#75/569 ●短編
★タイトル (kyy ) 03/03/02 20:32 (490)
アニソラ投稿用>漆黒のリング 舞火
★内容 03/03/03 08:57 修正 第4版
『黒曜石のエンゲージリングを指にはめた者がその所有権を有する』
「結婚して欲しいんだ」
窺うようにケインがそう言った途端、ミレイが両手で顔を覆った。僅かに覗いてる目
がこれでもかと、大きく見開かれている。
その表情に嫌悪はないと踏んだケインは高鳴る心臓に息苦しさすら覚えながら、持っ
ているエンゲージリングを差し出した。
それは、シンプルなリングに彼女の好きなブラックダイヤを小さくあしらったもの
で、大学の教授という地位についたばかりのケインにはかなり奮発したものだった。
それにミレイの手がおずおずと伸びる。
紅いルージュの口元は、興奮のあまりか僅かに震えていた。
「……私で……いいの?」
ゴールドのリングに触れた途端、ミレイがちらりとケインを窺った。
「もちろん」
それだけははっきりと答える。
ケインが頷く様を見たミレイは、取り上げたリングを今にも泣きそうな笑みと共に差
し出した。
「はめてくれる?」
頷きながら受け取ったリングを彼女の左の薬指にはめる。その間の僅かな引っかかり
すらもどかしいと思う。
心臓はドキドキと高鳴り、頬が熱い。
「ありがとう……」
震えてはいたけれど彼女の悦びの言葉を呟く唇に、ケインはそっと口付けた。
ケインは大学で星の軌道計算とその人為的な移動方法について研究していた。その中
でも目下最大級の関心事は、『黒曜石のエンゲージリング』についてだ。
過去、幾度ものシミュレートの対象となったそれは、直径が約50km、中心の穴は約3
0kmという表面が艶やかな黒色をしているリング状の天体だった。その外観から発見者
が黒曜石の指輪のようだと言ったことから、その名がつけられた。
だが、最初の頃には珍しい形というだけの天体でしかなかったリングが、研究対象に
までなったのには訳がある。
『黒曜石のエンゲージリングを指にはめた者がその所有権を有する』
連邦が各国の賛同を得て正式に発行したそれは、100年前に制定されたものだ。
探査船の調査報告により、リングの地下に多量のブラックダイヤが含有されているこ
とが判ったからだ。
宝石としても工業材料としても高付加価値を持つブラックダイヤ。
だが当時、リングはどこの星系にも属していなかった。このままでは採掘権を求め
て、争奪戦という混乱が起きる恐れがあると危惧した連邦政府は、各国の了承を半ば強
引に取り付けてその規約を制定したのだった。
もちろん、指と言っても個人の指ではない。今現在『指』として指定されているのは
近くにある筒型人工衛星の胴体部のことだ。研究用として建造され、その役目を終えた
今、廃棄寸前だったそれは、この規約のお陰で一躍有名になったと言えよう。
今では、知らぬ人などいないであろう程の人気観光スポットなのだ。
もちろん、観光客はその規約を知ってこそ来る。
一見簡単そうなその規約。
連邦でもしかるべき金を持った国家か企業体がそれを成功させ、所有権を有すること
を期待して作ったものだというのに未だにその所有者は現れなかった。
一体過去幾多の人間や組織がそれを行おうとしただろう。
連邦の公式発表では、100年の間に58件とされ、その作業に関連する死者は1000人を下
らないとさえ言われる。
実はリングはその特異な形状と異常に早い自転速度のせいで、中の空洞は強い反発力
を持っている。故に近づいた『指』を容易に跳ね飛ばしてしまうのだ。
最初の計画から100年。
昨今ではブラックダイヤを手に入れるのだけが目的ではなくなってきていた。
計画の中心にいる学者や冒険者にとって、難攻不落のリングを手に入れたという名誉
こそが欲してやまないものなのだ。
それは、ケインにとっても然り。
いつか自分の理論を試してみたいという欲求に身を焦がしながらも、金銭の問題で諦
めて、普通の幸せのためにミレイにプロポーズしたのだった。
プロポーズが成功して、人生最大の悦びはこういうことを言うのだと浮かれ気分で過
ごしてきた1週間。
だが、今ケインは大学の自分の研究室に招き入れた客の言葉に、それすらも上回る喜
びに身を震わしていた。
「本当に、私の?」
声までもが震え、手に握った契約書が微かな音を立てた。
「はい。当方は今回の作戦に博士の計画を実行する予定でございます」
柔らかな物腰なのにどこか鋭い雰囲気を持つこの男達は、連邦でも一二を争うほどの
財力を持つグレゴリア財閥の現当主の代理だった。差し出された身分証明書は本物で、
別に政府発行の証明書すら添付されている。
その彼らが、ケインの計画を実行して欲しいという。
しかもそのための費用は全て彼らが持ってくれるのだ。
その対価は、成功した後に発生する利益を相手に譲るというもの。つまり、リングの
譲渡だ。だがそれに対する礼金は一生かかっても使い切れないほどの金額が提示されて
いた。
少なくとも、コンピューターにスキャニングさせて確認した結果は、異議の申し立て
ようもないほどで、検討項目として挙げられたのはその「礼金の額」だけであった。
「いかがでしょうか?作戦が失敗であってもその賠償は不要です。もっとも博士の案で
ございましたら、失敗することなどないと確信しております」
プライドを心地よくくすぐる言葉に背中がむず痒くなりながらも、ケインは反射的に
こくりと頷いていた。
自信はあった。ただ、金が無くて実行に移せなかっただけ。
だが、グレゴリア財閥がスポンサーとして名乗り出たのだ。
契約書にグレゴリア財閥の現当主のサインはすでに入っている。後はその下に自分の
名でサインをすれば契約は完了する。
ケインは、今すぐにでもサインしたい欲求にかられていた。
ただ、契約事項に拘束期間が表記されていた。このままサインをすれば、この後2年
間程度──つまり作戦が終了するその日まで、ケインは彼らの研究施設に拘束されてし
まう。その間、誰にも会うことができず、極秘に行動するために別れの理由すら伝える
ことはできないという。
グレゴリア財閥の計画をライバル他社に真似されては困るという、至極まっとうな理
由がそこに存在した。
ためらうケインに男が誘うように言う。
「申し訳ないのですが、博士に考えて頂く時間をとることができない、というのが現状
でございます。実は連邦の方から極秘に入手した情報でございますが、リーディス財閥
もリングを手に入れようと申請がなされつつあるということでして、どうやらそちらは
フェイジュン博士を招聘したようです」
「フェイジュン……」
その名にケインの焦燥感は一気に増した。
ケインのライバルともいうべき彼は、何かにつけケインを敵視し邪魔をしてきた。
その相手に先を越されるという激しい焦りが、ケインの手を動かす。
黒いインクがケインの名を綴る。
フェイジュンの理論で成功するとは思えなかったが、それでもその直後にすぐにでも
自分の理論を試したかった。
彼には負けたくなかった。
ケインがここに来てから、3年が経っていた。
当初の予定では2年だった期間はフェイジュンに先を越されたことにより、作業時期
が1年伸びてしまったせいで3年を過ぎるほどになってしまった。
ケインは司令船の窓から『指』をぼんやりと見るのが日課のようになっていた。
「……後少しだ」
『指』にリングをはめればいい。
昔同じ行為をした女性をふと思い出し、ケインはふっと左手を持ち上げた。その小指
には、ミレイから奪うように返して貰ったリングがあった。あの時の痛みは忘れようと
しても忘れられない。理由を言えないケインに向ける、ミレイの憎しみに満ちた瞳。だ
が、それでもケインはミレイよりリングを取った。
それが夢だったからだ。
せめて契約の話がミレイにプロポーズする前だったら……と何度も思ったが、結局そ
れは何の言い訳にもならないことだ。
それでも今ある計画実行前の昂揚感は、あの時のもの似ていた。
1年前に行われたフェイジュンの作戦は、『指』がリングに入る直線に弾かれしまう
という失敗で終わった。それを教訓にケインは計画に修正を加え、その理論を確固たる
現実の物へと変えていった。
何度も何度もシミュレートして、少しでも成功率を高める。コンマ1秒でも上がれ
ば、ほっとし、下がれば必要以上に狼狽えた。
自信はあったのに、それが気がついたら無くなっている。
それでも落ち込んで自分を見失いそうになった時、自らの指にはめたリングを見た。
夢を実現するために無くした過去を見て、自分を奮い立たせる。ミレイの時は成功し
たのだからと、そんな関係のないことをこじつけのように考える。
どちらにせよ、何もかも捨ててきたケインにとって、成功以外には未来はなかった。
ゆっくりと『指』が動き始めた途端、司令船の司令室内にどよめきが響いた。ケイン
を含め、今回の作戦の主要メンバーがそこで作戦の動向を見守っている。
補強した骨組みは、どんな衝撃にも堪えられるだろうし、姿勢制御のバーナーは寸分
のズレもなく設置されていて、『指』を指定の場所へと移動してくれるだろう。
それでも、その巨体が動き始めるまでは不安で一杯だったのだ。
「『指』の回転制御、カウント開始、10,9,8……」
オペレーターの規則正しい声を、ケインは声もなく静かに聞いていた。
司令船の背後を映すスクリーンには、報道関係も含めた多数の宇宙船が表示されてい
る。
作戦行動があるたびに全宇宙にこうして報道されるのは通例だ。人々は成功を祈りつ
つも、失敗する瞬間を今は今かと見入っているというわけだ。それは高視聴率をいつも
確保するほどの人気ぶりだった。
だが、今のケインにはそういう目は全く気にならなかった。目の前のリングと『指』
を凝視し、きつく握りしめた手の平にはじっとりと汗が滲んでいる。
「回転開始」
『指』の各所に取り付けられたバーナーが明るく輝いた。
その力を利用してゆっくりと『指』が回転を始める。それは、バーナーの輝きが増す
ごとにその速度を上げていった。
ケインの計画は、ある意味単純明快なものだった。
『指』をリングと同じ方向に回転さて、速度を同期させた後、リングに『指』の方を
差し込んでいく。そしてあらかじめもっとも安定すると算出したポイントで、数千点以
上設置したアンカーを突き出しリングを固定する。後は『指』の回転をゆっくりと停止
させ、リングの回転をも止めればいい。
単純だが、一般的にはこの方法では『指』がもたないと言われていた。
ケインはそれをクリアするために、ひたすら1年間『指』の補強に明け暮れた。
所詮人工衛星である『指』を、最高硬度を持つブラックダイヤを含有するリングに差
し込むのだから、多少の補強ではもたないことは判っている。しかも、過去幾多も繰り
返された作戦でかなりのダメージを負っている『指』。
ケインの計画は、その費用だけでも新しい人工衛星を複数設立することができるほど
の天文学的な数値であった。それがクリアされた今となっては、足りないのは時間だけ
だったといえよう。
しかも、同時進行で行われたリングの重力を制御する重力制御装置の数も半端なもの
ではなかった。
その特異な重力体系によりリング上での作業は難航を極め、幾度も作業は中断し、計
画の実行すら危ぶまれたこともある。
だが、それももう過去のことだ。
「回転速度、リングと同期しました」
「センサー確認。『指』異常なし」
どうやらもちそうだと、司令室内にほっと安堵した空気が流れる。
「第一段階はクリアした。次は、リングの中に『指』を進める」
ケインの指示に、担当者が答える。
「推進装置オールグリーン」
「リング、『指』ともに座標軸固定されています」
コンマ数度の僅かな角度異常があれば、リングの内壁に接触し、『指』はバラバラに
分解してしまうだろう。
和んだ雰囲気は一瞬のうちに、息をするのも苦しいほどの緊張に変わる。オペレー
ターの一人が、無意識のうちに額の汗を拭っていた。
「進入角度、固定。外界要因は全てクリアされています」
「『指』の先端がリング内壁内に入ります」
ケインの目がスクリーンに釘付けになる。誰かがごくりと息を飲む音がやけに大きく
響いた。
最後尾に増強された姿勢制御バーナーと推進エンジンが、いくつもの噴射炎を煌めか
す。その推進力によって、『指』はゆっくりとリングに入っていった。
それを肉眼的に映すスクリーンの隣では、別のスクリーンが磁場や引力の見えない要
因を線として認識できるよう表示している。
「きついか……」
『指』の周りの線のどれもが激しい渦を描いていた。それがリングと『指』両方にひ
どく干渉しているのが判る。それは、最初の計算値以上だった。
その模様を見ていると、双方が纏っている僅かな大気が嵐を起こしてその音が無音の
空間にあるにもかかわらず聞こえてくるような気がする。
互いを弾き飛ばそうとし、だが溶け合おうとするように絡み合う大気の渦。それに弾
かれた小さな岩石や剥がれた外壁が周辺を勢いよく飛び交う。
「危険ですので、下がります」
操船担当者達の間で交わされる声が、ケインの耳を素通りしていく。
今の状態を見ることが可能であればそれでいい。
僅かな動きがあるたびに、ケインの心臓は跳ね、全身に嫌な汗が吹き出した。
『指』がリングの装着を嫌がるように震える。嫌だと身悶えるのを、ケインの指示に
より細かな変更が行われ、姿勢を制御する。
それはまるで嫌がる娘にリングをはめようとしているような、そんな錯覚を見ている
者に与えた。
古来より、人は結婚の証として指にリングをはめてきた。それは、ある意味拘束の証
でもあったのではないかとケインは考えている。相手が結婚していると示すことによ
り、他の人間を牽制するという。
今『指』にリングをはめれば、『指』もリングも、そしてそれを成し遂げたという名
誉がケインのものになる。
3年前、ミレイの指に指輪をはめた時より、もっと大きな緊張にケインは囚われてい
た。
不安とより以上の期待で目が眩みそうになる。
無意識のうちに、ケインはきつくイスの肘掛けを掴んだ。
「接合ポイントまで後20秒」
オペレーターの声が緊張で掠れていた。
ポイントが近づくに連れ、双方の嵐がお互いを傷つける。
リングはその薄い大気が激しい乱気流によって荒れ狂い、地表を覆っていた岩石が舞
い上がりぶつかり合って砂塵となり黒い嵐を作り上げていた。
ぼんやりとした輪郭に重力の嵐に引き剥がされた外壁が突き刺さっていく。
その最たる現象がスクリーンに映し出された。
最大級の破片がリングの地表に到達するかと思われた途端、黒い嵐に遮られ、激しく
弾き飛ばされた。
大きな塊が一瞬のうちに粉砕する。
その衝撃が重力圏内に納まっていた高濃度の砂塵にも影響を与え、それが重力に逆ら
って宇宙空間まで舞い上がる。
一気に上昇した黒い雲は、自らを戒めていた重力の枷を外した悦びそのままに宇宙空
間を突進した。
「リングから飛来物、このままだと我が船に直撃しますっ!!」
黒い岩と金属色の人工物をまとわりつかせ、触手を伸ばすように伸びてくる雲。
その砂塵の正体はブラックダイヤを含む石だ。
ブラックダイヤが超高速でぶつかれば、大気圏突入可能の宇宙船であっても無事では
すまない。
「回避っ!!」
操舵士の必死の叫び声は、伸びてきた触手に魅入られていたケインを現実へと引き戻
した。
「あっ……」
「間に合わないっ!!」
ケインの間の抜けた悲鳴と操舵士の恐怖の悲鳴とが絡み合う。
「シールド最大っ!!」
誰の声だったのか?
咄嗟にシートにしがみついたケインは全身を振り回されるような激しい震動に襲われ
た。自らの体重を支えきれない手が簡単に椅子から引き剥がされる。
宙に浮いた体は姿勢を変える間もなく壁に激突した。
「がっ!」
衝撃で肺の空気が一気に押し出され、それに唾液と血が混じって飛んだ。
襲ってきた激しい痛みは全身がバラバラになりそうな程で、呼吸することもままなら
ない。
「博士っ!!」
誰かの声がケインを呼ぶ。
それに励まされるようにうっすらと開いた視界は、どこまでも赤かった。
「被害状況の報告っ!!」
「左舷前方がかなりいってるぞっ!」
どこか遠くで声が聞こえるのを感じながら、ぴくりとも動かない体をケインは必死で
動かそうとしていた。
「博士っ!動かないでっ!!」
制止の声はケインの耳には届いていない。ただ、前方に見えるその光景に手を伸ばそ
うとしていた。
赤色の世界で黒い塊が蠢いている。
跳ねるようにあちらこちらに回転する、それはロデオの馬のように見えた。黒い馬に
黒い騎手。暴れる馬を必死で押さえている騎手のように……。
「博士っ!!成功ですよっ!!リングは『指』にはめられましたっ!!」
歓喜の声が、ようやく耳に届く。
……では、あれは……。
霞がかかる視界に再度目を凝らして見つめれば、それは確かに『指』とリングの姿
だ。
成功した……。
途端にふっと体から力が抜ける。
がくりと崩れ落ちるケインを後目にスクリーンの中では、逃れようと暴れるリングか
ら『指』は決して離れようとしなかった。
呼ばれたような気がして、ケインはうっすらと目を開いた。
全身が鉛のように重く、瞼すら思うように動かない。気怠げな体は、神経がつながっ
ていないようにすら感じた。
「誰……」
確かに名を呼ばれたと思ったのに。
それに答えはない。
ただうすらぼんやりとした世界が目前に広がっていた。
しかもケイン自身、きちんと声を発しているのかもはっきりしない。音は全てくぐも
ったように不明瞭なものだ。
頭を動かして回りを確認しようとしたのに動かない。何かに固定されているかのよう
に顔の両側を引っ張られる。
『……イン……ケイン?』
再び呼ばれていることに気付いたケインは、耳を澄ませた。
先程よりはっきりとした声が聞こえる。
それに反応しようとして、ケインは目の前を上昇していく気泡に気がついた。目を凝
らせば、小さな気泡があちらこちらに浮かんでいく。
ケインは液体の中にいたのだ。
それに気付くと、口と鼻が呼吸器で覆われているのも気付く。
「ま…さか……」
肌に神経を集中させれば、確かに何かにゆったりと包み込まれいてるように感じる。
それは初めての感覚ではあったが、ケインは自分が再生機の中にいるのではないかと思
い当たった。
少し重みのある液体がかろうじて動く手の指に絡みつく。
では、呼びかけているのは誰だろう?
「誰?」
『ケイン?』
声と共に、朧気な世界に明暗が現れた。博物館で見た埴輪のような影だと思う。
ゆらゆらと動くそれが、じっとケインを見つめているような気がした。
「誰だ?」
ゆっくりと口を動かし問い直す。
もしこれが再生機ならば、マイクを介して外に声が漏れる筈だ。
案の定、耳に声が入ってきた。
『気がついたようね、ケイン』
ほっとしたような安堵の声に、ケインもほっとする。あまりに朧気な視界に天国にで
も辿り着いたのかという不安があったからだ。
だが、何故ここに?
先程よりも明瞭になった頭が、いろいろな疑問を弾き出す。
『私が判る?』
親しげに呼びかけられ、ケインの目が訝しげに細められる。
『判らない?』
向こうからはケインの動向がはっきりと判るのか、即座に不安げな声に取って代わっ
た。それに答える。
「よく見えない……」
輪郭すらはっきりしない相手では何も判りようがない。
『ああ、中からはよく見えないのよね。でも声も忘れてしまったのかしら?』
声……?
マイクを通したその声は、ノイズが混じっているのかそれとも耳が変なのか、記憶の
誰とも違っているような気がした。
『あら、判らない?う…ん、マイク越しだからかしら?それとも記憶が混乱していると
いう可能性も……』
最後の方はぶつぶつと呟きでしか聞こえない。
それが不安を助長して、とにかくケインははっきりとした説明が欲しかった。
「君は、誰だ?それに俺は……どうなったんだ?……リングは……?」
問いかけているうちに、疑問がさらに記憶を呼び覚ます。
そうだ、リングはどうなったのだろう?
リングを『指』にはめようとして……。
『リングは成功したわ。あなたには名誉と報酬が支払われたの。だから、ここで6ヶ月
間最高級の医療設備で治療を受けることができたわけよ』
不意に、『指』にはまったリングの光景が目に浮かぶ。
ケインは確かにそれを見ていたのだから。
「成功……したんだ……」
感慨が一気に押し寄せ、衝動に固く目を瞑る。目の奥から熱い涙が込みあげ目尻から
溢れ出した。
『あなたは英雄よ。あのリングは本当にブラックダイヤの宝庫だったから。そしてリン
グは『指』にはめられたことにより、その回転速度を弱めて……つまり、たいへん採掘
しやすい環境になったわけ。何しろ、中央にはちょっと修理すれば充分使える人工衛星
という居住区すら持っているんだから』
「そうか……」
『それにしてもほんとうにもったいないわね。リングの所有権を財閥なんかに渡す契約
なんてしちゃって。採掘を独占契約にするとか、もっと利益の出る契約の仕方があった
筈なのに』
呆れたと言わんばかりの口調に、ケインは苦笑いを浮かべて、動きにくい首を僅かに
振った。
「そんなのものは欲しくなかったから。俺はただ……リングを『指』にはめたかったん
だ……」
ただ、それだけ。
自分の理論が正しかったと認めて貰いたかった。
『つまりあなたは……。名誉のためだけに婚約者を捨ててまで契約したというわけね』
「え?」
明らかに女性らしい口調。そして、その内容。
プロポーズのことは彼女とごく親しい友人にしか話していなかった。
それを知っている……女性……?
ということは……?
「ミ、レイ……なのか?」
婚約を破棄した事実を知っていて、なおかつ再生中であろうこの場にいることができ
る人間。
別れた時、ミレイは再生医学の研修医であった。半年もすれば、大学病院の勤務医に
なることが決まりかけていたあの時。
『思い出してくれた?そうよ、あなたに"捨てられた"元婚約者』
自嘲の色が窺える声音にケインは眉をひそめた。
そう、あの時の理由も言わずに指輪を返して貰った。
捨てたのも同然の仕打ち……。あの時、ミレイは怒っていた。
『あの時、何も言わなかったあなたをずっと恨んでいた。だってそうでしょう?人生に
おいて幸せの絶頂だった時に、あなたは何も言わずに私から離れていった。私にとって
幸福の象徴だったエンゲージリングを奪い返して……』
恨んで……。
そうだろう、それだけのことをしたのだから……。
先程までの昂揚した気分は消え、ただミレイに対して申し訳ない気持ちに包まれる。
『私はあなたが大好きだった。本当に愛していたから、あのプロポーズは本当に嬉しか
った。プロポーズの後、二人の楽しい生活をあの指輪を見ながら夢見て……なのに…
…』
その声が微かに震えていた。
「ごめん……」
謝ったってどうなるものではないが、それしか言葉が思いつかなかった。
だがそれにミレイの返事はない。
目を凝らせば、そこには相変わらず影がある。伸ばせば手が届く距離にいる筈なの
に、伸ばすこともできない。
外界の様子が判らないケインにとって、その沈黙は酷く長く感じられた。
『私ね』
静かだった世界に、いきなりミレイの声が割って入って、ケインは慌ててその声に集
中した。
先ほどまでの震えも何もない、ただ淡々とした口調だ。
『自分が再生医学を学んだことをあんなにも感謝したことはなかった』
「え?」
『左腕の欠損……。左の肩胛骨は粉砕し、腕は通常の治療で回復しないほどに痛んでい
た。他の場所は、まだなんとか治療できたのだけれど。だから、あなたはここに回され
てきたの』
そんなにも酷かったのだろうか?
激しい衝撃と痛み……それしか記憶にない。
『私の元にあなたが運ばれるまで、リングを手にした英雄があなただとは知らなかっ
た。だから、担当医として引き受けた時はその名誉に興奮したものだけど、初めて患者
の顔を見て……その時の驚き、あなたに想像できるかしら?3年間恨んできたあなたの
見るも無惨な姿を目の当たりにした私の驚きときたら……』
くつくつと笑い声が聞こえる。
意外にも楽しそうなその笑いに込められた告白は、だが彼女をそんなにも追いつめた
のだとケインを責め苛む。
「君にほんとうにひどいことをした……これは……自業自得なんだよな……」
ぽつりと呟く。
と。
『何言っているの?あなたは私のもとに帰ってきてくれたのよ?だから今は嬉しくって
嬉しくって』
その声音は言葉に嘘はないことを表すように歓喜に充ち満ちていた。
「ミレイ?」
それがなせだか判らないケインの声は戸惑いの色が濃い。
『そりゃ、最初はこのまま死んでしまえばいいって思ったわ。でも私は医者であなたは
患者だった。運び込まれた以上、私にはあなたを治療する義務があった……そうして…
…そう間を置かずして見つけたのよ』
その時のことを思い出しているのだろうか?
声に感慨深げな様子が感じられた。
「見つけた?」
『あなたのぼろぼろになった左手の小指にはめられたあのエンゲージリングをね』
「あ……」
あれを?
『サイズまで直して。目立たない石とは言え、女性用のデザインなのにあなたが持っ
て、しかも指にはめていてくれた。つまりは、私のこと嫌いになったとかそう言うわけ
でもなく、しかもずっと想っていてくれたんだと判ってしまった。それを知った途端…
…私の中の恨みは消えたの。何より、あなたがずっと私を思っていてくれたと知ったか
ら……嬉しかった。私のもとに返ってきてくれたんだと……。もう……どこにもいかな
いわよね?』
「ミレイ……」
何と答えたらいいのだろう?
ケインのミレイに対する気持ちは3年前と何らかわることはないのも事実。
『行かないって言ってくれないの?』
何も言わないケインに焦れたようにミレイが言葉を継ぐ。
それに慌てて首を左右に振ろうとして、うまく動けないから言葉を紡ぐ。
もうどこにも行く必要はないのだから。
「行かないよ、もうどこにも……」
『良かった』
嬉しそうな声に心底ほっとする。
「ここから出ることができたら……君のために新しいエンゲージリングを贈るよ」
ミレイの細い指に合うリングを買いに行こう。そして、またあの指にはめよう。
だが、ミレイの声が笑う。
『いらないわよ。だってあなたから貰ったあのエンゲージリングはここにあるもの』
影が動いて、きらりと小さな光が瞬いた。
『そんなに壊れていなかったから……』
では、もうすでにそれは彼女の指にはめられているのだろう。
「それでいのか?」
問いかければ笑い声で返される。
『これは思い出の品だから、これでいいわ』
はっきりとした声にケインも嬉しくなって微笑んだ。
あのリングでいいと言ってくれるミレイが好きだと、心底思う。
本当に幸せだ、と悦びに支配される。
「ありがとう……」
二人の間に幸せな沈黙が漂う。
その雰囲気にずっと浸っていたいと思っていた。
が。
名残惜しそうにミレイの声がその沈黙を破った。
『……そろそろお休みの時間よ。ここから出るには後10日くらいかかるから……。これ
から徐々に起きる時間を増やして、体を慣らしていくの。また来るわね』
その声が優しく響き、ケインはそれに答えるように目を瞑った。
後10日。外の世界に幸せが待っていると思えば、それも堪えられるだろう。
「それ、似合うわ」
何かの拍子にミレイはケインの左の手首を見つめては微笑み、愛おしそうにそこに口
づけて頬をすり寄せる。
「あなたが手に入れたブラックダイヤの原石を加工するのは大変だっけど。でもこんな
に似合うんですもの。苦労なんて吹っ飛んじゃったわね」
言われてケインも自分の左手に視線を落とした。
そこには、僅かな隙間を残して径が10mmほどの光沢を持つリングがはめられてい
た。
それはケインの拳より小さく、継ぎ目は一つもない。どう足掻いても抜くことはでき
ない代物だ。
ミレイはそれを、形成し始めたケインの手首に取り付け、そのまま再生を続けた。ブ
ラックダイヤ製のそれは、通常の加工手段では切断することなどできないから、もう一
生外すことはできないだろう。
「私からあなたへのエンゲージリング。やっぱりこれにして正解だったわ」
満足そうに微笑むミレイにケインは何も言うことはできなかった。
一度別れを経験したミレイは、頑ななまでにケインが離れることを嫌う。
絶対に外すことのできないそのリングは、ミレイにとってケインと共にあるために二
度と離さないという証のようなものなのだ。
きっともう別れることも許されないだろう。
外せないのか?と問うた時の彼女の鬼のような形相は二度とは見たくない。これから
の幸せのために、ケインはそれをはめ続けるしかないのだ。
怨念よりも厄介な代物だと、それを知った極親しい友達は言う。
だが、ケインはそれを許すしかないのだと思っていた。
もうミレイから離れるつもりはない。
夢は叶い、全てが手に入った今となっては。
もう、ここがケインの生きる場所なのだから。
END