AWC 箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[08/10] らいと・ひる


        
#296/598 ●長編    *** コメント #295 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:38  (395)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[08/10] らいと・ひる
★内容

■Everyday #6

 すべては愛しき世界だった。
 少女が育む日常も、少女が愛する人々も。
 優しき世界はここに存在し、残酷な規律がそれを包み込む。
 世界がどのようなものかを理解した上で、少女は全てを受け入れた。
 だから、たとえ目の前に絶望が立ち塞がろうと、それでも少女は世界を想い続け
る。

 そう。世界が終わりを告げるまで。

 消しゴムが床に転がった。
 拾おうとしたありすの右手より先に、大きくてごつごつした大人の右手がそれを
拾う。親切にも拾った消しゴムを彼女に渡してくれた。
「え?」
 迂闊だった。
 創作に集中すると周りが見えなくなるのはありす自身も自覚している。
 今は数学の時間であり、真横に立っているのは担当の福島先生である。
 ありすが机の上に出しているのは教科書とノート、そして創作用のノートだった。
「種倉!」
 そう呼ばれてありすはびくりと身体が震える。
 眠気覚ましにと創作ノートに手を着けたのが間違いだった。教師の接近に気付く
ことなく創作に集中してしまった彼女は後悔の念にかられる。
「あ」
 抵抗する間もなく教師に創作用のノートを取り上げられた。言いようもない喪失
感がありすを襲う。
「何を内職しているんだ?」
 目を細めた福島先生のきつく恐ろしい声が教室内に響き渡る。
「……」
 何も答えられなかった。「小説を書いてました」なんて言えるわけがない。せい
ぜい誤魔化せたとしても読書感想文の課題をやってました程度である。それにした
って、今は数学の時間なのだから言い訳にすらなり得ない。黙秘権を行使して教師
をやり過ごすしか手はないだろう。
「これは没収だ。担任の手津日(てづか)先生に渡しておく。返して欲しければ放
課後に説教を受けに行くのだな」
 そう言って教師は教壇へと戻っていった。その後ろ姿を恨めしげな表情で彼女は
見送る。
 最悪の状態だった。
 今日の星占いはランキング一位。人知れず行動するのが吉だなんて、やっぱり当
てにならないなと、ありすは思い知る。
 なんてツイていない日なのだ、そう悔やみながらありすは頭を抱えた。
「まいったなぁ」


 それ以後の授業はほとんど頭に入らなかった。
 没収されたノートには覚え書きの設定資料と3つの短編小説、そして書きかけの
長編小説が記してある。
 中でも長編小説はありすと同じ年齢の少女を主人公としたもので、思い入れはか
なり強かった。なによりも書きかけということが、彼女の心の喪失感をさらに増大
させていたのだ。
 完成していたのならば、まだ諦めはついたのかもしれない。だが、物語として中
途半端な状態では悔やむに悔やみきれない。しかもこの書きかけというのは、厳密
に言えば連載形式に当たる。一つ一つのブロックにおいて、物語は完成していると
いってよい。
 頭の中に、ある程度は物語が入っているので、新しく書き直すという方法もある。
 ところが、書き直してしまったらそれは元の物語とは微妙に変わってきてしまう。
元の物語の登場人物にとっては、まったく別の世界での出来事なのだ。
 このまま没収されて返却もされないという事であれば二度と同じ世界は訪れない。
 日常に身を委ねるものであれば、なんの意味もない些細な事にありすは心を痛め
ているのだ。
「おかしいかな?」
 休み時間、声をかけてくれた成美と美沙にありすは自分の考えを話す。
「ありすさんの心の痛みは、純粋に物語の喪失から来るものなんでしょうね。わた
くしも途中まで読ませていただいておりますから、その気持ちはわからないでもあ
りません」
「あたしがもうちょっと記憶力が良ければ……ううん、そういう問題じゃないか」
「そうですね。たとえ前の物語を全て覚えていたとしても、今のありすさんは、前
に書いていた時のありすさんとは微妙に変わってきてますからね。新しく書き直し
た物語は、以前の物語とは微妙に違ってくると思いますわ。それがいいか悪いかは
別として」
「でもさ、完全に没収されるって決まったわけじゃないだろ。ありすの反省次第で
はきちんと返してくれると思うよ。手津日先生って、そんなに分からず屋じゃない
し」
 悪いのはありす自身なのだから、今は反省するしかないのだろう。彼女はノート
が戻ってくることを祈りながら残りの授業を真面目に受けたのだった。

 放課後、ありすは覚悟を決めて職員室へと向かう。
 ノートを取り上げられたのは今回が初めてだった。それだけに心の動揺は計りき
れない。
「失礼します」
 職員室のドアを開けると、すぐに目的の教師と目が合う。どうやら待ちかねてい
たようだ。気が滅入りながら担任の手津日先生の前まで歩いていき、開口一番で
「申し訳ありませんでした」と謝る。
「うむ。悪いことをやったのだと理解できているのだな」
 三十代半ばの手津日先生は必要以上に怒らない性格だ。だが、裏を返せば必要が
あれば厳しく叱りつけるという事だ。もし、ノートの中身をちらりとでも見られて
いたのなら、ありすがどれだけ不真面目に授業を受けていたかが露見してしまう。
「はい。今後、このような事がないよう気を付けます」
 余計な事は言わずに彼女は深々と頭を下げる。
「このノートだが」
 手津日先生はノートを手にして、それをまだありすに渡そうとはしない。やはり
中身を見られてしまったのかもしれない。その可能性は高かった。
「……」
 返してくれないのだろうか、そう思うとありすは悲しくなる。
「そう泣きそうな顔をするな。ちゃんと返してやるよ。ただな」
 教師の顔が険しくなる。
「申し訳ありません。申し訳ありません。本当にもうやりませんから」
 ありすは取り乱したかのように何度も頭を下げる。彼女の想いが凝縮されたあの
ノートだけは取り上げられるわけにはいかなかった。あの書きかけの物語を葬り去
られるのだけは何としても避けたかった。
「勘違いするな。返してやると言っただろ。実は、中身を読ませてもらった」
 見られたというより読まれたらしい。しかも手津日先生の担当は国語だ。
「え?」
 鼓動が速まる。たしかに他人に読ませる事を意識して書いたものだ。だが、それ
が担任の教師では否が応でも緊張は高まる。
「表現の重複する箇所や、視点の揺れが目立つ。未熟な部分も多い。だが、よく練
られた物語じゃないか。先生は面白いと思ったぞ」
「……」
 表面的に読み取ったのではない。批評はされたが、一読者としての意見もあった。
「素直で純粋な物語だ。たぶん、今の種倉にしか書けないだろう」
 それは褒められたのであろうか。予想外の反応にありすは言葉が出てこない。
「あ、はい……」
 これこそ、まるで狐に摘まれたような話である。あまりの結末に、彼女はすっか
り拍子抜けしてしまった。
「種倉は物語を書き続けたいか?」
 その質問の意図はよくわからなかったが、とりあえず彼女は正直な気持ちを吐き
出す。
「え? あ、あの、物語を創る事は大好きですから、その……できれば書き続けた
いです」
「だったら授業は真面目に受けることだな」
 手津日先生は手に持ったノートでありすの頭を軽く叩く。
「はい」
 それほど痛くはなかった。
「これは説教じゃないぞ。もし種倉が物語を創り続けたいのなら、できる限りの知
識を吸収した方がいい。今のおまえでは純粋だが狭い世界しか構築できない。だか
らこそ、知識を吸収する事でその世界は広がるのだ。無論知識だけではどうしよう
もないことは確かだ。だが、義務教育を受けているおまえにとって、それは基本的
な知識。基本という骨格がスカスカでは、どんなに膨らんだイメージも一瞬で崩壊
してしまうぞ」
 それは至極まっとうな意見だった。
 自分の創り出す物語を誰かに読んでもらいたいのであれば、基本的な知識の蓄積
及び構築は必要不可欠な事だ。自分の住む世界の仕組みを知らなくてどうして新た
な世界を創る事ができようか。自分にしか理解できない世界など、それは物語など
とは言わない。そんな自分勝手に創られた世界を世間では『妄想』という。

 職員室から教室へと戻る間、彼女は自分の周りの人たちについて改めて考えてい
た。

 種倉ありすを取り巻く心地良い世界。
 鈴木美沙の大らかさと力強さ。
 祁納成美の優雅さと優しさ。
 手津日先生の厳しさと寛容さ。

 彼女たちは深く自分を理解してくれようとしている。ありすの純粋さを守るよう
に彼女たちはいつもそこに居てくれる。
 世界はこんなにも優しい。こんなにも恵まれた世界で、自分は何を紡ぎ出せばい
いのだろう。
 もちろん、優しさだけでないことも知っている。でも、自分が追究すべき、守る
べき欠片はこんなにも身近に存在しているのだ。
 教室の扉を開けると見慣れた二つの笑みがこちらに向く。成美と美沙だ。
「待っててくれたの?」
 当たり前でしょ、と言いたげな二つの視線が言葉を紡ぐ。
「帰ろっか」
「帰りましょう」
 それは温かい世界の全て。かけがえのない世界の一部。
「うん」
 昇降口までのとりとめのない会話。でも、その一つ一つがありすにとっては宝石
のように輝いている。
 靴に履き替えて外に出ると、日が落ちるにはまだ早い時間。
「寄り道してこっか?」
 言い出したのは美沙。
「この間行った、あのカフェに行きましょ。わたくし、あそこの雰囲気とても気に
入っておりますの」
「そうだね。あそこのケーキおいしかったし」
 美沙の寄り道の提案に二人は喜んでそれに乗った。
 こんなにも日常は心地良く流れている。
 神様という概念はよくわからない。でも、ありすはこの世界に感謝したかった。
「そういえばノート返してもらったの?」
 美沙の問いかけに、ありすは照れたように「うん」と答える。
「どうかなさったのですか?」
 彼女の表情を見逃さなかった成美が不思議そうに問いかけた。
「手津日先生にね、中身読まれちゃった。でね、ちょっとだけ褒められたの」
「説教はされなかったの?」
「うん、注意はされたけど、さほど。でも釘を刺されたことは確かかも。あたしは
もう授業中に内職しようなんて考えないようにする」
 真っ直ぐ前を見つめる。そこに迷いがない強い意志を込める。
「読んでいただいたことが相当嬉しかったのですね」
「ふーん、なるほどねぇ。で、ありすって今、どんな小説書いてるの」
 まだ美沙には読ませていなかった事を思い出す。成美にはアドバイスを求めて書
きかけの状態で読んでもらう事もあるのだが、美沙の場合は完成してからの方が多
かった。
「……普通のだよ」
 ありすは一瞬だけ考えて、シンプルにそう答えた。
 それに対して成美が補足を加える。
「途中まで読ませてもらいましたが、普通であり純粋でもありますわね。魔法も出
てこない、戦いがあるわけでもない。そこに奇跡も世界の危機もあるわけでもない。
だけど、誰もが温かい気持ちになれるような、ごく普通のお話。わたくしはその物
語が大好きですわ」


■True magic

 上履きは使えなかった。
 靴の中には犬の糞らしき、汚物が入っている。
 これで何足目だろうか。そんなことをありすはぼんやりと考える。不思議と怒り
は湧いてこない。悲しみだけがじわじわと彼女を襲った。
 事務室でスリッパを借りることにして、二階の教室へと向かう。
 教室前の廊下にあるロッカーは、ありすの場所だけなぜか鍵が開いていた。中を
確認するとお気に入りのポーチがボロボロになっていた。体操着が盗まれていない
だけましなのかもしれない。
 気分が沈んだまま教室に入り、クラスメイトの珠子の姿を探す。まだ来ていない。
もし来なければ今日はありすへと攻撃が集中するだろう。そう考えるとますます気
分が滅入ってきた。
 そこでありすは違和感に気付く。
 いつもなら嫌味ったらしくからかわれるように声をかけられるのだが、教室にあ
りすが入ってきたことに誰も気付いていないようだ。
 それもそのはず、クラスメイトのほとんどが黒板のところに集まっていた。
 何か告知でもされているのだろうか。ありすは鞄を机の上に置くと、人だかりの
方へと歩いていく。
「あ、叉鏡だ」
 一人の男子が彼女に気付き声を上げた。
 それと同時に、そこに集まっていた全ての生徒が一斉にありすの方を向く。あま
りにも統制のとれた行動に彼女はおぞましささえ感じていた。
 くすくすと小声で笑いながら各々が何やら囁きあっている。陰口の類は慣れたと
はいえ、あまり気分の良いものでもなかった。
 クラスメイトの視線に耐えきれず、ありすは席に戻ろうと黒板をちらりと見て呆
然とする。
 黒板には写真が貼り付けてあった。
 公園にある噴水の縁に座っているもの、駅前の商店街を疾走しているもの、自動
販売機の前でジュースを買っているもの、全ての被写体がありすであった。しかも
ご丁寧にネコ耳のカチューシャを付けたものばかりだ。「いったい誰が?」と彼女
は思うが、よく考えてみればその写真には見覚えのあるものがいくつかあった。撮
影したのはたぶん『ダム』とかいう男だろう。あの時、彼は言っていたのだ「今ま
で撮った分送ってあげるね」と。撮影は公園で声をかけてきた時が最初ではなかっ
たのだろう。その前後も撮り続けていたことは写真を見れば明らかだった。
 それと、彼の本名かもしれない封筒に書いてあった『HARUMIZU UKITA』という文
字。よく読めば『うきた』と書いてあったのだ。クラスメイトにこの苗字が一致す
る生徒は一人しかいない。『タマゴちゃん』こと浮田珠子だ。あの男の妹、もしく
は従姉妹が彼女なのだとも考えればどうやって入手したかも簡単に予想が付く。
 冬葉と珠子が会っていたのも、そう考えれば納得ができた。きっと取引でもした
のだろう。自分を守る為に、攻撃対象を自分以外のものにする為に必死だったのか
もしれない。
 この件はもしかしたら冬葉たちが企んだ事ではなく、珠子の方から持ち出してき
た話なのかもしれない。
 ありすが写真を見つけたことにより、黒板の前にいた生徒達は席へ戻っていく。
そろそろ教師がやってくる時間だ。戻ったのは授業の準備をする為か。
 おそらく生徒達の意図は別のものだろう。
 表面上、写真は誰のものかはわからない。わかったとしてもきっと証拠がない。
教室に来た教師は有無を言わさずその責任を被写体であるありすに取らせるだろう。
彼女は何もやっていなくても叱られてしまう。仕掛けた側にすれば、自分の手を汚
さずに簡単に相手に恥をかかすことが可能だ。
 どうしてこんなことになるのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。誰一人
として味方のいないこの教室で、ひたすら悪意を浴び続ける。そこに救いはあるの
だろうか?
 あるわけがない。だからこそ、ありすはいつも思うのだ。
 『消えてしまいたい』と。


 本日最後の授業の終了を合図するチャイムが鳴る。これでひとまず、ありすは学
校という名の箱から抜け出せる。
 珠子はとうとう来なかった。同じように虐めを受けているとはいえ、根は真面目
な子だ。致命的な肉体のダメージを与えられるわけではないのだから、学校を休ん
でしまったらそれは仮病になってしまう。勉強はできる子だから、あまり休んで内
申書に響くような真似はしないだろう。
 それとも、やはり彼女が今回の写真の件の発案者で、良心に耐えきれず学校に来
られない心理状態になってしまったのだろうか。
 うだうだと考えながら帰り支度をしていたところで、隣の女子生徒にいきなり鞄
を盗られてしまう。
「あ」
 気付いて声を発した時には、その鞄は生徒から生徒へと投げ渡される。最後に窓
際の男子がそれを受け取ると、ニヤニヤと笑いながら鞄を窓から放り投げた。
 机にぶつかりながらもありすは窓枠まで突進して鞄の行方を追う。すると、下で
鞄を受け取った男子生徒がそのままどこかへと走り出してしまう。
 ありすは教室から飛び出ると、全力でその鞄の行方を追った。中には大切なもの
も入っている。上履きと違ってただ買い直せばいいという訳にはいかない。
 だからありすは必死になって探した。男子生徒が走っていった方向から彼女は推
測する。辿り着いたのが校舎裏にある焼却炉だった。今はもう使われなくなったそ
れは、前にも体操着を隠された場所でもあったのだ。
 焼却炉として現役で使われてたら洒落にならない場所でもある。
 ありすは焼却物を放り込む為の穴に顔を突っ込んで中を探すと、底の方に鞄らし
きものが見えた。
 そのままでは手が届きそうもなかったので、胸下あたりまでその穴に入り左手を
伸ばした。その瞬間、「せーの!」というかけ声とともに両足を誰かに掴まれその
まま胴体を軸に回転させられ、中へと押し込まれた。
「うぎゅ」
 穴の外からは笑い声がする。聞き慣れた声はクラスメイトの女子だ。
 彼女たちには楽しいのだろう。自分より劣った者が存在することが。


「ただいま」
 玄関の鍵を開けて誰もいない空間に言葉を投げかける。もちろん返ってくる言葉
はない。
 廊下の先にある自分の部屋へ真っ直ぐに向かう。
 そして扉を開けて、今度は期待を込めて再び言葉を紡ぐ。
「ただいま」
「おかえり、ありす。ん? どうしたんだ、制服が煤だらけだぞ。まるでボロ雑巾
のようだ」
 『雑巾なんて酷いなぁ』という言葉を飲み込み、そのまま椅子に座ってホワイト
ラビットに向かい合う。
「ちょっとね」
 疲れ切った口調でありすは答えた。
「虐めか?」
「うん。いつもの事だから、平気だよ」
 『いつもの事』という部分に諦めにも似た感情が込められている。
「平気じゃないだろ。いつものような汝のパワーを感じないぞ」
「ねぇ、邪なるモノをやっつけるのにあとどれくらい時間かかるのかな?」
「それはわからない。強いて云えば、ありすの頑張り次第だな」
 もう頑張れないよ。一生懸命やったって誰も認めてくれないんだよ。ありすの心
はそんな想いでいっぱいだった。
「もう辞めたいよ。魔法使いなんて……」
 その言葉の最後は涙で途切れる。
「弱気な事を云うな。孤独な戦いというのは、汝にはちと辛いかもしれぬ。だが、
汝がやらなくて誰がやる?」
 相変わらずホワイトラビットは厳しい言葉を投げかける。
「……」
 でも、それに対抗するような気力は彼女には残っていない。
「汝はこの世界が嫌いか? 汝を虐げる者がいるこの世界に憎しみを抱いておるか?」
「……」
 はっきり嫌いとは答えられなかった。そういえば、どうして自分はこの世界を憎
んでいないのだろう。ありすは自分自身のその気持ちに疑問を感じる。
「違うじゃろ。汝からはこの世界から去ろうという意志も、破壊したいという衝動
も感じられぬ」
「……」
 何かを期待しているありすは、この世界から消えることができない。憎しみがな
いから破壊衝動など沸き上がらない。でも、それはなぜ?
「汝はまだこの世界を愛しておるのだろう? どれだけ周りの人間に虐げられてき
ても、汝はまだ人間という存在に希望を持っておるのだろう? 憧れておるのだろ
う?」
「憧れ?」
 思い当たることは彼女にはあった。心の奥底に沈んでいる一欠片の光だ。
「ならばこれは試練じゃ。虐めなど物ともせぬ強い力を持て。強靱な精神を鍛えよ」
 大きな声でありすを励ます。自身には強力な魔力はないと言うけれど、ホワイト
ラビットはいつもそれ以上の力をありすに与えてくれる。生きる気力を与えてくれ
る。
「ラビはいつでも厳しいよね。きついことをいつも平気で言い放って……それでも
……それでも、あたしを見捨てたりしないもんね」
 それはまるで親友のようだった。ありすの瞳から涙が溢れる。その涙はけして悲
しみの粒ではない。
「わかったよ。もう少し頑張ってみる」
 ありすは精一杯の笑顔をホワイトラビットに向ける。


 索敵しながら街を歩く。学校での事は考えないようにしよう。ありすは気持ちを
そう切り替えた。
 繁華街での見回りを終えて、自宅のマンションがある場所まで戻ってくる。
 そして今度は住宅地を回ろうと考えた。
 高台の住宅地へと上がる長い坂道を歩いている時、彼女は見知った顔に出会う。
「あ、羽瑠奈ちゃんだ」
 羽瑠奈はまだありすたちに気が付いていなかった。声をかけようと手を挙げた彼
女の動作が凍り付く。
 羽瑠奈の真横から空を飛ぶ不気味な物体が迫っていた。
「邪なるモノ!」
 ホワイトラビットがそう認識し、ありすは彼女へ危険を告げる。
「羽瑠奈ちゃん! 危ない、避けて!!!」
「え?」
 突然、大声をかけられたことに驚いて、彼女はバランスを崩し躓いて倒れてしま
う。
 だが、それが幸いして邪なるモノの直撃をなんとか避けたようだ。
 ありすの目はすぐに敵を捉え、攻撃の態勢に入る。
 大きく息を吸い込んだ彼女は、飛び回る目標を左手の指先で追う。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 ここ数日の戦いで、ありすの能力は格段の進歩を遂げている。破壊力、そして速
さもだ。
 五十メートル近く離れていた敵に、一瞬で光の槍は到達する。
 まばゆいばかりの閃光。
 仕留めたことを確認して、すぐに彼女のもとへと走り出した。怪我をしていなけ
ればいいとありすは心の中で祈る。
「羽瑠奈ちゃん」
 近づくと、真っ先に彼女に声をかける。
「ありすちゃん?」
 ようやく彼女はありすの存在に気付く。
「大丈夫? わぁ、痛そうだね」
 羽瑠奈の右足膝の部分から出血があった。転んだ際に擦りむいたようだ。とはい
え、大けがを負っていなかったので、とりあえずありすはほっとする。
「うん、ちょっとドジったみたい」
「あ、そうだ。あたしんち、このすぐ近くなの。消毒しといた方がいいでしょ。応
急手当ぐらいならできるから」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
 立ち上がる羽瑠奈にありすは肩を貸し、自分の家へと連れて行く。


 羽瑠奈を自分の部屋に招き入れ椅子に座らせると、ありすは救急箱を取りにダイ
ニングキッチンへと向かう。
 いつも使っているその箱を開けると、肝心の消毒薬が切れていた。
 ありすは部屋にいる羽瑠奈に声をかけると、近くの薬局へと買い出しに出かける。
ホワイトラビットがいるのだから退屈はしないだろう。その時は安易にそう考えた
のだ。
 家に戻ると救急箱と新しい消毒薬を持って自分の部屋に向かった。その途中で彼
女は大事な事に気付く。そういえば、机の上には他人に見られては恥ずかしいもの
が置いてあったのだ。
 今更遅いと思いながらもありすは早足で部屋へと向かう。
「羽瑠奈ちゃんお待た……」
 扉を開けたありすの言葉はそこで止まってしまう。彼女が危惧していたことが現
実となってしまったのだ。
「おかえり、ありすちゃん」
 彼女は一冊のノートを手にしていた。それは、表面がボロボロになった見覚えの
あるもの。クラスメイトの虐めに遭ったときだって、絶対に渡さずに守りきったあ
りすの大切なノート。
「あ……」
 遅かった。ありすは思わず机の上を睨む。ホワイトラビットは無言だった。黙秘
権を行使する気だろうか。
「暇だから読ませてもらったわ」
「あわわわ……」
 ありすはあまりの事態に対応ができず、言葉が出てこない。




元文書 #295 箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[07/10] らいと・ひる
 続き #297 箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[09/10] らいと・ひる
一覧を表示する 一括で表示する

前のメッセージ 次のメッセージ 
「●長編」一覧 らいと・ひるの作品 らいと・ひるのホームページ
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE