#296/566 ●短編
★タイトル (PRN ) 06/09/02 21:07 (281)
三杯目のラーメン 穂波
★内容 06/09/07 00:52 修正 第3版
ありえません。
心のうちで数知れず。実際に口に出したことも二桁以上の台詞を、野々村菜月は口に
していた。
「え、なにが?」
きょとん、といっそ無邪気と形容したくなる表情で、フレームの奥の瞳が瞬きする。
男の人にしては優しげな顔立ち。
割りと整っている方だ、とは思う。多分、その自覚もあるのだろう。
白地にダークグレーとスモークピンクの細かな模様が入ったシャツや、長い足を包む
適度に色落ちしたジーンズ。それが似合わないとは言わない。幸いにして、プログラ
マーというお仕事は比較的服装にルーズだ。それも認める。
だがしかし。
「物事には限度ってモノがあるでしょう! なんですかっその頭は!」
菜月がびしっと指差した先の髪は、茶髪なんて可愛いものではない。限りなく金に近
い、栗色。
朝一番に職場で見たい頭ではない。それはもう、確実に。
モノトーンの仕事場で、一人浮きまくっている姿をものともしない先輩社員を睨みつ
けるが、いかんせんふっくらしたほっぺに大きな瞳がミルク飲み人形を連想させる菜月
では、迫力は無きに等しい。
「ああこれ、昨日染めたんだよ。似合う?」
目の前にいる先輩社員坂田一哉は、気の抜けるようなやわらかい笑顔で前髪を摘
む。
菜月は、額に指を押し当てた。こちらは生まれてから一度も染めたことのない、墨汁
みたいに黒い髪が視界に落ちかかる。
腹の底からふかぁぁいため息を一つついて、菜月は両の拳で一哉のこめかみをぐりぐ
りと押してやった。
三杯目のラーメン
黙々と、仕様書を脇にキーボードを叩く。
ディスプレイに表示される数式は、何度も目にしている。既に組み立てられている式
を加えて、形にするだけ。どうやって、の部分が解消されているから、打ち込みの作業
はどちらかといえば単純。
カタカタという音だけが、細かに響く。
電話の類も滅多になく、打ち合わせなんかは扉一枚隔てた向こうなので、殆ど声も聞
こえない。
白い壁と、白い天井。床は濃いグレーと淡いグレーのツートンカラー。
肩書き付の人だけが座る、窓際の広い机にはサッシ越しにオレンジの光が線を描いて
いる。
前にも横にも、延々と続くPCと、その前に座る人々。
菜月はふと周囲に目をやった。
やくざなカタカナ仕事だけあって、きっと普通よりも若い人が多い職場。三十までが
メインで、四十代の人は余りいない。大抵はシャツにスラックスとか、ポロシャツに適
当なパンツ。ネクタイまでキッチリ締めるのは少数派だった。
菜月も白いシャツに紺色のパンツ。
他に数名いる女性はもう少し華やかな色や模様を身につけていたけれど、菜月は大抵
無地で紺や黒がメインの服装だった。
地味だ、という自覚はある。だが、二十二になるというのに未だに高校生と間違われ
る童顔の菜月としては、色だけでも大人っぽくしておきたいのだ。大人っぽく、きちん
と仕事の出来る女性みたいに。
華やかなのに大人びて綺麗なあの人みたいには、とてもなれないってわかってるか
ら、せめて。
「野々村、終わった?」
ひょい、と手元に影が落ちる。
一瞬だけ、ドキッとした。
無造作に覗き込んできたのは、パーティションで仕切られた向いの席の一哉だった。
坂田一哉。四つ年上で、同じ課の先輩。仕事は確かに出来るし、菜月の進捗も気にかけ
てくれる。そういった面では、菜月も尊敬していた。しかしそれを表面に出すには、菜
月の観点からすればあまりに個性的な格好が大きな壁だった。
……金髪にピアスって、どこぞのサーファーかヤンキーだよね。
一哉の左耳を眺めて、ぼんやりとそう思う。
当たり前の格好をしていてくれれば、どれだけ素直に尊敬できるか知れないのに。尊
敬して、礼儀正しく接して、ただそれだけの。
……そうなら、よかったのに。
「野々村?」
「あと少し。今日中には、終わります」
量からすれば、あと二時間ちょっと。八時を過ぎることはないと思う。
「そっか。無理っぽかったら早めに言えよ?」
「はい」
頷いて、再びディスプレイに向き直る。
「終わったら、晩飯食べて帰ろう」
目を上げると、子供みたいな笑顔があった。
誘い、というよりは確認みたいな口調。
「ラーメン、ですか?」
「そう。駅裏の。おごるからさ」
一哉の笑顔を眺めて、菜月は何となく納得する。
そういうことか、と。
美しい人の影が、残り香みたいに一哉の後ろに透けて見えた。
「……おごりですね? いいですよ。お付き合いします」
「おう」
一哉が頷いて、仕切りの向こう、ディスプレイの影に顔が隠れる。金に近い色の髪だ
けが、視界に残った。
ラーメン屋に着いたのは、八時を十分ほど過ぎた時間だった。
小奇麗、とは言いがたい。女の子同士で入るのは躊躇われるような、店構え。
一哉とここに来るのは、初めてではない。
最初は会社の飲み会の後で三人、次は残業帰りに二人で、今日は三回目。そしておご
ってもらうのも、三回目だ。
扉の向こうには、カウンターと数えるほどのテーブルが並んでいる。半分くらい埋ま
っているのが、多いか少ないかはよくわからない。もっともこの店の本領は飲み会の後
に寄る人々だろうから、この時間にはこんなものなのかもしれない。
湯気の向こうから「いらっしゃい」の声。
どんぶりを手にしたおじさんの顔が見える。
一哉は気さくに「ビール一本とラーメン二つね」と勝手に注文を済ませて、奥のテー
ブルの椅子を引いた。
向いに座った菜月に、一哉がプラスチックのコップに注いだ氷水を差し出す。
「ありがとうございます」
受け取って、一口飲んだ。外が暑かったから、冷たさが心地よかった。
ラーメンが来るのを待ちながら、菜月は目の前の人を眺める。
金色の髪。洒落ているけれどお世辞にも社会人らしいとは言えない服装。誰とでも簡
単に話が出来て、こんな格好をしてるのに相手を信頼させてしまえる人。地味で堅苦し
い性格の自分とは対極にいるような男の人。
先に運ばれてきたビールを手酌でついでいる。指が、長い。
「野々村、飲む?」
「私はいいです。明日も、仕事ですから」
「ちぇ、ちょっとは先輩に付き合えよ」
軽口を叩きながら、一人コップを空にする。
元々菜月がアルコールに弱いことは知っているから、本気で誘ったわけでもないのだ
ろう。
「そんな頭の人を先輩とは思えません」
「ひどっ。それが三年も面倒見た先輩に言う言葉なの? お母さん悲しいわっ」
「坂田さんを母親に持った覚えは、ありませんっ!」
「あはは、そりゃそうだな」
笑いながら、一哉は菜月を見る。
その視線があまり優しくて、菜月は目を逸らしたくなった。
一哉は優しい。ただの後輩相手でも。そんなこと、とっくの昔に知っている。
「……ずるい」
小さく小さく、口の中だけで呟いた。
俯いて深呼吸して、意を決して顔を上げる。
出来るだけなんでもない風に、仕事の質問をするみたいな顔をして。
「それで、何があったんです、祥子さんと?」
一哉の動きが、一時停止ボタンでも押されたみたいにストップした。
それから、ゆっくりと苦笑する。
「いきなり、核心つくねぇ」
「……言いたくないなら、いい、ですけど」
そんな筈はないと、知っていた。
彼が祥子の話でもないのに、菜月と二人でこんな店に来る理由がない。
一度目、三年近く前にこの店に来た時は三人だった。
一次会でケンカを始めた二人に挟まれる形で、やってきたラーメン屋。正確には、酔
っ払っていた祥子が菜月の腕を放さなかったため、ついて来ざるを得なかったのだが。
『一哉のバカ、鈍感!』
珍しく目元を赤くして、言い放った祥子。
『鈍感は祥子の方だろ! 俺はちゃんと』
菜月には滅多に聞かせない激しい声で、一哉が祥子を睨むみたいに見つめる。
二人の世界で、二人しか見えてなくて、仕方なくすすったラーメンはやけにしょっぱ
かったのをまだ覚えている。
ここで一哉と祥子は仲直りをして、それをきっかけに恋人同士になった。
明石祥子。
菜月の二つ上の先輩で、新人の頃に御世話になった女性だ。面倒見がよくて、少し気
の強い美人だった。華やかなのに凛としていて、仕事もそつなくこなす菜月の憧れでも
あった人。
転職してしまったその後も、時々連絡をくれた。一哉を交えて三人で会ったこともあ
る。
「ん、祥子からなんか聞いている?」
「いいえ」
ぎゅっと手を握る。
わかっている。わかっているから、大丈夫だ。
二度目、この店に来た時は二人だった。
一哉は照れ半分自慢半分の顔で、同棲をはじめたと教えてくれた。
祥子も喜ぶから、遊びに来いと。
あの時、自分がどんな受け答えをしたのか菜月は正直覚えていない。
ただあの日食べたラーメンに、味がなかったことだけは奇妙に記憶していた。
お付き合い、同棲と来れば、あとはひとつだろう。
律儀に報告してくれるのは、一哉の性格か祥子の後押しか。そんなもの、してくれな
くていいのに。思う一方で、まったくの第三者からいきなり知らされるのも辛いか、と
も考える。
何か言おうとした一哉の前、「お待たせ」とラーメンが運ばれてきた。
チャーシューが二枚に、ゆで卵にもやしとメンマ。
間の悪さに少し困って見上げると、一哉が割り箸を差し出さしてくれた。
「はい」
「……ありがとう、ございます」
心を決めて、割り箸を割る。
まずは、笑顔で。そして必ず「おめでとうございます」と言うのだ。
万が一涙が出そうになったら、スープでもすすって鼻をかめばいい。ここがラーメン
屋であったことに、ちょっとだけ感謝した。
「俺さ、祥子と……」
ラーメンに息を吹きかけるのを止めて、菜月は顔を上げた。
にっこり笑って、不自然にならないタイミングで!
「別れたんだ」
「ご結婚、おめでとうございます」
言葉が、奇妙な具合に重なった。
一哉がまばたきし、菜月の手から箸が落ちる。
「……は?」
「……え?」
二度目のシンクロ。
一哉は眼鏡の位置を直すように俯いた。菜月は、動けない。一哉の台詞の意味が、自
分の言葉が、頭に浸透しない。
一哉が小さく息を吐く。溜息、というほど大きくはなかったけれど、張り詰めた重さ
があった。
そうして、顔を上げた彼は、何かを堪えているような歪んだ顔をしていた。
「えーと……ご期待に沿えず申し訳ない、ってのもヘンだしなぁ。野々村、祥子のファ
ンだから、俺なんて役不足だって言ってたっけ、そういえば。あはは、そういう意味で
言えば、めでたいか」
ひどく、ぎこちない、笑顔。
いっそ怒ってくれた方がよほどマシな、らしくない笑顔。
その表情が、菜月の胸をざっくり刺した。
両手をテーブルについて、勢いよく立ち上がった。何人かの客がこちらを向いたのが
わかったけれど、気にならなかった。そんなものより、今の一哉の方がずっと痛い。
身を乗り出して頭を下げると同時にラーメンが揺れて、汁がテーブルに零れる。
「すいません、違います間違いですっ! あの、そのごめんなさいっ!」
「野々村?」
「嘘です、あんなの。ただのヤキモチです、ちゃんと坂田さんと祥子さんはお似合い
で、羨ましいみたいな二人でっ」
ずっとずっと、憧れてみているだけで、それしか出来なくて。
勇気がなくて、自信がなくて、今の状況に甘えて何も行動しなくて。
「おい、野々村?」
嘘にまみれた祝いの言葉なんて口にするから、そのばちが当たる。
あんな表情、するなんて、知らなかった。
「ごめんなさい、だから、そのっ……皮肉るつもりなんて、なくて、振られたなんて思
わなくてっ……」
チャーシューやゆで卵の黄色が、ぼやける。
膝の力が抜けて、椅子に倒れこんだ。
頭がぐしゃぐしゃで、恥ずかしくて、情けなくて、顔も上げられない。
傷つけた。
自分の言葉は一哉を傷つけてしまった。
ゆらゆら揺れる雫が、ラーメンに落ちて沈む。
こんなのはずるい。
傷ついたのは彼の方で、自分に泣く権利なんてないのに。
思うから必死に涙を止めようとして、すればする程止まらなくなった。
「野々村、聞いて」
声も出せなくてただ首を振るだけの菜月に、一哉の落ち着いた声が語りかける。
「俺、祥子に振られたわけじゃないよ。祥子に別れ話を切り出されたのは確かだけど、
原因は俺だから」
びっくりして、菜月は顔を上げてしまった。
だって、菜月の知る限り一哉はとても祥子を大事にしていて、彼女にベタ惚れだった
のに。どうして?
涙を溜めたままぽかんとしている菜月に、一哉は微笑む。長い指が、菜月の目元を拭
った。
「好きな子が、出来たんだ。すごく頑張り屋で、素直で不器用な子。正直祥子ほど美人
じゃないし、いつも怒られてばっかりだし、何時好きになったのかはわからないんだけ
ど、気がついたら祥子よりもその子のこと考える方が多くなってた」
誰、なんて言ってないのに。
勝手に体温が上がった。
バカみたいな反応。
わかってるのに止められなくて、真っ赤になって硬直した菜月の前、一哉はいつもの
やわらかい表情で言葉を継いだ。
「祥子がね、言ってた。俺はバカだから、ちゃんと叱ってくれる人がいいって。でも自
分はもう疲れたから、今俺が好きな子に叱ってもらえって。嫌いじゃなければ、叱って
くれるからって」
照明できらきら輝く髪を引っ張って、一哉は笑う。
「だからね、叱ってもらえてよかった。野々村に」
まっすぐに見つめられて。
呼吸すらままならなくて。
「野々村はさ、俺のこと、好き?」
祥子さんに申し訳ない、とかそんな考えがちらりと掠めたけれど、まっすぐな瞳を見
たらもう嘘なんてつけそうにもない。
ずっとずっと言えなくてもどかしくて、無理に沈めていた言葉が喉を割った。
「すき……です」
ずっと前から。
一哉が祥子のことしか見えていなかった頃からずっと。
困らされたり、怒らされたりもしたけれど、お日様みたいに明るくて眩しくて。
手が届かないってわかって、何度も何度も諦めようとしたけれど諦め切れなくて。
あなたのことが、好きでした。
告白の言葉を口にした菜月を、一哉は苦しいくらいに見つめて
「よかった。俺も、野々村が大好きだよ」
幸福すぎて胸が痛くなることを、言った。
三度目に食べたラーメンは伸びきっていて、少ししょっぱかったけれど凄く美味しか
った。
店を出て空を見上げると、ぽっかり月が浮かんでいる。
「それにしても、わざわざ叱られるために髪の毛染めたんですか?」
隣を歩く自分より高い横顔に問いかける。
「いや似合うかなーと思ったらちょっとやりすぎちゃったのも本当」
「……自覚があるなら、染め直した方がいいと思いますけど」
「えー、そんなにダメこれ? 似合わない?」
「似合う似合わないの問題じゃなくて、社会人としての常識を!」
言い募る菜月を面白そうに見下ろして、一哉が笑う。
「それじゃ、染め直したら何かご褒美くれる?」
「ご、ごほうびって……」
何で私が、と思ったが、尻尾があったら千切れるばかりに振っているだろう一哉の表
情に菜月は言葉を失う。
「……そんなに高価なものでなければ」
「あはは、お金は別にいいよ。じゃあ、前払いで一つ」
「は!?」
前払いって、ごほうびの?
驚いて見上げた先で、一哉がひどく優しい顔をした。
するりと伸びた手が、頬に添えられる。
長い指が、菜月の顎を上向かせた。
月が、金色に隠れる。
びっくりして硬直して、バカみたいに真っ赤になって、近づく大好きな人の顔に見惚
れた。
「……菜月」
囁かれる。
初めて、名前を。
耳元で聞こえたその甘さに、眩暈がして瞼を閉じる。
少し乾いた一哉の唇は、さっき食べたラーメンの味がした。