AWC 木陰に臥して枝を折る 3   永山


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#417/598 ●長編    *** コメント #416 ***
★タイトル (AZA     )  12/09/25  00:45  (371)
木陰に臥して枝を折る 3   永山
★内容                                         15/01/26 17:21 修正 第2版
 それから数日は新たな警察発表がなく、僕らも動きようがなかった。河田玉
恵が立ち寄りそうな場所の心当たりを、彼女の知り合いから聞いて回ってみた
が、徒労に終わった。警察は北海道の伯母周辺にも網を張っているに違いない。
それでも見つからないとは、よほど巧妙に隠れ潜んでいるのか。あるいは、河
田玉恵は矢張り殺害されて……?
「空想ならいくらでも広がるんだよ」
 七月二十七日。僕は宿題の分からないところを先輩に教えてもらう名目で、
学校に来ていた。場所はコンピュータ室。出発前の一ノ瀬が、最後の一仕事と
かで冷房の効いたこの部屋を使うと云うから、便乗して入れてもらった。
「たとえばどんな空想ですか」
 先輩に合いの手を入れ、宿題のプリントに答を書き込み、たまに一ノ瀬の本
気か冗談か分からない妙な日本語に突っ込むという三役を僕はこなしていた。
「十文字さんの思い浮かべた説、当ててみていいかにゃー?」
 リターンキーを押した一ノ瀬が、猫の手つきのポーズで椅子ごと振り向いた。
ディスプレには英数字の列が凄い速さでスクロールしている。
「やってみたまえ、一ノ瀬君」
「では、お言葉に甘えてほんの一例。誘拐犯が少なくとももう一人いて、そい
つに匿われている」
「素晴らしい」
 先輩は拍手の格好をしたが、僕には何を云っているのかさっぱりだ。
「以前、間違えて河田玉恵を誘拐した犯人は、実は三人以上いたと考えるんだ。
ひとまず三人としよう。仲間割れで二人が死亡するも、残る一人は無事だ。そ
いつは理由は不明だが被害者と意気投合。ストックホルム症候群の線もある。
とにかく、河田玉恵は警察に三人目の存在を証言しない。代わりに、誘拐犯も
何らかの約束をした。それが今果たされようとしているのかもしれないってこ
とさ」
「ああ、そうか。そんな関係なら、警察も簡単には把握できない」
「もしこの空想に近い推理が当たっているなら、死んだ誘拐犯二人の身辺を洗
えば、該当者が浮かび上がるだろう。ただ、突飛さ故に、まだ八十島刑事に進
言していない。何か一つでいいから、根拠が欲しいんだ」
「普段、連絡を取り合っていたとしたら、多分、電話かメールを使ったんでし
ょうけど」
「携帯電話は調べ尽くされている。もう一台、他人名義の物を使ったとすれば
お手上げだ」
「難しく考えなくても、第三の誘拐犯イコール笠置ってことはないのかな?」
 一ノ瀬は云うだけ云って、またコンピュータの方を向いた。十文字先輩も同
じ画面を見つめながら、考えを話す。
「ないと断言はできないが、右足の主を笠置と考えると、大怪我を負った状態
で河田玉恵を匿う余裕があるとは思えない。他に、右足の特徴に合致しそうな
人物はいないし……」
「じゃあ、笠置は死んでいると見なすしかなさそうだね。大掛かりな裏組織が
がりがり噛んでない限り、重傷を負った人をこっそり治療できないだろうから」
「まあ、その通りだろう」
「となると、死体の処理をしなくちゃ」
「死体の処理か……現場にあった灰は、人体一人分にしては少ないかもしれな
いという話だったな。別の場所に遺棄した可能性もある訳だ」
「車、ですかね」
 僕が口を挟むと、先輩はさも当たり前のように頷いた。
「遺体がよそに運ばれたとしたら、当然の帰結だ。だが、そこから何が分かる
のだろう? 河田玉恵は運転できまいが、第三の誘拐犯が運転できるのなら矛
盾はない」
「確かに」
「あ」
 しょんぼりする僕の横で、一ノ瀬が急に声を上げた。プログラムの不具合で
も見つかったのかと思いきや、そうではなかった。
「十文字さんと充っちに質問。テレホンカードって持ってる?」
「テレホンカード? 家にはあるかもしれないが、持ち歩きはしてないな」
「同じく。携帯電話で済むし、バッテリー切れのときは硬貨を使えばいいし」
 僕らが答えると一ノ瀬は嬉しそうに「でしょでしょ?」と何度も首を振った。
「ひょっとすると、犯人、というか公衆電話から通報した人も同じかもしれな
いよっ」
「――そうか。公衆電話に投じた硬貨に指紋を残した可能性がある!」
 十文字先輩は大発見をしたかの如く、大声で叫んだ。実際、このときの僕ら
は優れた推理だと信じ込んでいた。
 が……あとで八十島刑事から聞いたところでは、捜査では常識らしかった。
その証拠に、警察は事件発生当初から問題の公衆電話に入っていた硬貨を全て
検査し、指紋採取を済ませており、前歴者との照会作業も大詰めを迎えていた。

「携帯電話の類に、物心ついたときから慣れ親しんでいたかどうかで、その辺
りの意識のずれはあるだろうねえ」
 話を聞いた八十島刑事は、失笑を交えた反応を見せた。
 一ノ瀬を見送った帰り、僕と十文字先輩は八十島刑事と待ち合わせて、話を
聞いた。場所は前回と同じ喫茶店。
「今日中に報道されるはずだが、公衆電話の硬貨の一枚から、窃盗の前科があ
る二十代の男の指紋が検出された。事件への関与は定かでないが、公衆電話の
利用者は製鉄所社員がほとんどで、無関係の者が使うこと自体珍しい。北陸生
まれで、出所後は各地の建設現場で働いていたというが、現在は行方知れず」
 名前は教えてくれないらしい。まあ、ニュースを待てということだ。
「その男と、以前の誘拐犯との関連は?」
「そういう観点では調べていなかった。十文字君に云われて、すぐに追加調査
した。今のところ、誘拐犯の女の方と同郷だと判明している」
「では、河田玉恵の関係は? 以前からの知り合いではないと?」
「恐らくな。君の想像通り、誘拐事件で知り合ったのかもしれん。刑事はあん
まり想像をたくましくしても、それだけでは動けん。一つずつ、事実を積み重
ねて目がありそうなら、より詳しく捜査する」
「承知しています。ただ、河田玉恵もまた被害者である可能性は残っている。
なるべく早く動く必要が」
「それこそ、云われるまでもない」
 刑事は断固たる口調で述べた。機嫌を損ねた訳ではないようだが、プライド
を感じさせる響きがある。
「まあ、あとは我々に任せなさい。男の居所を突き止めるべく、奴の知り合い
や立ち回り先、勤務経験のある現場を当たっている」
 確かに八十島刑事の言葉通り、最早、素人探偵にやれることはないように思
えた。
 だが、この日の夜、事件は急展開を見せた。いや、見せていた。僕の知らな
いところで進展していたのだ。

           *           *

 十文字龍太郎は六十メートル下の川の流れから、視線を上げた。橋の出口付
近に人影を認め、呼び出しが偽でなかったことにひとまず安堵する。と同時に、
緊張感も高まる。
 昼近くの陽光の加減で、まだ顔は判然としない。お互いにそうだろう。
「河田玉恵さんですか」
 十文字は橋を渡り切り、相手の真ん前に立った。帽子や眼鏡で変装している
が、写真で見た覚えのある顔を確認できた。女性自身も頷いた。
「あなたが、早恵子の云っていた十文字龍太郎君?」
「はい。依頼を受けたつもりでしたが、妙な成り行きになったようで」
 河田の右足を見やる十文字。無事だった。足に限らず、彼女はどこも怪我を
していない。
「そのことで呼んだのよ。助けて」
 河田は懇願するような仕種をした。
 ――昨日、夕食を終えた頃、十文字の携帯電話に非通知着信があった。出て
みると、河田玉恵からで、番号は針生早恵子から聞いたらしかった。
 早く姿を見せるよう、説得を始めようとした十文字だが、河田は先んじて改
めての依頼をしてきた。
「こうなったのには深い事情があるのよ。それを聞いてもらいたいのと、私を
助けて欲しい。警察は信用できない。どうしようか困っていたとき、あなたを
思い出した。探偵の看板を掲げているのなら、依頼人の秘密は守ってくれるわ
よね?」
「……やむを得ない。依頼を受けます」
 十文字は承諾すると、念のため、確認の質問をした。
「警察は無論、その他にも口外してはならないということですね?」
「そうよ。明日出て来て欲しいのだけれど、当然、あなたは一人で来て。警察
の尾行や知り合いの同道は許さない」
「分かりました。どこへ向かえば?」
 河田が指定したのは、甲信越のG県にある村に通じる吊橋だった。通話を続
けながらルートを調べると、早朝発てば翌日の午前中に着けるであろうと推測
できた。
 そうして十文字は、鞄一つで呼び出しに応じたのであった。
「話をすぐにでも聞きたいところだが、こんな場所でかまわないんですか。そ
もそも今まで、どこにいたんです?」
「案内するわ。着いて来て」
 河田は警戒の視線を周囲に走らせ、すたすたと歩き出した。十文字が続く。
「村の人に見られると、目立ってまずいのでは」
「村興しの農業体験に来た学生ってことになってる。この村は昔、バンジージ
ャンプみたいな施設を作って人を集めようとして失敗して、今では農業体験や
田舎暮らしに力を入れているらしいわ。それでも閑散としてるけれども」
「ということは、どこかの農家の世話になっているんですね」
「ううん。他に大勢、その類の若い人が来てるから、紛れてるだけ。住まいは
外れに立つ廃屋を勝手に借りてる」
「一人で?」
「今は一人。ここに連れて来てくれたのは、大下(おおした)さんだけど、一
緒にいるとよくないって、別の場所に移ったわ」
「大下俊幸(としゆき)ですね。ニュースに出ていた」
 十文字の声に、河田は前を向いたまま、無言で首肯した。
「前科のある男のようだが、どんな経緯で知り合ったんでしょう? 差し支え
なければ、話していただきたい」
「名探偵なら当たりは付いてるんじゃないの?」
 でないと任せられない。そんな響きを含んだ物言いの河田。
 十文字は自らの推理を伝えた。誘拐一味のメンバーだったのではないか、と。
「矢っ張り、見抜かれていた。私達、罪に問われるのかしら?」
「程度問題だが、多分そうなるでしょう」
「そのことと、今度のことは全くの別。それをよく頭に入れておいて」
 振り返り、真剣な表情を見せた河田。十文字は声は出さずに、小さく曖昧に
頷くにとどめた。迂闊に引き受けてよかったのか、荷重に感じ始めていたのが
偽らざる心境だった。
 その後、村の裏道を歩き継いで、廃屋に辿り着いた。河田は廃屋と表現した
が、少し前に家人のいなくなった平屋建てという風情で、雨風を防ぐのには充
分役立つと思える。窓ガラスも割れていない。水道や電気の類は届いていない
が、食料を始めとする生活必需品を買い込んでおけば、ひと月程度は人知れず
暮らせそうである。
「まず、事情を伺いましょうか」
 奥の間で座卓を挟んで向き合うと、十文字は依頼人に求めた。
 すると河田は、他人の目が遮断された場に来た安心感からか、涙ぐみ出した。
気持ちが高ぶり、順序立てて話すのが難しくなっている様子だ。
 分かりづらい点を辛抱強く問い質しながら、十文字が聞き取り、理解した話
をまとめると次のようになる。
 ネット等の罵詈雑言に傷付いていた河田玉恵は、精神的に不安定になり、と
きにこの世から消えてしまいたいと思い詰めるようになった。事件の前日は、
その気持ちが最高潮に達し、何かきっかけがあれば自殺しかねない心理状態だ
った。当時最も心を開ける相手だった笠置の携帯電話に電話し、支離滅裂な話
をわめき散らした。
 心配した笠置は河田のマンションに向かい、その途中で家を出た河田を見つ
ける。河田は製鉄工場の敷地に入り込み、線路に寝転がった。工場へコークス
などを搬入する列車がいずれ通過する。そうなれば命を落とすのは間違いない。
もちろん、笠置は河田を説得する。言葉では無理と悟ると、力尽くで線路から
引っ張り出そうと試みる。抵抗する河田。もみ合いのような状況になっている
と、そこへ列車が迫ってきた。接近に気付くのが遅れる。笠置は河田を突き飛
ばし、自らも線路の外にダイブした。が、完全には避けられず、右膝から下を
切断する重傷を負う。
 列車の運転士は気付かない。人影は見えても、うまく逃げたのだと解釈した
のかもしれない。さらに、当夜の大雨が血を洗い流すことで、痕跡をあらかた
消し去った。
 笠置は右足を失ったショックから意識をなくし、動けなくなる。河田も茫然
自失状態で、対処できなかった。結果、笠置は出血多量により死亡(と推測さ
れる)。我に返った河田だが、大ごとになったと恐ろしくなり、困窮の挙げ句、
かつての誘拐事件で奇妙な仲間意識を持った大下に連絡を取る。犯罪に手を染
めたことのあるあの男なら、何とかしてくれるのではないかと考えての行為だ
ったという。ちなみにこの時点で河田自身の携帯電話は自宅に置いてきたため、
笠置の携帯電話から掛けている。
 たまたま近くの町に滞在していた大下は、タクシーで駆け付けた。彼は河田
から以前にも一度、悩み――消えてしまいたいという願い――を聞いていた。
そしてこの事態を利用すれば、その願いが叶うぞと河田に持ち掛けたのである。
他人の右足を自らの物に見せ掛け、怪現象で死んだように偽装する計略。大下
は河田と笠置がどれほど似通った特徴を備えているかを知らずに立てた策だが、
それを聞いた河田はごまかし通せると信じた。足のサイズや血液型が同じで、
DNAも何とか細工できるのだから。
 策は実行された。死んだ笠置を小屋に運び入れ、まず、毛髪をいくらか抜く。
大下が盗みのために常備していた携帯バーナーを使い、火を着けた。服が濡れ
て、なかなか燃えずに悪戦苦闘したという。そして、右足だけが燃え残ったか
のように配置した。
 急ごしらえの計画を出たとこ勝負で決行した割に、偽装はうまく行った。少
なくとも当初はそう思えた。
 しかし、警察の捜査によって次第に暴かれ、大下の存在まで嗅ぎつけられた。
進退窮まり、河田は十文字に救いを求めたという。
「河田さん、あなたの話が真実であるなら、一介の高校生探偵に頼らずとも、
警察に出向いて正直に話せば、分かってもらえるんじゃありませんか。未成年
である点も考慮されるでしょう。遺体の損壊は非常にまずいが、心身喪失を訴
えることはできる」
 河田に対して云いながら、十文字は忸怩たる思いでいた。何という平凡なア
ドバイス。犯罪を暴くことや謎を解くことには立ち向かえても、罪を犯した者
に頼られてとことんまで付き合う覚悟は、自分にはまだなかったのだと痛感す
る。探偵たる者、必要となれば多少はイリーガルな方法にも手を染める、そう
でなければ警察と変わらない――と考えていたのに、いざ起こってみるとこの
為体だった。
 河田玉恵は十文字の助言に、対応を迷う風だった。どちらかというと難色を
示していた。もし今度件の真相が公になれば、バッシングの激しさは過去の比
ではなくなるだろう。無理もない。
 一晩、考える時間がほしいと言い出したため、待つことになった。
「僕は一旦、引き返した方がいいですか」
 内心では残るべきだと考えていた十文字だが、敢えて尋ねた。相手の答は、
意外にも「そうしない方がいいわ」だった。
「いない間に、私、逃げるかもしれない」
「……それがあなたの意志なら、仕方がない。ただし、そうなった場合は、あ
なたがここに潜んでいたことを、知り合いの刑事に伝えるつもりでいます」
「私だって、逃げたくない。けれど、誰もいなくなると逃げたくなる気がする」
「大下という男は、どうなんです? 連絡は取れるんですか」
「大下さんから非通知で掛かってくるのを待つだけ」
 河田は真新しいが旧型の携帯電話を取り出して見せた。ボディは白色、デザ
インも機能もシンプルで、通話のみに使えるようだ。
「何らかの指示を受けてない?」
「特別なことは。ここで待てとだけ」
「将来どうするつもりだという話すら、ないんですか」
 少し怒気を込めて、十文字は問うた。河田は当然のように首を縦に振った。
「先が見えていたら、こんなところに隠れていない」
「そりゃそうだろうけれど……」
 国外逃亡ぐらい画策しているのかと想定していた。肩透かしを食らった心地
になり、十文字は考え込んだ。自分がすべきは、依頼人の期待に応えること。
つまり、河田玉恵が生きて姿を現しても、今まで以上の非難を浴びることなく、
元の生活に戻れように持って行く。
(大下に全てを被ってもらうでもしない限り、無理だ)
 河田はあくまでも巻き込まれただけとするには、それしかあるまい。他に妙
案が浮かぶ気配はない。
(いくら前科者でも、大下がそこまでするだろうか。そもそも、彼女と大下と
は、どういう感情で結び付いているんだ?)
 恋愛感情があるのなら、あるいは望みがあるかもしれない。
 しかし、大下が河田を好いているのなら、こんな風にひとりぼっちにするだ
ろうか。連絡もあまりないようだし、差し入れを持って来る訳でもない。ほぼ
放ったらかしと云ってよかろう。
「情報はいかにして得ているんです?」
「ラジオが一つ。乾電池はたくさんあるから、電気切れの心配は当分ないわ」
「それはいいのですが……」
 内心、懸念する十文字。逆に大下に今度の件を弱味とされ、より大きな罪を
被せられる恐れがありはしまいか。誘拐犯同士が殺しあったとされるあの事件
に関しても、警察発表通りなのか、極めて怪しい。
「……矢張り、今夜はここにいることにします」
 現時点で、誘拐事件のことまで問い質すのは、得策でないと判断した。また、
一晩いたからといって、大下の動きが把握できると期待した訳ではないが、で
きる限りのことをしないと落ち着かなかった。
 それから――空き家は他にもあったが、一つ屋根の下で寝泊まりすることに
した。明かりはあるが、外に漏れた光を目撃されると住民に不審がられ、通報
の恐れがある。よって、家屋の中央部に位置する部屋でしか明かりは灯せない。
「信用しているから、別にいいのに」
「依頼人に信用されるのはありがたい。ですが、第三者が見てどう思うかも大
事ですから」
 同じ部屋に仕切り一つを立て、寝床を用意しようとした河田に対し、十文字
は辞退した。隣の部屋に移り、早々に横になる。ぼろぼろの畳の上にこれまた
ぼろぼろのマットレスを敷き、タオルケットを被るだけの寝床だ。どうせすぐ
には寝付けない。万が一、大下が十文字の考える限り最悪の出方をしたとして、
さらに万万が一、偶然にも今夜行動を起こすとしたら……徹夜してでも対処せ
ねば。
 食事は自らが持って来た軽食に、河田が分けてくれた物を合わせて摂った。
そこそこ腹は満ちて、疲労感も取れたはずだった。

           *           *

「――いつの間にか眠っていた」
 悔しげに十文字先輩は云った。述懐がしばらく止まる。僕も入力の手を休め
た。先輩の家の先輩の部屋に、僕はノートパソコンを持ち込み、事件の記録を
取っていた。
 先輩はテーブルから湯飲みを取り上げると、一口煽った。息をつき、話を再
び始める。
「事件に携わっている最中に、眠ってしまうとは、我ながら信じられない。思
うところはあるのだが、それは後回しにしよう。いいかい?」
「かまいません」
「目覚めた僕は、時刻を確かめた。朝八時十五分。随分眠ったことになる。隣
の部屋の様子を窺った。呼び掛けたが返事がない。いやに静かだった。もう一
度声を掛けてから、ふすまを開けた――誰もいなかった」
「出掛けたか、朝食の準備ですか?」
「そんな暢気なことは考えなかったね。隠れ潜んでいる彼女が、朝八時に出歩
くのは、農村では避けるべき行為だろう。朝食の準備? すぐに終わるし、物
音が聞こえるはずだ」
「じゃあ……」
「念のため、家中を探したが、河田玉恵の姿はなし。玄関を見ると、靴はあっ
た。だが、さらに観察を重ねると、庭に面した戸が開けられ、足跡がかすかに
残っていた。僕に気付かれぬよう、庭に回って外に出たらしい。履き物は別に
用意してあったに違いない」
「助けを求めておきながら、何故、そんな不可解な真似をしたんでしょう?」
「待ちたまえ。続きがある」
 続きがあることは、僕も承知している。すでに大きく報道されているのだか
ら。
「僕は外に出た。人の目を気にする余裕はない。依頼人を捜し、あちこち歩い
て回った。といっても不案内故、最初は知っている道から当たった。要するに、
空き家までの道を逆に辿った。そして吊橋に差し掛かったところで、僕は見つ
けたんだ」
 先輩は身震いする様を覗かせた。名探偵らしくないが、勝手に出てしまった
のだろう。
「向かって右手、川の下流方向へ、五十メートルほど先だった。人が倒れてい
るのが見えた。衣服から、どうも河田玉恵らしいと気付き、僕は単眼鏡で確認
した。間違いなく彼女だ。彼女は、依頼人は……死んでいた」
 多分、見つけた時点で、十文字先輩は河田玉恵の死亡を直感したに違いない。
伝えられるところでは、彼女の遺体はかなり異常な状態にあったのだから。
 村には逆パンジージャンプの施設があり、椅子に腰掛けた状態で、上空三十
メートルほどの高さまで飛ばされるのが売りだという。開設後しばらくは賑わ
ったそうだが、利用客が怪我を負う事故が起きて、一時的に閉鎖。金属疲労が
原因とされるがはっきりしない。ために、再開の目途が立たぬまま、放置が続
いていた。その施設の真下で、河田は死んでいた。首を半分がた切られ、そこ
からの大量出血が死につながったと考えられている。
 不可解なのは、地面で固定されていた逆バンジージャンプ用の椅子が、上が
っていた点である。調べてみると、ロックが壊されており、ワイヤーと大型ゴ
ムバンドの張力で、発射できる状態になっていた。さらに、ワイヤーを覆う塗
装や保護材が剥がれ、金属が剥き出しになった箇所が散見された。その一部か
ら血痕が見つかり、検査の結果、河田玉恵の血液との判定が出た。
 これらを総合すると――村に入り込み、空き家に勝手に隠れ潜んでいた河田
だが、暇を持てあましていた。夜から明け方に掛け、逆バンジージャンプに乗
れないだろうかと思い立つと、一人で現場に出向き、装置を壊して動くかどう
か試した。その折、立ち位置が悪かったのか、長らく使っていなかったワイヤ
ーが変な方向に跳ねたかして、河田の首筋を襲った。間の悪いことに金属が剥
き出しになった部分が当たる。それは巨大な刃物に等しい。頭部を切り落とさ
んばかりの勢いで、河田の首をえぐった。彼女は助けを呼ぶ声すら出せず、絶
命した――というのが、警察が現時点で描いた構図である。
「ありえないでしょう」
 話を聞き終わった僕は、すぐさま云った。
「先輩に救いを求めた彼女が、朝っぱらから一人で出掛けて、しかも使われて
いなかった遊興施設を勝手に動かすなんて」
「同感だ。僕はすでに八十島刑事に、知っていることを全て話した。こっぴど
く叱られたけれどね。ちゃんと聞いてくれた。今頃、見直しを検討してくれて
いるはずだ」
 自嘲を交え、先輩は語った。結果的に依頼人を死なせるという最悪の事態を
迎えていたが、その後の対応に関しては、最善を尽くしたと自信を取り戻して
いるようだ。
「大下の行方も気になります」
 僕が水を向けると、名探偵はしっかり頷いた。
「まったくの想像だが、恐らく大下の仕業じゃないかと思っている。そして、
河田玉恵もまた、僕を全面的に信頼していた訳じゃないようだ。大下とも相談
するつもりでいた気がする。あの日、僕がうかうかと眠ったのは、彼女がくれ
た食べ物か飲み物に、眠り薬の類が混入してあったんじゃないかと睨んでいる
んだ。検査が遅くなって、検出できなかったのが残念だよ」
 食べ残し、飲み残しは全て処分されていたとのことだ。
「その河田を、大下が裏切った……」
 僕は、大下の犯行を示唆した形でひとまず書き終えると、事件のファイルを
未完の形で保存した。パソコンの向きを換え、その文章を先輩に見せる。
 先輩はざっと目を通しつつ、気になることを言い出した。
「大下の犯行を想定すると、大部分でしっくり来るのは事実だ。反面、さらな
る裏がある予感もするんだよ」
「と、云いますと?」
「君は気付かなかったかい? 色々と出来すぎな点が、いくつかある。たとえ
ば、笠置の右足切断事故が起きた夜、笠置が河田と会えたのは偶然のはずだが、
その後の展開を思うと、不自然な気がしてくる。また、河田が大下に助けを求
めると、彼は近くの町にいた。しかも、北陸出身の彼が、何故か甲信越に隠れ
家を用意できた」
 謎めかす先輩に、僕は尋ねずにはいられなかった。
「一体何が云いたいんですか? 裏ってどんな……」
「大下とは別に、真犯人がいるのかもしれない」
 十文字先輩は意外なほど強い調子で云った。かもしれないという表現を用い
たにも拘わらず、断言を感じさせる口調だ。
「手始めに僕は、ある人物の出身地を調べてみるつもりだよ」
 名探偵は最後まで謎めかした。

――終




元文書 #416 木陰に臥して枝を折る 2   永山
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