AWC 死の恐怖  談知


        
#253/566 ●短編
★タイトル (dan     )  04/12/21  06:59  ( 45)
死の恐怖  談知
★内容
 ワタシが死というものを意識したのは小学4年生のときだった。
何がきっかけだったのか今となってはわからないが、きっと何か死
を思うきっかけがあったのだろう、突然、自分が死ぬということが
とても怖くなった。自分が死ぬ。死んでこの世からいなくなってし
まう。自分がいない世界がそれからも続いていく。そういうことを
考えて、怖くて怖くてたまらなくなった。
 毎日毎日そのことを考えていた。夜布団にはいり寝るまでの間、
眠ったまま死んでしまったらどうなるのだろうとか考えた。明日目
がさめない。そのまま死んでしまう。震えるほどの恐怖だった。
 子供というものはいつか自分の死というものを考えるときがくる
ものらしいが、ワタシの場合それは小学4年生のときに来たわけで
ある。
 自分が死ぬことを思うと、毎日の生活もすべてむなしくなった。
学校も遊びもまったく楽しくなくなった。死んでしまったらすべて
お終いだ。そう思って暮らしていた。
 そんな恐怖で暮らしていた毎日。そんな恐怖がいつ少なくなって
次第に忘れていったのかよくわからない。その年私たち一家は福岡
から大阪に出てきたから、その忙しさのなかにまぎれて忘れていっ
たのかもしれない。ああいう恐怖の体験をいつまでも続けることは
できないことだろう。
 ひとは死のことなど考えたくないのだ。忘れていたいのだ。死の
恐怖に耐えられないものなのだ。第一死ぬことを考えたら死なない
わけではないし、どうしようもないことだろう。死のことなど考え
ず何食わぬ顔で毎日を送る。それが生活の知恵というものなのだろ
う。
 ワタシはそれからほとんど死ぬことなど考えずその後の人生を送
っていったようである。若いころ外国を旅行して回ったが、そのと
きも飛行機に乗ったり、かなり危ないところへいったりしたが、自
分が死ぬなんてことは考えもしなかった。死は自分からずいぶん遠
いところにあるもののように思っていた。
 3年前弟が肺ガンで死んだ。その前の1年間闘病生活を送ったあ
げくの死であった。この1年間、ワタシは否応なしに死と向かい合
うこととなった。自分の死ではないが、自分に極めて近い肉親の死
は、まるで自分の死のような臨場感があった。
 死んだらお終いだ。当たり前のようだが、この一言こそ死の意味
であるように思う。どんなに苦しい生活でも生きてさえいればまだ
希望はある。死んだらすべてはその瞬間に無になるのだ。取り返し
がつかないものとなるのだ。自分のなかでどんなに大事なものでも、
死とくらべたら何ということもない。自分の死と引き替えにできる
ものなどないのである。そういうことをしみじみ感じた。
 ワタシももうじき50歳である。よく生きてきたなと思うし、死
なないでよかったとも思う。そして、そろそろ死を意識した毎日を
送るべきかなと思う。終わりを意識するからこそ、毎日の生活が充
実したものになる。というより充実したものにしようとする。そう
いう年代にワタシもなっているようである。





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