#354/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 10/02/14 00:07 (473)
妄想肘鉄 1 永山
★内容
私立高等学校M学園は、自由な校風で知られる。生徒の自主性を重んじ、セ
レモニー時を除けば制服着用の義務がなかったり、体育祭や文化祭の企画から
運営までを任されたりするのは無論のこと、学校の施設を放課後、広く開放す
る等の利便も図られる。クリスマスやバレンタインデー前ともなると、調理実
習室は大勢の女子生徒――主に――で、ごった返すほどだ。
「味見してやろうか」
上和田洋文(かみわだひろふみ)が流し台の方を見やりながら言った。テー
ブルの端に腰掛け、長い足を持て余した風に組んでいる。その片方の爪先で、
空の椅子をぎぃ、ぱたんと前後に揺らしていた。
「結構です。お断りします」
住野佐久美(すみのさくみ)が答える。そのつんつんした調子の返事に、上
和田は何故か目尻を下げた。
「おまえのターゲットが誰なのかは詮索しないが、ビタースウィート好みの奴
だったら、男の舌で試しておいた方がよくないかな」
「女の舌でも分かります。それよりも――」
作業が一段落したのか、住野が振り返る。腰にサイドから両手を当て、上和
田に向かってこう注意した。
「机に座るのはよくないんじゃありませんか、先生。椅子を足で動かすのも」
「そうだな」
上和田は大げさにジャンプして机から降りた。着地(もちろん下は地面じゃ
なくて床だが)の拍子にずれた眼鏡を、指の腹を使って押し戻す。
「正直言って、甘い匂いを嗅がされ続けたせいで、腹が空いた。一口、くれな
いか」
調理実習室の使用は即ち刃物や火を扱うことなので、念のための監視役とし
て教師が一人、置かれる。今日は時間の空いている上和田にその役目が宛がわ
れた。
「私ばかりに言わないで、他を当たってください」
「知っている顔は多くても、気軽に頼めそうなのは住野ぐらいしか……」
と言いつつ、部屋全体に視線を走らせる上和田。誰かと目が合ったらしく、
ついと行ってしまった。
「うるさいのがやっといなくなった」
小声でぼそっと言ったのは、住野の隣でチョコ作りに精を出していた同級生、
江戸川蘭子(えどがわらんこ)だ。実のところ、チョコレート作りにはさほど
力を入れておらず、上和田と住野のやり取りに興味津々、耳をダンボにしてい
た。
「確かに、うるさかったわね。椅子をぎこんばたん」
「いなくなったところで聞くけれども、佐久美は誰にあげるつもりなの。まさ
か、友達にじゃないわよね」
「ここまで凝った物を、女の友達に渡すなんて虚しすぎるわ」
造形に工夫をこらす上、家庭菜園で彼女自身がこしらえたフルーツやナッツ
をあしらえる拘りようである。
「やっぱり、異性なんだ。気になるねえ」
「同等かそれ以上の見返りがあるのなら、教えてもいいけれど」
「それってつまり、私の好きな異性の名前を教えれば、佐久美も話してくれる
って訳?」
「いや、蘭子はどうせ明智小五郎って言いそうだから、他のことで」
この友人が、名前の似た作家が生み出した名探偵にぞっこんなのを、住野は
よく知っている。そして江戸川は、知られていることをよく知っている。
「だめか。同じくらい、二十面相も好きだけど」
「実在かつ現存する人物限定。加えて、できることなら身近な範囲で」
「いないわ」
これでは話が終わってしまう。江戸川はへらを片手に、代わりの対価を考え
た。が、何も浮かばない。
「将来、佐久美が事件に巻き込まれたら、無料で解決してあげるっていうのは
どう?」
「事件ねえ……」
江戸川蘭子には探偵の実績があった。高校二年にして、四つの殺人事件の捜
査に関与し、内二つを解決に導いた。残り二つも解決につながる重要な閃きを
見せ、捜査に当たる刑事――なんと父親だ――の手柄に貢献した。
「事件に巻き込まれるとは思えないけれど。蘭子に探偵してもらうよりも、何
かの拍子で間違って人殺してしまったとき、蘭子のお父さんの力で無罪にして
もらえる権利の方がいい」
「無理」
「そうよね」
「だって、佐久美の意中の相手を知ることに比べたら、釣り合いが取れないも
の」
「問題はそこですかっ。――まあ、どうせ私も、簡単に教える気はありません
けどね」
こんなばかなやり取りをしたわずか二日後、バレンタインデーの翌日に、住
野佐久美に提示された“権利”が行使されることになる。
「ねえ、蘭子。イチゴ知らない? 八つ持って来たはずなのに、七つしか見当
たらない」
「食べてないよ」
「誰もそんなことは疑ってない。ま、しょうがないか。ラッキーセブンという
ことにして、勘弁してもらいましょう」
* *
被害者の名は、三杉秀介(みすぎしゅうすけ)。M学園の二年生で、クラス
は一組。同学園内の調理実習室にて、遺体となって発見された。
「こういう仏さんは、初めてだな」
江戸川歩(あゆむ)刑事は独りごちた。事件に関する初と言えば、現場が娘
の通う学校というのも初めてだが、そこまでは口にしない。
「学生時代はバレンタインにチョコをもら得るかどうか、やきもきしたことも
ありましたけど、こんなもて方はしたくありません」
年若い名倉一恵(なぐらかずえ)刑事が、しかめっ面で言った。一恵という
名前だが、男性である。
床に横たわる三杉の遺体には、チョコレートがかけられていた。湯煎したチ
ョコレートを、口を中心にかけていったらしく、上半身のほとんどが焦げ茶色
にコーディングされていた。
「死因、まさかチョコを食わされ過ぎたからってことはあるまい。毒か、でな
ければ――」
しゃがんで、遺体の頭部とその周辺を見渡す江戸川刑事。すでに遺体を触っ
てもいいという許可を得ている。顎の細い、整った顔をした三杉の頭を斜めに
傾け、後頭部が見えるようにする。傷があった。
「やっぱりな。チョコの飛沫にしちゃあ、妙な色が混じっていると思った」
チョコレートと同じように固まった血が、頭の下の床に散見される。
「撲殺でしょうか」
「その可能性が強いってだけだ。これだけ異様な状態だし、専門家に任せると
しよう。先入観は禁物。……うん? これは大きな見落としをするところだっ
た」
自嘲する江戸川刑事。しゃがんだ姿勢のまま、被害者の左横に移動する。手
袋の嵌まり具合を再確認した後、チョコレートを崩してシャツをまくった。
「もう一回、写真だな。腹を刺されているぞ」
これ以上、遺体の状況に手を加えるのはよくないと判断し、シャツをまくっ
た状態を保って、傷口をざっと観察した。
刺されていると言ったのを取り消したくなった。割かれているらしく見えた
のだ。
「完全に、死因の即断はやめた方がいいケースだな、これは。それを承知で敢
えて言うなら……出血がほとんど見られない、つまり腹の傷は死後のもの、か」
「傷口を固めるために、チョコレートをかけたんでしょうか」
「まさか」
名倉の珍妙な見解を一蹴し、江戸川刑事は遺体の搬出を見守った。
遺体のあったすぐ周りでは、他に興味を惹く物を発見できなかった。もう少
し視野を広げてみる。三杉は机と流し台の間に、ほぼ仰向けに倒れていた。流
し台に目をやると、ステンレス製らしき銀色のボウルが大小一つずつ、水を張
った状態で置いてあった。他のボウルはきちんと片付けてある。
「チョコレートをかけた奴が殺人犯だと考えていいだろう。そして、チョコレ
ートをこれに入れていたとしたら、ひょっとすると指紋が残っているかもしれ
ん」
「まさか。水浸しですよ」
「こびりついているだろう、チョコレートが。うまくすれば、指紋を上からカ
バーしてくれているかもしれんてことだ。他の調理器具は、完全に仕舞い込ま
れているが、これだけは洗う手間暇を惜しんで逃げたんじゃないかと俺は踏ん
でいる」
「焦っていたなら、指紋を残している可能性も高いと」
名倉の言葉に黙って頷く。指示をして、くだんのボウルを慎重に採取・保管
させた。その後、名倉と共に第一発見者の話を聞きに、部屋を出る。手近の教
室の内、授業のなかった音楽室で待ってもらっているという。
ノックをしてからドアを横に引く。付き添っていた婦警がすっくと立ち上が
るのが分かった。つられたように、第一発見者の女子生徒も椅子から腰を浮か
す。
「ああ、そのままで結構」
近づき、机を挟んで向き合う形で椅子に座る江戸川と名倉の両刑事。自己紹
介をごく簡単に済ませ、婦警を一時的にさがらせると、聴取を始める。
「これまでに聞かれたことと重複するかもしれないが、面倒くさがらずに質問
に答えてほしい。いいね?」
「はい」
細い声の返事だったが、意外としっかり聞こえる。丸眼鏡をしているせいか、
愛嬌のある顔つきに写った。
「まず、名前と学年とクラス。それから今朝、家庭科室、ああ、調理実習室を
訪ねた理由を」
「福島志保(ふくしましほ)、二年二組。クラスの授業で、一、二時間目が家
庭科で、今日は調理実習でした。日直の私は鍵を職員室に取りに行き、教室の
ドアを開けておくのが役目でしたから……」
一気に喋り、ため息をつく福島。
「鍵を開けただけでは、あの位置にまで目が届かないんじゃないかな?」
名倉が優しい口調で、鋭い質問を発した。
福島は特に焦った様子もなく、「あの位置というのは、三杉君が倒れていた
場所ですか」と確認をしてきた。刑事二人が頷くと、少し思い出す風に斜め上
を見て、それから答えた。
「窓が開いていたんです。カーテンがふわっとなっていて。誰がと怪訝に思い
ましたが、とにかく閉めておかなくちゃと。だって、寒いですから」
なるほど。頭の中で納得する江戸川刑事。同時に、密室殺人ではないことに
も安堵した。
「クラスが違うようだが、三杉君のことは前から知っていたのかね」
「一年のとき、同じ組でしたから」
「今朝、ぱっと見ただけで、倒れているのが三杉君と分かった?」
「いえ。悲鳴を上げたあと、人を呼びに行って、戻ってきたときに改めて見て、
三杉君かな?と感じた程度です」
遺体発見直後からしばらくは相当に動揺していたと聞くが、今はそれが嘘の
ように落ち着いている福島。そんな第一発見者に。名倉がメモに視線を落とし
てから聞いた。
「調理実習室の鍵が、昨日の時点でどうなっていたか何てことは、知らないよ
ね」
「知りません。けど……二日前なら。土曜日に開放されたとき、監視役だった
先生が鍵の管理もしていたはず」
「その先生の名前を」
名倉は返事を聞き、上和田洋文の名前を書き取った。それから江戸川刑事に
目配せし、席を立つと、音楽室を出て行った。
「現場で、何かに触るとか、持ち去ったり持ち込んだりはしていないね」
質問を再開する江戸川刑事。名倉の口ぶりを真似してみた。福島はじっと見
つめ返してきて、無言で首肯する。そのあとに付け加えた。
「机の角ぐらいには触りましたけれど」
「窓は結局、閉めなかった?」
「あ、はい。そうなります」
「話は換わるが、三杉君はもてるタイプだったかな」
「それは、多分。クラスが違ってても噂が聞こえてくるぐらいですし」
「どんな噂? 君が喋ったとは口外しないから、安心していい」
人間関係を聞き出すのは重要だと、気合いが入る。相手は少し怯えたように、
身を引いた。が、それでも答はくれた。
「あくまで噂ですけど、複数の女子と付き合ってて、しかもそれを隠そうとし
ていなかった」
噂があって隠そうとしてないとは、どういう意味なのか。本人が噂を肯定し
ていたのなら、最早噂ではない。追及してみた。
「噂に上がった女子二人の内、一人が付き合いを認めていないみたいなんです」
なるほど。
江戸川刑事はその女子二人の名前とクラスを聞き出し、メモを取った。
「付き合いを認めていないのが石山雪奈(いしやまゆきな)で、認めているの
が森静子(もりしずこ)、だね。ともに二年二組と。他に三杉君をいいなと思
っているというか、狙っている子はいなかったろうか」
「そこまでは……。一応、森さんとは両方が認めている形だったし、大っぴら
に狙うっていう人はいなかったと思いますが」
「分かった。ありがとう」
事件や捜査に関する全てについて口外禁止を言い渡し、福島を帰した。
名前の挙がった女子生徒に好意を寄せる別の男子生徒がいれば、念のため知
っておきたいと思ったが、これ以上、福島から根掘り葉掘り聞くのは難しそう
だ。他のクラスの授業は現在、自習に切り換えてもらっているが、二時間目以
降は中止になろう。その方が、石山、森の両生徒を呼び出しやすい。未成年相
手の捜査はいつも以上に気遣いの必要性を感じ、疲れる。
(待てよ……。三杉が死んだことは、福島以外の生徒にはまだ伝わっていない
はずだが、いずれ知れ渡る。そうなる前に、女子生徒二人に話を聞いておくべ
きか)
捜査優先で考えるなら、それが効果的に思えた。どちらかが犯人なら、口を
滑らせるかもしれない。
しばし考えた結果、当然のごとく、捜査優先に傾いた。
「どうせ、じきに一時間目が終わる」
娘に聞いたことのある時間割を思い出しつつ、江戸川刑事は決断した。廊下
で待機させていた婦警をつかまえ、指名する生徒を順番に呼ぶよう言った。
先に、被害者との付き合いを認めているという森を呼ぶ。聴取場所は、引き
続き音楽室を借りることになった。
「どんな事件が起きたか、もう知っているかい?」
教師の上和田から話を聞いて戻った名倉刑事が、相変わらずの優しい口調で
尋ねる。学校側から立ち会いを求められたが、それはできないと断った。生徒
の立場を守るために必要だと粘られたので、部屋の外、廊下のある程度離れた
位置で聞き耳を立てるのは大目にみると伝えてある。
なお、調理実習室の鍵の行方だが、上和田の語ったところによると、土曜の
午後三時で生徒への開放が終わったので、遅くとも三時半には職員室の所定の
フックに掛けたという。各教室の鍵は同じ場所で保管されており、鍵を掛ける
ためのボード全体をアクリルケースの蓋が覆い、さらにその蓋が施錠される。
蓋の鍵は校長が保管し、おいそれとは持ち出せない。よって、各教室の鍵も、
人の目をかすめて持ち出すことはできないようになっている。
「いえ……」
森は返事しながら首を大きく左右に振った。かなり激しい動作だったが、お
だんご二つにした髪は、ちっとも崩れない。何故自分が呼ばれたのか、理解で
きないとばかり、しきりに瞬きを繰り返している。
名倉は質問を重ねた。
「クラスで今日、欠席している男子がいただろう?」
「え、はい。三杉君がいなかった」
「彼と仲がいいんだって?」
「え、まあ、そうです。仲がいいというか」
「付き合っているとも聞いたんだけど、本当?」
「うわ、いやだ。何でそんなこと知ってるんですか」
眼差しに困惑を浮かべる。森は自らの緊張を解きたいかのように、「刑事さ
ん達、どうかしてる」と付け加えた。
「一番最近、三杉君と会ったのはいつ?」
「昨日の朝。九時ぐらいに会って、お昼前まで一緒だった。会っていた理由は、
言わなくても分かるでしょ」
「バレンタインデーだからデート、という訳?」
確認を取る名倉に、森は黙って頷いた。
「昼前に別れたあとは、電話とかメールとかしなかった?」
「してない。何だか知らないけど、彼、家族ぐるみの用事があるとかで、忙し
そうだった。あ、メールなら、こっちから送ったけど返事なかったし。けどま
あ、割とよくあることだから、別に気にしなかったし」
「そうか。話してくれてありがとう」
名倉はそう言ってから、江戸川刑事を見た。
あとを受けた江戸川刑事は、接ぎ穂の言葉を少し考え、始めた。
「バレンタインデー当日、プレゼントを彼に渡したんだろうね?」
「もち、当然です」
「手作りチョコレート?」
「ううん。チョコは買ったやつ」
再質問をして詳しい銘柄を聞き出す。死亡推定時刻の特定に役立つかもしれ
ない。
それから、チョコはと言うからには他にも何か贈ったのかと思い、森に聞い
てみたが、チョコレートだけだった。
「チョコレートは、すぐに食べたんだろうか」
「まさか。開けずに持って帰ったわ」
「売っている物を買ったからには、君はバレンタインまでの何日かの間、調理
実習室に入ってはいないのかな」
「みんなしてチョコ作りしてるのには、加わってない。先週水曜日に授業で入
っただけかな」
「ふむ」
重要になるかもしれない証言を引き出せた。これでもし、例のボウルからこ
の生徒の指紋が検出されれば――。
「バレンタインのデートは、うまく行ったんだろうね」
「まあまあ。昼までっていうのが冴えないけれど」
「喧嘩なんか、全然していない?」
「喧嘩ぁ? 何言ってるのか分かんない」
だいぶほぐれてきた様子の森に、娘を持つ父親として内心嘆息した江戸川。
森への聴取はここで打ち切る。が、まだ帰らないようにと待機させることに
した。三杉が殺されたことは、女子生徒二人が揃っているときに話そうと考え
た。無論、このあとの石山雪奈の証言で状況が変わることはあり得るが。
「三杉君に何かあったんですか」
部屋に入り、椅子に収まるなり、石山は聞いてきた。目鼻立ちのはっきりし
た、まずは美人に入るタイプで、先程の森に比べると“大人”に見える。
「何故そう思うね」
当初予定していた質問を引っ込め、理由を質す。石山は当たり前のように答
えた。
「三杉君が欠席していて、先生に聞いても休んでいる理由を話してくれません。
その上、さっき、クラスに教頭先生が来られて、私と森さんを呼び出した……。
私はともかく、森さんは三杉君と付き合っています。三杉君に何かあったと考
えるのが、自然だと思いますけれど、違いましたか」
なかなか頭がよさそうだ。あるいは、事件の当事者だから三杉に何が起きた
か知っており、敢えて芝居を打っているとも考えられなくはない……。
「まず、はっきりさせておきたいんだけれど、君と三杉君は付き合ってはいな
いということでいいんだね?」
名倉が聞く。石山はこれまた当たり前だという風に、首を縦にしっかりと振
った。
「どうして付き合ってるみたいな噂が流れたんだろう?」
「私が流した噂じゃありませんし、分かりません。ただ、憶測でかまわないの
なら。三杉君とは小学校からずっと同じ学校で、家も近所です。登下校と一緒
になることが比較的多く、比例して、会話する機会も多い方だと思います。そ
れを見た周りの友達が言い始めたのかもしれません」
「えっと、聞いた話だと、三杉君は石山さんと森さんの二人と付き合っている
ことを公言していたとかいないとか……。どうして三杉君はそんなことを言っ
たのかな」
「私が聞きたいくらいです。大方、森さんをやきもきさせるための作戦、とい
ったところなんでしょうけれど」
返答を聞いて、江戸川刑事は色々と想像してみた。石山の推測が当たってい
るとしたら、三杉は単に相手を困らせて面白がっていただけか、恋人との関係
で有利に立つためか、それとも恋人との間に常に刺激が欲しかったか。
「噂のことで、森さんから何か言われたり、されたりはなかったかい?」
「特には……。もし普段の彼女の振る舞いを見ていたなら、刑事さん達もお分
かりになると思います。人目を憚らず、べったりですもの、あの二人」
「べったり、ねえ」
「べったりは大げさかもしれませんが、たとえば、みんなに見せつけるかのよ
うに、腕を組むんです。だいたいは森さんの方から。普段からそんな調子です
から、仮に森さんが私をライバルだと誤解して、見せつける行動に出たとして
も、私は気づかないでしょう。あと、文句や抗議を受けたこともありません」
「なるほどね。じゃあ、一番最近、三杉君と個人的に会ったのはいつ?と聞く
つもりだったんだけれど、無駄か」
「個人的にというのは、学校外でという意味でしょうか」
「校内でもかまわないが、ともかく、プライベートなやり取りや用事が二人の
間でなかったかなということだね」
「……登下校でお喋りをする程度で、他には特に……。強いて挙げれば、月初
めに、町内会の回覧板を直接渡したぐらいですね」
冗談めかして答えた石山だが、頬は些か強張り気味だ。事件について何も教
えてもらえない、宙ぶらりんの状態が続いて、不安が膨らんでいるのかもしれ
ない。
「となると、バレンタインデーにチョコレート――義理チョコをあげるような
仲だったとみていいのかな」
「……ああ、忘れていました」
妙な答えに、刑事二人は顔を見合わせた。急ぎ口調で石山が言葉を補う。
「渡すつもりはあったんですが、忘れていました。実は、今年は本命の人がい
ましたので……」
聴取を開始してから今まで、かなりはきはきと受け答えをしていた石山だっ
たが、自身の本命云々の話になるとさすがに口ごもるものらしい。
「差し支えがなければ、その本命の人の名前を知りたいんだが」
「調べている事件に関係あるんですか?」
「分からない」
続けて、「ただ……その人物が、君と三杉君との噂を真に受けて、事件を起
こした可能性を」と言おうとした江戸川刑事だったが、思い止まる。まだ殺人
事件発生とも、犠牲者が三杉秀介だとも伝えていない。
数秒の間を取り、江戸川刑事は質問を考えた。
「とりあえず、君とその本命の人とは、すでに両想いなのかどうかだけ、教え
てもらえないかね」
「私の片想いです。いえ――片想いでした。これで分かってください」
片想いが終了するのは、失恋ではなく、成就したときだろう。多分、昨日の
バレンタインに合わせて告白して、うまく行ったということになる。
それが正解なら、石山にもその相手の男にも、三杉を殺す動機は存在しなく
なる。いや、三杉が本気で両手に花を狙っており、強引に迫られた石山が反撃
に出たというパターンも考えられなくはないが……遺体に施されたチョコレー
トのコーティング、腹部を切り裂く猟奇性を勘案すると、もっとどろどろした
動機でないと釣り合いが取れない気がする。
相手の名前を聞き出すのは、正式な死亡推定時刻が出て、アリバイの裏取り
で必要になったら、そのときに聞けばいいだろう。そう判断し、次の質問に移
る。
「ここの生徒達の何人かは、バレンタイン前に、調理実習室でチョコレートを
手作りしていたそうだが、石山さん、君もその口かい?」
「はい。折角、設備があって自由に使えるのだから、利用しない手はありませ
ん」
「いつ、できあがった?」
「土曜日のお昼、一時過ぎには完成したと思います。そのあとすぐに帰って、
家の冷蔵庫で保存しました。チョコレートが何か重要なんですか」
「いや」
少なくとも、三杉に食べさせたのでなければ、関係ない。注目すべきは、こ
こ二、三日で調理実習室を利用したかどうかだ。
しかし……おかしなことになってきたぞ。江戸川刑事は首を傾げた。
動機がなさそうな石山は調理実習室を使っており、動機があってもおかしく
ない森は調理実習室を使っていない、と来た。例のボウルから実際に指紋が採
れるかどうかにかかわらず、犯罪者心理として、現場に指紋を残した(拭き忘
れた)可能性はないと断言できる自信なんて、普通は持てないはず。拭き残し
があったときに備え、つい最近現場に入ったことがあると証言しておくのが、
安全策ではないのか。森という女子生徒、そこまで頭が回らないとは思えない。
「とりあえず、ここまでとしよう。協力してくれて助かった」
そう告げられて、立ち去ろうとする石山。そんな彼女を呼び止め、さらに、
待機させていた森を音楽室に再び呼んだ。
名倉の口から、三杉秀介が死んだこと、他殺らしいことを彼女らに伝えさせ
た。
「幸運にも、ボウルからは指紋が採れた」
江戸川蘭子は、父の話を熱心に聞いていた。といっても、両頬杖をつき、好
奇心を隠そうとしない表情を満面に浮かべていたが。
「思惑通り、チョコレートの下で守られていたんだ。当然、森と石山両生徒の
指紋との照合が、早速行われた。が、結果は期待に反して、空振り。該当指紋
はなかった」
「よかった」
にこりと笑う蘭子に対し、父は眉を寄せた。
「よくはないだろう。指紋の主が分からないままなんだぞ」
「別の面から見れば、同じ学校の生徒が犯人じゃないと分かって、ほっとした
とも言えるでしょ」
「別の面というか、それは蘭子の立場から見た場合だ。もしもおまえの友達が
犯人だったとしても、情けなんて掛けることなく、逮捕するしかない」
「理解していますよ。その上で、よかったと思ってるんだから。それよりも、
ボウルの指紋が犯人のものというのは間違いないのかな」
「真新しさから言って確かだ。覆っていたチョコレートも、遺体にかけられて
いた物と同じ成分でできていた」
「砂糖の割合なんかで、誰がこしらえたチョコレートなのか、判定できないも
のかしら」
娘の突拍子もないアイディアに、父は苦笑混じりに頭を横に振った。
「みんなの作ったチョコが、今も残っていたら調べる価値はあるかもしれんな。
実際は残ってないだろう」
「分からないわよ。男子の中には、後生大事に取っておく人もいるみたい」
「状況から推測して、犯人がチョコを作ったとしたら、完成品を渡した相手は
三杉だ。誰からもらったか、死者には証言できない」
「そっか。じゃあ、調理実習室への侵入方法からは?」
「その線は諦めた。当初は鍵の動きを追跡していたが、福島の証言で窓が開い
ていたというのがあっただろ。窓の錠を前もって開けておけば、戸口の鍵とは
無関係に、誰にでも出入り可能だと気付いたんでな。事実、窓枠に乾いた砂が
付着していた。靴跡までは判然としておらず、残念だ」
「窓の施錠をチェックした人、いなかったんだ?」
うなずく父に、蘭子はさらに別の線を出してみる。
「指紋の話に戻るけど、森さんや石山さんの他に、容疑者は浮かんでないの?」
「有力と呼べる容疑者はいないな」
「それじゃあ、関係者全員の指紋を調べるってのは……無理か。職員はさてお
き、全校生徒の指紋を採るのは、難しそう」
「いよいよとなれば、その手で行くことになる。あくまで最終手段だ」
「いつ殺されたのかは、分かったんでしょう? 被害者のクラスメイトや知り
合いのアリバイを調べていけば、だいぶ絞り込めるんじゃない?」
「二月十四日、午後三時から六時と出た。当たってはいるが、いかにも怪しい
ってのは、今のところいない」
「その時間帯なら、私にもアリバイないかも〜。というか、幅が三時間もある
んだ? 珍しい感じ」
「犯行時点の室内の気温が確定できないためとか聞いた。外気温なら記録が残
っているが、室内となると今の季節、窓の開閉一つでだいぶ変わってくる」
「遺体にチョコレートがかけられていたり、お腹を切られていたりしたことか
らは、何も分かってないの?」
「まず、順番が分かった。先に腹を切り開いてから、服を戻した上でチョコレ
ートをかけている。次に理由だな。胃袋の中を探った痕跡が認められたので、
三杉が飲み込んだ何かを取り返すために、腹を割いたものとみられる」
「まさか、プレゼントしたチョコを取り返そうとして……」
「それはないだろう。口に入れたらじきに溶ける代物だし、そのあと液体チョ
コレートを流し込もうとした行為と矛盾する」
「でも、すぐには溶けない物だってあるわ。ほら、アーモンドチョコレートな
んか」
「……なるほど。一応、調べてみよう」
手帳に書き付ける江戸川刑事。
「液体チョコを流し込んだ理由の方は、見当ついてないの?」
「うむ。腹を割いた件にちゃんとした理由があるみたいだから、液体チョコレ
ートにも単なる狂気ではなく、まともな理由がありそうなんだが、現時点では
さっぱりだ。当日、調理実習室には使い残りのチョコレートが置いてあったと
いうから、湯煎さえすればじきに作れる。わざわざ作ったからには、遺体にか
けたのも故意と見なすのが妥当だ」
「不思議なのは、殺してから湯煎したのか?ってことよね。一刻も早く逃げた
いのが犯罪者心理。ひょっとしたら、チョコレート作りをしている最中に、殺
してしまったんじゃないかしら」
「あり得るな。そもそも、バレンタイン当日に、学校に内緒で調理実習室に入
るとしたら、チョコレート作りが目的だったとしか思えん。家でなく、学校に
拘った理由までは分からないが」
「作りかけで時間切れを迎えちゃったか、残りの食材を戴いちゃおうと思った
のか、それとも、チョコをもらった男が相手に作り直しを命じたか……」
想像力豊かなところを見せる蘭子。だが、三つ目の説は父が否定した。
「作り直しは、当日、チョコをもらったあとの話になる。それだと教室の窓を
密かに開けておく訳がない」
「あ、そうね。何にしても、三杉君は相手の言うがままに、調理実習室に出向
いたのかしら。付き合ってる森さんに、嘘をついてまで」
「森が嘘を言っている可能性もあるがな。蘭子から見て、三杉の評判はどうな
んだ?」
「顔はまあいい方よね。軽いところはあるものの、別に気に障るほどじゃなし。
彼女持ちだってことをあからさまにしていたから、男子から反感を買っていた
可能性の方が高い」
「でも、男からチョコを渡されても、受け取らないだろう」
「たとえばよ。男子の誰かがチョコを用意して、調理実習室のどこか簡単には
見付からない場所に置いておく。それから内気な女の子を装って、三杉君を呼
び出すの。直接会うのは恥ずかしいから、調理実習室のどこそこにあるチョコ
を取りに来てくださいって感じの手紙でね。興味を持った三杉君は、手紙にあ
る指示通りに窓から侵入して、チョコを見つける。そこへ、隠れてみていた男
子が現れて、笑いものにしようっていう悪戯だった。騙されたと知った三杉君
が逆上して、一悶着起きた挙げ句、死人が出る事態に発展してしまったとした
ら……」
「なかなかきれいにピースがはまったな。ただ、言われるまでもなく、男子に
も捜査の目を向けてはいる。今のところ、男子にも有力な容疑者は浮かんでい
ない。それともう一つ、蘭子の今の説でおかしいのは、液体チョコレートだ。
その筋書きなら、液体チョコレートの出る幕がない。最後に三杉にチョコをぶ
っかけて悪戯を締め括るつもりだったなんてことは、いくら何でもあるまい」
「うーん。結局、ネックになるのは液体チョコレートかあ」
男のように腕組みをして考え込むポーズの蘭子。父が苦笑いを浮かべるのが
分かった。
「ここまで話してやったんだ。いつものように何か閃いたら、すぐにでも知ら
せてくれよ」
――続く