#308/598 ●長編 *** コメント #307 ***
★タイトル (AZA ) 07/04/23 00:38 (323)
お題>鍵>入れ換え (後) 永山
★内容 07/08/24 10:16 修正 第3版
「曽我博樹が木崎優香を殺害後、自殺したとの見方が強まりまして、今日はそ
の報告がてら、氷室さんのご意見を伺えたらなと」
一人で現れた飛井田刑事を、氷室は歓待した。ジャケットの裾を翻すほどの
大きな身振りで招き入れ、ソファを勧めると、てきぱきとコーヒーまで用意す
る。
「書店でサイン会をやっているところへ来られたときは、私の愛読者のために
ならないからと追い返しましたが」
飛井田に微笑みかけ、前にコーヒーカップを置いた。
「実は待ち侘びていたんです。近頃はプライバシーに配慮というやつなのか、
詳しい報道がされない。付き合っていた女性が殺され、同居人も不審死を遂げ
たというのに、警察から私に与えられた情報は、満足の行くものじゃなかった」
「ほう。興味津々のご様子ですな」
「作家的興味もあってね。もしかしたら、新しい密室トリックのヒントが得ら
れるんじゃないかと、期待してしまって」
身近な者を二人亡くした割には、明るい調子で応じる氷室。
「ああ、そいつは職業柄、仕方ありませんな。では、説明を……っと、その前
に、氷室さん、サインをいただけませんか。うちにも推理小説好きなのがいる
んですよ。刑事のくせに、と言っちゃあいかんのでしょうな、やっぱり」
「ほほう、それは珍しい。喜んでしましょう」
持って来た氷室の最新刊を作者に渡す。相手は、背後のデスクに向かうと筆
立てからサインペンを抜き取り、気軽にサインをした。
「宛名は?」
「江東蘭子(えとうらんこ)さんへ、でお願いできますか。字は――」
売れっ子作家の横顔を見つめながら、漢字の説明をする飛井田。氷室は一度
確認したあと、宛名を書き終えた。
「女性の刑事さんですか。ますますもって、珍しい。いえ、女性ファンは多い
が、女刑事のファンは初めてですよ。――これでいいですか」
「どうもすみません。きっと喜びますよ。密室だのアリバイだののトリックが
好きだと言っているが、私が思うに、偉そうな刑事がピエロの役回りをさせら
れるのが、快感なんじゃないかと。上司と重ね合わせてね。まあ、このサイン
本のお力で、しばらくは押さえ付けてやれる」
本を返してもらった飛井田は、その表紙を撫でつつ、笑み混じりに無駄口を
叩いた。が、不意に真顔に戻る。
「では、これと引き換えという訳でもありませんが、捜査本部の下そうとして
いる結論を、お話しするとします。すでにご存知の点も出て来ましょうが、ど
うかご勘弁を」
「ええ、ええ。かまいやしません」
氷室がうなずき、飛井田は一旦、唇を湿らせてから口を開いた。
「この部屋の鍵が木崎さん宅で見つかり、木崎さん宅の鍵はこの部屋で見つか
った。そのどちらも鍵が掛かった、いわゆる密室状態だった。鍵はいずれも複
製は非常に困難とされるタイプで、事実、複製が試みられた様子はない。
木崎さんは朝七時から九時、曽我さんは同日十一時から十三時の間に死亡し
たと推定されています。発見がより早かった曽我さんは、正午前後に死んだと
見てほぼ間違いありませんが、念のために幅を持たせたとか。被害者お二人の
遺体に、動かした形跡はともになかった。
死因は、木崎さんが胸に細い棒状の物を突き立てられたことによる失血死。
遺憾なことに、凶器は未発見のまま。曽我さんはニコチンによる毒死。毒を体
内に入れるのに使ったと思しき針が、流しの網に引っかかっていた。針の刺し
傷は確認できていませんが。ニコチンの入手経路は、曽我さんが約二年前、殺
虫剤メーカーに勤める友人に頼み込んだ物と判明。恐らく、トリック実験のた
めに手に入れたのだろう……とは、氷室さんの推測でした」
「でしたね。その辺の真相は明らかになりましたか」
「いえ。あなたの推測にしても裏付けはまだでして、毒物を使ったトリックの
実験となると、小動物の犠牲を伴いそうなものなんだが、この二年、そういっ
た通報は確認されていない」
「ふむ。まあいいでしょう。続きを聞かせてほしい」
「動機探しや目撃者捜し等は、この際、省きます。苦労話を聞かされても、つ
まらんでしょうからな。第一、私が受け持ったのは、入れ子状態の密室を解き
明かすことでして」
「入れ子状態……ふふ、なるほどねえ。なかなか洒落た表現をするもんだ、警
察も」
愉快そうに目元で笑い、コーヒーを一口飲む氷室。
「もし、トリックが作品に使えそうなら、タイトルにいただけますかね」
「かまやしません、使えるものなら。――で、ですな。両者とも他殺となると、
密室なんて作れそうにない。だから、どちらかが他方を殺した後、自殺をした
のだと考えるに至った」
「思い出しましたよ」
くすくす笑いながら、氷室は飛井田を指さした。
「チェーンを掛けた状態で、外からドアの隙間に手なり棒なりを通し、ドアの
内側に鍵を貼り付けられないか、躍起になって実験していらした」
「ああ、あれは自殺説を採る前の話でして。隙間が狭すぎますな。そもそも、
テープでちょんとくっつけるのなら、何かのタイミングでうまくいくこともあ
りそうだが、あんながちがちにテープで固めて貼り付けるのは、隙間からの操
作では土台、無理ってもんです。早々に気付くべきだった」
「ミステリとして書くのなら、敢えて、ちょんと貼り付ける程度にしておく方
が、容疑者を増やせそうだな。ま、いいや。それで、自殺説を採るとどうなり
ます?」
「木崎さんは自殺ではあり得ない。現場に凶器がなかったので。一方、曽我さ
んは自殺とも見なせる死に方だった。毒を塗った針は室内で見つかったし、手
錠――よくできたおもちゃですが、頑丈な造りでした――だって、自らはめる
ことが可能。
彼の死が自殺と仮定すると、事件の流れはこうなります。曽我さんは早朝か
ら木崎さんを訪ねると、何らかの凶器を使って殺害。自宅の鍵を木崎宅の玄関
ドアに貼り付けると、彼女の持つ鍵を奪う。外に出て、施錠してから、マンシ
ョンに帰る。マンションに防犯カメラが設置されていれば、証拠になったんで
すがね」
氷室の暮らすマンションは、富裕層および有名人向けで、プライバシー保護
の観点から防犯カメラは設置されていない。マンション一階の玄関ドアでチェ
ックが行われ、部屋別のIDとパスワードを知る者のみが入れる。
なお、どのIDやパスワードが入力されたかの記録も残らない。
「氷室さんと違い、曽我さんは車を持っていないから、移動にはタクシー等を
利用したと考えられる。その辺を当たってみてはいますが、こちらもまだ成果
は上がっていません。
ともかく、続きを描いてみましょう。曽我さんは、自身の帰宅からさほど間
を置かずに、夜遊びから戻ったあなたを、理由を付けて追い出すことに成功す
ると、密室トリックの仕上げに掛かった。持ち去った鍵をドアの内側に貼り付
け、施錠し、ドアチェーンも掛ける。そして台所に立つと、ニコチンを針に塗
って、自分の身体を刺す。針を流しの排水孔に落とすと、自ら手錠をし、監禁
されていたかのように床にうずくまる。あとは死を待つだけ……」
「筋は通る。トリックが成り立つという意味での筋が」
「はい。ところがですな」
飛井田が言うと、氷室は怪訝そうに眉を寄せた。
「何か問題でも? 動機なら、将来を悲観した曽我が、成功を収めた私への嫌
がらせから木崎優香を巻き添えに殺し、曽我自身の命と引き換えに密室を作っ
た――いかにもミステリマニアらしい死だと思う」
「そんな曖昧なことではないんですよ。もっと具体的な疑問がある」
「へえ? 気付かなったかな」
「本当に? プロの推理作家らしくないなあ。私なんかに後れを取る人じゃな
いはずだ、あなたは」
「それは買い被りというもの。捜査のプロの刑事さんにかなう訳がないじゃな
いですか」
下手に出つつ、探る口調の氷室。飛井田は氷室が本当に気付いていないのか
どうか判断しかねたまま、手の内を明かした。
「電話ですよ。これだけが悩みの種でして」
「電話というと……あっ、編集者に掛かってきたという、あれか!」
「さようで。時間がおかしいんです。正午頃に死んだのがほぼ確実な曽我さん
が、その四十五分後に、佐々さんに電話を掛けるのは不可能だ。幽霊じゃある
まいし」
「……その電話、一方的に切れたと聞いたが、ならば録音した声を、何らかの
機械的な仕組みで、死後、発信したとも考えられる」
「それはないと思いますよ。そんな細工をしたら、痕跡が残るはず。曽我さん
が生きていたら、始末もできましょうが、そうじゃない」
「ふ……ん」
背もたれに身体を預け、考える素振りの氷室。右頬に当てていた手を、飛井
田の方へ振った。
「誰かに電話してくれるよう、頼んだんじゃないか。背景を知らされぬまま電
話するぐらいなら、引き受ける知り合いはあいつにもいただろう」
「今のところ、そういう人物は見当たりませんな。頼まれてニコチン毒を持ち
出したばか者が怪しかったが、第三者によるアリバイが証明された。それにね、
明らかに曽我さんの物でないと分かる携帯電話を渡された上で、そんなことを
頼まれたら、まともな人間なら拒否するものではありませんかな」
飛井田は、共犯の線を全く考えていないことを表明した。ちなみに、犯人が
使った木崎優香の携帯電話もまた、未発見である。
「……刑事さん。あなたは別に考えていることがあるんだろう。そいつを是非、
聞きたいね」
「よくお分かりで。しかし、聞けば不愉快な思いをなさるかもしれないんで、
気が進まんのですが」
「勿体ぶらずに、早く頼むよ。忙しい私が、こうして時間を割いてあげている
のだから」
待ち侘びていたという最初の言葉とは裏腹なことを吐いて、彼は鷹揚に手を
振った。努めて、余裕の態度を取ろうとしている感がなきにしもあらず。
飛井田は初めてコーヒーカップに手を伸ばした。だが口まで運びはしない。
時間を取るためにやったことだ。
「それじゃあ、私が喋り終わるまで、ご静聴願えますか」
「いいですとも」
「では……。曽我さんが犯人で自殺した説を引っ込めるとなれば、第三者によ
る連続殺人を考えるのが自然だ。問題は振り出しに戻り、密室の作り方を考え
直さねばならない。木崎さんについては、一緒だと思うんですよ。被害者に直
に接触することなく、刺殺するのは非常な困難を伴う、というよりも不可能に
近い。やはりポイントは、毒殺された曽我さんの方。毒殺なら、直接触れなく
ても遂げる余地がある」
「まあ、同意だね。――相槌ぐらいはかまわんでしょう?」
「ええ。で、調べてみると、ニコチンてのは、針なんかで入れなくても、とに
かく体内に入れば、命に関わるそうですな」
「それは私に答を求めているのかな? 経験したことはもちろんないが、知識
としてそう記憶している」
「結構。体内に入るのは、傷がなくてもかまわない。肌から浸透していく、と
いう形でもいいらしい。たとえば、筋肉痛の塗り薬のような具合で」
「不愉快どころか、逆に面白くなってきた」
氷室が身を乗り出した。飛井田はポケットからメモを取り出し、それを見な
がら続ける。
「ええっと、専門的には……ジメチルスルホキシドとかいう化学物質が、皮膚
から体内への浸透をしやすくするそうですが、この物質自体を手に入れる必要
はない。さっき言った筋肉痛の薬、あれにニコチンを混ぜてやれば事足りる。
そうやって作った毒の溶液を、手で触れそうな場所に塗っておくと、知らず知
らずの内に大量のニコチンを摂取することになる。曽我さんは与えられた部屋
を書斎とし、ほとんど籠もりきりだったから、犯人が見られることなく毒を塗
るのは容易い」
メモを適当に折り畳み、仕舞ってから再び話し始める。
「曽我さんは犯人から、こう言い含められたのではないか。『後ろ手に手錠を
された状態で、どの程度行動できるか、実験したい。万が一、手に怪我を負う
と仕事に差し支えるから、代わりにやってくれないか』と。その想定の上、曽
我さんがよく触る場所、あるいは触らざるを得ない場所として私が思い浮かべ
たのは、まず、玄関ドアの錠、つまみですな。それにドアチェーンも。これら
は犯人に指示されるがまま、曽我さんが自ら掛けたと思われるからです。
あとは、各部屋のドアノブ。電灯や家電のスイッチ類。水道のカラン。ガス
コックやコンロ。コップ。そして電話といったところか。
電話は曽我さんから犯人へ、定時連絡を入れるために、何度か利用されたは
ず。三十分おきぐらいでしょうか。定時連絡が来なくなったら、それは曽我さ
ん死亡のカウントダウンが始まった合図。しばらく待って、今度は犯人の側か
らここへ電話を掛け、出ないことを確かめたあと、駆け付ける」
飛井田は言葉を切り、相手の反応を見守った。
氷室は「反論してもいいのかな」と言った。
「どうぞ。ああ、証拠がないというのは、なしで。物的証拠はこれから調べる
つもりなんで」
「私を犯人と見ているようだが、曽我がそこまで言いなりになるかな」
「実質的に、曽我さんはあなたに食わしてもらってる立場だったんでしょう?
推理作家としてトリック実験には理解を示すに違いないし、手に怪我をされた
ら執筆に悪影響が出る、つまりは稼ぎに響きかねないこともよく理解できた。
応募締め切りが差し迫ってスパートを掛けていたというのならともかく、そう
でなければ素直に従うと思いますがね」
「玄関の内側に張られた鍵は? 手錠を掛ける前に張らせるにしても、犯人で
ある私はどういう風に説明したのだろう?」
「曽我さんが犯人で自殺した説の場合に、お話しした密室トリック。あれをそ
のまま曽我さんに伝えたんではありませんか。トリックのために必要だと言わ
れれば、やるでしょう」
「ふむ……」
息をつき、しばし沈黙する氷室。反論の矢を補充する時間は、二分近くにも
なった。
「あなたの説だと、編集者への電話も私がしたことになる」
「ええ」
「何でまた、曽我がすでに死亡していた可能性が高い時刻に、電話をしたとい
うんだね?」
「誤算でしょう」
飛井田は用意していた返答を素早く繰り出す。
「誤算?」
「犯人は、ニコチンで死に至るには最低でも五、六時間を要すると踏んでいた。
だが、ニコチンは致死量が甚だ曖昧だ。摂取してから死亡するまでの時間も、
摂取量および個人の体質や体調その他で大きく変わる。恐らく曽我さんは、正
午の定時連絡を犯人に入れた直後、死亡した。犯人はその次の定時連絡が入る
はずだった十二時半に、電話が掛かってこないことで、曽我さんの死亡を知る。
折り返し電話をし、曽我さんの死の確信を得るのに十五分近くを要した。それ
から佐々さんの携帯電話に、木崎さんを殺したことを伝えた」
「複雑なトリックを考案した犯人にしては、らしからぬミスだな」
苦々しげに吐き捨てた氷室。飛井田は首を横に振った。
「いえいえ。念には念を入れた結果、毒が過剰に作用したってだけじゃないで
すかね。犯人はあちこちに毒を塗った。あまりにもあちこちにね。曽我さんの
体調もよくなかったんだと思う。投稿のために外出はほとんどせず、執筆に大
部分の時間を割いていただろうから、体力が落ちていたと推察できる。我々捜
査員は、幸いにも手袋をしていたから影響を受けずに済んだ」
「……証拠の有無に関しては、触れてはいけないんだったね。動機は?」
「木崎優香さんを殺したのは、突発的なものだとにらんでいます。それについ
ては後回しとして、先に曽我さん殺しを。ところで、氷室さん。あなたの作品、
いくつか読ませてもらいました」
「うん? そりゃどうも」
「トリックそのものは、奇抜で、感心させられることもあった。ですが、デビ
ュー作からこっち、段々と無理矢理にトリックを詰め込んでいるように思えた。
トリックを誇りたくてしょうがないという風に」
「こいつは手厳しい」
苦笑混じりに応じた氷室へ、飛井田は淡々と言葉を重ねる。
「最近は持ち直してきた風だと、同僚から聞きましたがね。勝手な想像をさせ
てもらえるなら、ストーリーは曽我さんが考えていたんじゃないかと。そこへ
あなたが自前のトリックを当てはめ、作品にしていた……違いますか?」
「……」
「沈黙は認めたと見なしてよろしいので? 事実なら、動機につながってきそ
うですな。弟子として見下していた男に助けられる屈辱。曽我さんを殺せばス
トーリー作りに困るかもしれないが、いずれスランプを脱するだろう、と。
あ、これは殺害の動機。もう一つの動機、トリックを使った動機にも言及し
ませんとな。トリックを使った理由と言うべきでしょうか。
先ほど述べたように、あなたはトリックを誇りたいという気持ちが強い。そ
れが高じて、現実の事件でも使いたくなった。いや、これは語弊がありますな。
現実の事件で使うなら、適当なトリックでお茶を濁そうと思った。何故なら、
現実の事件ではトリックの種明かしができない。言い換えれば、自慢できない」
これにも氷室は沈黙でもって応じるのみ。
「刑事がこんなことを言うのは問題ありかもしれないが、氷室さん、あなたね
え、トリックの使いどころを完全に間違ったよ。小説で使ったトリックは、ス
トーリーからは浮いていても、難解な物だった。とても私なんかには解けそう
にない。それを使わず、わざわざ簡単なトリックを使ったのは、警察をなめて
いたのか。いや、あなたの性格のなせる行為だと、私は判断した」
「独り善がりの理屈もここまで来ると、あなたの決めたルールに従う義務はな
いように思える。証拠は? すぐに示せとは言わない。どこを調べれば、証拠
を掴めると考えているんだろう? 今さら、ニコチンが検出されるとでも?」
「抜き取ったつもりでも、案外残っているもんですよ」
「微量なら、それは殺人の証拠にはなるまい。何せ、この家にニコチンが以前
からあったことを、私は認めているのだから」
「なるほど。そう来ましたか……」
顎に片手をやり、首をひねる飛井田。
「じゃ、仕方がない、とりあえず、木崎優香さん殺害の件で、有罪の証拠を探
すとしましょう」
「だから、何をどう調べれば、証拠になるんだね」
「――氷室先生。私にもサインをもらえませんか」
「何?」
意表を突かれた風に、氷室が目を見開く。加えて、腰を浮かせていた。
「あなたの小説、嫌いじゃありません。残念ながら御本は持って来てませんか
ら、手帳にでもサインしていただけると、ありがたいのですが。ただし、これ
までファンの方にしてきたように、ディテクティブストーリー大賞受賞記念の
ペンで、お願いします」
「な……」
「だめですか? サイン会でお気に入りのペンを使わなかったのは、大人数だ
からかとも考えたんですがね。最前、うちの江東へのサインを頼んだときも、
別のペンで書いていた。一応、調べさせてもらいましょう。その胸ポケットの
ペンが、今もちゃんと書けるのかどうか」
「……何のために、調べるつもりだ?」
推理作家の動揺ぶりから、飛井田はすでに確信を得た。ゆっくりと答える。
「そのペンが、木崎優香さん殺害の凶器であることを確かめるために」
「拒否……したらどうなるのかな」
「重要参考人として、あなたを引っ張るしかないでしょうな。出直していたら、
記念の大事なペンでもさすがに処分されるかもしれない。尤も、被害者の血痕
がポケットの内側にわずかでも付着しているのは、ほぼ間違いないと思います
がね」
「……参ったな」
自嘲の笑みを浮かべ、氷室はジャケットの胸ポケットから、細長いペンを抜
いた。ペン先が多少歪んでいるように見えるのは、使い込んだせいだけではあ
るまい。
「そんな大事な物を凶器にするなんて、やっぱり、木崎さんを殺したのは衝動
的だったんですねえ」
「……刑事さん。これを渡す前に、教えてほしいことがある」
「はい?」
「何故、あなたは曽我自殺説で納得しなかった? もちろん、編集者への電話
の時刻には若干のずれがあったかもしれないが、許容範囲だろう。第一、私に
目を着けるのが早すぎる」
今や立ち上がった氷室に合わせ、飛井田も腰を上げた。少しだけ考え、言葉
を組み立ててから答える。
「我々二人が初対面の折、作家の弟子とはどういうものかってなことを、こっ
ちが質問したの、覚えてますか」
「あ、ああ。覚えている」
「じゃあ、ご自分がどう答えたかは?」
「うん? えっと、何だったかな……」
唸っては首を傾げるを繰り返した氷室。目の前の刑事に分かって、自分が気
付かないミスがあったのか? 信じられない!といった気分から、焦りが生じ
ているのかもしれない。
飛井田は深呼吸し、一気に喋った。
「氷室さんは、『小説の書き方を教えていた訳じゃありませんよ』と言った。
『教えていた』、過去形です。いくら否定するための話でも、過去形は変だ。
『教える訳じゃない』が正確な表現では? プロの作家、しかも売れっ子の氷
室さんが、言葉を疎かにするとは思えない。私ゃそれで、この人どこか変だぞ
と感じた次第でして」
「ああ……そういうことか」
氷室は俯き、手の中のペンをじっと見た。そして面を上げると、
「刑事さん。私は本当に、トリックの案出にだけは自信があるんですよ」
と冷めた調子で言った。
「でしょうな。作品をちょっと読んだだけで、分かりました」
「本気になれば、泉のごとく湧いて出て来る。そう、現在のこのピンチを脱す
ることを可能にする、素晴らしいトリックもね」
「え?」
飛井田は目をしばたたかせた。ぽかんとする間もなく、人ひとりの血を吸っ
たペンが、鼻先に迫り――。
「冗談ですよ」
氷室が言った。
「潔く、物証を差し出しましょう。私にとってもあなたにとっても鍵となる、
大事な大事なペンだ」
――終