AWC お題>リドルストーリー>届かない言葉   穂波


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#304/566 ●短編
★タイトル (PRN     )  06/12/03  01:16  (109)
お題>リドルストーリー>届かない言葉   穂波
★内容                                         06/12/03 03:56 修正 第3版
 広すぎるベッドでひとつ寝返りを打ち、貴志は重い息を吐き出した。
 眠気は確かに存在し、身体は緩慢にしか動かない。だが、意識のどこか一点が奇妙に
張り詰め、睡魔から独立している。
 こんな夜は、決まって見る夢があった。
 漆黒の中にぽつんと灯る光。
 それは、電柱に接続された蛍光灯だった。
 闇をぼんやりと照らす光の輪の中に、赤い靴がある。華奢なデザインのミュールは、
その踵が折れていた。
 アスファルトに転がるヒールの先には、溶けてカップから溢れたアイスクリーム。広
がる甘ったるいバニラの香。赤にまとわりつくべたつく白に、群がる虫が黒々と蠢き、
その影は明かりのその先にまで伸びている。闇に混じって数すらわからなくなる程の、
黒い虫達。
 闇に浮かび、溶けているその光景を、貴志は手のひらに汗をかいて見ている。
 手のひらがべたつく。それが厭で、蠢く黒が厭で、甘ったるい匂いが厭で、赤いヒー
ルから目を逸らしたいのに逸らせない。
 広がる闇、影、蠢く黒は気づけば足元にも存在する。
 視線は動かせないのに、感覚だけが靴の隙間から、ズボンの間から、かさこそと進入
してくる黒を認める。握り締めたこぶしの上を、むき出しの首を、侵していく影。口を
塞ぎ鼻を塞ぎ視界までもが真っ黒に塗りつぶされ……。
「うぁぁぁぁっ!」
 自身の叫びで、現実に引き戻された。貴志は荒い息をつきながら、半身を起こす。ぞ
っとしながら手を見たが、夢と同じく汗ばんでいるものの、そこには虫など一匹も存在
しなかった。
 詰めていた息を吐き、手のひらをシーツに擦り付け、貴志は不安定な眼差しを周囲に
向ける。
「茜……?」
 答える声は、ない。
 月明かりにシーツの白だけが浮いている。伸ばした指先に伝わる布の感触は、冷たく
乾いていた。息が詰る。どくどくと血管が脈打って、緊張だけがむやみに強くなってい
く。
「茜っ!」
 叫んだ刹那、求めていた声が聞こえた。
「どうしたの、貴志?」
 差し込んだ明かり。半分だけ開かれた扉から、見知ったシルエットが現れた。ゆるく
束ねられた長い髪。整った顔立ちに、怪訝そうな表情を浮かべている。
「あ……かね」
 茫然と呟く貴志に、状況を悟ったのだろう。茜は困ったように笑うと、ベッドに近寄
って彼の頭を抱きしめた。
「また怖い夢を見たの?」
「あ、ああ……」
「いつまでたっても子供みたいね。大丈夫よ。もう少しで仕事一段落するから、そうし
たら、一緒に寝ましょう?」
 やわらかなぬくもり。それに縋りつきながら、貴志は首を横に振る。子供じみた真似
だとわかっていたが、今彼女を手放すことなど出来なかった。
「……しょうがないわね」
 茜はしがみつく貴志の髪にキスを落すと、目を合わせて笑った。
「いいわ、残りは明日やる。だから、ちょっとだけ離して? 片付けてきちゃうから」
 しぶしぶ手を離すと、するりと茜は貴志の腕から抜け出した。
 すぐ隣の部屋に向かう彼女の背中を見送りながら、貴志はぎゅっとこぶしを握って震
えを堪えた。
 何を恐れる?そんな必要は、ない。あんな夢のひとつやふたつ、どうってことはない
のだ。
 自分に言い聞かせながら、貴志は何度もこぶしを握っては開く。
 そこには、何もない。
 虫も、甘い匂いも、赤いヒールも、何一つない。
 何故あんな夢を見るのだろう。そして、何故こんなに心もとない気持ちになるのだろ
う。
 虫に襲われた記憶などない。バニラのアイスクリームも、別に嫌いではない。赤い靴
は昔茜が履いていたが、だからといって、あの夢を見た後不安で仕方なくなる理由には
ならないだろう。
 それとも、無意識に茜がいなくなることを恐れているのだろうか。
 同棲して三年、恋人という曖昧な関係ではなく、結婚という形に収まればこんな不安
は消えるのだろうか。
「貴志」
 穏やかな声に、貴志は顔を上げた。
 茜がひっそりとそこに立っていた。
 何時の間に戻ってきたのだろう、しずかに微笑む彼女の顔は、どこか違和感をもたら
した。月明かりに霞む女の表情は、見知った茜の微笑みではなくて、よく似た別人が泣
くのを堪えているように見えた。
「茜……?」
「なぁに?」
 隣に腰掛けて問い返した彼女は、いつもの茜だった。色素の薄い髪も、黒々と濡れた
ような瞳も、やわらかそうな唇も、全部。
 ほっとしながら貴志は茜を抱きしめる。
「いや……茜だな」
「ふふ、変な貴志」
 やわらかく笑った茜が、ベッドにもぐりこむ。彼女の体温にほっとしながら、貴志は
毛布をかけなおした。
「茜……今度、茜の家に行っていいかな?」
「貴志?」
「ご両親に挨拶したいんだ。ああ、茜の家はお祖母さんとお姉さんもいたっけ? じゃ
あ、四人分か、手土産何がいいかな」
「貴志、どうしたの?」
「……その、茜は、いやかな? 桂の姓になるのは」
 はっと気付いて貴志が恐る恐る問いかけると、目を丸くしていた茜はちいさく唇を尖
らせた。
「そうね、こんな、なし崩しなプロポーズってないって思うわ」
「ご、ごめん!」
 慌てて謝った貴志の唇に、軽い感触。
 悪戯っぽく笑って、茜が貴志の首に抱きつく。
「うそよ、嬉しかった。だけど、両親に会うのはもうちょっと待って」
「え、なんで?」
「うん……説明とか、ほら、苗字が変わると仕事とか、色々あるのよ、女の側には。で
も、プロポーズが嬉しいのは本当だから、もう少しだけ、ね」
「うん……」
「じゃあ、今日はそろそろ寝ましょう。貴志、明日は仕事でしょう? 寝坊したら大
変」
 そう言った茜が小さくあくびして、それにつられるように貴志にも、ようやく正常な
眠気が訪れる。
「ああ……お休み」
 答えて、茜を抱きしめたまま瞼を閉じる。
 腕の中のぬくもりは確かに貴志を安堵させ、穏やかな気持ちにさせる。だから、だろ
う。
「……ねぇ」
 かぼそい、頼りない、声が白いシーツにすべる。
「いつか、もう一度、言ってほしいな。だめ……かな」
 今にも消えそうな、ちいさなちいさな、声。
「私の名前を呼んで……もう、いちど」
 ゆるゆると蕩ける意識の狭間囁かれた茜一枝の声は、桂貴志には届かなかった。





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