AWC テレフォン  已岬佳泰


        
#26/569 ●短編
★タイトル (PRN     )  02/06/09  18:19  (253)
テレフォン  已岬佳泰
★内容
 名古屋駅の改札を通った時には、もう午後7時を回っていた。
「弁当、買ってきますよ。それにビールもね」
 プラットホームに駆け上がると、同僚の鐘尾真二がそう言いながら、キオスクへと走
った。新幹線の時刻にはあと5分くらい。明るいキオスクには、私たちのような仕事帰
りらしいスーツ姿が群がっている。鐘尾に頷くと、私は内ポケットに手を突っ込んだ。
会社から支給されたばかりのケータイ、つまり携帯電話を取り出す。小さな銀色の携帯
電話は、私の手のひらにすっぽりと収まるほどに小型で軽い。小憎らしいほどに機能的
にまとめられたパネルデザインもなかなか良かった。
 だけどそれでも、私はこの携帯電話が苦手だった。こっちの都合にお構いなしにかか
ってくる仕事の電話。会社ですらうんざりなのに、それをポケットに入れて一日24時
間過ごすなんて、思ってみただけでぞっとした。
「加奈も学校へ行くようになるし、緊急のときにすぐに連絡がつかないと困るわ」
 妻の裕子から言われなければ、私はずっと携帯電話を拒否し続けたろう。課長になっ
てからもずっと逃げてきた私だった。しかし、一人娘の加奈の名前を出されると頷かざ
るをえなかった。
 触ると緑色に発光する番号ボタンを押して、最後に発信ボタン。耳に当てると呼び出
し音が鳴っている。
 新幹線の中で晩飯は済ませて帰るから。
 裕子にはそれだけを伝えるつもりだった。

「はい、アイザワです」
「あれ?」
 耳元から流れてきた遠慮気味の声に私は戸惑った。裕子の声ではなかった。アイザ
ワ。掠れた声。どこかで聞いたことがあるぞ。
「もしもし? アイザワですが、どなた?」
 手の中の携帯電話が問いかけてきた。その掠れた声に記憶の漆喰が剥がれた。

 名前の前に、強い香りの記憶がよみがえる。
 蔦の絡まる石壁、錆の浮いた鉄製のゲート。その向こうに建つ煉瓦作りの大きな西洋
館ではバラが満開だった。鉄門へと続いた石の歩廊に、赤い革鞄を提げたセーラー服の
少女が立っている。長い髪が少しだけ風に揺れて、スカートのプリーツも僅かに揺れて
いた。彼女は何度か首を伸ばすようにして、表通りを見ていた。手首の時計に目をや
り、そしてもう一度表通りを見る。冷ややかな表情。そんな彼女を私はどこからか見て
いた。なぜか、出番をとちった舞台役者のような気まずい思いを持て余しながら。
 藍沢ユキ?
 何年ぶりだろう。低くて少し掠れた声は、間違いなく彼女の声だった。急に体が熱く
なった。と同時にひどくうろたえた。彼女との記憶は、厚手のハトロン紙に包み、厳重
にテープで密封していたはずだった。しかし、どうして彼女がこの電話に?

 間違い電話だった。
 自宅に電話したつもりが、番号を押し間違えたのだ。それにしても、封印しておいた
はずの彼女の自宅の電話番号を押してしまうなんて、何という巡り合わせだろう。
 切れ。
 私の奥で別の誰かが叫んだ。
 もう済んだことだ。

「すみません。番号を間違いました」
 私はユキの返事を待たずに切った。そのまま手元の携帯電話を見つめる。通話表示が
消えても、液晶パネルは薄い青色に発光していた。まるで、遠い藍沢ユキの吐息がそこ
に残っているかのように。
 頭を振って、フラップを畳んだ。
 新幹線がホームに滑り込んできたのと、鐘尾が手を挙げたのがほぼ同時だった。
「さ、帰ろう」
 私は動揺を押し殺して、新幹線に乗った。

 家に帰りついたのは午後11時を回っていた。
「ついさっきまで加奈も、パパを待ってるとか言って起きていたんだけど。残念でし
た。5分くらい前に、ぱたんと寝てしまったわ」
 パジャマに着替えた裕子がそう言うと、ちいさくあくびをした。裕子の口紅を落とし
た唇に、つい電話の声を思い出しかけて、払い飛ばした。新幹線の振動で振り落として
きたはずの余韻が、遠い海鳴りのように残っている。
 ベッドで眠る加奈の顔を見てから、私もシャワーを浴び、そのまますぐに横になっ
た。出張の疲れもあったのか、案外すぐに眠りにつけたのだったが。

 暗闇の遠くから、電子音が聞こえた。
 断続的に繰り返され、次第に近づいてくる。ドップラー効果だろうか、電子音のピッ
チがだんだん短くなり、ついに頭の中が高周波で溢れそうになった。
 これは救急車の電子音か。
 近いぞ。誰か急病か。まさか加奈が……。
 そう思った瞬間に、目が覚めた。ぴーぴーと電子音が耳元でうるさく鳴っている。半
身を起こして見ると、青い光が枕元で点滅していた。携帯電話だった。
 壁時計を見上げる。午前2時。
「なんだよ、こんな時刻に」
 私は低く悪態をついた。これだから携帯電話はイヤなのだ。こっちの事情にはお構い
なしなのだ。しかし、こんな夜中にいったい誰だろう。
 すぐに、奈良で雑貨屋を営んでいる両親を思い浮かべた。去年の夏に、加奈を見せに
帰省したとき、ずいぶんと背が低くなった気がして不安になったものだ。帰り道、こっ
ちへ呼び寄せていっしょに暮らそうかと裕子と相談した。いつまでも元気だと思ってい
た両親だったが、自分たちが歳を取るのと同じように、彼らも確実に老いている。
 まさか急病、いや何か事故でも?
 不吉な予感に、乱暴に携帯電話を掴み上げた。

「もしもし、杉崎さんですか」
 どきんとした。電話の向こうから聞こえたのは、あの掠れ声だった。たちまち、背中
を百足が這いずり上がってくるような悪寒がした。
「どうしたの?」
 裕子も隣りで目を開けていた。私の顔をいぶかしげに見つめている。表情の変化を気
取られたかもしれないと思うと、私は落ち着かない。
「もしもし、ユキです。久しぶりね」
 私の返事を待っていなかった。藍沢ユキ。間違いない。彼女だった。遠い香りの記憶
が戻ってくる。風に舞うプリーツスカート。古めかしい西洋館のバラ園。記憶に体がじ
んと反応する。
「ねえ、どうしたの。誰からの電話?」
 裕子が半身を起こした。慌てる私。
「なんでもないよ。間違い電話だ」
 オフのボタンを3秒以上押し続ければ、それで携帯電話の電源は切れる。じっと親指
に力を込めた。
「間違い電話じゃないわ。私よ。切らないで。ねえ、話を聞いて……」
 通話はそこで切れた。思わず、ほっと溜息がこぼれる。深夜の静寂の中、切れる間際
のユキのせつない声が鼓膜に残っていた。
 それにしても、と思う。
 こんな夜中に唐突に電話をかけてきて、ユキはいったい何の話があるというのだろ
う。話だけなら昼間でもできる。5年以上も会っていないのだから、もし久しぶりに話
をしようとでも言うのなら、まずその方がフツウだろう。いきなり深夜に電話というの
はいかにも変だ。
 藍沢ユキ。まるで、寓話から飛び出してきた呪いを見ている気分だった。とっくの昔
に、きれいさっぱりとケリをつけたはずだったのに。
 そもそも、どうして私の電話番号が分かったのだろう。
 次々と出てくる疑問に答える手がかりもないまま、私は寝室の天井を見ていた。今夜
はもう眠れそうにない。
 隣りで裕子は寝返りを打つと、ほどなく寝息をたて始めた。

 翌日、寝不足の頭で会社へ出るとすぐに鐘尾が飛んできた。
「杉崎さん、ケータイ切っているでしょう。横浜の客が怒ってましたよ。すぐに来て欲
しいって」
 日頃からかなりうるさい客だが、業界にも相当の発言力を持っている。放って置くわ
けにはゆかなかった。鐘尾にせかされるようにして、私は会社を飛び出した。鐘尾が営
業車を運転した。
 首都高に乗ると流れは意外とスムーズだった。渋滞は出てないようで、昼前には横浜
に着けそうだった。一息いれて、横尾が煙草を取り出したので、私は昨夜の疑問をそれ
となくぶつけてみることにした。
 なぜ藍沢ユキが、知らないはずの私の携帯電話にかけてこれたのか。
 もちろん、ユキのことは伏せた。携帯電話を初めて使う初心者の、素朴な疑問として
尋ねてみたのだ。鐘尾は簡単に頷いた。
「最近のケータイだと、相手の番号が履歴として残るんですよ。番号を非通知としてお
けば別ですが、会社から支給された杉崎さんのケータイは通知設定になってるはずだか
ら、相手にはこっちの番号が残ります。その番号に対してリダイヤルしてやればOKな
わけです。いちいちこっちの電話番号を伝えなくてもコールバックができるんですか
ら、便利になりましたよね」
 鐘尾にあわせて私も笑ったつもりだったが、きっと顔はひきつれていたに違いない。
つまり、昨日かけた間違い電話の記録が、藍沢ユキのもとに残ったということらしい。
だから、彼女は私の電話番号を知ってしまった。何気ない間違い電話一本で、私は過去
の亡霊に追いかけられているのか。

 ポケットから携帯電話を取り出した。高性能の精密機器が、今ではウジ虫よりも忌ま
わしいものに見えて、私は舌打ちをした。
「あれ、まだ電源を入れてませんね。まずいですよ。留守電がパンクしちまう」
「留守電?」
「あれ、イヤだなあ。杉崎さん、今朝の僕のメッセージも聞いてくれてないんですか
あ」
 鐘尾は私から携帯電話を奪い取ると、電源を入れ、ぴぴぴっと素早く指を動かした。
それでまた私に返す。
「聞いてみてください。僕の怒りのメッセージが入っているはずです」
 そういうと鐘尾がにやりと笑った。

 ぴーっ。
「もしもし、ユキです。お電話ありがとうございました。とてもびっくりして、とても
嬉しかったです。お声を聞いて、すぐに杉崎さんだと分かりました。本当に嬉しかっ
た。間違い電話だなんてシャイなところもお変わり無いですね。あの、どこかでお会い
できませんか? ぶしつけなお願いだとは分かっているのですが、お返事ください」

 ぴーっ。
「もしもし、ユキです。ぜひお会いしたいのです。お話ししたいこともありますし。お
電話お待ちしております」

 ぴーっ。
「ユキです。ねえ、どうして電話に出てくれないの? 私のことが嫌いになったの。お
願いです、電話をください」

 ぴーっ。
「ユキです。わああーん。なんでー。電話をかけてきたのはそっちでしょ。せっかく、
せっかく忘れかけていたのに、よくも思い出させせてくれたわね。責任とってよぉ。
おーい……」

 ぴーっ。
「ユキ。何よぉ。なんでだよ。なんで、電話でないんだよ。また今度も、あたしから黙
って逃げようったって言うの。今度はそうはさせないよ。そっちがその気なら、こっち
にも考えがあるからね。逃げるんじゃないよ」

 ぱたん。
 震える手で携帯電話を折り畳んだ。
「杉崎さん。顔色が悪いっすね。大丈夫ですか」
 鐘尾がちらちらと私の顔を伺うのが分かる。なんでもないと小さく答えながら、私は
必死に落ち着こうとしていた。留守電にメッセージは十件残されていた。しかし、五件
だけ聞いて充分だった。残りもほとんどが藍沢ユキからだろう。彼女はあの電話以来、
ずっと留守電にメッセージを入れ続けたらしい。聞くに堪えないメッセージだった。
 記憶の中の藍沢ユキは、静かで理知的な少女だった。クラスでも上位の成績で、両親
は外交官。まるで絵に描いたようなマドンナ的存在であったというのに。やはり、あの
事件が彼女の人生を狂わせてしまったのだろうか。耳を疑うような汚い言葉。恨みの籠
もった口調。藍沢ユキの唇から発せられたとは、とても信じがたい。
 悪い夢だ。
 そう思いたい。いや、私はそうであって欲しいと心から願う。
 たった一本の間違い電話。かけたのは確かに私だ。その一本の電話がユキの過去を目
覚めさせてしまったと言うのか。なぜ、ユキはこれほど興奮しているのか。
 分からなかった。

 確かに……。
 私は封印していた記憶をさかのぼる。
 確かに、私とユキには高校3年の頃、ちょっとした関係があった。しかし、それは今
思えば、青春期にありがちな好奇心と恋愛願望の現れに過ぎなかったと思う。恋愛のま
ねごと。ふたりともそれをまるで水飴でも舐めるように愉しんだだけのことだったの
だ。
 疑似恋愛にとっての不都合は彼女の方に起きた。ユキの父親が醜聞事件を起こし逮
捕。ニュースは全国レベルで報道され、マドンナは地に堕ちた。思えばあの瞬間からユ
キの言動が不安定になったように思う。しきりにバラ園に誘われるようになったのもあ
の頃だ。大きな西洋館がユキの自宅だと知ったのも、バラ園で必ず抱き合ったのも、毎
夜のように自宅に電話をかけるようにせがまれたのも、あの頃からだった(だからユキ
の電話番号はソラで覚えてしまったのだ)。
 しかし、卒業が近づいたある日、私は約束した彼女の前に姿を現さなかった。ユキの
執拗さに辟易し始めた私の方が、ユキより一足早く、疑似恋愛の熱病から冷めたのだ。
そして、彼女がひとり、西洋館の前で夕暮れまで私を待っていたのを、じっと街路樹の
陰から見ていた。

 ユキは翌日から高校に来なくなった。失踪したらしいとクラスメートが噂していた。
しかし、事実は違っていたらしい。卒業式の後、流れたカラオケでクラス担任の教師が
口を滑らせたのだ。ユキは入院していた。
「どこが悪いんですか」
 気になって聞いた私に、担任教師は黙って頭を指さした。
「頭? ですか」
「壊れてしまったらしい」
 その時の私の気持ちは何と表現すればいいだろう。

「逃げるんじゃないよ」
 ユキの捨てぜりふが、急に気になってきた。
「ケータイの番号から、相手の住所とか分かるものかな」
「ダメでしょうね。電話会社は教えないでしょう。でもね、金を出せばそんなものは簡
単に分かるらしいですよ」
「このケータイから、自宅の住所も分かるのか?」
「いえ、それはないですよ。だって、この電話は会社から支給されたものでしょ。それ
だったら、会社の住所になってますから。おっと」
 小さな音がした。鐘尾が自分の携帯電話を取り出している。それを見ながら、私は少
し安心した。それなら、彼女が私の家まで追いかけてくる危険はないだろう。あとはこ
の電話をどこかに捨ててしまおう。それで会社に紛失したとか言えば、多少は叱られる
だろうが、過去の亡霊に悩まされることはなくなる。

 我ながら、素早い解決法だと嬉しくなった。ユキの真意はわからないけれど、どう
も、いまだに精神的におかしいとしか思えない。
 君子危うきに近寄らず。

「杉崎さん、会社にお客さんらしいですよ」
 鐘尾が電話口を抑えながらそう言った。
「誰? 約束してた人かな」
 急に会社を飛び出してきたから、と少し心配になる。
「アポ無しらしいです。受付で、今日は不在ですと言ったら、すごい顔して睨みつけら
れたそうですよ。でも、すっごい美人だったそうで、杉崎さんのご自宅の住所を聞い
て、帰ったそうです」
「え? ウチの住所をどうして教えるんだ」
 思わず叫んでいた。鐘尾が運転席で飛び上がった。
「届け物があるとか言っていたそうで……」
 鐘尾の声は耳を素通りした。
 ユキに違いなかった。とうとう、自宅にまで追いかけて来るつもりなのか。
 私は携帯電話を取り出した。自宅の番号をソラで押す。呼び出し音が鳴る。そこで、
はっと私は自問した。
 いったい、裕子になんと説明するつもりなのだ。
 昔つき合っていたアブナイ女が行くから注意しろとでも言うのか。
 
 溜息をついて、私は電話を切った。
 加奈の顔を思い浮かべる。そして裕子の顔。他に選択肢はなかった。
 過去の亡霊を、引きずり出したのは私なのだ。正面から向き合うしかあるまい。
 私は息を吸い込むと、別の番号を押し始めた。そっちもソラで覚えている番号だっ
た。

(了)





前のメッセージ 次のメッセージ 
「●短編」一覧 みやざきの作品 みやざきのホームページ
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE