#361/598 ●長編 *** コメント #360 ***
★タイトル (AZA ) 10/05/29 00:07 (397)
迷宮の提案 2 永山
★内容
吉野と嵯峨野の両刑事は、大和ひろみ宅の近所を聞き込みで回った。すでに
終わった通夜や葬式の際にも、聞き込むチャンスはあったのだが、マスコミが
意外と集まったせいもあり、思うように進められなかった。中堅クラスとは言
え、ゲームソフト会社の社長がバラバラ殺人の被害者という構図は、ニュース
バリューが案外高いと見える。
「こりゃあ、細面の男を捜せ、ですね」
近所の家々を全て回り終わったあと、嵯峨野は吉野に言った。何軒かの住人
――主婦ばかりだった――より、有力情報が得られた。今年に入って以降、大
和家をたまに出入りする細面の男が目撃されていたのだ。
「身長は一七〇前後、細面やせ型の、着ている物はセールスマン風。本当にセ
ールスマンで、営業に来ていただけって落ちじゃないだろうな」
確認の意味を込め、証言を総合した項目を復唱する吉野。
「その可能性、ないとは言い切れませんが、調べる価値はあるでしょうよ。正
確には分からないが、どうやら被害者の不在時を狙って訪問していたようだっ
て、えっと、三軒隣の人が言っていましたし」
「思い込みかもしれん。たまたま見掛けた男について、大和ひろみの浮気相手
だという決めつけが先にあれば、面白くなるように記憶を修正しがちなもんだ」
「実例を知っていますから、否定はしませんがね。調べてみなきゃ分からない
のに、どうしてまた吉野さんは、大和ひろみの肩を持つというか……」
「そんなことはない。ただ、浮気相手がいるとして、さらにそいつが共犯、実
行犯だとしたら――」
先だって大和ひろみが申し立てたアリバイは、確認が取れた。友人達の証言
のみならず、各所の防犯カメラでその姿が捉えられていた。さらに、映画の半
券やレシートといった物証も揃っており、どこをつついても崩せそうにない。
「――当然、計画殺人ということになる。ひろみのアリバイ工作だって、前も
って企てていたはず。ならば、友人と出掛ける約束をするのも、もっと以前か
らしておくのが普通じゃないか。現実には、当日になって約束を取り付けてい
る。おかしいと思わないか」
「おかしいとまでは行かずとも、慌ただしい感じですね。当日になって、急に
思い立ったような」
「被害者の最後の足取りはまだ掴めていないが、四月三日までの行動ははっき
りしている。ひろみが犯人なら、せめて三日の時点で友人らに映画を観に行こ
うと持ち掛けるのが普通だと思うんだが……しっくり来ない」
「どうします? これから予定通り、大和ひろみに会って問い詰めるか、被害
者の足取りを固めてからにするか」
「予定通りと行こう。近くにいるのに先延ばしする理由がない。我々が男の影
を掴んだことが、ご近所さんの口から、大和ひろみに伝わる可能性だってゼロ
じゃあない。伝わる前に奇襲攻撃と行こう」
大和ひろみ宅に向かう。
忌中を示す記しを横目に、在宅を確認すると、呼び鈴を押した。念のため、
勝手口の方を嵯峨野に見張らせつつ、吉野が名乗って用件を伝える。聞こえて
きた声に慌てた様子や動揺は特になく、やがてドアが静かに開けられた。
今回は中に上がり込み、「先日はどうも……」と葬式のことを話題にしよう
とする相手を制すと、吉野は単刀直入に始めた。
「今年に入ってからここを訪れた人、特に男性についてお伺いしたいのですが、
覚えておられますか」
「だいたいなら……」
ひろみが唇をぐっと噛み締める様が見て取れた。さすがに不安さが覗くよう
だ。
「セールスマン風の男性で、細面のやせ型。アタッシュケースのような鞄を持
っていたこともあった。該当する人物がいますね?」
「……います。隠すつもりはありませんでしたが、聞かれるまでは黙っていよ
うと」
「何者なんです? あなたとの関係は?」
「……」
「令状を取って、メールやら電話やらの記録を調べたっていいんですがね。面
倒は避けたいでしょう、お互いに」
「分かりました。お話しします。お察しの通り、彼は私の浮気相手で、名前を
光浦栄一といいます」
字面の説明を受け、メモをする嵯峨野。併せて、住所や電話番号などの情報
も聞き出した。
「死んだ夫のあまりの身勝手に、少しでも抵抗してやろうと、反発心から、つ
い……」
「ご主人には気付かれたんですか、そのこと」
「いえ。隠し通しました」
「気付いていたが、敢えて黙っていたかもしれないのでは」
「それはありません。夫の性格から言って、知ったその瞬間、私の目の前に飛
んできて、拳を振り上げることでしょう。そのあと、嫌味ったらしく、ねちね
ちと罵るに決まっています」
すでに体験したことがあるかのような口ぶりで語るひろみ。事実あったのか
もしれない。その頃には警察は当てにならないと諦めていたのか、被害届を出
すのを躊躇していたのか。
「あなたがそう主張しても、警察としちゃあ、疑わない訳にはいかん。光浦と
は、今も行き来があるのかね?」
粗野な物腰に移行し、問い質す吉野。同時に、嵯峨野に目配せし、仕入れた
ばかりの新情報を捜査本部に伝えるよう、促す。
「いえ。最近は全く」
それだとやはり共犯で、ほとぼりが冷めるまで身を隠しているのではないか
と、吉野は考えた。容疑を口にはせず、「じゃあ、最後に会ったのはいつだ?」
と詰問気味に聞く。
「三月半ばに、夫が出張した折だったと思います。――白状しますわね。四月
四日から五日にかけても夫が不在になるからどうかと、誘ったんです。ところ
が、光浦の方から断ってきて。予想外でしたので、私、暇を持て余して。それ
で、碓氷さんや蕪木さんを急いで誘ったんです」
「ふむ」
筋道は通っている気がする。それに、ひろみの今の証言が真実ならば、共犯
説と並行して、光浦栄一の単独犯行の線も考慮すべきではないか?
「ひろみさん。こいつはやはり、通話記録その他諸々、調べさせてもらうこと
になる」
光浦栄一、三十二歳の独身。アパートで独り暮らし。大和ひろみから見て大
学の一年先輩で、同じ文芸部に所属して知り合う。卒業後に何の行き来もなか
ったが、昨年の十一月に催された部のOB会にて約十年ぶりの再会。このとき
は何事もなく別れているが、年が明けて一月半ば、光浦からひろみにコンタク
トを取ってきた。それがきっかけとなり、月に一度程度のペースで会っていた
らしい。当初はホテルを利用していたのが次第に大胆になったのか節約のため
か、光浦が大和ひろみ宅に足を運ぶようになった。その際にセールスマン風の
装いをしたが、光浦の本業は物書き。大学卒業後、大手新聞社に入るも周りと
そりが合わずに辞職。以後、フリーライターを称するも、仕事はスポーツ紙、
それも二流以下のところにどうでもいいような記事を書く場合がほとんど。大
学生の時分に亡くした親の遺産を今、徐々に食い潰す状況だったが、ここ一、
二年でようやく安定した稼ぎを得るようになった。
警察では、ひろみの証言などから光浦のそういったプロフィールは把握でき
たものの、行方に関しては杳としてしれなかった。自宅アパートにはおらず、
四月になってから出入りする姿を見掛けた者もいない。防犯カメラが設置され
ていないため、いつ外出したきりなのかも不明と来る。三月末頃までなら、ア
パートや仕事先に姿を見せていたことが確認できたが、それ以降となると皆目
だめだった。
怪しい人物がいるのに尻尾を捕らえられない、そんな焦燥感が漂い始めた矢
先、別方向から光明が差した。通常に比すと手間取っていた、被害者・大和吾
朗の携帯電話の特定がようやく済み、記録を照会できた。その分析が終わり、
興味深い事実が浮かび上がったのである。
「吾朗さんが別宅を持っていたことは、ご存知でしたか」
「別宅……って。いいえ、知りません。本当なんですか」
吉野刑事は話すのを嵯峨野に任せ、ひろみの表情を観察していた。そうして、
心中で首を傾げた。嘘をついているようには見えなかったが、その印象を信じ
ていいのかどうか。
「携帯電話の記録を調べる過程で、吾朗さんが北関東のQ市内によく掛けてい
ることが判明しました。当初は、引き抜き相手なのかと思ったのですが、違っ
た。マンションの一室の番号でした。大和吾朗名義で購入されており、本人の
みならず、女性の出入りも時折あったとの目撃証言を得ています。車ならせい
ぜい二時間弱もあれば行ける、まあ、便利な隠れ家という位置付けではないか
と」
「あの……住まわせていたんですか、その、妾を」
「住まわせていたのではないと思われます。面前で言いにくいんですが、気に
入った女性を短期間で取っ替え引っ替えしていた様子でして」
「分かりました。……驚きましたけれど、さもありなんといったところですわ」
さばさばとした口調で話すひろみ。これは虚勢で、そんな態度を装っている
感が強い。
「それじゃ、今度出掛けていたのも、仕事ではなく、逢い引きのためでしたの
かしら」
「我々が調べた限り、今回は仕事絡みオンリーだと思われます。引き抜き相手
を突き止めたところ、吾朗さんは彼に条件を提示していた。その返事をしない
内に、吾朗さんが亡くなったことを報道で知り、水面下での接触であったこと
も考慮して、黙っていたと」
「でも、お言葉ですが、刑事さん。主人は恐らく、そのマンションに寝泊まり
したのでしょう。そこへ女が不意に訪ねてきて、一悶着起こったとは考えられ
ません? 女が怪しいと思うんですけれど」
「それを聞きたくて、我々はこちらへ伺ったんですが。吾朗さんが最後に付き
合っていた女性に、心当たりがないかと。どうやらないみたいですね……」
「全くありません。それよりも警察は当然、そのマンションをお調べになった
んでしょう? もしかすると、主人はそこで殺され、あんなひどい目に遭わさ
れたんじゃあ……?」
「うん、まあ、そういう見方をしたことは確かです」
話し手が吉野に交替した。
「だが、現場ではない可能性が高いですな。細かいことは言いませんが、浴室
がきれいすぎるんですよ」
二、三秒ほどの間をおき、片手で口を覆ったひろみ。吐き気を催しただけで
済んだらしく、しばらくするとまた聞いてくる。
「考えにくいですけれど、女の住まいに出掛けて行ったかもしれません」
「犯人探しは警察に任せてください」
浮気相手が犯人であることを望む気持ちは、充分に理解できる。吉野は苦笑
を堪えるのに努力を要した。
「あなたには、他にも伺いたいことがあるので、捜査のために協力をお願いし
ますよ。光浦栄一さんについてです」
「連絡は全く。ここに姿を見せていないことは、刑事さんもご存知だと思いま
す」
「はい」
ひろみの携帯電話を使い、光浦栄一の携帯電話に掛けたり、メールを送った
りしてみたが、現時点では梨の礫。微弱電波も捉えられないことから、恐らく
は携帯電話そのものを廃棄したか。逃亡に当たって、携帯電話は邪魔になると
判断したのだろうか。
「光浦栄一について、多少調べてみました。学生時代は文芸部に所属していた
そうですが、どんな物を書いていたのでしょう?」
「推理小説です。とうに調べは付いているんじゃないのかしら」
「実はその通りで。なかなか難解な物を書いたようですな。部で出された本に
ぱらぱらっと目を通しただけだが、もしも彼が犯人なら、実際の事件にも色ん
なトリックを弄するに違いないと感じましたな。光浦の書いた推理小説は、傑
作と呼んで差し支えないんですかね? 私ゃ、こういう方面の鑑識眼はないも
ので」
「出来映えに少しばらつきはありましたが、アマチュアであれだけ掛けたら充
分だというのが、部内での評価でした。自信作に関しては、外部からの評価も
高かったんですのよ」
「今、物書きをやっている割に、当時はプロを目指してはいなかったとか。ど
うしてなんでしょう?」
「理由を直接尋ねたことなんてないですから、想像するしかありませんけれど、
やっぱり、新聞記者に是が非でもなりたかったんじゃあ」
「あなたが一つ上の先輩に、プロになることを勧めるのは無理としても、光浦
から見て同学年や先輩からは、何かなかったんでしょうかね」
「惜しがる声はあったと記憶していますけれど、それが今度の事件と関係ある
のですか」
「関係あるかないか、分かりません。個人的には、こう考えておるんですよ。
光浦はきっと、失敗したなと後悔している。いや、殺人犯だと決め付けた訳じ
ゃない。職業の選択を失敗したなと後悔してるんじゃないかと、思うんですよ。
一流新聞の記者が、不安定な物書きに。定年退職したあと作家に転身するのと
は、全然違う。冷たい目で見られることもあったんじゃないでしょうか。そん
な彼が、どんな顔をしてOB会に参加したのか。興味ありますねえ」
「だったら、率直に聞いてくださればいいものを」
「では――どうでしたか」
「光浦自身には、取り立てて言うようなことはなし。強がっている風でもなけ
れば、こびへつらう様子もなく、言ってみれば学生時代そのままの。どちらか
というと、事情を知る周囲の者が気を遣った感がありましたわ。新聞社を辞め
たことに触れていいのかどうかって」
「実際、触れずに終わったんで?」
「いえ、光浦の方から話題にしましたので。えっと、確か……『記者がもうだ
めとなると、いっそ、今からでも一流作家を目指して、もう一度小説の勉強を
し直すかな。そのときは誰かに師匠になってもらおう』と、こんな具合でした」
「なるほど。雰囲気が伝わりましたよ。ところで――つかぬことを伺いますが、
あなたは学生時分、光浦栄一に憧れに似た感情を持っていたとか?」
「……誰がそんな話を」
「すいません、話してくれた人に対して、その点は口外しないと約束しました
ので」
「ふん、どうせ部員の誰かだわ」
「何でも、光浦にいわゆる告白をして、丁重に断られたと聞きましたが、事実
でしょうか」
「ちょっと違います。ちゃんとした告白はしておりません。光浦先輩っていい
な、ぐらいの感情を抱いていて、そのことを別に隠そうとしていませんでした
から、やがて彼に伝わったんです。そうしたら光浦が、年下相手は苦手だとい
うことを匂わせて……それだけです」
「ははあ。だとすると、今になって光浦栄一からアプローチしてきたことに、
あまり好印象を持てなかったんでは?」
「多少はね。でも、年月は人を変えると言いますし、拘らないと決めたんです。
あの、こんなことも捜査に必要なのかしら」
「ええ、まあ。とうにお気付きでしょうから隠しませんが、あなたと光浦栄一
との共犯の線も、一応疑っております。そこで、お二人の結び付きがどんなも
のかを探るために、あれやこれやと聞いた次第で」
「呆れた。その線はもう捨てた方がよろしいんじゃなくって? 通話の記録、
お調べになりましたでしょう?」
大和家の固定電話及びひろみの携帯電話に関して、ここ数ヶ月の通信通話記
録は全て調べ上げた。光浦栄一とは多くても月に一度、電話をしていただけ。
この頻度では、犯罪計画を練り上げるには無理がある。頻繁に直接顔を合わせ
ていたのならまだ分からなくもないが、実際には逢い引きの方も月に多くて二
度だったと見込まれる。今の時代に、郵便で悠長にやり取りしていたとも考え
づらい。
「ああ、その通話記録なんですが、光浦栄一からは今年の一月半ばを境に、一
時、頻繁に掛かってきてますな。随分、極端だ」
「一月半ばに、向こうから会いたいと言ってきて、最初はお断りしていたのが、
何度か言われる内に、じゃあと。承諾したあと、電話が減ったのは当然です」
「吾朗さんに感づかれないためにも、ですな。ところで吾朗さんの身勝手な振
る舞いを、光浦に相談しませんでしたか?」
「……愚痴をこぼす程度なら。別に、彼に何かしてほしいと期待する気持ちは
ありませんでしたわ」
吉野は、その言葉が真実だとして、と胸中で前置きし、ひろみに続けて聞い
た。
「こうは考えられませんかね。光浦が勝手に行動を起こし、吾朗さんを亡き者
にした……」
「分かりません。仮に刑事さんの話が当たっているとしても、彼にメリットが
ないんじゃありません? 動機は私と一緒になりたいからということになるん
でしょうけれど、逃げ回るばかりで、ろくに会えない。何ヶ月か何年か先に、
私と一緒に逃避行に出るとでもお考えですか」
「まあ、正直に言いますと、自分もこの考えにしっくり来ていません。義憤に
駆られ、あなたを夫の横暴から救うためだけに凶行に走ったのならぴたりと嵌
まるんだが、光浦の人柄や性格を聞く限り、それはないようだ。あなたと共犯
関係にあろうがなかろうが、現段階で、というよりも事件発生と同時に身を隠
すのはデメリットしかないと思える。その程度のことに、光浦が気付かないと
は考えにくい」
「……刑事さんがそうやって、私への嫌疑をちらちら仄めかすのは、私が光浦
に連絡を取ることを期待して?」
まさにその通りだったが、確証があってやっている捜査ではない。あっさり
認めておく。
「まあ、警察は色んなことを考えていますよと。そういうことです」
見透かされなければ、「買い物ぐらいしかお出掛けにならないのはどうして
です?」とでも言って、見張りの存在を匂わせてプレッシャーを掛けるつもり
の吉野だったが、取り止めた。やりすぎはよくない。
このあと、刑事二人は光浦が学生時代に親しくしていた者に心当たりがない
か等をひろみに問い質したものの、たいした成果を挙げられぬまま、辞する形
になった。
夜になって、ひろみが待ち望んでいた電話が掛かってきた。
「僕です。公衆電話から掛けている。今、そちらは大丈夫? 問題ないのなら、
刑事の動向等を知りたい」
ひろみは「――ああ」と感嘆の吐息を漏らし、固定電話の送受器を両手で握
り直した。事件が発覚し、刑事が現れてからのことをよく思い出し、整理して
伝える。
ひろみが話し終えると、わずかな沈黙が落ちた。向こうから「それだけ?」
と問う声がして、肯定の返事をする。
「なるほど。分かりましたと。僕が疑われるはずがない――少なくとも早期に
は、警察に目を着けられるはずないと信じていたが、まさしくその通りになっ
ているようで、安心できた」
「じゃあ、会える?」
気負い込むひろみだが、返答はノー。
「不必要な接触は、なるたけ避ける時期だ。不安になるとか、話し相手が欲し
くなるとかしたなら、君から電話をしてくればいい」
「でも、刑事が見張っている気がするのよ。外出は自由だけれども、公衆電話
に入ったら怪しまれるわ。携帯電話があるのに、どうしてわざわざって」
「ふん、問題だな。近い内に携帯電話の履歴を再び調べられる危険は否定でき
ない。強制力はないと思うが、拒否すれば疑いを招くだけ。――難しく考えす
ぎかもしれないな。殺人事件に巻き込まれた女性が、学生時代の友人に電話す
るのは、さほど不自然に映らないんじゃないか? 光浦先輩と親しくしていた
人物に心当たりがないのかと聞かれたのにかこつければいい。君が僕――紫藤
聡志に電話を掛けても、おかしくない」
「そうかしら……」
「ああ。僕は学生時代、光浦先輩に憧れていたという事実がある。知っての通
り、プロデビューするときは先輩の名を筆名にしてもいいかとお伺いを立て、
許可をもらったぐらいだ。今は、このペンネームを捨てたいがね」
「……」
ひろみは四月四日、昼下がりのことを思い起こした。
光浦栄一――推理作家になった紫藤ではなく、光浦栄一を本名とする男とけ
りを付けるべく、彼を家に招き入れた。
遡ること三ヶ月足らず。一月半ばにコンタクトしてきた光浦に、ひろみは夫
についての相談を持ち掛けた。当たり障りのない答をよこした相手に対し、ひ
ろみは期待外れの顔を見せてしまったのだろう。光浦は条件を出してきた。後
後、自分の女になるのなら、大和吾朗と別れられるように動いてやる、と。学
生時代にひろみが光浦に対して抱いた想いは。その時点では欠片も残っていな
かった。それだけが理由ではないが、ひろみは断った。
それからしばらくして、ひろみはストーカー被害に遭い始めた。非通知の無
言電話や短いが不気味な文面の手紙、あとをつけられている感覚、偽りの出前
注文、エトセトラエトセトラ。
ストーカーの正体に見当が付かないまま、警察に届けることを考えたひろみ
だったが、夫の吾朗がそれを許さなかった。おまえに隙があるからこんなくだ
らない目に遭うんだ、くだらないことで騒ぎ立てるんじゃないと一蹴されたの
だ。仕方なく我慢していたひろみは、あるとき郵便受けに投じられた手紙の文
面に、記憶にある言い回しを見付ける。光浦栄一が学生の頃に書いた小説に、
頻繁に登場した独特のフレーズ。ストーカーは光浦栄一だ。確信を持ったひろ
みは、しばし逡巡した後、自ら光浦へ電話をした。そうしてストーカー被害に
遭っていることを話題に出すと、それを待っていたかの如く、光浦は応じたの
だ。
「気付いてもらうために、この前の手紙はわざわざ分かり易く書いたんだよ」
ぬけぬけとそう言った。たちの悪いことに、光浦は、ひろみに関する様々な
ネタ――大和吾朗が激怒するような――を持っていた。
その後、話し合いがもたれ、四月四日の午後、光浦が大和宅に訪れて決着さ
せようと決まった。
話し合いの場は、話だけでは終わらず、光浦は“前払い”を求めるとして、
ひろみに迫った。無論、ひろみは抵抗する。その過程でアクシデントが起きた。
突き飛ばされた光浦栄一は、呆気なく死んでしまった。事故だった。これが午
後三時前後。
事故なら潔く警察に届けてもいいものだが、状況が許さない。夫の留守中に
よその男を招き入れた挙げ句、痴情のもつれで相手を死なせてしまったと見ら
れるのが落ちだ。加えて、吾朗からのより具体的な暴力が確実に予想された。
窮地に陥り、とりあえず自身の痕跡を遺体から消し去るぐらいしかできない
でいた彼女の前に、午後四時三十分になろうかという――オシロイバナが花を
開く――頃、もう一人の“光浦栄一”、推理作家の紫藤聡志が現れた。紫藤と
は以前より旧交を温めるために、たまに会っていた。ストーカーの件でも、相
談に乗ってもらっていた。だから彼がひろみの住所を知っているのは不思議で
ないが、アクシデントが発生したこのタイミングで紫藤が現れたのは、ひろみ
にとって幸運以外のなにものでもない。
善後策――換言するなら事後共犯――を依頼すると、紫藤は逆に提案してき
た。大和吾朗を葬って、全ての面倒を一掃しないか?と。計画を聞いたひろみ
は、人を死なせてしまった直後で、不安定な精神状態にあったことも影響した
のであろう、紫藤の提案を受け入れた。
紫藤は承諾を得ると、ひろみをアリバイ作りに行かせる。自身はすぐさま自
宅に戻ると、所有の車に乗って、大和吾朗のいる別宅に向かった。そう、ひろ
みは夫の浮気とその場所を、前々から把握しており、今回急に持ち上がった紫
藤の計画において、重要な情報となる。
推理作家の光浦栄一こと、紫藤もまた、思い起こしていた。
浮気相手の女性が同席していたら少々面倒な事態になるところだったが、幸
い、大和吾朗は一人でいた。紫藤は刑事を装い、吾朗の部屋を訪れると、大和
ひろみが人を死なせてしまったことを告げた。そして、“あなたの社会的地位
を鑑み、事態を穏便に収めるため、これからご同行願いたい。悪いようにはし
ません”と誘い出し、車のドアを開けてやって乗るように促した。相手が乗り
込もうとした刹那、背後から腕を回して扼殺。時間は要さなかった。そのまま
遺体を乗せ、紫藤は彼自身の家に向けて出発した。午後六時を十分ほど過ぎて
いた。
自宅の浴室に吾朗の遺体を搬入すると、紫藤は解体作業に取り掛かった。ひ
ろみのアリバイ作りの補強材料とするためだ。万が一、死亡推定時刻が期待に
反する形で出た場合に備え、遺体を解体する時間も必要だったのだと警察に示
す意図があった。
解体を終えると、紫藤は身をきれいにし、遺体をゴミ袋に入れて搬出した。
再び車に乗せる――今度はトランク内に――と、ひろみ宅へ急ぐ。午後八時二
十五分に着いた。まずは、ゴミ袋ごと遺体を下ろし、一時的に家の中に隠す。
ひろみの帰りを待ちつつ、放置しておいた光浦の遺体を静かに運び出すと、車
のトランクに押し込む。
九時過ぎにひろみが戻った。計画通り、大和吾朗を殺したことを示すため、
紫藤は彼女に遺体の確認をさせた。夫の遺体を見たひろみは、時刻を確認しよ
うとする仕種をした――時計はだいぶ前から止まっていたようだが――あと、
「この……死体……どうにかしないと」と、不安げな眼差しを紫藤に向けてき
た。
後始末もすぐに自分一人で行うと言って安心させると、今後についての再確
認をし、ひろみの家をあとにした。
吾朗の死体を先に捨てたかったが、もしも早々に発見されてしまうと、騒ぎ
になり、非常線を張られる可能性が大きい。それは即ち、もう一つの死体遺棄
が失敗に終わりかねないことを意味する。ここは成功の確率が高い目に張る。
光浦の遺体をひろみ宅から運び出すのを、夜にずらしたのも、目撃される恐れ
をできる限り抑えるためだった。
急ぎたがる心を制御し、安全運転で到着した先は、N県の山中。一年前に取
材旅行で訪れたので、土地勘が残っている。とは言え、暗闇での遺体隠蔽工作
は困難を極めた。予想を遥かに上回る時間と労力を費やし、遺体を崖下に転落
させたとき、紫藤は汗まみれになっていた。人が滅多に寄りつかない一帯だと
聞いてはいるが、念のため、前もって顔を石で多少潰し、さらに身元を示すよ
うな所持品は抜いておいた。ある程度月日が経ってからなら、遺体が見付かっ
て身元を特定されてもかまわない。逃亡の過程で山奥に身を潜めようとするも、
足を滑らせて転落死したと判断されるはず。抜き取った所持品は、こことはま
るで見当違いの場所で発見されるよう、いずればらまきに掛かる予定だ。光浦
が捜査陣を煙に巻く目的で、所持品をわざと落としたと思われるように……。
「万が一、あとから調べられたらと思うと、長電話はあまりよくない。それに、
そろそろ仕事に取り掛からねばならないんだ」
「仕事……?」
「本業さ。本当は月頭から書き出すつもりが、予想外の事態に巻き込まれて、
スケジュールが狂いっ放しだ」
笑い声をまじえて答える紫藤に、ひろみがつられて短く笑い、そしてふと思
い出した風に聞いた。
「予想外と言えば、あのときあのタイミングで、あなたが現れるなんて、予想
外だった」
「うーん、虫の知らせの類だろうな。あるいは……ヒーローが美味しいところ
をさらっていく場面では、多少の偶然は許される」
「共犯に収まっておいて、ヒーローも何もないものだけれど。でも、私にとっ
て白馬の騎士に等しいと言える」
「……ありがとう。甲斐があった」
送受器をフックに戻すと、紫藤は電話ボックスを出た。特に意味もなく、周
囲を気にする。
それから、たった今思い付いたことを忘れないようにと、脳裏に浮かべる。
(あの盗聴器、まだ使えるんだが、処分しておくとするか)
――了