東京で専業主婦。第一事件被害者の妹
・新庄督子(しんじょうとくこ)四十六歳。東京で保険勧誘員。第二事件被害
者の母
・鼓昌一郎(つづみしょういちろう)五十八歳。地元で商店経営。第一事件被
害者の父。犬塚の事件の五日前から見本市見学
・中井戸貴也(なかいどたかなり)三十八歳。地元で農家手伝い。第一事件被
害者の親友。犬塚の事件の前日から研修旅行
・八木仲将(やぎなかまさ)四十三歳。神奈川で塾講師。第二事件被害者の担
任教師
「中井戸は除外してかまわないんじゃないですか」
提案したのは大越。日記のあるページを指で押さえつつ、
「犬塚千央が襲われる三日前に、彼女の店に現れることはできないんですから」
と続けて言った。吉野は説明をしてやった。
「まあ、念のためだ。下見をした者と実行犯とが別である可能性を考慮したま
で。研修とは名ばかりで、ほとんど慰安旅行みたいなものだそうだからな。自
由に動き回る余裕がたっぷりある」
「ここまで絞れたなら、ある程度の目星は付きますかね」
口を挟むタイミングを待っていたのか、早矢仕刑事が言った。
「犬塚千央の店があったビルには、当然、防犯カメラが設置されているでしょ
う。犯行三日前の映像を調べれば、五人の、いや、中井戸を省いた四人の中の
誰かに似通った人物が映っているかもしれない」
「防犯カメラはビルの出入り口と各フロアの全景、及びエレベーター内を映す
のみで、店舗毎に向けてる訳ではないから、しらばっくれられると厳しいでし
ょうけどね」
大越は出鼻をくじくようなことを平気で言う。吉野にたしなめられると、不
思議そうな顔をした。
「鼓と中井戸を調べる際に、直接本人に会って、それとはなしに尋ねたんです
よ」
再び早矢仕刑事が口を開く。
「過去に事件が起きたあと、ショックを和らげるために、何かに頼ったり相談
したりしませんでしたかという意味のことを。残念ながら、占い師に見てもら
ったなんて返事はありませんでしたが、もし犬塚千央を襲った犯人なら正直に
話すとも思えないし、判断が難しい」
「こちらでも同じことを聞いてみました。尤も、こいつが口を滑らしたおかげ
で、よりストレートな聞き方になったが」
若い部下を一瞥してから、吉野は続ける。
「三人の内、女性二人が占い師に見てもらったことがあると答えました。ただ
し、事件とは無関係に、興味があるとか、占いが好きだからという理由だと言
っていた。占い師の名前やどこに店を出していたかなんかについては、記憶に
ないという有様」
「微妙な答といったところですか。正直に話してるのか、嘘をついているのか。
誰が犯人にせよ、犬塚の“羊発言”をいかにして知ったのか。そこのからくり
を突き止めることが、解決の糸口になる気がします」
早矢仕刑事が持ち出した疑問への答は、翌日、告白の形でもたらされた。
防犯カメラの映像を丁寧に追ったところ、五人の内の一人、鼓昌一郎らしき
男の姿が散見できた。その事実を武器に、本人に早矢仕刑事が事情聴取すると、
しばらく沈黙を守っていた鼓だったが、三時間も経過した頃に突然喋り出した。
「電話が、掛かってきたんです」
思い切るためか、言葉を区切って話す鼓。早矢仕刑事は何についての返答な
のか判断できなかったこともあり、「電話?」とおうむ返しした。
「順を追って聞かせてくれないか。誰からだったね」
「誰かは分からん。多分、女の声だと思って聞いてたんだが、今思い出してみ
たら、変声機を使った男かもしれねえし。ただ、妙なことを名乗った。『自分
は羊飼い』だと」
「羊飼いか」
何やら暗示的だなと感じ、その単語を噛み締める早矢仕刑事。
「聞き間違いと思って聞き返したら、やっぱり羊飼いだって言うんだ」
「分かった。じゃあ、その電話はいつ掛かってきた?」
「二月の半ば頃だったと思う。近所の子供が、バレンタインバレンタインて騒
いでた記憶があるから」
「なるほど、そりゃ間違いなさそうだ。いいよ。それで、何の電話だった?」
「『二十六年前、あんたの息子が死んだことに大きな責任を負っている女を知
っている。知りたくないか?』と言ってた。俺は半信半疑だったが、とにかく
聞いてみようと思ったんだ」
「犯人を知っている、ではなく、責任を負っている女を知っている、だったん
だね? うむ、続けて」
「電話の相手が言うには、その女は犬塚千央という占い師で、俺の息子らを殺
した犯人に、『羊を生贄にしろ』とアドバイスした。それを真に受けた犯人が、
羊とは未年で牡羊座の小さな子供だと解釈し、殺人を引き起こしたんだと」
「……あなたはそれを信じたんだろうか?」
「だから、最初は半信半疑だったさ。でも、日を経ても全然忘れられない。逆
に気になって気になって、仕方がなかった。どうしょうもなかったから、見本
市に行くついでに見てやろうと思った。事件に直接関係ないにしても、知らん
ぷりを決め込んでるとは、どんな無責任女なのか、見てやるつもりだった」
「つもりとはどういう意味だね」
「実際には行けなかった。客として占い師の前に座って、詰問していいものや
ら分からなかったし、もし相手が認めたとしたら、後先考えずに殴ってしまう
かもしれないと思った。だから、すんでのところで自制したんだ」
「……鼓さん、羊飼いと名乗る人物は何故、あなたのところに電話してきたと
思う? 心当たりはないかな」
「さっぱり。けどな、電話があってしばらくあとに、当時の担任だった先生と
道でばったり会ったから、それとなく聞いてみたんだ。事件について何か変わ
ったことが最近なかったかって。そうしたら先生は最初、一瞬だけだけどよ、
うろたえたみたいだった。それで重ねて聞いたら、変な電話が掛かってきたと
認めたよ。薄気味悪かったし、できれば忘れたい事件だったから早々に切った
そうだ。だから、話の中身はほとんど聞いてないらしい。ただ、電話の相手が
羊飼いと名乗ったのと、占い師の話をしようとしていたのは確かだと」
「そのとき、鼓さんは同じ電話が掛かってきたこと、打ち明けたのかね?」
「いや。そのときは俺、占い師になんか思い知らせてやらねばって気持ちがあ
ったし、黙っていた。なあ、刑事さん。俺の言いたいこと分かるだろ?」
「ああ、何となくな」
早矢仕刑事はそれだけ言って、可能性を考え始めていた。
犬塚千央の情報を掴んだ何者かが、自らは女占い師を罰することが適わない、
あるいは自らの手は汚したくないためか、事件関係者多数に情報を知らせ、代
わりに罰を与えてもらおうと画策していたのではないかと。
とりあえず、十四年前の不審死は確証がないため切り離し、二十六年前の連
続殺人について、被害者遺族を中心に関係者への事情聴取が行われた。その結
果、半数以上の者が、二月半ばから下旬にかけて、妙な電話を受けていたこと
を認めた。電話の相手が羊飼いと名乗ったか否かは、覚えていない者もいたが、
記憶していた者は全員、羊飼いだったと答えた。犬塚千央に事件の責任の一端
があるのではないかという趣旨は、一貫していた。
「面倒な事態になってきましたな」
報告を受け、Nにまた出向いてきた吉野は、聴取書類の山を前に、頭を掻い
た。
「殺人の実行犯の他に、犬塚千央に関する話を撒き散らした犯人も捕まえる必
要が出て来るとは、こりゃあ骨が折れそうだ」
「そこなんですがね、吉野さん。あ、これをどうぞ」
早矢仕刑事は、吉野と大越の二人に茶を勧めながら言った。
「プロファイルってほどのものじゃありませんが、一応、身体的もしくは時間
的に自由が利かなくて、占い師殺害時のアリバイがはっきりしている者をリス
トアップしてしておきました。が、別の見方もあると思うんですよ。これは私
の意見ではなく、他の人から示唆されたんですが。関係者を扇動した人物と実
行犯、別々にいると決め付けるのはよくないんじゃないかというね」
「――なるほど、それはそうだ。電話の件を我々警察に掴まれるのを見越し、
殺害動機のある者が大勢いると示しておくことは、真犯人にとっていい煙幕に
なる訳だ」
「当たっているとして、そこまで周到にやるなんて、積年の恨みは恐いですね」
そう言った大越は、身震いのポーズをした。
「まあ、犬塚千央に責任はあるかもしれませんけど、ほんのちょっぴりでしょ。
なのに命まで奪われるなんて。普通の神経なら、占い師の羊発言を知ったあと、
関係者全員に大っぴらに教えて、裁判でいくらかでも責任を問えないかってい
う方向に持って行くものでしょうに。それがこんな陰湿な形で電話を掛けまく
って、殺しも辞さないというのは……二十六年前の犯人を捕まえられなかった
自分達警察にも責任があることになってしまいそうで、本当に恐い」
「犬塚千央に殺人犯の姿を投影したのかもしれない。が、それにしても殺すの
はやり過ぎな気がするな。襲撃して痛い目に遭わせる段階で、歯止めが利きそ
うなもんだ」
そのとき、大越と吉野のやり取りを聞いていた早矢仕刑事が、黙ったまま片
手を挙げた。視線は斜め下を向き、しばし考える様子を見せる。
「どうかしましたか」
「……お二人の言う通り、殺意が強すぎる。もしかすると、全く別物なのかも」
「別物、とは?」
解しかねて、首を捻った吉野。大越とも顔を見合わせたが、部下もやはり理
解できていないようだ。
早矢仕刑事が言った。
「念のため、筆跡を調べましょう。犬塚千央の昔の筆跡を詳しく」
* *
「やっぱり来たね。分かっていたよ。そりゃそうさ。嘘じゃない証拠に、ほら、
ちゃんと化粧をして、一張羅で着飾っているだろう? 昨日になってやっと見
えたんだ、あんたらが来るのが。抗っても無駄と知っているから、あとはきち
んとした身なりで出迎えるだけ。
実行犯はどこの誰かって? 何で私一人じゃないって分かったのさ? ああ、
身長差。私じゃ低すぎるか。確かに私は電話を掛け、運転をしただけ。彼は運
転できないし、私もあの女が死んでいく姿を目に焼き付けておきたかったもん
だからね。
いいことを教えてあげるよ。私の共犯者こそ、あんたらが長年追い掛けてき
た小学六年生連続殺害犯。私はこの目で見た訳じゃないが、本人がそう言って
いた。初めて私のところに来て、小さな子供が難病で助かりそうにない、占っ
てどうにかしてくれないかって頼んできた。私はその頃、自暴自棄になってい
たから適当に答えた。羊を生贄にしてみたらいいってね。そう、私自身の体験
を、犬塚千央に押し付けたのさ。もうとっくに分かってるんだろ? あの日記
は、私がすり替えたんだ。手首が痛くなったが、ある程度はごまかせたみたい
だね。尤も、あの女が一時、私の字を真似ていた頃があって、その癖が抜けて
いなかったのも幸いしたみたいだけれども。でなきゃ、日記以外に残っている
短い文章でも、筆跡の違いですぐにばれていたはず。
どういうことかって? あんたら警察はどこまで掴めているんだい? ああ、
その通り。犬塚千央は私の弟子だった。店に立たせた当時は、まだ私が“主役”
だったから、お客に書いて渡す“ご託宣”も、私自身の手書きだった。忙しく
なると、間に合わなくなるから、弟子に手伝わせてたのさ。私の字と犬塚千央
の字がそっくりなのは、そのときの名残だろうね。
そう、動機もこれさ。ちょっと人気が出たと思ったら、あの女は恩知らずに
もとっとと独立して、その上、うちのお得意さんを大量にかっさらっていった。
だからって食えなくなるほどじゃなかったが、恨んださ。落ちぶれた心地を味
わわされた。プライドを傷付けられたっていうかね。
今になって殺そうと思った理由かい。さっき言いかけたろ。二年ぐらい前に、
共犯になる男がふらりと現れたんだ。で、『占いの通り、未年生まれで牡羊座
の子供を四人殺した。その効果が現れて、うちの子は回復した。今では立派に
成長している』と言うから驚いたよ。忘れかけていた記憶が甦って、次に、何
で羊を生贄にしなさいっていう占いが、そうなるんだと思った。聞いてみたら、
あの男、色々な占い師の所に行って、干支やら十二星座やら、不吉な数字だと
かが脳細胞にこびりついてたらしいんだ。そしてその最後の一押ししたのが、
私の羊を生贄にって占いだった訳。
驚いたのは二十六年前の四人だけじゃなく、ええっと十四年前だったね、確
か。その頃にも二人、未年で牡羊座の男児を事故死に見せ掛けて生贄にしたと
言っていた。ちょうど、自分の子供の体調が悪くなり、心配の余りまたやった
んだと。
でも、そんな連続殺人犯を前にして、恐ろしいとは感じなかった。だって、
見た目は普通、喋ることもだいたい理屈が通っていた。そんな男が、お礼に何
でもすると言うから、まあ考えとくわって答えて、そのときは帰ってもらった。
それが昨年末になってまた姿を見せてね。子供が死んだって。病気じゃなく、
交通事故で。これはやばい気がしたが、相手は案外普通だった。無常を感じて
る、早くこの世とお別れしたいが、その前にあなたにお返しをしておかなきゃ、
気が済まないんだと言い出したのさ。
鬼気迫る調子で言われて、私にも心の奥に押し込んでいた恨みが甦っちまっ
たよ。この男の協力があれば、犬塚千央を簡単に葬れるって信じた。それまで
に空想で計画を立てたことはあったから、あとは細かいところを詰めて、実行
に移すだけだった。
鍵? あ、犬塚千央の家の鍵か。“偶然、懐かしい顔に会った”ってふりを
して、あの女に接近しただけのこと。表面上、詫びを入れてきたけれど、こっ
ちはもう決心してるから揺らぐことはなかった。そのときに鍵を拝借して、共
犯者に鍵屋に走らせ、合鍵ができたあと、元の鍵は戻した。ね、簡単だろう?
共犯の男の名前? さあ、知らないね。とぼけてるんじゃなく、聞いてない
から。自殺を確かめた訳でもない。報道されていないみたいだから、どこかで
人知れずあの世に旅立ったんじゃないかねえ。まあ、三十前の息子か娘を交通
事故で亡くしている男を当たっていけば、突き止められるんじゃないかい?
せいぜい、頑張りなさいな。
――そうだ。男に犬塚千央の顔を確認させるため、一度、店に行かせたんだ
ったわ。防犯カメラに映ってるかもしれないね。役に立ちそうかい?」
堀崎ほまれはそう言うと、額や眉間に深しわを寄せ、嬉しげに笑った。
終