#360/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 10/05/28 23:46 (465)
迷宮の提案 1 永山
★内容
そのとき、家には大和ひろみと男の二人きりだった。
ひろみの広い額に、前髪が一筋垂れてきた。高校時代、アマチュアバンドで
ボーカルをしていた頃に付けていた赤いエクステンションなら、あるいは血が
流れたように見えたかもしれない。今の黒髪は、ただただ、ひろみの疲労と放
心の度合いを象徴するかのようだった。
目の前には人間の死体がある。
大和吾朗。それが死んだ男の名前。ひろみの夫だった。息絶えているのは間
違いない。頭のてっぺんから爪先まで、どこを取ってもぴくりともしない。
ひろみは何気なしに、カレンダーを見た。今日は四月四日。死が重なってい
ると解釈できる。それに相応しい、最悪の日だ。
続いてやはり無意識の動作で、左手首を返し、腕時計を見ようとした。が、
そこには跡が残るだけ。外したのを忘れていた。置き時計に視線をやる。読み
取りづらいのは、文字盤を覆うカバーにひびが入っているため。夫が腕を振り
回した際に、ナイトスタンドの脇から落ちたのだ。目を懲らすと、六時過ぎを
示した針が確認できた。
ひろみは息をつき、呟くように言った。
「この……死体……どうにかしないと」
バス停の方からぶらぶら歩いてきた推理作家の光浦栄一は、大和ひろみ宅の
玄関先に立つのと前後して、使い込んだメモ帳を上着の脇ポケットに仕舞った。
続いてシャープペンシルを胸ポケットに差しつつ、呼び鈴のボタンを押す。イ
ンターフォンのスピーカーから応答があるのを待つ。いつもに比べて反応が遅
い。軽く両かかとを上げ下げした。それでもまだ返事はない。大きな家だが、
機械を通した声が聞こえないことはあるまい。
「えー、ごめんください。僕です」
調子が狂うなと思いつつ、光浦はインターフォンに向けて挨拶をした。ブザ
ー音がかすかながら聞こえるので、機械の故障ではないだろう。
近所の家並みをちらちらと見る。この住宅地はまだ作られて新しい方で、当
時から富裕層向けを謳っている。それぞれの家屋は大きく、間隔にも余裕を持
たせてあった。通り掛かる者はいないが、花の香りが漂い出していた。これは
オシロイバナ? 来るまでに野生している物は見掛けなかったので、どこかの
家の庭にあるのが、開き始めたのかもしれない。数ブロック南の道路を時折過
ぎ行く車の音が、やけに耳につく。
もう一度、かかとの上げ下げをし終わったとき、返事があった。
「みつ……さん……?」
インターフォン特有の途切れがちの音声。聞き取りにくかったが、元気がな
いと感じた。喉の奥が張り付いたときのような声だ。
「ああ。忙しいのかな? 近くまで来てついでに寄っただけだし、邪魔なら退
散するよ」
「……昔言ったこと覚えている? あなたが私にした大きな約束」
「え? 唐突に、妙なことを持ち出してきたもんだなあ。中学二年のときのあ
れを言っているのなら、覚えている」
十四歳だった光浦栄一は、優等生であると同時に、他愛ない悪戯を好んでや
っていた。大半は仮にばれても少し説教を食らえば済ませられるものであった
が、一度だけ、洒落にならない事態を引き起こした悪戯があった。酸性とアル
カリ性それぞれの洗剤を混ぜることがどれほど危ないか、世間にあまり知られ
ていなかった時代。光浦は、学校のトイレに備え付けの洗剤で、その“実験”
をしたくなった。トイレ掃除で洗剤を使う際は必ず窓を開け放しているのを確
認した上、買い置き分の洗剤の中身を酸性の物にすり替え、使い掛けの分は残
り少なくしておいた。あとは結果を見物するのみ、だったのだが……生徒一人
と職員一人が救急車で運ばれるという大事に発展した。老朽化でトイレの窓が
数日前より開かなくなっていたことも、遠因かもしれない。しかし、責任の大
部分が光浦にあるのは論を待たない――洗剤をすり替えたのが彼だと知られた
なら。実際には、購入時にミスがあったと見なされ、用務員だったか学校職員
だったか、とにかく担当者が処分を受けて、ことは収められた。
ただ、光浦の仕業だと知る者が一人だけいた。ひろみである。彼女は秘密を
絶対に口外しない代わりに、自分の身に問題が降りかかったときには何があっ
ても助けるよう、約束させた。
「あれは今でも有効?」
既に期限切れだと言いたいところだが、現在でもあれを口外されると、色々
な責任を負いかねない。法的にはほとんどの点で時効が成立している。だが彼
は今や、光浦栄一という筆名で、そこそこ売れっ子のパズル作家兼推理作家に
なった。テレビのクイズ番組で、問題作成スタッフに名を連ねたこともある。
過去の傷が明るみに出れば、仕事に悪い影響を及ぼすに決まっていた。
「どうも変だぜ。何かあったのか」
深刻な調子を敢えて作り、光浦は尋ねた。返って来たのは、より一層深刻な、
でもかすれて消えてしまいそうな声。それは決して、機械のせいではない。
「私、あの人を死なせてしまった――何とかしないと――大変なことに――」
相手の言葉に光浦は息を呑み、唇を噛み締めた。次いで、辺りを素早く睥睨
し、他の何者の視線もないことを確信すると、押し殺した声で決意を表明する。
「中に入れてくれ。他に誰もいないね?」
ひろみがかつて愛した男の死体が、足下に転がっていた。光浦が事前に想像
した通りだった。突き飛ばされて寝室から廊下へと倒れ込んだ風に、仰向けの
姿勢で息絶えている。衣服は身に着けていたが、シャツの裾の一部がズボンか
ら外に出ていた。
遺体を見下ろしながら、光浦はふと思い起こす。初対面のときから大和吾朗
を気に入らなかった。
光浦はひろみをずっと好きだった。高校まで同じ学校に通いながら、想いを
明確に伝えることはできなかったが、気持ちは変わっていない。中学二年生時
にひろみから言われるがまま、約束に応じた行為。あれには、悪戯を内緒にし
てくれたことに対する感謝の気持ちもあったが、彼女を愛する気持ちの方がよ
り強かった。いや、圧倒的に強かったのだ。いつの日か、ひろみの身に危機が
降り懸かれば、命を賭すことになろうとも守ってやりたい。少年の頃に思い描
いた状況が、ほぼ最悪の形で、今日たった今、訪れている。
「ねえ」
いささか感慨に耽っていた光浦を、ひろみが腕を掴んで現実に引き戻す。
「分かっている。死体をこのままにはしておけない、だろ?」
「ええ……」
「確認しておこう。警察に届ける気は皆無か?」
「もう決心は着いている。下手を打てば、私の命に関わるんだもの」
光浦はひろみの表情や仕種、その他読み取れる限りのボディランゲージを読
み取った。そして、彼女の決心が揺るぎないものであると判断した。
使い古しのタオルを取ると、死体のそばに跪く。顔をタオルで隠してから、
当事者に聞いた。
「こうなるまでの経緯を知りたい。隠蔽や偽装の参考になるかもしれないから」
「経緯も何も……。初めはリビングで普通に話をしていたのよ。途中で段々と
怪しくなってきて、昼日向から強引に……。寝室に連れ込まれて、ベッドに投
げ出された。こちらに背を向けて、ドアを閉めに行く相手を後ろから突き飛ば
し、逃げる気だったわ。それが……私、ちょっと押しただけのつもりだったの
に」
「身体が仰向けだが、本当に後ろから突き飛ばした?」
証言と食い違うように思えて、追及する光浦。ひろみの答は明快だった。
「仰向けにしたのは私よ。最初、ほぼ俯せで倒れたわ。ドア枠に額を打ち付け
たのかしら、呆気ないくらい簡単に死んで。死んだと分かったら、私の痕跡を
消しておかなくてはと思ったの。さっきまで、ほら、多少とはいえ、肌と肌が
触れ合った訳だし……」
ベッド上の男女二人を一瞬、想像するが、かぶりを振って打ち消す光浦。
「死ぬ前に何を食べたか分かる?」
「そんなこと、知らない」
捜査陣は、食事した時刻と胃の内容物から死亡推定時刻を割り出してくるに
違いない。これを逆手に取るのは、今回、難しいようだ。
「現時点より警察からの容疑が晴れるまで、僕の言うことを聞く。いいね?」
「……分かった」
「何でもかんでも素直に聞けというんじゃあない。疑問点や理解できない部分
があれば、尋ねてくれればいい。僕だって見落としをするかもしれない。説明
できることはするし、その時点で君に伏せておくべきことなら答えない」
「うん、分かったわ」
「では、これからすぐに出掛けてアリバイを作るんだ」
「え、何で今から?」
「死亡推定時刻には幅がある。念のため、アリバイ作りをしておくに越したこ
とはない。なるべく長時間のアリバイを用意するんだ。友達数人と一緒にいる
のがいい。くれぐれも、公共の場所で目立つ振る舞いをするとか、警察の厄介
になるような行為でアリバイを作ろうなんて、思わないでくれよ。普段と異な
る振る舞いをしたその日に、君に近い人物が変死していたら、いくらアリバイ
があっても、警察は疑いを強める。友達にしたって、いきなり会いたいと言い
出しても不自然じゃない相手を選ぶこと」
「何とかなる、と思うわ。その間、あなたはどうする気?」
携帯電話を開き、アドレス帳に目を通すひろみ。アリバイ証人の物色をして
いるようだ。
「当然、この問題を片付ける。死体の始末やら何やら、忙しくなりそうだ。あ
と、どうせ必要になるだろうから、車を持ってくるつもりだ」
光浦もまた携帯電話を取り出すと、バッテリー残量を確認した。
「連絡はこれでする。だが、頻繁にはできない。警察が君を疑った場合、携帯
電話の通話履歴を調べるのは間違いないからね。よほどの不測の事態が起きな
い限り、そっちからは電話をよこさない。いいね?」
「どうしてもというときは、公衆電話を探すわ」
「それでいい。こっちも何度も掛ける必要が生じたら、同様の手段を執るから、
そのつもりで」
光浦の頭に浮かんだ計画では、今のところ、電話でやり取りすることなしに
済む。
(これで、ひろみを自由にしてやれる。そのためにも失敗は許されない)
決意を強く固めたあと、彼は改めて、詳しい計画をひろみに伝えた。
光浦は、アリバイを作らせるために送り出したひろみの背中を思い起こしつ
つ、作業に取り掛かった。
大和吾朗を浴室に一人で運び込んだのが、つい今し方。比較的小柄な体躯な
のに、意外と苦労した。触れるとまだ体温が残っている感じがして、薄気味悪
さを覚えたせいかもしれない。バスマットに寝かせるか、それともバスタブの
中に入れるかで少々迷ったが、後々のことも考え、前者を選択した。
鋏を適宜使いつつ、死体から衣類を全て脱がせると、光浦自身も下着一枚だ
けになった。頭に透明なビニール製のシャワーキャップを被り、血を浴びても
かまわない格好になる。できれば新品の服を前もって量販店で購入し、身に着
けたいところだが、今回は緊急事態なので致し方ない。服に付いた血は簡単に
は落とせないが、身体に付いた血なら、シャワーで洗い流せば短時間でごまか
せる。
(それでも念のため、今日の服は処分しておいた方がよかろう)
頭の片隅に深く書き留める。
(さあ、ここからが本番だ)
この家屋内にあった刃物類から、いくつか見繕っておいた。電動のこぎりを
選択する。枝落としのために購入したものの、数えるほどしか使用していない。
そんな感じの代物だ。のこぎりの刃に脂が纏わり付くと、じきに使い物になら
なくなるという話を読むか聞くかした覚えがある。電動なら多少はましだろう
か。切れなくなったら、“手動”ののこぎりを使うことになるかもしれない。
その場合、関節を外せば切断が容易になるらしい。理屈では分かっているもの
の、口で言うほど簡単に関節を外せるのか、経験のない光浦には文字通り未知
の領域だ。
彼は意を決し、解体作業に取り掛かる。大和吾朗は妻であるひろみを放り出
すようになってから、他の女性を求めるようになった。あるいは、順序は逆な
のか。よそに女ができたから、ひろみに邪険に接するようになったのか。どち
であろうと同じことだ。
そのくせ、妻の不貞には神経質なほど厳しく、単なる知り合いの男を家に上
げるだけでも不機嫌になったという。痣を作ったひろみから相談を持ち掛けら
れたことが、三度あったと光浦は記憶している。二度目までは常識的な見解を
述べたが、三度目になると握った拳の震えを止められず、“次”があれば別の
手段を講じなければいけない、と呟いていた。この度、ひろみが光浦に助けを
求めてきたのは、あのときのことが頭にあったのかもしれない。
それから――。
二十分も要さずに解体作業は完了した。電動のこぎりの刃を、一度使うごと
にきれいに拭いたのが功を奏したに違いない。
こいつがひろみを肉体的にも心理的にも苦しめていたのだ。そう思うと、事
前に思い描いたよりは、ずっと楽に済んだ。むしろ、作家として貴重な体験が
できたと言える。
光浦は自身や周囲に目をやった。汚れている。息絶えた肉体から血が噴き出
すことはなかったが、電動のこぎりのおかげで血と肉が混じったようなしぶき
が散った。光浦は己の身体を入念に洗った。壁や床などは、適当に流す程度に
しておく。
大和吾朗の各部位にも、ざっと水を掛け、布で拭っておく。運ぶ際に血がし
たたり落ちる可能性を、なるべく抑えるためだ。
身元を隠す必要はあるか否か? 今回、ひろみのアリバイ工作を活かすため
には、早期の遺体発見及び身元特定が肝心だ。余計な隠蔽工作は邪魔にしかな
らない。無論、遺体の身元を隠し通すことが簡単であれば、考慮してもよかっ
たのだが、DNA鑑定が当たり前の現代においては困難であると光浦は判断し
た。
そんなことよりも、もっと念入りに細工すべき重要事項が他にある。彼は作
業に没頭した。
旧タイプの黒い家庭用ゴミ袋を用意した彼は、大和吾朗の身体を、各部位ご
とにくるんでいった。頭部だけはすぐに区別できるよう、他から取り分けてお
く。
その後、指紋が付着したであろう箇所を全て拭い取り、毛髪類を可能な限り
拾い集めた。
(――よし)
光浦は満足した。自己満足に過ぎぬのかもしれないが、目の届く範囲に、彼
がこの浴室にいた痕跡は皆無である。
あとは、遺体を運び出し、誰にも見咎められないよう、移動するだけ。よほ
ど不運な巡り合わせでもない限り、問題なくこなせる。光浦は信じた。
翌日の午後、大和ひろみの自宅を二人組の刑事が訪問した。彼らの名前はそ
れぞれ、吉野と嵯峨野といった。
「あなたが奥さんのひろみさん。ん、なるほど。ご主人の吾朗さんはおられま
すか」
吉野と名乗った、比較的年嵩の行った刑事が聞いてきた。上がり框にいるひ
ろみからは、彼の髪が薄くなりかけているのがよく見て取れた。
「いえ。仕事で留守にしておりますが……警察の方がお出でになるなんて、何
かあったんでしょうか」
「お話しする前に、もういくつか質問を。ご主人はいつ出掛けられました?」
「え? ええ、昨日の、確か午前七時過ぎだったと思います」
「ということは、昨日はお帰りになっていない?」
「はい。主人は出資を募る目的で、よく出張するんです。昨日は大した準備も
していませんでしたから、近場と思いますけれど」
「把握されていないんですね?」
「日常茶飯事でしたので。いざというときは、会社の方に聞けば分かることで
すし」
いけませんの?という感情を込めたつもりのひろみ。刑事の方は、委細かま
わぬ風に、矢継ぎ早に尋ねてくる。
「電話もありませんでしたか」
「……ありませんでした、はい」
「なるほど。えー、ちなみに、ご家族はお二人だけ? お子さんは?」
「いません」
「承知しました。では……言いにくいのですがね。Uにある河川敷で、男性の
遺体が今朝方発見されまして、その身に着けていた品が、大和吾朗さんを示し
ておるんですよ」
「まさか。電話してみましょうか」
言葉の通り、自身の携帯電話を取り出し、掛けようとするひろみ。
「あ、奥さん、待った。携帯電話は遺体と一緒に見付かりましたが、中の何と
かいうカードが抜き取られた上に、端末そのものも破壊されており、持ち主の
特定に時間を要しそうな雲行きでして。掛けてもつながらないはずです」
「ですから、主人は無事なんです。電話すれば分かります」
「遺体の持っていた財布の中に運転免許証があり、そこの記載に従ってこちら
に伺った次第です。これから、一緒にご足労願えませんか。身元の確認をお願
いしたい訳でして。遺体の顔写真を今お見せしてもいいんだが、ここでショッ
クを受けて倒れられても、後々困りますんで」
「――あの、もう一度、警察手帳を……」
求められた刑事二人は、手帳を示した。申し訳なさそうに、頭を垂れるひろ
み。長い髪をなでつけながら、口を開く。
「すみません。こういうときって、まず警察から電話で連絡があるものと思っ
ていました。それで、つい」
「電話で前もってお伝えすることもあります。ケースバイケースですよ」
「パトカーに乗って行くのでしょうか」
「警察の車には違いありませんが、見た目は普通の乗用車と変わりありません
よ。ご近所さんに気付かれることもないでしょう」
嵯峨野という刑事が答えた。多少焦れて来ているのか、早口で続ける。
「奥さんが自前の交通手段で行きたいのでしたら、それでも結構です。その場
合、一応、我々のどちらかを同行させてもらいますがね」
そう言って、嵯峨野は笑顔を作った。男臭さの漂う二枚目をしており、なか
なか似合う。
しかし、ひろみの目には、どれほど薄気味悪く映ったことだろうか。
このようなときになんですが……と前置きをし、嵯峨野刑事がひろみに質問
をぶつけてきた。夫・大和吾朗の遺体を確認してから、まだ十分と経っていな
い。
「四月四日の午後五時半から七時半までの二時間、あなたはどこでどうされて
いたのか、お聞かせください」
「確か、自宅に……」
言い掛けて、口を噤むとともに目尻からハンカチを離す。
「四月四日、昨日のことですわね。昨日のその時間なら、私、知り合いと一緒
に出掛けていました」
「ほう、お出掛けに」
メモを構える嵯峨野に代わり、吉野が口を開く。探りを入れるような彼の目
付きに、ひろみは言葉を継いだ。
「夫の留守に、たまには羽を伸ばそうと。それよりも、その時間に夫は殺され
たんですか?」
「まあ、そう推定できるということです。それで、あなたがご一緒したという
お知り合いの名前と連絡先、それからあなたが行かれた場所なんかについても、
詳しく教えていただけるとありがたいんですがね」
「家を出たのは、夕方の五時過ぎでした。家の前まで、瞳が――碓氷瞳さんが
車で迎えに来てくれました。急に思い立ったので、先方もびっくりしたと思い
ますが、電話を入れたら、付き合うと快く言ってくれたのを覚えています。実
は前々から、ことある毎に誘われていたんですけれど、ずっと断り続けていて。
車に乗ったあと、もう一人、光代――蕪木光代さんを駅前で拾って、映画を観
に。駅近くのシネコンで、『秘密交叉点』を」
そこまで話してから、友人二人の名前の表記と電話番号を刑事に教える。住
所の方は、しかとは記憶していなかった。
「映画を観よう、あるいはその映画にしようと言い出したのは、どなたが?」
「映画でも観ようと言い出したのは私ですが、作品を決めたのは、確か……瞳
だったわ」
「映画は何時に始まり、何時に終わりましたか」
「五時四十分開始となっていましたが、実際に本編が始まったのは五十分ぐら
いだったかもしれません。終わったのは、七時二十五分。明るくなると同時に
携帯電話を確認したので、それで時刻が目に入って」
「映画のあとはどうされました?」
「食事を。シネコンに隣接する建物に入っている、Sというレストランで。あ、
レシートがあるはず。三人別々に支払いをしましたので……」
ひろみの手が着ている物の表面を撫でる。レシートは財布に入れてあったが、
肝心の財布そのものを持って来ていなかった。
「必要と思えばあとで見せてもらいますから、今は結構です。食後は?」
「三人でお喋りを――って、そういうことではありませんよね。レストランを
九時前に出て、あとは家に帰りました」
「分かりました。気を悪くしないでもらえれば幸いです」
吉野は嵯峨野がメモをし終わるのを待って、続けて質問を発した。
「吾朗さんが昨日、どんな予定でいたかはご存知ですか」
「いえ……最前、家で申しましたように、ただ飛び回っているとしか」
「そうですか。それでは、ご主人を恨んでいるような人物、もしくは最近トラ
ブルを起こした人物に心当たりがあれば、教えていただきたい」
「恨み……殺すような恨みなんて、まるで見当がつきません。トラブルも。た
だ、割と急に激高するタイプだったから……まあ、それを言い出すなら、私が
一番、夫を恨んでいたかもしれませんわね」
「そいつはどういう意味でしょう」
聞き咎めた吉野だけでなく、刑事達の目付きが鋭くなる。
「一度、相談に行ったことがあるのだけれど、伝わってません? まあ、家庭
内の揉め事には基本的に干渉できないと言われただけで、簡単に済まされまし
たから、無理もないと思いますわ」
「ちょっとちょっと、どういう事情ですか」
「二年くらい前になるかしら。帰りが遅くなることが続いたから、彼に問い質
してみたら、物を投げつけられて、怪我を。大した傷じゃありませんでしたけ
れど、それまで優しいところしか見たことなかったので、驚いてしまって。そ
のときはすぐに謝ってくれたから、収まった。だけど、そんなことが重なるよ
うになると、辛抱たまらなくなって、近くの警察署に相談に。と言っても、何
にもしてくれなくて、状況は昨日まで変化なかったわ」
「後ほど、確認しておきます。それで、あなたは、ご主人が内緒で女性と付き
合っているのではと疑っていた?」
「そうなります。よほどうまくやっていたのか、全然証拠は掴めませんでした
けれども。昨日もそうだったかもしれません」
「だったら、その浮気相手が犯人であるかもしれない」
「……女は犯人だなんて、思いもしなかった。だって、あんな」
ひろみは吾朗の遺体が各部に切断されていたことを言おうとしたが、うまく
言えなかった。思い出すだけで気持ちが悪くなる。
吉野刑事は彼女の言いたいことを察したようで、大きく二度、頷いた。
「分かりますよ。あなたを責めているんじゃあない。夫婦仲がどうだったかは
知りませんが、昨日まで一緒にやって来られたんだ。旦那としてよい面もあっ
たんでしょう。そんな夫をいきなり亡くされたら、ショックを受けて当然です
とも」
若干砕けた口ぶりで言った吉野は、そこで一旦区切り、また元の調子に戻っ
た。
「とりあえず、交友関係を当たってみますので、ご主人の手帳、携帯電話やら
パソコンやらを調べさせてもらいます。ひろみさんも何か情報をお持ち出した
ら、どんなことでも。たとえば、吾朗さんの服のポケットから、妙なレシート
を見つけたことがあるとか――」
ひろみはちょっと考える仕種をしてみせてから、首を横に振った。
角田義春は刑事の来訪と聞いて、嬉しさ半分、緊張半分と言った心持ちだっ
た。新しいゲームソフトのアイディアをあれこれ思い浮かべ、練ろうとしてい
るが、行き詰まっている。しばし開放され、気分転換できるのはありがたく。
一方、刑事に根掘り葉掘り聞かれるのは、たとえ身に覚えがなくてもいい気は
しない。
「こちらの社長が大和吾朗さん。この方で間違いないでしょうな?」
刑事の出した顔写真を、上から覗き込む角田。「間違いありません」と即答
した。
「大和吾朗が社長で、私が副社長でした。二人で起ち上げたソフト会社故、便
宜上ですがね」
引き続いて刑事に求められるがまま、角田は具体的な仕事内容を、ざっと説
明した。企画段階のゲームのプレゼンテーションをし、資金を募るのが大和の
役目。角田自身はアイディアを実現化する現場の第一線に身を置いている云々
と。
「大和さんが亡くなったとなると、社長の座が空席になる訳ですが……角田さ
んが就くので?」
「分かりません。口幅ったいが、創業者の片割れだし、推す声はあるに違いな
いでしょう。でも、私には資金集めの才能なんてない。ゲームを作る方が向い
ている」
「大和さんの奥さんがなられるようなことは、あり得ますかね」
「なられるって、あの可愛らしい奥さんが社長に? ないでしょう。万が一あ
ったとしても、暫定的・一時的に名前だけなってもらって、次の適任が決まる
まで――いや、これもないなあ」
「資金集めの方は、どうなります?」
「すぐさま必要という訳じゃありません。これまでの利益があります。それに、
資金集めという表現で、多少勘違いさせたかもしれませんね。単純な意味での
資金集めももちろんやりますが、コンテンツファンドもやっているんですよ。
簡単に言うと、あるソフトを売り出して利益が出た場合、出資額に応じて配当
するっていう」
「ああ、何か聞いたことあるな。ま、要するに、社長が亡くなったからと言っ
て、いきなり資金繰りが悪くなり、四苦八苦する状況ではないと」
「そのように理解していただいて結構です」
「ふむ。では、大和さんが恨まれるようなことに、心当たりはありますか」
「いえ。亡くなったと聞いたときは驚きましたが、まさか殺されたとは。もう
開いた口がふさがらないというか、信じられなかった」
「業界内の敵、なんてのはどうですか」
「ライバル会社ならありますが、それはどこでも当たり前の話です。社長を殺
したからって、会社が潰れる訳ではないことぐらい、誰にでも分かるでしょう」
「なるほど、道理ですな。ところで、大和さんのスケジュールを把握していた
方は……」
「あいつは一人で決めて、一人で動くことがほとんどでした。でも、資金集め
でどこかに出向いたなら、遅くともその道中もしくは出先から電話で連絡をく
れたものです」
「その電話連絡を受けて、社長の居所を把握する人はいる訳だ。どなたです?」
「何人かいますよ。私もその一人です」
「では、角田さんに伺うとしましょう。四月四日の大和さんの行動について。
当然、会社を留守にしていたと思いますが、連絡はありましたか」
「その日は、朝一で会社に顔を見せたらしいんですが、顔を合わせていません。
うちはフレックス制ですし、終業時刻もあってないようなものでして。昼過ぎ
に、あいつが北関東方面を二、三日で回ると言ってきたことが、私の耳に入り
ました。……あと、資金集めの他に、腕の立つクリエイター何人かに会うつも
りだとも。この話は秘密扱いでしたが、大和が死んだ今となっては隠してもし
ょうがないので」
「秘密にする理由が分かりませんな」
「よそからの引き抜きを画策していたようです。実現の目処が立ったら話すと
のことでしたから、具体的な名前を聞いてはいません。現場が、斬新なシナリ
オやアイディアを生み出せる人材を望んでいたのは大和だって分かっていたか
ら、その方面の人物に当たるつもりだったんでしょう」
「優秀な人材を、そう簡単に引き抜けるものですか? こう言っちゃあ失礼に
なるが、おたくさんは中堅ですよね?」
「私には無理だが、あいつなら、大和なら口がうまいし、目算が立っていたん
だと思いますね」
「そういった目的のために、工作資金が必要になることもあるのでは? 大和
さんは会社の金を自由に使えたんですかね。経理に理由を伝えるとかは……」
「端から、社長の自由に使える経費の枠を取っていましたからね。無論、事後
報告を義務づけ、チェックを入れてますが、使う前の段階では何にどう使うか
は分からない」
「えー、要するに、四月四日に大和さんがどこの誰と会おうとしていたか、詳
細は不明ということでよろしいですかな」
「残念ながら、そうなります」
「北関東に出掛ける折に、定宿にしていたホテルか何か、ありませんかね」
「あったらすぐにお話ししていますよ。社長と言ったって、あいつはカプセル
ホテルでもかまわない質でした。家は大きいのに拘ったくせにね」
思い出し笑いをしてしまった。さすがにまずいと思い、手の甲で口元を拭う
ポーズをする。
「えっと、刑事さん。他に何か」
「大和さんと奥さん、ひろみさんの仲、あまりよくなかったと聞いておるんで
すが、実際のところ、どうだったんでしょうね」
「御自宅に伺って、何度か会いましたよ。あいつは亭主関白気取りで、押さえ
つけていたみたいでしたね。ひろみさんの方は反発する風もなく、はいはいと
言うことを聞いていらした印象が強いですが、仲、悪かったんですか?」
逆に質問する格好になったが、返答はもちろんなかった。
「それでは、大和さんの女性関係はどうでした? バーとかその類の店に行っ
て、そこの若い女性と懇ろに、なんて」
「どうかなあ。奴も嫌いな方じゃないんで、そういう店に行ったことあります
が、懇ろとまでは。ごく当たり前の楽しみ方でしたよ、あれは」
「懇ろとまでは行かなくても、不特定多数の女性とごく短い付き合いをすると
いうのはあったのでは?」
「ああ、そういうのならあったでしょう。死んだ者を悪く言いたかないが、亭
主関白気取りのプレイボーイ気取りで、妻の浮気は許さないが俺は浮気し放題、
口出しは許さん、みたいな。あいつ、口も達者さだが、それ以上に顔がいいか
らね。素人相手でも誘えば高確率でOKって感じで。もっと背があったら四番
バッターだ、なんてことを冗談めかして言ってたっけ」
話す内に、ぐっと来た。知り合ったときのことや会社を興した頃のことが、
いっぺんに思い出される。社長と副社長といっても、どちらが上ということは
なく、仲間感覚でやって来た。その仲間が、もうこの世にいないのだ。
「あの、刑事さん。あいつが女性関係に多少ルーズだったとしても、それだけ
で殺されるとはちょっと考えられません。一夜限りの関係を承知の女性だけを、
相手に選んでいたはずだから。無差別とか猟奇とかじゃなく、真っ当な動機が
あるとしたら、他の原因でしょう。私には何ら思い当たることはありませんが、
きっとそうに違いない」
「となると――仕事上のトラブル? いや、角田さんのその様子じゃあ、これ
も違いましょうな」
刑事から突然疑いを向けられた気がして、一瞬、ぞくりとした角田。実際、
身震いしてから、急いで肯定の返事をよこす。
「ええ、ええ。仕事では特に問題なかったですよ。会社も最初は苦戦しました
が、今は軌道に乗っています」
「んー、困ったな。これといった動機が見付からん。このままじゃあ、あなた
が言うところの“可愛らしい奥さん”を疑うほかない」
「え? しかし、それも私には考えにくいな……。お会いになったら分かると
思いますが、あの人には無理ですよ。いやね、見た目だけじゃなく、腕っ節も。
大の男を殺すなんて、とても」
「物事には、何かの拍子や弾みってこともありますからね。大和さんが泥酔し
て、無抵抗な状態だったかもしれません」
「……」
「ま、遺体から顕著なアルコールは検出されてないんですがね。角田さんも決
め付けずに、思い出してみて、何かあったら真っ先にご連絡を。今日はこれで
帰りますので。お仕事中に、ご協力をどうも」
「あ、あの」
立ち去ろうとする刑事を呼び止めた。振り返った彼らの表情が、何か思い出
したのかと、期待の色を浮かべたものであったので、角田は些か気後れした。
「あのー、大和の遺体は、いつ頃戻って来るのでしょうか。いつ葬儀になるか、
見通しを知っておきたいのです……」
――続く