#29/569 ●短編
★タイトル (PRN ) 02/07/20 19:36 (432)
招かれざる食卓 已岬佳泰
★内容 02/07/28 08:03 修正 第2版
登場人物
私:上総俊一 サラリーマン
父:上総駿吾 引退したエンジニア
母:上総幸江 (登場なし)
妻:澄子 パートタイマ
妻の友人:杉田真由 フリーター
隣人:豊島邦男 小説家
刑事:御前崎警部補 (特別出演)
曇り空から少しずつ落ちていた雨は、私がバスに乗り込むと本降りになった。梅雨時
の湿った車内は、それでも比較的混んでいて空席は見つからない。仕方なく、書類鞄を
網棚に上げて吊り輪にぶら下がった。車窓を雨に霞んだ夕暮れの町並みがゆるゆると流
れだす。もうすっかり馴染みになった駅前商店街を擦り抜けるように、バスは走った。
道端に並んだセールの幟が、雨に濡れてうずくまっている。
思わず溜息が出た。
「どうしていまごろ電話なんてかけてくるんだろ」
それは今日の昼過ぎから何度となく繰り返した疑問だった。納得できる答えが見つか
らないまま、私は家路についていた。平穏な毎日のなかでの僅かなさざ波。それだけの
ことかもしれない。そう自分に言い聞かせてみる。
電話は昼過ぎ、デスクに戻ったところに掛かってきた。
「わしだ」
電話の向こうで父はそう言った。5年ぶりに聞く父の声だったが、私はすぐに返事が
できなかった。父もしばらく沈黙する。
「元気か」とようやく続けた父。
昔からそうだった。必要最低限の言葉しか喋らない。しかし、その声に往年の力強さ
はなかった。私は思わず職場を見回し、そして声を落とした。
「父さんと話すことなんかなにもない」
言葉が勝手に飛び出してしまった。言ってしまってから、胸が痛んだ。だがその時に
はもう、私の言葉は受話器に吸い込まれて、電話線を走り抜けてゆく。
「そうか。だろうな」
父の声が一層弱々しく聞こえた。私は対話の接ぎ穂を失い、受話器を握りしめた。怒
りとも哀しみともつかない奇妙な感情が、体の奥で息づいていた。その正体を見極めよ
うと息を詰めた。
私は父を憎んでいた。その根拠をいくつか反芻する。簡単だった。5年前を思い起こ
せばそれでいい。押し寄せた債権者たち。心労で倒れた母。妊娠3ヶ月だった妻も体調
を崩して切迫流産。あの頃の景色には、暗い灰色の暗幕が掛かっている。流れているB
GMも短調のブルースだ。そんな中で、勝手に消息を絶った父とどうして今、普通に会
話できるだろう。
「澄子さんに変わりはないか」
父は唐突にそう言った。澄子はもう大丈夫だ。流産の痛手から立ち直り、すっかり明
るくなった。しかし、私は黙り続けた。
「若い男を見たんだ」
まるで謎掛けのように父は続ける。その朴訥としたしゃべり方に不覚にも少し心が揺
れた。そんな自分を押さえつけようと私は早口になった。
「つまらない話なら、切るよ」
私の宣言に父は無抵抗だった。僅かに「ああ」という呻きとも肯定ともとれる声が聞
こえただけだった。私は受話器を置いた。
商店街を抜けるとバスは急勾配の坂道を上り始める。数年前のバブルの頃に、小高い
山肌を切り崩して建てられた小さな住宅たち。色とりどりの屋根が両側にひしめき合う
ように流れてゆく。どの家も総2階の作り。道路との境界線ぎりぎりまで伸びている軒
先に、バスは車体を擦りそうだった。
美しの森公園前。
狭い空き地のような公園には立木が申し訳程度に数本あるが、3方を住宅に囲まれて
いて、どうしてこれで「美しの森」なんていう名前なのか理解に苦しむ。が、それが私
の下りるバス停だった。妻の澄子に言わせれば「昔々、ここには美しい森がありまし
た」という意味なのでしょ、となる。たしかに、最寄り駅からかなり離れた新興住宅街
は、かつては深い武蔵野の森だったに違いなかった。
バス停で下りて「美しの森公園」脇の狭い道を東に歩くと、ちょっと大きめの一戸建
て住宅が表通りから離れたところにぽつんとある。そのさらに北側に、高い送電塔があ
って、その鉄塔に隠れるようにして小さな安普請のアパートが見えてくる。このあたり
では珍しい賃貸のアパート「サクラ荘」だった。2階建てで総部屋数が僅かに6戸。し
かも送電塔のほぼ真下。これで商売になるのだろうかと気をもむくらいの悪条件のア
パートで、そのせいか、賃料が驚くほど安かった。そしてそれが私たち夫婦がこのア
パートに住む唯一無二の理由だった。
妻の澄子は大抵のことには動じない女だったが、不動産屋の案内でこのアパートを初
めて見たとき、さすがの彼女も絶句した。父の残した借金返済のために、結婚以来住ん
でいた駅近くの家を処分することになり、それでも借金を完済できず、とにかく安いと
ころを最優先に探していた。駅からバスで20分、バス停から歩いて10分。2DKの
間取りで、敷金礼金は各1ヶ月。「日当たり良好」とあったけれどもそれは西日がしっ
かりと射し込むという意味だったりした。
部屋は小綺麗にしてあったが、壁や天井の作りはいかにも安づくりという印象だった
し、試しに壁を手で叩いてみたら、薄っぺらい音がして「このお値段ですから」とすか
さず不動産屋が手もみ苦笑いをしたくらいだった。空いていたのは1階の部屋だった
が、上階や隣室とは筒抜け状態になることは確実だった。
それでも澄子の立ち直りは早かった。
「ふたりきりだから2DKで充分だし、ここなら駅前にパートで出るにも便利よ。それ
に、借金を返し終わるまでの我慢でしょ」
借金完済までの仮りの住まい。それが私たち夫婦の了解事項だった。
「おや」
公園脇を抜けて私の足は停まってしまった。目の前に見慣れない光景が展開してい
た。鉄塔下の小さなアパート周辺がなにやら騒がしいのだ。普段はあまり人が集まるよ
うな場所ではないのだが、雨に煙る景色のなかに、たしかに人だかりができていた。赤
い光が点滅している。
「パトカーじゃないか」
白黒ツートンの車が屋根の上で赤いランプを回転させたまま停車していた。アパート
の真ん前だ。急ぎ足になった。
「どうしたんですか」
人だかりの関心はアパートの1階東端の部屋に向けられていた。わが家の隣り、豊島
邦男という20歳前後の男がひとりで住んでいる。颯爽とした好青年のように記憶して
いた。
「豊島さんが亡くなったらしいですよ」
私に教えてくれたのは、上の階の西側に住むご婦人だった。60歳を過ぎて一人暮ら
しだという、名前は……、思い出せない。私はアパートに住む人たちとはほとんど没交
渉で、顔と名前がまったく一致しない。もう5年も住んでいるくせにみっともない話で
はある。澄子がいればすぐに教えてくれるだろうが、人だかりの中に彼女の姿は見えな
かった。
「これほど警察が来ているということは、豊島さん、ひょっとして殺されたのかも」
不穏なセリフを吐いたのは、これも上階東側に住むご老人で、名前は……。とにかく
彼の目が好奇のためか異常に輝いているのが見て取れた。
「殺人事件ですか。まさか、こんなところで」
私の何気ない言葉に、人だかりからいくつもの反応があった。
「だって、豊島さん自身が助けてくれって110番したみたいよ。自分は殺されるって
叫んでたって」
「ところがねえ。警察が駆けつけてみたら、玄関には内側からカギが掛かって開かな
い。大家さんが呼ばれて、合い鍵で開けたら、今度はドアチェーンだ。こっちは警察が
でっかいハサミで切ったみたいだねえ」
「でも遅かったんでしょ。警察が中に入ったときには豊島さんはもう死んでいた」
「ひどい顔だったらしいぜ。目を大きく開いて、口を歪めて。あれはどう見ても自殺っ
てことはないね」
「警察では自殺らしいって言っているよ。だって、玄関にはカギとドアチェーンが掛か
っていた。反対側のベランダの窓は内側からねじ込むタイプの錠がしっかりと掛かって
いた。現場には豊島さんの死体だけが残ってた。こりゃあ自殺でしょ。もしもだよ、も
しも豊島さんが殺されたというなら、殺人犯人はいったいどうやって部屋から逃げ出せ
たんだい。ドアチェンやら窓のねじ込み錠は外からかけるなんて不可能だぜ」
「ほほう、不可能犯罪か」
「そうそう。これがもしも殺人事件ならば、ほら、何て言うの。犯人の逃げ道がない部
屋で起きる不可能殺人事件。よくテレビドラマとかやってるじゃない」
「密室殺人」
「なんかわくわくするわねー」
「残念でした。豊島さんは自殺って警察は言ってます」
「豊島さんの110番通報はどうなるのさ」
「あの電話は豊島さんの芝居じゃないかって警察は見てるみたい。騒ぎを起こしたかっ
ただけだろうって。小説がゼンゼン売れないんで、豊島さん、行き詰まっていたみたい
だし」
「へえー、豊島さんて小説家だったんだ。どうりで、昼間っからぶらぶらしてると思っ
てた」
「時々、若い女が来てたよ。あれって豊島さんの彼女かしら」
「おう、そうそう。わしも見かけたな。ほっそりとして背の高い女だったなあ」
「あら、わたしが知ってるのはちょっと太めの女よ。ベレー帽被って、ズボン履いて
た」
「ほほう、売れない小説家にしては結構な発展家だったんじゃなあ」
話が事件からそれ始めたところで、私は人だかりから離れた。死んだ豊島とは付き合
いはほとんどなかったから、その死を知っても特別な感情は湧いてこなかった。すぐ隣
に住んでいるのに薄情な気もしたが、それが現実なのだから仕方がない。
他人の干渉を嫌う風潮はなにも今始まったことではなかった。
豊島宅の入り口を封鎖してた黄色いテープは、わが家の玄関脇まで伸びていた。
「ちょっとすみませんが」
雨傘を畳んで滴を振り切り、玄関ドアに近づいたところで、横から声をかけられた。
暗い色のスーツを着た男がふたり、私の顔を見ていた。刑事らしい。
「この家の方ですか?」
丁寧だが有無を言わさぬ口調とはこういう物言いを表すのだろう。低くて腹の底に響
くような声だった。大柄で細い目をした男が胸ポケットに手を突っ込み、警察手帳を出
して見せた。もう一人、小柄で丸顔の男はその横に黙って立っている。
「隣りの豊島邦男さんが亡くなりました。それでちょっとお話を伺おうと思って先ほど
からお待ちしておりました。呼び鈴を鳴らしても応答がなくて、どうも奥さんは不在の
ようですね」
「そうですか。おかしいな」
澄子のパートは午後5時には終わる。それから買い物をして帰ってきても、午後6時
には充分に家に戻っているはずだった。
カギを開けて中に入る。
「中に入ってもよろしいですかな」
刑事ふたりは返事を待たずに私に続いた。靴を脱ぐとすぐに台所、その奥が6畳の寝
室だった。台所には大きな食卓が置いてある。前に住んでいた家から、この一枚板の食
卓だけは持ってきたいと澄子が主張したのだ。狭いアパートの寸詰まりの台所で、だか
ら、椅子を引くとその後ろは人が通る余裕もなくなるほど手狭になっている。
食卓の上には夕食の支度が整っていた。
真ん中に小型ガス台の上に鉄鍋が置いてあり、その横にはスライスした牛肉や豆腐、
長ネギなどがいくつかの皿に盛り分けてある。炊飯ジャーは保温ランプが点いているか
らご飯も用意できているのだろう。伊万里焼の茶碗、取り皿、箸袋に入った箸は3膳分
が食卓に整っていた。
「すき焼きですね。豪勢ですな」
細目の刑事が呟いた。私は聞こえぬ振りをして、刑事ふたりに椅子を勧めた。ついで
に火の点いてないガス台と鍋を流し台へと片づける。
「自殺だと聞きましたが、何か?」
腰を下ろした細目刑事の前に私も座ってから、そう尋ねた。もうひとりの刑事は玄関
への間口に立ったままだった。
「豊島さんの様子に最近変わったところはありませんでしたか?」
「さあ」私は首を振った。「お隣とは近所付き合いがほとんどないので、分かりませ
ん。豊島さんが小説家だっていうことも知りませんでした」
刑事は格段落胆した様子もなかった。それからありきたりの事をいくつか質問してき
た。私の仕事内容と勤務先。今日一日の行動。留守にしている澄子の行き先(これには
心当たりがないと答えた)。澄子の昼間の勤め先。このアパートに住んでからの年数。
30分ほどして、刑事はこれで質問終わりという風に立ち上がりかけた。そしてふと思
い出したように奇妙な質問をした。
「杉田真由という女性をご存じありませんか?」
どこかで聞いた名前だった。しかし、はっきりとは思い出せない。正直にそのように
伝えると、刑事はそれ以上は尋ねてこなかった。
「豊島さんは自殺だと聞きましたが、そうではないんですか」
私の問いに刑事ふたりは一瞬顔を見合わせると、細目の方が答えた。
「明日の新聞には警察の正式発表が載るでしょうが、豊島さんから110番通報を受け
て、我々は部屋のベッドの上で窒息死している豊島さんを発見しました。状況から見
て、首にかけたネックレスをどこかに高いところに引っかけて、首吊り自殺をしたと思
われます。しかしそうなると、いくつか疑問があるのも事実です。ひとつは、ネックレ
スを引っかけた場所が特定できません。天井や壁にそれらしい痕跡がないのです。ふた
つめに、かなり暴れたらしく、壁にひっかき傷があります。被害者の表情もひどく恨め
しげです。おまけに彼の死体の周辺にはいろいろなものが飛び散らかっていました。
ペーパーナイフやダブルクリップなど、机の上にあったと思われるものまで壁際に落ち
ていました。覚悟の自殺ではあそこまで往生際が悪い例はあまりありません。ですか
ら、誰かにネックレスで首を絞められた可能性も否定できないのです」
「ネックレスですか」
「豊島さんは怪奇ホラー小説が専門だったらしく、部屋にはそういう猟奇事件に関連し
たグッズがかなりありました。ネックレスもそのひとつで、古代の王が愛用したという
鉄環です。外して振り回せば武器になったほどの頑丈なもので、人間ひとりが首吊りに
使っても重みで切れるようなヤワな作りではありません」
「豊島さんの部屋は、いわゆる密室状態だったと聞きました。仮に殺人事件だとなって
も、犯人には逃げ道がないように思えますが」
玄関先で刑事を送り出しながらの私の質問に、刑事たちはうっすらと笑って何も言わ
なかった。妻の澄子が戻ったら連絡をほしいと言い残して刑事は去った。
澄子はいったいどこへ行ったのだろう。夕食の支度ができているのだから、一度は帰
宅したのは間違いない。しかし、それからまた出かけたらしい。
首をヒネリながら、私は寝室で普段着に着替えた。
押入の中から目覚まし時計を取り出す。駅から遠い分、毎朝早起きになっている。ど
うにも朝が苦手の私は、ふたつの目覚まし時計を使っていた。こうして帰宅するとまず
その目覚まし時計をセットするのが習慣になっている。以前に夕飯時にビールを飲んで
そのまま寝込んでしまい、翌朝うっかり寝過ごしてしまった失敗からの反省だった。
アラームをONにしようとして、違和感を覚えた。腕時計を見る。午後7時15分だ
った。次ぎに目覚まし時計を見た。
目覚まし時計の方はふたつとも午後4時を指して停まっていた。
不思議な思いに駆られながら、私は目覚まし時計の時刻を再セットしようと試みる。
時刻合わせのノブを引き出し、長針と短針を回そうとした。ところが長針と短針がくっ
ついたまま回ってくれない。ノブを回しても、どこかで引っかかっているのか、針の方
は動かないのだ。
「壊れちまったみたいだな」
あきらめて、私は目覚まし時計を押入に戻した。
食卓の上に食事の用意まで整えておきながら、澄子はなかなか戻ってこなかった。冷
蔵庫から缶ビールを取り出し、夕刊を読んでいる内に午後9時を回ってしまった。出か
けた先に心当たりはなかった。何の連絡もなしにこれほど家を空けるのは、珍しいこと
だった。5年前に債権者に詰め寄られて、精神のバランスを崩して発作的に実家に帰っ
たとき以来かもしれない。
とにかく、今、連絡をする先で思い当たるのは一カ所だけだった。澄子の実家だっ
た。長野県の農家だが、5年前から私にとってはとても敷居の高い家になっている。父
の一件では長野の実家にまで(何の債務関係もないというのに)債権者が連絡を入れ、
親戚を含めて大混乱させ、あまつさえ、嫁に出した娘が身ごもった初孫も結局は事件が
原因で流産させてしまった。敷居の高さは半端ではない。
電話して「澄子の行き先」なんて聞こうものなら、なんと言われるかわからなかっ
た。それを想像すると気が重い。しかし、澄子のことが気になった。私に連絡しなくて
も、実家にはなにか言っているのかもしれない。
「澄子はいったいどこに行ったのか」という疑問は次第に「澄子にいったい何があった
のか」という不安に変わりつつあった。
「澄子さんに変わりはないか」
「若い男を見たんだ」
突然、昼間の父の言葉がよみがえった。その瞬間、私の頭の中で火花が弾けた。ばら
ばらに散らかっていたいくつかの現象が、父の言葉を触媒にして、あっという間にひと
つの絵を作り出したのだ。
若い男=豊島邦男。
豊島邦男の死=澄子の失踪。
なぜ?=澄子が殺した。
恐ろしいほどに見事な絵だった。
澄子と豊島が交際をしていたかどうか。それは私には分からない。しかし、近所の人
の話では、豊島の部屋にはいろいろな女が出入りしていたらしい。澄子もそんな内のひ
とりだったのか。たしかに澄子がそういう思いを抱いても私にはあまり文句を言えな
い。なにしろ彼女には苦労のかけ通しだった。狭いアパート、借金の山。パートはスー
パーの食材詰めでけっこうハードなんだと澄子がこぼしていたことがある。
そういう中で、隣りに住む豊島と親しくなったのかもしれなかった。
そして、何かの諍いがあって澄子は豊島を殺した。
いや、まさか、いくらなんでも、澄子が人殺しなんて!
だが、それならばなぜ澄子はここにいない。事件の起きた日に姿を消すなんて、まる
で私が殺しましたと宣言しているようなものではないのか。
それとも……、私の思考がそこで急転回した。
ひょっとしたら、澄子は殺人犯ということではなくて、殺人現場を目撃しただけなの
ではないか。ところが、犯人にその事を知られ拉致されてしまった。犯人に捕まってい
るから、いつまでたってもこっちに連絡をできないでいるのかもしれない。
そう思うと私は居ても立ってもいられなくなった。先ほどの刑事にもらった名刺を取
り出し、細目の刑事(御前崎という警部補だった)に電話を入れた。御前崎は不在だっ
たが名前を言うと、別の刑事が出てきた。
私は自分の考えを刑事に説明した。刑事は黙って聞いていたが、最後に「すぐに係り
のものを向かわせます」と約束してくれた。
電話を終えて私は急に自分の思い違いに気づいた。私の組み立てた絵には大きな欠陥
がひとつあったのだ。それは豊島の死を他殺とはできない状況−現場が密室状態であっ
たということだった。
聞いた話によると、豊島が死んでいた部屋はすべての出入り口が内側から施錠されて
いたという。もし、私の想像通り、豊島が殺されて、それになんらかの形で澄子が関与
していたのなら、いったい犯人はどうやって豊島の部屋から逃げることができたのだろ
うか。玄関や窓を通る以外に逃げだす手段があったのか。しかし、警察は現場を入念に
調べたことだろう。それ以外の逃げ道、例えば天井や壁に抜け道があったりしたら、間
違いなく発見しているに違いない。壁に抜け道?
そこで私は愕然となった。
豊島の部屋の隣はわが家ではないか。
そう思った瞬間に、私はもう一度寝室に戻っていた。
目覚まし時計を仕舞っている押入は東側に位置している。だから押入の奥壁の向こう
は豊島の部屋になる。押入を開いて、中のものを急いで取り出した。布団、冬の衣類を
詰めた衣装箱、アルバム、古いレコード、アイロンとアイロン台、旅行鞄には本がいっ
ぱい詰め込んであった。この狭いアパートでは本を並べて置いておくスペースもたしか
に無い。私は旅行鞄から本を取り出し、一冊ずつ著者名をチェックした。豊島邦男の名
前はなかった。が、彼が本名で本を書いているとは限らない。
空っぽになった押入に入り込むと丹念に壁を調べてみた。床や天井も目で見たが、切
れ目や蓋、穴などは見つからなかった。抜け穴はなかった。もっともそれくらいは警察
が豊島の部屋を調べたときに確認している事に違いなかった。
少し安堵して台所に戻ったところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
玄関ドアを開くと、宵闇に2人の人影があった。刑事だとばかり思っていた私は意表
をつかれて、立ちすくんだ。にっこりと笑う澄子。その横で弱々しく笑みを浮かべる
父。いったいこれはどういうことなのか。戸惑う私を後目に、澄子は父をせかすように
玄関に追い込んだ。そして私に頭をぺこりと下げた。
「ごめんさい、急に家を留守にしてしまって。でもお陰で事件は解決できました。俊一
さん、もう晩ご飯食べました? もしまだなら、お義父さんも一緒に晩ご飯にしません
か」
「事件って、いったいどの事件の話をしているんだ。豊島さんが亡くなった事件か?」
「もちろん! そっちの殺人事件に決まっているでしょう」
澄子は父を食卓の東の席に案内すると、私が片づけて置いた鉄鍋とコンロ台を食卓に
戻した。私は飲みかけの缶ビールを片づけてから、自分の席に腰を下ろした。
「しかし、あれは自殺としか考えられないじゃないか。豊島さんの部屋は出入りのでき
ない密室だったと聞いたぞ」
「ところが、殺人事件だったのよ。ついさっき、お義父さんといっしょに犯人を警察に
連れて行って自首させてきた。そしたら、あなたからの電話があった直後だったみた
い」
「え? すると今まで、澄子は殺人犯を追いかけまわっていたのか。なんてこった」
こっちは目一杯心配していたというのに。
「ごめんなさい、本当に。でも、私が時間貸ししていた相手が殺人犯だと思ったら、い
ても立ってもいられなかったの。それに思いの外、自首を説得するのに時間が掛かっち
ゃって」
「時間貸し? なんだいそれは」
「あなたには言ってなかったけど、このアパートの部屋、昼間は無人でしょ。だから、
友人に時間貸ししたの。文章を書く静かな場所がほしいって言われて。僅かだけど収入
も増えるし、ちょうどいいかなって」
澄子が新しい缶ビールを冷蔵庫から取り出した。一本は父の前に、もう一本は私の前
にさりげなく置いた。コップはもう出ている。私は無造作にビールをコップに注いだ。
白い泡がコップの口に届く前に注ぐのを止める。父の視線を感じた。体の奥にうずくま
っている小さなわだかまりを刺激する視線だった。何も言わずにビールを飲む。
「その人がこの部屋から豊島さんの部屋に入り込んで、事件を起こしたっていうのか。
だけど、ウチの押入の壁は調べたぞ。通り抜ける穴なんかない」
「あら」
澄子の手が止まった。
「どうして押入を調べたわけ? ひょっとして私が犯人だとか思ったんじゃないでしょ
うね」
図星ではあったが、もちろんそれはおくびにも出さない。
「ちょっと気になることがあったんだ。目覚まし時計がふたつとも壊れていた。それで
誰かが押入に入り込んだんじゃないかなあと」
澄子が父のビールを開けて、コップに注いでやる。父は俯き加減にその泡を見てい
た。父は5年間でかなり老け込んでいた。明るい照明の下で見ると、その落差は残酷な
くらいだった。
「パートを終えて帰ってきたらアパートは大騒ぎ。警察が来てて、豊島さんが首を絞め
られて死んでいるって聞いて、それであの壊れた目覚まし時計でしょう。すぐに杉田真
由、これが時間貸しをしてた友人なのだけど、彼女のことが頭に浮かんだの。彼女が豊
島さんと交際していたというのは知っていた。おそらくこの部屋を時間貸ししてほしい
というのも、真由が豊島さんの近くに居たいって事かもとか軽く考えてたのわたし。そ
れがまさかこんなことになるとはね」
「彼女はどうして……」
私の素朴な疑問に、澄子がつらそうな顔をした。
「真由の思いこみだったみたい。つまり、彼女は一方的に豊島さんに気持を寄せてい
た。豊島さんも彼女に気があると信じていたのね。彼女の書いた小説を誉めてもらっ
て、すっかり舞い上がってしまって、毎日のように豊島さんの部屋に押し掛けたり。と
ころが豊島さんの方にはそんな気があんまりなくて、おまけに他の女性が豊島さんの部
屋に出入りするのと出くわして、彼女は逆上した」
「そうか。ありそうな話だな」
「それで、この事件でしょ。すぐに真由に連絡を取ろうと飛び出したら、お義父さんが
……」
澄子が父を見る。父はまだビールの入ったコップには手をつけていなかった。
「あの子は女には見えなかったなあ」
父はそう言うと、ちょっとだけ笑った。
「真由のことをお義父さんは若い男だと思ってたのね」
「そうさ。なにしろ坊主頭に黒っぽいシャツとズボンだものなあ。てっきりわしは男だ
と思ってた。それで余計な電話をかけてしもうた」
父が私を見た。頷き返す。
「今日の電話はそういう訳か。留守中のわが家に若い男が出入りしているってことを、
父さんは知らせてくれようとしたのか」
私はビールを飲む。とんだ迷推理になるところだった。
「そういうわけで、前から気になっていたお義父さんは真由の後をつけて、彼女の自宅
を探り当てていた。そして今日、わが家を訪ねてきたお義父さんが、事件の話をわたし
から聞いて、すぐに彼女の自宅へと向かったというわけ」
「どうして父さんが今夜わが家に来ることになっていたんだ?」
尋ねながら思い出していた。食卓に揃えられた3膳分の夕食の支度。あれはそういう
ことだったのか。
「まったくもう」と澄子がふくれっ面になった。「今日はお義父さんの60歳の誕生日
でしょう。そんなことも忘れているの?」
私はきょとんとなった。父の誕生日の話なんて、ついぞ聞いたことがなかった。澄子
がそんなことを覚えていて、今日という日をセットしたとは。
「分かったよ。それにしても、犯人はいったいどうやって、あの密室殺人を実行できた
のか。そっちを教えてくれよ」
私がそう言うと澄子は嬉しそうな顔をした。
「そう来なくっちゃ。真由、あっと、犯人が立てた計画のポイントはいくつかあるのだ
けれど、まず第1に、小説家の豊島さんは、執筆をほとんど夜中にやるので午後は昼寝
をすることが多かったということかな。昼寝をするベッドは彼の部屋の西側、つまりわ
が家の押入の向こうにあった。第2のポイントはネックレスね。昼寝する豊島さんがネ
ックレスをつけてくれないと計画は成功しない。ところが、都合がよいことに怪奇小説
を書く豊島さんは古代の装飾品に興味があって、犯人が持ち込んだ古い鉄製のネックレ
スを喜んで首にかけたらしいわ。そのままつけて眠ると新しい古代ネタが浮かぶかもし
れないとか言って、なんとか豊島さんに今日だけはネックレスをつけたまま眠ることに
合意させた。そして、犯人は時間貸しで借りたわが家の押入にあるものを持って潜り込
んだ」
「わが家の押入はたしかに豊島さんの部屋に接しているが、抜け穴とかはないぞ。どう
やって殺すんだ。まさか、呪い殺したなんて言わないだろうな」
「ある意味、呪いに似てるかも。犯人は押入の中から、豊島さんのネックレスを操っ
て、首を絞めたのだから」
「だから、どうやって?」
「犯人が持ち込んだものは、もう警察に証拠として届けてきたけれど、小型の鉄スクラ
ップ回収機のようなものだったわ。これはね、電源を入れると強烈な電磁力で、産廃屑
の中から鉄くずだけをくっつけて回収するためのものらしい。真由、あっと、犯人がバ
イト先の建設会社からこっそり借りてきたって。それを押入の壁に当てて、電源オン。
ここの壁ってほら、木製でベニヤ板みたいに薄いでしょ。強力な電磁石でひっぱられた
ネックレスはどんどん豊島さんの首を絞めていった。しかも、屑鉄を引き上げられるよ
うに、ウィンチで上に巻き上げられるから、まるで首吊り自殺のような状態になった。
そうしてしばらくして電源を切ると、息の絶えた豊島さんはベッドの上に倒れる。後に
は何も残らない。犯人がまさか首を絞められている最中に携帯電話で110番するとい
うのは予定外だったらしいけど、それでもウチの押入を片づけて、何食わぬ顔でこの部
屋を出てゆく余裕は十分あった。豊島さんが昼寝の時に厳重に戸締まりをすることも犯
人は承知していて、それを利用したと言ってたわ。部屋が密室状態になっていれば、き
っと自殺だと思われるからと」
「恐ろしいな。目覚まし時計が壊れたのは、その電磁力の影響なのか」
「そうでしょうね。針と針がくっついて離れないんだから、電磁力を受けて、磁石にな
ってしまったのでしょう」
「帯磁現象、だな」
父がぽつりと呟いた。もう引退しているが、かつてのエンジニアとしての知識がよみ
がえったのだろう。
「そうか。そう言えば、刑事が教えてくれたが、豊島さんの死体のそば、壁際には机の
上にあったらしいクリップやらペーパーナイフやらが落ちていたというんだ。それらも
その鉄スクラップ回収機に引っ張られて壁際に集まったんだな」
細目の刑事の低い声を思い出す。暗い顔をしていた彼は、今頃、自首してきた殺人犯
を取調中だろうか。
「犯人はあの密室から抜け出す必要なんかなかった。なにしろ、密室の外側から殺人を
実行したのだから」
澄子がいつのまにか友人の名前を犯人と言い替えている。そのことには気づかないふ
りで私は言った。
「なるほど、密室殺人って謎が解けると案外あっけないものだな」
「そうね」
澄子はそう言うと、手つかずのビールの入ったコップをさりげなく父の方に押しやっ
た。父は誘われたように、コップにいっぱいのビールを見ている。
そう言えば、ビールは無趣味な父の数少ない嗜好品だったな。
私は自分のコップを手に持つと、父に向かって上げて見せた。
「60歳ってことは還暦か」
おめでとう。
父は弱々しく笑って、頷いた。澄子がコンロ台に火をつける。
「正式にはお義母さんもお呼びしてやりましょう。今日のところはまず、その前夜祭と
いうことで。ね、お義父さん」
「すまなかった」
父の声は掠れていた。
(終わり)