AWC 「仏教高校の殺人」11    朝霧三郎


        
#587/598 ●長編    *** コメント #586 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  09:02  (395)
「仏教高校の殺人」11    朝霧三郎
★内容

 全員で、標高十数メートルの黒川公園の緩やかな段丘崖の遊歩道を走って
上がって行った。
 一番上まで行くと、団地沿いの多摩平緑地通りに出た。
 黒川公園の方に下っている崖は、大抵は緩やかなのだが、一か所、湧き水の
出ている岩場まで真っ逆さまに落ちる箇所があって、そこだけ鉄柵で塞がれていた。
 その鉄柵によりかかる様に亜蘭は立って西側からさす夕陽を見ていた。
 海里は東側から亜蘭に近付いた。
「何みているの?」
「ほら、見てみな。
 ダイヤモンド富士」
 呟く様に亜蘭は言った。
 西に沈む夕陽がちょうど富士山にかかって、オレンジ色に輝いていた。
「ありゃあまるで浄土の様だよ」
「そんな事より、とうとう、あの曼荼羅で残ったのは亜蘭と私だけになったわね」
 と海里は言った。
 亜蘭はこっちを見たが西日で逆光になり表情は分からない。
「でも、私には分かった。
 リエラの事、妃奈子の事、そしてさっきの郁恵の事も。
 みんなに教えてあげる」
 海里は振り返ると、剛田と三羽烏と三銃士に言った。
 みんな西日でオレンジ色に染まっている。
「まず最初に、リエラの事から言うわ。
 あの事件は、犬山君の送ってきれたテキストを見た時から、
なんとなくわかっていた。
 きっとストリートですれっからしにひどい目にあわされて、
すれっからしが嫌いになった人、それは」
 リエラは夕日に照らされていた内の一人を指さした、ズームイン。
「優波離、それって、乾明人じゃないの?」
「何をいきなり言い出すんだよ」
 と乾明人は手のひらで西日を避けながら海里を見た。
「じゃあ、動かぬ証拠を見せてあげるわ。
 つーか、不思議だったのは、何であの高尾山の日に牛タン弁当を
買ってきたかって事。
 何で?」
「は? 俺に聞くなよ」
 と乾明人。
 海里は、牛タン弁当をナップから出した。
「何で、そんなものもってんだ」
 と乾明人。
「今日偶然にももらったのよ。
 仙台から帰ってきた蓮美に。
 賞味期限は17時だからまだ食べられる。
 優波離こと乾君、食べてみてよ」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだよ」
 海里は弁当を乱暴に開封すると、箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「いいから食べてみて。いいから」
 と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
「みんなおさえて」
 言うと、三銃士の猿田、雉川が両肩をおさえて、羽交い締めにして、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になった。
 この状態で海里は、牛タンとご飯を乾明人に食わせた。
 モグモグと数回咀嚼してから、
「ううっ、うえー」
 と乾明人は吐き出した。
「なんだ」
 と一同。
「ガルシア効果だわ」
 と海里。
「ガルシア効果?」
 と剛田が言った。
「そう、ガルシア効果。
 この乾明人とリエラは、あの焼肉屋のコンパで、焼肉を食べた後
メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いた。
 一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
 実際、リエラは、文化祭の反省会の時にサイダーが飲めなかった。
 しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
 焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
 それで今乾君は吐き出した。
 そうでしょう?」
「知らねーよ」
 言うと、ペッっと唾を吐いた。
「それにしても不思議だわ。
 何で乾君は、何故食べられもしない牛タン弁当を高尾山に持って
行ったのかしら」
 海里は、牛タン弁当をもったまま腕組みをする。
 三銃士も剛田も首をひねっている。
 小暮勇、城戸弘は神妙な顔をしていた。
 亜蘭の顔は逆光で見えない。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を持って行ったのよ」
 と海里は問うた。
「知らねーよ」
 と乾明人。
「なんでだ。
 言ってしまえ」
 と三銃士。
「知らねえーよ、ってんだろ」
「あのテキストにはこう書いてあった。
 リエラは、ユーミンのメロを聞くと股間が濡れる様に条件付けされた。
 パブロフの犬が、ブザーを聞けばヨダレが出る様に。
 でも、それだけでは、滑落しない。
 股間が湿っただけでは足を滑らせたりはしない。
 だから特別な仕掛けを用意したって。
 それがなんだかは書いてないけれども。
 そこにポツンと出てきたのが、この牛タン弁当。
 これで何をしたの?」
「知らねえよぉ」
「じゃあ私の想像を言ってあげる」
 と海里は言った。
「今日、蓮美に聞いたんだけれども。
 この紐、これを引っ張ると、生石灰と水と反応して熱が出るの。
 それを聞いた時に私は思った。
 もしかしたら、乾君は、生石灰をリエラのパンティーに仕込んでおいたん
じゃないか、と。
 それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して……。
 それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「バカ言ってんじゃね」
 と乾明人は手を打って笑った。
「想像力たくましすぎだね」
「だって、あの日、『アニー・ホール』の真似をして、パンティーを
プレゼントしたって、テキストに書いてあったじゃない。
 あんたが仕込んでおいたんじゃない?」
「馬鹿馬鹿しくて付き合ってらんねーな」
「そんなの警察が後で調べれば分かるんだから」
「じゃあ、調べてから文句言え」
「そんな事、ありえんのかなあ」
 と、剛田や三銃士らは、ざわついていた。
 小暮勇、城戸弘は沈黙。
 亜蘭は相変わらず西日の逆光の状態。
 海里は牛タン弁当を足元に置くと、大きくため息をついた。
「次に第二の事件。
 妃奈子の件だけれども。
 これも、犬山君の送ってくれた裏掲示板の書き込みで分かるのだけれども。
 それは、ストリートでインポテンツになって肛門性愛に目覚めた変態。
 変態といえば、城戸弘だけれども、今回の変態は…」
 言うと海里は又指さした。
 ズームイン。
「小暮君、あなたじゃないの、大迦葉は」
「おいおい、何で俺に矛先が向いてくる」
 と小暮勇。
「だって、部室で、眼球を舐めてほしいのは、メーテルに自分だけを
見てほしいからだ、とか言っていたのは城戸君だけれども、
小暮君もそう思ってから、だから、8組のメーテル、或いは如来さまの蓮美に
催眠をかけたんじゃないの?」
「はぁ?」
「は、じゃねーよ。
 星野鉄郎は男としてはメーテルにはもてない。
 だからメーテルに女性性器があったら他のオスがきて星野鉄郎は完璧な愛を
得られなくなってしまう。
『ごめんね、お母さんも女だったの…』みたいになってしまう。
 だからメーテルには女性性器はないから、肛門性愛しかない。
 そして、自分だけを見ていて、という事でしょう」
「なにを、精神分析医みたいな事を言っているんだよ」
「すっとぼけるんだったら、あんたにも、動かぬ証拠を突き付けてやる」
 言うと海里はスマホを出した。
「あんたは妃奈子に、J−WAVEのジングルを聞くと瞬きをするように
条件づけした。
 この私のスマホにもJ−WAVEのジングルを入れてあるの。
 今から、このスマホでJ−WAVEのジングルを小暮君に聞かせるわ。
 何が起こるかしら。
 さあ、三銃士、おさえて」
「おりゃあ」
 またしても上島竜兵の様におさえられる。
 海里は、小暮勇、に迫って行くと、スマホを小暮勇の耳に当てて再生した。
「JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
エーリィワンぽいんスリー、ジェーウェーブ
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
ジェイ、ウェーブ グルーヴライン
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
「ほら、ほら、見て見て、目が赤くなっていく」
 と海里。
「本当だ」
 剛田が覗き込んで言った。
「はなせっ」
 と三銃士を振りほどくと、小暮勇は目をおさえた。
「何が起こったか説明する。
 小暮君は妃奈子に、J−WAVEのジングルを聞くと瞬きするという条件づけ
をしたんでしょ。
 J−WAVEのジングルという刺激を与えつつ、キッスは目にして!
という刺激で瞬きをするという反応を引き出す。
 その内、J−WAVEのジングルを聞くだけで瞬きするという条件反射が完成する。
 でも、あの体育館倉庫はアンモニア臭かったのよ。
 つまり、あの時、アンモニアで目が染みるという刺激で、目が充血する反応が
起こっていたから、知らない間に、J−WAVEのジングルを聞くと目が充血する
という条件反射が完成していたのよ。
 それが、あなたが体育館倉庫にいたという動かぬ証拠よ」
「そんな事が起こるのかよ」
 小暮勇は目を擦っていた。
「じゃあ、どうして目が赤いのよ」
「そりゃあ…夕日のせいじゃないの」
 小暮勇は言い捨てるとそっぽを向いた。
 海里は、ふぅー、と大きくため息を一個。
「これで2つの事件は説明したわ。
 そして、最後に郁恵の事件」
 言うと遊歩道に立っている亜蘭を睨む。
 夕陽の逆光で相変わらず表情が見えない。
「あれも、条件づけだったの?」
 亜蘭は何もしゃべらない。
「条件反射なんて、腺、涙腺とかバルトリン腺とか、あと筋肉でも瞼とか
そういうところにしか出来なくて、腕を振り上げてナタを振り下ろすなんて
条件づけはあり得ない。
 そんな条件反射はないのよ。
 あれは、伊地家さんが意思をもってやったこと。
 でも、どうやってそんな事をさせたのか。
 それは、“転移”よ。
 そうでしょう?」
 言うと海里は手のひらをひさしにして亜蘭を見た。
「それを私は、警官に取り調べられる伊地家さんの言葉から思い付いた。
 伊地家さんは、指で額を押されて、深く椅子に座っていれば立てないのだ、
というトリックで騙されて亜蘭のいいなりになったって言っていた。
 私も、かつて、それと同じ事を同じ事をされていたの。
 私も額を指で押さえられて立ってみろって言われた事があるの。
 私もあの時、亜蘭はなんでも知っていると思ったもの。
 それは”転移”でしょう?」
 夕陽が陰ってきて、亜蘭の顔の輪郭が浮かびだした。
「それで分かった。
 梵天は亜蘭、あたなでしょう」
「じゃあ、なんで、乾や小暮が亜蘭のいいなりに?」
 と三羽烏の変態、城戸弘が言った。
「それは、彼の祖父のお寺がボヤを出して、修復に宮大工や仏具屋が必要に
なったから。
 乾君の家や小暮君の家は宮大工と仏具屋だから言いなりになったのよ」
「そっか、石屋の俺には出番はなかったのか」
 今や、海里と剛田、変態城戸弘と三銃士が亜蘭を見詰めている。
 乾明人、小暮勇、は項垂れて下を向いていた。
「あの胎蔵界曼荼羅の絵を貼ったのも亜蘭でしょう。
 バイクの3人もまさかあなたがやったの?」
 亜蘭は足元のじゃりを靴でじゃりじゃりやっていた。
 一回大きく蹴るとこっちを向いた。
「あれは事故だよ。
 ただあそこで、あと3人死ねば、あとは僕と君だけとは思ったよ」
「リエラも妃奈子も郁恵も、幼馴染じゃない」
「ああそうだよ。
 でもああした方がよかったんだよ。
 どうせあの胎蔵界曼荼羅のメンツは出来損ないで、娑婆に“なまぐさ”
をためるばかりだったから。
 さっさとみんなポアして、あの世に帰った方がよかった」
「なによ、“なまぐさ”を増やすって」
「リエラは、絶望して“なまぐさ”を増やす。
 妃奈子は、絶望に気が付かなくて、望花に嫉妬されて“なまぐさ”を増やす。
 そして、郁恵は、何もしらないけれども、伊地家に嫉妬されて“なまぐさ”
を増やす」
「ちょっと待って。
 バイクの3人だろ。
 あと、リエラ、妃奈子、郁恵の3人だろ。
 生き残りが亜蘭と海里の2人としたら、1体合わないじゃないか」
 と城戸弘が言った。
「そうよ」
 と海里。
「亜蘭がやったのは、“なまぐさ”が増えるあらポアした、なんていうの以外に
理由があるの。
 あの大日如来のXは誰?」
「そうだよ」
 こっちを向いて亜蘭が言った。
「君が想像している通りだよ。
 君の兄も成仏できるからだよ」
「私の兄が浮遊霊みたいなものでかわいそうだから、だから、みんなを殺したの?
 私の兄を殺してしまったという自責の念からみんなを殺したの?」
「そうだよ。
 みんな、生きていたって、“なまぐさ”を増やすだけだったら意味ないし。
 それだったら君の兄を成仏させる為にリセットしても、と思ったんだよ」
「その理屈で行くと、自分も死なないとならないのよ」
「そうだよ」
「じゃあ、私も殺す気?」
 亜蘭は鉄柵を掴むと、険しい形相でこっちを睨んだ。
「いや、まず僕がここで胎蔵界曼荼羅の中に戻るから。
 君もついてきて」
 いうと、亜蘭は西日のあたる鉄柵によじのぼった。
「おいおいおい、危ない危ない」
 と剛田が近寄ろうとする。
「来るな」
 と亜蘭。
「お前とは違って、僕は本当に“なまぐさ”をポアしてやるんだよ」
「なにぃ」
「いいか、見ていろ」
 言うと、鉄柵を上り切った。
 みんなを一瞥すると、またいで…。
 飛び降りていった。
「あっ」
 と剛田、三銃士らが声を上げる。
 0.数秒して、ぐしゃっと音がした。
 みんな、鉄柵にへばりつくと、下を見下ろした。
 上から見上げると、崖下で卍の様な恰好になっている。
「ありゃあ、死んでいるな」
 と三銃士と変態城戸弘。
 海里も鉄柵をつかんで、ぼーっと崖下の卍を眺めていた。
 それから、顔を上げるとみんなの方をぼーっと見てから、まだかすかに
オレンジ色に染まっている富士山を見た。
(自分も飛び降りれば、胎蔵界曼荼羅は全部揃うのか。)
 と海里は思った。
(そして、兄も成仏するのか。
 私だけ娑婆にしがみついているのがいい事なのか。)
 そして海里は突然、鉄柵に両手をかけて、右足をかけた。。
「何する気、ちょっと待って」
 と剛田は海里の足首を掴んだ。
 海里は足首を引っ込めると逆に剛田を蹴り返した。
「私らのことは放っておいて」
 言うと鉄柵に左足をかけた。
(よし、思い切って、)
 と左足で鉄柵をまたごうとした時、突然左腕と左足がしびれた。
「あっ」
 と短い声を出すと海里は道路側に転落した。
 そのまま失神した。
 剛田や三銃士が車座になって見下ろした。
「だいじょーぶか?」

 海里の家、後泉庵は小さな尼寺だった。
 玄関を上がると、書院、その隣に便所と台所、その隣がもう庫裏で、
茶の間と海里の部屋がつながっていた。
 玄関を右手に行くと、客間と塔婆置き場があった。
 その先の渡り廊下を行くと本堂があった。
 塔婆置き場には、修行中の尼僧が住み込んでいた。
 名を、恵妙と言った。
 じゃりン子チエみたいな感じ。
 恵妙の場合、修行とはいっても、日々精進料理を作っていて、
『やまと尼寺 精進日記』の様な生活をしていた。
 恵妙は、格別に、海里を可愛がっていた。
 だから、日々、海里の為に、消化のよい粥などを作った。
 しかし、月、火、水、3日間、海里は寝たきりだった。
 4日目に往診の大野医院のじいさんがきて、ぶどう糖液の点滴をした。
 点滴を終えて、茶の間に来ると、大野先生はコタツに足を入れた。
「まあ、若いから、1週間ぐらい食べなくても平気でしょう。
 その内食べますよ」
「そうですかあ。
 一人なくしているものですから、あの子は」
 と母親は言った。
「ほう、仏教では、死んでもあの世があるんじゃないんですか?
 お兄さんはあの世に行ったんじゃあ」
「個別の霊魂はないです。
 スピリチュアルじゃないから。
 人間は全て空です」
「そもそも、空というのはなんですかな。
 どう考えても実在している」
「空とは、真空パックをぐーっと引っ張ったようなエネルギーだけの空間ですかね。
 それを、ぎゅーっと圧縮すると、個体になって、ある様に感じる。
 でも、何もないんです。
 でも、そこにはそこかしこに汚れ“なまぐさ”がたまっていて。
“なまぐさ”も出てくる」
「“なまぐさ”とはなんですか。
 自然の事ですか。
 自然は美しくもあり醜くもあり。
 自然は美しいが排泄物は汚い」
「“なまぐさ”といったら、宇宙にただよっている汚れの事です。
 その汚れがこの娑婆に生まれた人間にも伝わってくるんですよ」
「宇宙と人間とはつながっているんですか」
「とかげのしっぽみたいなものですよ。
 宇宙がとかげの本体で、個体というのはしっぽみたいなものですよ。
 だから、ちょんぎれて死んでも、そもそも個体の意識とは宇宙の意識なんだから
悲しむ事もないし。
 又別のしっぽが生えてくるし。
 生まれ変わりといえば生まれ変わりだけれども、死んだとかげのしっぽが
生まれ変わる訳じゃない。
 そのしっぽのさきっぽである人間一人一人が生活の中で“なまぐさ”を
減らせばとかげ全体の“なまぐさ”も減らす事が出来るんですがねえ。
 若ければ“なまぐさ”を減らすチャンスもあるので、若くして死ぬのは残念です」
「まあ、若いから、じきによくなるでしょう」

 海里は5日目にやっとこ起き上がると、恵妙の作ったミルクでゆでた粥、
スジャータの乳粥を食べる。
 クラムチャウダーみたいな味がした。
 土曜も日曜も、恵妙は料理を作って、海里はよく食べた。
 翌週の月曜日に登校した。

 まだ誰もいない朝。
 もうすっかり冬の朝だった。
 冷たい空気でが鼻腔にすーっとした。
 身が引き締まる様な気分だった。
(今日は自分が日直だ。)
 黒板のところに行って、チョークを取り上げると、チョークのニオイまで
鼻腔で感じられた。
(病み上がりで神経が敏感になっているのかなあ。)
 黒板の日直のところに名前を書こうとした。
 すると又左手がしびれだした。
(まだ治っていないのか。)
 しかし、左手は勝手にチョークを握りしめ黒板にこう書いた。
「天寿全うするべし。あに」
 そして、チョークを落とすと、すーっとしびれはなくなった。
(これは、胎蔵界曼荼羅の兄からのメッセージだ。
 兄の魂は生きている。)
 人の気配がして、後ろの扉があいて、誰かが入ってきた。
 海里は急いで黒板消しで板書を消す。
 入ってきたのは蓮美だった。
「やあ、おはよう。
 ひさしぶりだね、もう大丈夫なの?」
 と蓮美。
「大丈夫だよ。
 今、ちょっとしびれたけれども、もう全然大丈夫だよ」
「ふーん、よかった」
 蓮美は前の方の自分の席についた。
 海里は廊下側の後ろの席に着くと蓮美の背中を見た。
「あいつも、胎蔵界曼荼羅には戻らないで娑婆に残っているのか。
じゃあ私もそうするか」
 それから海里はスマホを出して、グループチャット『比丘尼の小部屋』に
タイプした。
 海里:「そして 誰も いなく ならなかった」

【了】





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