#310/598 ●長編 *** コメント #309 ***
★タイトル (RAD ) 07/05/28 20:53 (251)
青い宇宙と青い空(2) 悠木 歩
★内容 07/05/29 19:51 修正 第2版
「ねえ、メグさんって、どんな人だったの?」
「どんな人って、言われてもなあ………」
家の明かりがはっきりと見えてきたあたり、リンダの質問にトキオは頭をかき
ました。煙突から立ち昇る白い煙が、紫の空にとけてゆきます。お母さんが夕ご
飯の支度をしているのでしょう。
「あんまりよく覚えていないんだ。だって、メグさんが亡くなったとき、ぼくら
は三歳くらいだったから」
「そっか………」
「でも、なんとなく、なんとなくだよ。とってもキレイで、優しい人だったって、
覚えてる」
そう言ったトキオの言葉が、リンダの耳に届いたのかどうか、とても怪しいも
のです。いつの間にかリンダの関心は、別のものへと移っていたからです。
そしてトキオの関心も、リンダと同じものへ移ります。家のほうからしてくる、
香ばしい匂いへと。どうやら、今晩のおかずは、鳥のパイ包みのようです。
「ああっ、いけない!」
ルベールさんは、慌てて紙の上に落ちた雫を拭いました。拭った涙が、紙の上
の笑顔を滲ませてしまいます。
陽が落ちて、村中に重く紫色の夜が覆いかぶさって、大分時間も経っていまし
た。ルベールさんは、まだ窓から射し込むわずかな星明りの中、図書室にいまし
た。
身体の弱いルベールさんは、ドクターの家の近くに住んでいます。ドクターの
診察所を兼ねた家は、学校のすぐ近く。そのせいもあってか、ルベールさんが遅
くまで学校で絵を描いていることは珍しくはありません。
でも今日は、ちょっぴり特別でした。
「きっと君は、いまのぼくを見たら笑うだろうね」
絵の中の微笑みに、語りかけます。答えが返るはずなどありません。でも、ル
ベールさんの耳には優しい声が届いていたのです。
(やだ、また泣いたりして。女々しい人ね………ルベール、あなた男の子でしょ
う)
薄い唇から響く、澄んだ声。
物心がついたときにはもう、傍らにあった声。
小さな頃から病弱だったルベールさんに対し、人の倍以上元気だった幼馴染み
の女の子。
いじめられて泣いていたルベールさんの背中を、強く叩いた手。
「ばっかじゃない? 男の子なら、やり返してやんなさいよ」
すごい剣幕でつり上がらせていた眉。
翌日、ルベールさんをいじめた男の子とケンカして、泥だらけになっていた顔。
「野球が下手だからってなに? 駆けっこが遅いからってなに? 釣りが苦手だ
からって、困ることがあるの?」
鈴を転がしたような笑い声。
でもそれは、ルベールさんをばかにして笑う、他の子どもたちのものとは違い
ます。
「あなたは誰よりも絵が上手じゃない。運動の得意な子なら、いくらでもいるけ
れど、あなたより絵の上手い子なんて、他にいないでしょう? もっと自分に自
信を持ちなさい」
その言葉がなければ、きっと画家を志すこともなかったでしょう。
でも画家になっても、絵はなかなか売れませんでした。
せめて人並みの生活が出来るようになったら、プロポーズしよう。そう思いな
がら、果たせず何年かしたころでした。
「結婚しましょう」
言い出したのはメグ。
「で、でも………ぼくは売れない画家だよ………満足な暮らしなんて出来やしな
い」
「私も働くから平気よ」
「だけど………ぼくは身体が弱いから………」
「私は人より二倍元気だもの。二人合わせればちょうどいいでしょう」
「けど………」
「何よ、はっきりしないわね。私がキライなの? 結婚したくないの?」
少し怒った顔のメグに、ルベールさんは慌ててしまいます。
「好きだよ、結婚したい!」
あっ、と思わず口にした言葉に驚いたとき、目の前にあったのは満面の笑みで
した。
予想通り、結婚後の生活は楽なものではありませんでした。けれどルベールさ
んは、それを辛いと感じたことは、一度もありませんでした。
どんなに苦しいときでも、いつもそばに世界で一番の笑顔があったからです。
地球という星が寿命を終え、故郷を捨てなければならなくなったときにも、ル
ベールさんはそんなに悲しくはありませんでした。
ルベールさんにとって「世界」も「故郷」も全てがメグ一人をさす言葉だった
からです。
けれどどんなに心が充実していても、長い長い宇宙船での旅は、元々弱かった
ルベールさんの身体に大きな負担になっていたのです。
もう自分は長く生きられない。
病の床に伏したルベールさんはそう思いました。
メグに看取られて逝くことが出来るのなら、それでもいい。そう思いました。
「ダメよ。また二人で大地を踏みしめる日までは、がんばるの」
宇宙船の中でたくさんの人が亡くなりました。おとなも子どもも。
長い宇宙船での暮らしは、健康だった人も弱らせたのです。
そんな中で身体の弱いルベールさんが生き残れたのは、人一倍元気なメグの献
身的な看病のおかげだったのです。
もしかすると、メグは自分の元気をルベールさんに分け与えていたのかも知れ
ません。
そしてようやく見つかったこの星。
地球と同じように、人の住める星。
あとちょっと、あとちょっとだったのです。
あと数十分がんばることが出来ていたなら、二人の新しい生活が始まるはずで
した。
でもそれは叶いません。
大気圏突入。
長い旅の間に宇宙船は傷んでいました。
乗っていた人たちも弱りきっていました。
着陸のための大きな衝撃に、たくさんの人が命を失ってしまったのです。メグ
もその一人だったのです。
「ごめんね………偉そうに言って私が………でも、私は………いつでもそばで、
あなたを守っているから」
そう言い残して目を閉じてしまったメグ。
その目が再び開かれることはありませんでした。
生まれつき身体の弱かったルベールさんが生き残り、元気の固まりのようなメ
グが死んでしまった。
きっと自分がメグの元気を吸い取ってしまったからだ。
ルベールさんは、いまでもそう信じているのです。
「進化の収斂って知っているかい?」
「しんかのしゅうれん?」
ルベールさんが聞いたこともない難しい言葉を言い出したのは、いつもどおり
みんなが図書室に集まって絵を見せてもらっているときでした。
「収斂進化と言うのが正しかったかな」
そう言いながら、ルベールさんは机の上に二枚の絵を並べます。
「知ってる、これイルカ」
そのうちの一枚を指さし、大きな声を出したのはリック。ロスの弟です。
リックはまだ学校に通う年齢にはなっていませんが、こうして時々ルベールさ
んの絵を見に来るのです。
「こっちは、サメでしょ。たしかホオジロザメって言うんだよね」
もう一枚の絵を指さし、トキオが言いました。
どちらも地球の海の生き物です。同じものがこの星の海にいるのかどうか、ト
キオたちは知りません。子どもたちはまだ、この星の海のことはよく知らないの
です。
「正解、二人とも詳しいね」
ルベールさんはリックの頭をなでました。
「よく見てごらん。この二つの生き物は、よく似た姿をしているだろう」
全く同じ、と言うわけではありませんが、確かにイルカとサメには似たところ
があります。身体の形、背中と胸のヒレなんかはそっくりです。
「それからこの二つも、似ているよね」
ルベールさんはさらに二枚の絵を並べました。
一枚はコウモリ、もう一枚は時告げ鳥。どちらもこの星にも地球にも同じよう
なものがいたと言う生き物です。
「サメは魚の仲間で、ずっと海の中で進化して行った。けれどイルカは哺乳類。
陸上で進化した生き物が、また海の中に戻ったと考えられている」
「ふーん」
大きく相槌を打ったのはリック。リリィはずっと絵に見入っています。たぶん
小さな二人はルベールさんの話をちゃんと理解はしていないでしょう。
「全く別の進化の過程を辿った生物が、同じ環境下で似たような身体、機能を得
ることを収斂進化と言うんだよ」
言い終えたあと、リベールさんはしばらく子どもたちの顔を見遣ります。自分
の話を理解出来ているかどうか、確認しているのでしょう。
「なんとなく………分かった気がする」
話の続きが聞きたいトキオは、そう答えます。ギニアやロス、大きな子どもた
ちはトキオに合わせて頷きます。
「地球とこの星、遠く離れた二つの星で同じ生き物が見られるのも、収斂進化の
結果だと考える人もいる」
いつものように本を読んでいたマニラ。でもさっきまで読んでいた本は、テー
ブルへと置かれています。ルベールさんの話に惹かれているのでしょう。
トキオも身を乗り出します。だってルベールさんの言い方は、自分はそう思っ
ていないと言っているようなものなのですから。ルベールさんはどう考えているの
か、興味がわいてきます。
「ぼくはこう思うのさ」
ルベールさんはそう言って、また絵を並べます。
それはさっきまでの絵とは少し違います。それぞれに別の生き物が描いてある
のではありませんでした。
全部で九枚並べられた紙。その九枚で一つの絵になっているのです。
それは海の絵でした。でもふつうの海とはどこか違います。何か不思議な感じ
はするのですが、どこがふつうの海と違うのか、子どもたちにはなかなか分かり
ません。
「あっ、これ宇宙だよ!」
ようやく気がついたトキオが手をたたきます。
「ほんとうだ」
これはリンダです。
海の中にはたくさんの生き物たちがいます。大きいのや小さいのや、たくさん
の魚たち。さっきのサメもいます。イルカも泳いでいます。タコやイカ、エビや
カニ、クラゲもいます。
そしてその海には不思議な丸いものが、いくつか漂っていました。星です。宇
宙船に乗っていてたとき、トキオたちはまだとても小さな子どもでした。ですか
ら宇宙から見た、この星の姿はよく覚えていません。でも絵に描かれている丸い
ものは、本で見る地球や他の惑星の姿に似ています。
海の中ばかりではありません。海の上にも、近くに、そして遠くに、たくさん
の星々が瞬いていました。
星が宇宙を漂っているのではありません。絵の中の海が、宇宙を漂っているの
です。
「むかし、むかあし、はるか遠いむかし」
ルベールさんは静かに目を閉じて話します。
「宇宙には海が広がっていたんだ………きっと空気もあったんだと思う」
ルベールさんの指さす先、絵の中の海の上には、空を飛ぶ鳥の姿がありました。
「生き物は海を泳いで、星々を自由に行き来していたんだ。鳥は空を飛び、泳げ
ない動物は流木に乗り、もしかすると船に乗ったのかも知れない………彼らにと
って、宇宙は死の空間じゃなかった」
「ノアの………箱舟」
呟くように言ったのはシドニー。ノアの箱舟とは、聖書と言う本に書かれたお
話です。
「そうだね………ノアの箱舟で語られている大洪水って、こういうことだったの
かも知れないよ」
閉じていた目を開くと、いつもの優しい笑顔でルベールさんは言いました。
「うちゅって、おみずでいっぱいなの?」
まんまるな目をもっと丸くしてリックが言いました。
「うんと昔はね」
ぽんぽんと、ルベールさんはリックの頭を軽く叩きます。リックは仔犬のよう
に目を細めました。どうやらルベールさんの話をすっかり信じてしまったようで
す。
もちろんそれが、ルベールさんの想像でしかないことを、トキオたち大きな子
どもたちは知っていました。宇宙いっぱいに、そんな大きな海が存在していたは
ずなんてありません。
それでもみんなはルベールさんの話が、本当のことのように思えました。
「きっとね………」
ゆっくりと立ち上がったルベールさんは、窓のほうへと歩いて行きます。それ
から眩しそうに手をかざして、空を見やります。
「いまもきっと、みんな旅を続けているんだ」
「?」
その言葉の意味は分かりません。それっきりルベールさんは黙ってしまったの
です。
ルベールさんの見上げる空は、海のように青く広がっていました。
大きな地震があったのはその日の夜、いえ正確には次の日の明け方近くのこと
でした。
どーん、という大きな音とともに、ベッドが激しく揺れてトキオは飛び起きま
した。
「ケガはないか?」
それから一分の半分もしないうち、お父さんが様子を見に来てくれました。リ
ンダの部屋のほうからは、お母さんの声が聞こえます。
トキオとリンダの無事を確認して、お父さんは外に出ました。けれど村にも異
常はなかったようです。
その日朝になって、学校のほうから鐘の音がしました。
初めに一回。少しして二回。
今日は学校が休みになるという合図です。
「トキオ、ちょっと!」
麦の畑の様子を見に行く途中のトキオに声をかけたのは、ギニアでした。
「なに、どうしたの? ぼく、これから畑の様子を見に行かないといけないんだ」
「それどころじゃないんだ。いいから来いよ」
真剣な顔のギニア。何かきっと、大変なことが起きたのに違いありません。
「こっち」
説明もなく、ギニアは駆け出しました。トキオも後に続きます。
東のはずれ、村を出て少しのところでギニアの足が止まります。
「何があったのさ? ギニア、説明くらいしてくれよ」
「どうくつ」
「えっ?」
「洞くつだよ、この先に洞くつを見つけたんだ」
にやっと、嬉しそうに笑いながら、ギニアがいいました。
「えっと、このへんに洞くつなんて、なかったはずだけど………」
もう七年近く住んでいる村です。その周りの様子だってよく知っています。村
の東側には少なくても半日で歩ける距離に、洞くつなんてありません。
「あれだよ」
ギニアの指さした先には丘がありました。村のみんなが「日の出の丘」と呼ん
でいる丘です。
「あの下、崖になってるところがあるだろう。多分、地震のせいだと思うけど、
そこの一部が崩れて………」
「洞くつが出てきたの?」
少し興奮して聞いたトキオへ、ギニアは頷いて見せました。
「うわっ、すげー」
トキオは思わず興奮した声を上げてしまいます。
トキオの目の前の崖には、大きな穴があいていました。洞くつです。
三ヶ月くらいまえに来た時にはなかった、新しい洞くつ。きっと、村の大人た
ちもまだ知らない洞くつです。
「入ってみるか?」
「もちろん!」
ギニアの言葉に、トキオは間髪入れずに答えました。
お父さんに知られたら、怒られてしまうでしょう。だけど目の前にある冒険を
我慢するなんて、晩ごはんを抜かれてしまうよりつらいことです。
にいっ、とギニアが笑いました。
トキオもにいっ、と笑い返します。
それから二人同時に頷いて、洞くつの入り口へと歩き出したのです。