#295/567 ●短編
★タイトル (PRN ) 06/08/27 21:59 (105)
壊れた世界 穂波
★内容 06/08/28 00:00 修正 第2版
淡い色のドレスに、漆黒の絹糸のような髪がこぼれていた。
見上げてくる顔は、昔の面影を残していながら、淑女の美しさを湛えている。アー
サーが世界で一番、美しいと思う顔。この小さな王国で、閉ざされた世界で、彼にとっ
ての輝ける星。
掴んだ手首は細くて頼りない。振りほどく様子もなく、リディアはただ、茫然として
いた。
見開かれた自分と同じ色の瞳に、顔を近づける。
「アーサー兄さま?」
戸惑いを含んだ声は、それでも拒絶の色を帯びてはいない。
夜半に突然押し入ったアーサーを、何の懸念もなく受け入れたリディア。壁際に押し
付けて、逃げ場をなくして、それでもなお彼女はまっすぐにアーサーを見上げる。
幼い頃と同じ、ただの兄と妹だった頃の信頼に満ちた眼差しで。
欠けることのない幸福だった時代を、留めた瞳で。
「黙って」
微かにふるえる睫毛の先。
息のかかる距離まで近づいて、初めてリディアの表情に変化が現れる。怯えか不安
か、はたまた哀しみか。
俯いてこぼされた声もまた、ふるえていた。
「だ、だめ」
怖いのは、自分も同じだった。
禁じられた想いだと、そんなこと自覚した瞬間からわかっていた。
二人目の母が連れてきた、半分だけ血の繋がった少女。
彼女はあくまで妹であり、それ相応の年齢に達すれば王族に輿入れする約束だった。
兄である自分が娶ることなどありえない、それはリディアがこの家に来た瞬間から決
まっていた。
それでも、止められなかった。どうしても。
安定が続けば或いは、鍵をかけてしまうことが出来たかもしれない。
このまま世界が続くのなら、兄の顔で妹を嫁がせることすらもやれたかもしれない。
だが、状況は変化してしまった。
他国とのすれ違いと、プライドばかり肥大した王、それが最悪の結果を招いた。
勝ち目のない戦だと知っていた。この国は、もう持たない。出陣はただの時間稼ぎだ
とわかっている。それでも逃げないのはどうしてか考えて、考え抜いて、わかった。
プライドや貴族の責務、そんなものより重いものが一つだけあった。
守りたいもの。
ずっと見守ってきた、この先も手放すことなんて考えられなかった、ただ一人の笑
顔。
「……好きだ」
昔は何の衒いもなく口にすることが出来た言葉を、掠れた声で囁く。
昔とは違う意味を込めたそれに、彼女が気付かないはずがない。
「……兄さ、ま」
わかっていた。
互いにもう、何処にも行けないこの世界で、完成された幸せの中で、いつしか異端に
なっていた。
尊敬に値する父と、生母でこそないものの、リディアと自分を区別することなく愛情
を注いでくれた母。彼等の自慢の息子であろうと努力してきた自分と、いつも笑顔の中
心にいたリディア。
狂ったきっかけはなんだったのか。
病に倒れた父の代わりにウィルソン家を背負ったアーサーを、支えてくれたのはリデ
ィアだった。わがままで子供っぽかった妹は、そこにはいなかった。まるで、母が父に
するように、彼女はアーサーに尽くしてくれた。
それは、錯覚だと何度も自分を戒めた。
大事な家族で、兄と妹で、だからリディアは自分を支えてくれる。自分もまた、妹を
頼りにしている。
ただそれだけだと、数え切れないほど言い聞かせたのに。
たった一人の特別。いつしかリディアの笑顔が眩しくて、目を伏せたくなった。揺れ
る瞳で見つめられると、どうしていいかわからなくなった。
それでも、幸福だった。兄妹という形でも、支えあって生きていける世界はあまりに
綺麗で、完璧過ぎた。
気付かない振りをして、生きてきた。自分の想いも、リディアの瞳に宿るものも。も
うずっとずっと、長い間。
蓋をして鍵をかけて、このまま一生終えるのだと思っていたけれど。
「リディア、返事をくれないか?」
いずれ終わりを迎えるのなら、答えが欲しかった。
もし拒絶されたらという恐怖はあるけれど、兄妹の絆を断ち切っても欲しいものがあ
るから。
「わた……し、は」
見上げた瞳は濡れていたけれど、アーサーから逸らされることはなかった。
こぼれた涙。
紅を差したような唇が、ふるえる言葉を紡いだ。
「私も……す、き。ずっと……ずっと」
言いかけた台詞を、唇で塞いだ。
噛むようなキス。
「好きだ」
息継ぎの合間に囁く、リディアの涙が互いの頬を濡らす。
「うん、好き、だから……」
伸ばされる腕。しがみついてくるぬくもりに、溺れる。
細い指先が痛いくらい食い込んで、甘く掠れる声が何度も何度もアーサーの名前を呼
んだ。
禁断の果実を貪ることに、最早躊躇はなかった。
楔を打ち込んで、抱きしめる。
リディアの爪が与えた痛みは、むしろ勲章だった。
子供の頃から変わらない色の瞳が、美しい空の色が、アーサーを映して揺れている。
出会った頃の泣き虫な女の子。
おねえさんぶって、澄ました顔をしていた少女の頃。
蕾が開くように、綺麗になっていった娘時代。
そして、今腕の中にいる、誰より美しいただひとりの女性。
「ねぇ……戦争なんて、行かないで」
涙混じりの懇願に、アーサーは微笑む。
「逃げればいいわ。私、アーサー兄さまとだったら、何処だって平気よ」
やさしい訴えは、最上級の睦言だった。
「……ありがとう、リディア」
その言葉が欲しかった。
ありえない未来だと知っていても、同じ夢が欲しかった。
逃亡先など何処にもなく、全てを捨てて逃げるには自分もリディアも背負ったものが
重過ぎる。
「大丈夫、僕は帰ってくるよ」
笑って、嘘をつく。
守りたいたった一人のために。
彼女がいつか、笑って暮らせる場所を守るために。
生きて戻れたところで、リディアと一緒になることは出来ない。彼女は王族に嫁ぐこ
とが約束されている。
時間稼ぎで構わない。出来ること全てをやってから、地獄に落ちる。
そっと口付けながら、アーサーは願う。その対象は、わからなかったけれど。
禁忌を破った罪も咎も自分ひとりで引き受ける。
だから、どうか、リディアには沢山の幸せを。