#325/566 ●短編
★タイトル (GSC ) 07/11/06 10:41 (137)
フリー日記 「今は昔」(1) [竹木 貝石]
★内容 07/11/14 17:50 修正 第3版
(私のパソコンシステムだと、やはり送信異常になるので、文章を
二つに分けてアップロードします。ご了解ください。)
11月4日(日)
今日はJRのさわやかウォーキング〈ものづくり刈谷の街と産業祭り〉
に行って来た。
逢妻駅 → 1.9キロ = 日高公園
→ 2.2キロ = 総合運動公園 → 2.4キロ = 乗蓮寺
→ 2.1キロ = 総合運動公園 → 1.2キロ = 青山公園
→ 1.1キロ = アイシンコムセンター
→ 1.9キロ = 産業振興センター → 0.2キロ = 刈谷駅。
合計13キロ。わが家を出発してわが家に戻るまでの歩数は、26616
歩だった。
私の生まれ故郷は、愛知県 碧海郡 刈谷町 大字 小山 字 中手山。
現在の地名では、愛知県 刈谷市 中手町である。
自分史〈幼少年時代〉に詳しく書いたが、数え年5〜7歳までは、
託児所(今でいう保育園)に通い、8歳の4月から、名古屋盲学校の
寄宿舎に入った。大学は東京、就職は最初札幌盲学校で11年、名古屋に
戻って、現在の守山区に住むようになってから35年余になる。
幼い頃、青年時代、そして現在、人も土地も駅も建物も随分変わったが、
変わらない物や懐かしい場所がどのくらい残っているのだろうか?
下の文章は、そういう観点で書いてみたいが、当然ながら年寄りの
懐古趣味と繰り言になるだろう。
私の両親は50年も前に亡くなり、跡取りの兄は安城市に転居して、
その兄も目下入院中である。私のすぐ上の兄は2歳年上で、子供の頃
いつも一緒に遊んだが、今朝電話を掛けたら、
「今日は町内の運動会があり、世話役なので手が離せない」
と言い、ウォーキングに付き添って、生まれ故郷の道筋や建物を案内・
説明してもらうことはできなかった。
私が故郷の田舎と名古屋の盲学校を往復したのは小中学生時代で、
当時の交通事情では毎日通学することなどできないから、寄宿舎に入って、
春・夏・冬の長期休暇のときだけ、父や兄や姉達が私を送り迎えしてくれた。名古屋の
市電は別としても、刈谷〜名古屋間が汽車(SL)で約50分
かかり、2時間に1本くらいしか列車が来ないため、満員のぎゅうぎゅう
詰めで、時間的にも体力的にも一日がかりの大仕事だった。
ちなみに、昭和20年頃の国鉄の駅名を記すと、名古屋→熱田→笠寺
→大高→大府→刈谷→安城…。現在JRの普通列車が停まる駅は、
名古屋→尾頭橋→金山→熱田→笠寺→大高→共和→大府→逢妻→刈谷
→野田新町→東刈谷→安城…、というように大幅に増えている。
さて、まず最初に書きたいのは、逢妻駅についてである。
生まれ故郷中手山村の私の家は、大府駅と刈谷駅のほぼ中間にあり、
しかも、線路からかなり北の方へ歩かねばならなかった。上りの汽車に
乗って東の方へ行く場合は刈谷駅まで歩き、下りの汽車に乗って西の方へ
行くときは大府駅まで歩く、刈谷駅の方がやや近いようだが、大府駅
まではおそらく一里(4キロ)以上はあるだろう。名古屋への行き来は
大府駅を利用するから、自転車の荷物台に乗せてもらえるときは良いが
(当時は二人乗りが禁止されていなかったので)、荷物が多いときや父が
酔っぱらっているときなどは、長い道のりをテクテク歩かねばならず、
子供の私には大層辛かった。「どうしてこんな田舎に住んでるんだろう?」
と情けなく思い、夢の中で、中手山村に市電が走るようになったり、
汽車の駅が出来たりして、大層嬉しかったものだ。
ところが、今から20年ほど前、その不便な故郷の近くに、本当に
『逢妻』という駅が出来たと聞いて、感慨ひとしおだった。今私は名古屋
に住んでいるし、兄弟姉妹も親戚も誰一人中手山には住んでいないが、
子供の頃の夢が現実となったのが信じられない気さえする。但し、まだ
一度も逢妻駅で降りたことがなく、
「いったいどの辺りに駅が出来て、周囲はどんな風になっているんだろう?」
と、いつも気になっていた。だから、今日のさわやかウォーキングの
出発地点が逢妻駅だと聞いて、是非とも参加したいと考えたのである。
新守山から中央線に乗り、金山で東海道線に乗り換えて、逢妻に
着いたのは9時半。結構新しくて立派な駅だ。
説明の表示板に、
「昭和63年、橋の上の駅として誕生、刈谷駅まで1.9キロ」
と書いてあり、逢妻川の名前の由来についても、
「在原業平が東の国から帰る際、思いを寄せる女がここまで追ってきたが、
業平は朝廷に遠慮して、川を隔てて女と会った…」
と述べてある。
駅のそばに『医王寺』があるのを見つけて、私はこの場所が何処なのか
はっきり解った。
子供の頃、わが家から歩いて刈谷駅へ行く途中、中手山の隣村が
高津波、次が熊村(今は熊野町と呼ぶ)、その次が元刈谷、そして
刈谷の街に出るのだ。高津波の金勝寺(こんしょうじ)、医王寺の前の
広い道を暫く行くと下り坂になり、汽車のガード(鉄橋と呼んでいた)
をくぐると、直ちに上り坂となって、そこからが熊村である。すなわち、
高津波と熊村の境を東海道線が走っていて、線路と直角の道路沿いに
金勝寺と医王寺があり、金勝寺よりも医王寺の方が線路に近かった。
確かに今も、医王寺は逢妻駅のすぐそばに在るから、要するに、逢妻駅は
昔汽車のガード(鉄橋だったかも知れない)が在った場所、あるいは
その付近に立てたものと思われる。
私は自分史〈幼少年時代〉の中で、「医王寺の託児所に3年間通った」
と書いたが、託児所は医王寺でなく、金勝寺の誤り(私の思い違い)であった。金勝寺
から医王寺へ遊びに行き、昼寝をさせてもらった記憶はあるが、託児所の
思い出は全て金勝寺にまつわるものである。
という訳で、最初に医王寺をざっと見て、次に金勝寺をゆっくり
見させてもらった。
金勝寺の碑文の要点を、妻が次の通り書き写した。
「〈高布山〉と号し、真宗大谷派の寺。文明16年(1484年)慶宗が
本願寺八世 蓮如に帰依して〈高津波道場〉として開いたのが始まり。
本尊は〈方便法身尊像〉。鐘楼は寛延4年(1751年)、本堂は
安永5年(1776年)に建立された。」
山門の柱も扉も大層古く、私が託児所に通っていた65年前そのままの
物だろう。
賽銭箱に500円を入れて手を合わせたが、以前には賽銭箱はなかった
ような気がする。
そして、寺の正面から本堂へ上がる木の階段は作りなおしてあるが、
その古さ加減が、ちょうど私の子供の時と同じ程度になっているのが
嬉しい。というのは、今から25年ほど前にも、兄と二人でこの寺を
見に来たことがあって、そのときは、木の階段がボロボロに朽ちかけて
いたからである。私は靴を脱いで段を上り、廊下に座ってしばし瞑目した。
まさしくこの階段と廊下を、幼児期の私は日に何回も上がったり下りたり
していたのだ。段の数は廊下を含めて7段あり、廊下のすぐ下の段だけが
広くなっているが、もしかすると、昔はもう1段下も広くなっていたような
気がする。
本堂のガラス戸は閉めてあるが、中に入ればきっとそこも同じであろう。
真ん中に太い角柱があり、正面に仏間があって、細かい格子の障子が
立ててある。かつてはオルガンや電蓄(電気蓄音機)や積み木の箱が
置いてあり、本堂いっぱいに幼児達が集まって、歌を歌ったり遊技を
したり、お話(童話)を聞いたり紙芝居や活動(映画)を見たりした
ものだ。
本堂に入らず、廊下を廻って行けば、横手や裏側にも部屋があり、
幼児達が走り回って遊んでいたし、昼の弁当は裏の板の間に座って食べる
ことになっていた。
託児所には「和尚さん」と呼ばれる15歳くらいのお兄さんがいて、
子供達とよく遊んでくれたが、もしその人が金勝寺の住職を継いでいれば、
今80歳になっていて、私のことも薄々は覚えていてくれるかも知れないと
考えたりした。
託児所を開いていた頃は、寺の境内に滑り台やブランコや木の舟などの
遊具があったが、今は無い。
けれども、階段を下りて数メートルの所に大きな灯篭があり、私にとって
忌まわしい記憶がある。
それはある日の午後のこと。本堂の周りのカーテンを全部締め切って
真っ暗にし、みんなで活動写真を見ていたが、私は最前から便意を催し、
いよいよこらえられなくなってきた。当時の私はしばしば腹下りを起こし、
その日もひどい下痢だったのだ。こっそりカーテンをくぐってガラス戸を
開け、階段を庭に下りたが、困ったことにトイレの場所がわからない。
境内をあちらこちらさ迷ってもいっこうに便所にたどり着けず、もはや
一歩も歩けなくなり、灯篭の台座の石に腰掛けたまま体を折り曲げて、
懸命に便意をこらえるしかなくなった。私は全盲児で人見知りが強く、
誰かを呼ぶとか、境内の片隅へ行って排泄するというような勇気も智恵も
無かったらしい。
(中略)