#62/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/16 04:32 (185)
『ハッピー・バースディ』 --パパ
★内容
オホーツク・ロードを回り水穴山に向かうと谷間の開けた場所に小さな村がある。女
将一人できりもりしている桂木旅館は村に一軒しかない宿泊施設だった。しなびた宿か
ら伸びる下り勾配の道は砂利道で、櫻川と併走している。道伝いに白樺林を抜けると如
月湖が臨め、曇天の午後、銀幕のように静まっているのを楽しむことができる。窓辺に
頬杖をつき視線を泳がす。櫻川から湖へと流れ込む水は清く、都会の河川とはまるで違
うことが分かる。腐敗臭の代わりに深く息を吸い込みたくなるような精気が宿ってい
る。
教祖が詐欺罪で逮捕され、はや三ヶ月。私から神は消えた。信仰も捨ててしまった。
それからは当てもなく彷徨っている。金がつきればアルバイトでしのぎ、今はへんぴな
この村で四日ばかり時を過ごしていた。
ノックの音で振り返る。小さく挨拶を交わす。
「お兄ちゃん、ひまかなあ?」
桂木旅館の一人娘、綾子がふすまを開けて小首を傾げる。私はノートを閉じて、「ま
だ見せられない」と呟く。
「今日は私の誕生日だから、プレゼントしてくれるよね。お兄ちゃんの詞。約束破った
ら針飲ますぞー」
綾子が頬を朱に染めて、小さな舌を突き出す。小学五年生、無垢なまま育ったのだろ
う。
昨日、綾子は教えてくれた。
――お兄ちゃん、誕生日ってその日を祝うんじゃなくて、その日に生まれてきたこと
を祝うんだよ。歳をとったからもう誕生日なんて嫌だ、なんていってたけど、それって
間違ってるよ――
なんて純朴なんだろう。自然を相手に陽の光を浴びて真っ直ぐに成長したのだ。純真
で素朴な振る舞いが今の私には心地よく、それでいて目を逸らしたいような複雑な感情
を抱いている。
「難しいかなあ」
正直いって馬鹿な約束をしたものだと思う。彼女の家が信仰を持ってると知ったとき
に、口を滑らせてしまったのだ。
「神様の詞、期待してるからね。約束だよ」
彼女はふすまを閉めて去っていく。パタパタとスリッパが廊下を打つ。針の代わりに
溜息を飲み込み、ノートをひろげて小声で読んでみる。
『Hallelujah!』
普通の女の子に戻りたい!
――麻薬漬けの少女が声をあらげた
幻覚を抱きしめても 心は砕けていく
両手を血に染めても 悪夢は終わらない
両脚を返せ!
――地雷を踏んだ少年が叫んだ
消毒液の香りから覗く 四角い空
翼をもがれた雛鳥は 飽くことなく見上げている
死人の瞳には 失った自由しか映らない
死にたくない
――家族を養うため少女は身を売った
監獄の小部屋
裸体を通り過ぎていく 蠢く蟲たち
無骨な指で切り刻み
いたぶり 噛みつきながら
陵辱とAIDSを刻みつける
汚染された躰
汚水になった精神
どこまでも墜ちていく
奈落の底でも救われない
ハレルヤ!
全知全能なる神が創りたまいし
素晴らしき世界に祝福を
闇の中に響く 大人たちの笑い声
子供たちへの贈り物
不幸という名のハレルヤ
ハレルヤ!
ハレルヤ!
闇を光 力を正義と名付け
全てを喰い尽くす腐敗の創造神 ハレルヤ
読み終えてから首を振る。綾子には見せられない。だからといって神を称える詞は、
今の私に創れない。畳に身を横たえ、畳表から飛び出た麻糸を指でもてあそぶ。それに
飽きると黙って天井を見つめる。白い壁紙を貼り付けただけの天井は、年月でかなりく
たびれている。黒ずんだシミが人の顔に見え、やがてそれは教祖の顔立ちになり、私は
呪詛の言葉を投げつける。それにも飽きると柱時計の秒針の音に合わせて呼吸を整え
る。心の波が静まり、やがて柱時計が時を告げる。立ち上がり、スケッチブックを取り
あげた。指先でめくる。描きためた風景画の狭間で綾子は笑っている。パステルで着色
した似顔絵。彼女は三つ編みを指に絡め、何の疑いもなく微笑んでいる。私は似顔絵を
引きちぎり、テーブルに置き、転がっていた鉛筆を拾い上げた。ゆっくりと、天なる父
は貴方とともに、と綴る。口元から嘲笑が漏れ、胸にむかつきを覚える。湿った指先で
紙を二つに折り、封筒にいれる。
季節はずれの泊まり客は私しかいない。食堂での夕食は綾子と母親の女将、それに私
の三人だけと寂しいながらも家族を得たようで少しばかり嬉しかった。女将は気さくだ
し、綾子は初対面の私を兄として慕ってくれている。人が触れあい分かり合うのに長い
時間は必要ない、そう錯覚させるだけの許容量を彼女達は持っていたのだ。小さく笑う
綾子に対して、母親である女将は豪快に笑う。裏山でとれる山菜と湖で揚げられる小魚
を主とした料理を女将は地産地消と笑い飛ばす。素朴な味付けと焼き魚から漂う香ばし
さに私は満足した。綾子は私のコップにビールを注ぎ、サービスよ、といって片目を瞑
る。久しぶりのアルコールは喉にひりつく。一気に流し込み、コップを置く。綾子が女
将に目配せをする。そろそろね、といって女将は厨房からケーキを持ってきた。黒塗り
のテーブルに鎮座した白いデコレーションは荘厳に見える。ロウソクを数えると両手で
も一本足りなかった。火を点けてから女将が天井灯を消す。綾子は頬を膨らませ、一息
では消せずに二度三度と吹いた。
「ハッピーバースディ、綾子ちゃん。誕生日おめでとう」
拍手を終えてから、女将が明かりをつける。私は彼女に封筒を手渡した。
彼女の指先は華奢で白い。彼女が紙を取り出したとき、恥ずかしくて目をそらす。
「ありがとう、お兄ちゃん」
綾子は席を立ち、私に両腕を回した。私の心臓がきしむ。綾子は私から離れると、
「でも私こんなに美人じゃないよー」
といって小首を傾げる。そんな綾子の癖を見て、私は微笑まずにはいられなかった。
「女将さんが綺麗だから……母親譲りだよ」
私の台詞に女将は黙ってビールを差し出す。
宴が終わり、私は部屋に戻った。楽しい一時、本当に楽しかった。屋根を打つ雨音も
最初は甘美に思えた。その思いは長く続かない。雨脚は衰えず勢いはますばかり。私は
綾子が敷いてくれた布団にくるまり雨の奏でる喧噪を子守歌にした。
轟音が訪れたのは寝入りばなだったのかもしれない。意識が朦朧としていたので、自
分でもはっきりとは分からない。私が目覚めたのは、衝突音とともに泥水が背を打った
からだ。霞む視界の先、スローモーションで壁が崩れていく。窓枠が弾け、ガラスが砕
けていく。水滴が乱舞し泥が踊る。小石が舞い上がり、暴れた水流が私の躯を流してい
く。
訳も分からずに、気がつけば湖まで流されていた。泥を吸い込んだ私はもがき、水面
に顔を出すと反吐を撒き散らした。雨が私を打ち、全てを洗い流す。私は岸へ向かうた
め流れ込む水に逆らって泳ごうとした。その私の腕を誰かが掴む。触れると、小さな手
だと分かった。
「綾子か」
振り返る。蒼白の綾子がいる。私と視線が絡むと小首を傾げ笑みを浮かべた。三つ編
みはほどけ泥にまみれているのが薄暗闇でも分かる。彼女は胸元の水を掻いてから指を
組み、天なる父は貴方とともに、と云った。私は綾子の手を引き、「岸へ行こう」、と
叫んだ。その手を引いても綾子は動かない。岸まで目測で二〇メートルぐらいだろう
か。旅館から湖の縁まで百メートル以上の距離があったはずだ。よく生きていたと思
う。綾子の手を引く。だが彼女は動かない。
「女将さんは無事か?」
雨音に負けないよう、声を張りあげる。綾子は首を振った。
「厨房で後かたづけしていたら、ドンっていう大きな音がして……」
「女将さんは?」
「大きな石が壁を破ってお母さんに当たったの……気がついたらここにいて……家ごと
流されたのね」
綾子の目から流れていたのは雨の滴なのだろうか。
「女将さんは大丈夫だよ」
自信はなかったが彼女を元気づけるにはそういうしうかない。土石流だとしたら、一
度で終わるとは限らない。長居するのは危険このうえないはずだ。
「さあ、岸に戻ろう。安全なところに逃がしてあげる。それから私が女将さんを助ける
よ」
綾子の手を引く。綾子はその手を払った。
「お兄ちゃんだけ逃げて」
「馬鹿いうなよ」
私は綾子の肩をつかみ、引きよせようとした。だができない。綾子は苦しそうにうめ
き声をあげる。何かが邪魔しているのだ。私は綾子の身体を伝って水に潜った。綾子の
腰から足を伝う。彼女の足首が何かに挟まっている。触ると四角く長い。旅館で使われ
ていた梁か柱のようだ。それに金属の冷たい感触も存在している。建築材などの角材が
複雑に絡み合い綾子を拘束しているのだ。彼女の足を抜こうとするが抜けない。何度か
試しても駄目だった。息が続かない。水面に戻ると胸が苦しく目が痛んだ。
「お兄ちゃん、逃げて!」
綾子が私を突き放した。
「大丈夫。お兄ちゃんが何とかしてあげるから」
私は再度潜る。角材を引き抜こうとして、代わりに指の爪が剥がれる。怒りにまかせ
拳で殴りつけても、動かせない。彼女の足は挟まったままだ。水面に戻ると息が荒かっ
た。咳き込んでしまう。
「お兄ちゃん……」
綾子の肩までしかなかった水が今はあごに届いている。
「お兄ちゃんの描いてくれた絵、なくしちゃった。ごめんなさい」
「何度でも描いてあげるよ。今度はちゃんとした詞も書く。まあ、任せてくれ」
綾子の躰を伝い下へと向かう。潜った水の中は灰色で視界は開けない。指先で綾子の
足首を探り当て、力任せに引き抜こうとする。だがどうしても抜けない。絡み合った角
材を解くことができない。
息を吸いに戻る。水はすでに綾子の口元にまで来ていた。綾子が私の頬を撫でる。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
「綾子!」
「……」
彼女の唇が水に隠れた。私は吸い込んだ息を彼女に流すために唇を重ねる。彼女の手
を握り再び重ねる。三度目のとき、彼女の指先から力が抜けていった。あぶくだけがイ
タズラに浮かんでは消えていく。それもやがて生まれてくることをやめた。水面には彼
女の黒髪が揺れている。右に左にゆれ、それすらも消えていく。私はただ絶叫すること
しかできなかった。
どれだけ時が流れても、桂木旅館の想い出だけは色褪せない。如月湖から水穴山を見
上げれば、今でも旅館が建っている――そう想像してしまう。しばらくは露出していた
岩肌も今では灌木をまとい、風に遊ぶ草が波のようにうねっている。湖は静かなまま何
も語ろうとはしない。岸部に立ち、スケッチブックを開く。描かれているのは綾子の似
顔絵だ。右隣に女将が立ち、左には私が立っている。デコレーションケーキを前にした
綾子は小首を傾げ笑顔を咲かせている。
「私も歳をとるわけだ」
独り言をいいながら、色鉛筆でロウソクを三十三本描き足す。死に直面したときでさ
え他人を思いやる事ができた綾子。私にはとうてい真似できない。
彼女の最後の言葉。彼女は何を告げようとしたのだろうか?
私は、天なる父は貴方とともに、だったと思っている。無力だからこそ、人間は神に
祈らずにはいられなくなるのだろう。私は痛いほどそれを知っているのだ。それでも私
は神を選択しない。
ペンを取り、綾子の横に一文を綴る。
『天なる綾子は私とともに。ハレルヤ』
紙を引きちぎり、湖へと流す。ゆるやかに漂い、水に侵され沈んでいく。
「ハッピーバースディ。綾子……」
--了--