AWC 箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[01/10] らいと・ひる



#289/598 ●長編
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:31  (310)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[01/10] らいと・ひる
★内容                                         07/02/05 22:25 修正 第4版
 身体の痛みは感じない。
 ただ心の痛みだけが化膿しかけた傷口のようにじくじくと疼いていた。
 両手で抱えているのはボロボロになった一冊のノート。
 これを守る為に何を無くしたのだろう。
 でも、これを守った事で確実に何かを得たと思いたい。

 ……だけど本当は、ただ憧れていただけかもしれない。
 守った事に意味を持ちたくて。
 守った事で何かを得られると信じて。

 実際には何も失うこともなく、そして何も得られることもなかったのに。








         箱の中の猫と
             少女と
             優しくて残酷な世界
       (この優しくも残酷な世界 Ver.2.9.4)








■Everyday magic #1

 『消えてしまいたい』と叉鏡ありす(さきょう ありす)はよく考える。
 だが、彼女の場合は自己の存在をこの世から消してしまいたいわけではない。
 本当にその場から消えてしまって、どこかへ行ってしまうことができないか。そ
んな魔法のような願いをいつも抱いていた。
 悪意から身を守る方法。それは逃げること。
 無力な彼女には、戦うのではなく逃げることが唯一の方法なのである。ならば、
魔法で透明人間のように消えてしまえば、上手く逃げおおせるのではないか。
 今日だって上手く逃げられなかった。おかげでありすのお気に入りだったウサギ
のキーホルダーを無くしてしまった。
 魔法が使えたらどんなにいいだろう。彼女はいつもそんな夢のような願いを抱い
ていた。

 そう。彼女が非日常へと足を踏み入れたのは、そんな願いを叶えてくれそうな一
言から始まる。
「汝(なれ)は魔法を使いたいのではないのか?」
 逢う魔が刻と呼ぶにはまだ早い時間。学校の帰りに遠回りして古本屋に立ち寄っ
た時、彼女はふいに声をかけられた。
 セーラー服に身を包むありすは、三つ編みにしたお下げ髪を揺らしながら辺りを
見回す。
 それほど広いとは思えない店内には、彼女以外の姿は見えない。店員ならば、入
口に近い場所にあるレジに一人いただけだったはずだ。そこからの声にしては近す
ぎる。
 声はもっと彼女に身近な場所から発せられたような気がした。
「汝には魔法使いの素質があるぞ」
 もう一度声がする。それはやや甲高く、中性的で男とも女とも確定できない。
 なんだかかわいい声だと彼女は思った。
 ありすは再び辺りを見回し、やはり人影を確認できず不思議そうに首を捻る。
「汝の目は節穴か!?」
 怒号が聞こえる。だが、声質に威厳を感じないのでそれほど怖くもなかった。
「……」
 幻聴でも聞いてしまったのだろう。ありすはそう思い込んで、その場を立ち去ろ
うとする。
「ちょっと待て!」
 それは頭上に近い位置から聞こえてきたような気がした。ありすは九割方幻聴で
あることを確信しながらも、残りの一割の超常現象を期待してそちらの方を見上げ
る。
 白。
 最上段の本棚に腰掛けるように、全身白一色のぬいぐるみが置いてある。白と言
っても店内が薄暗いのと、少し汚れていることもあって灰色がかった見窄らしい姿
だ。
 間違っても真っ白に輝いてなどいない。口調とは裏腹に哀れでもある。全長は十
五センチくらいだろうか。
 彼女は、店内の隅に置かれてあった踏み台を持ってきてそれに上がり、白いぬい
ぐるみと対面する。
「あたしに声をかけたのはあなたなの?」
 目の前のぬいぐるみは近づくとその形がはっきりと確認できる。チョッキのよう
なものを着て擬人化されたウサギだ。白一色なので、まるで着色を忘れられた欠陥
品のようでもあった。
「無論、我に決まっておろう」
 ぬいぐるみからは確かに声が発せられている。だが、ありすは別の事を思う。
 彼女はそのウサギに見覚えがあった。何かの本の挿絵で見たはずだ。どこかのテ
ーマパークで会ったはずだ。頭を捻りながら記憶の引き出しを必死に探る。
「あ、ホワイトラビ……」
「違う! 我の名は@☆※£@である」
 名前の部分以外は、はっきりとした聞き取りやすい日本語だった。だが、肝心な
箇所が難しい発音のようで、何と言っているのかよくわからない。
「ごめん。名前、聞き取れなかったみたい。もう一回言ってくれる」
「我の名は@☆※£@だ」
 名前の部分は、風が吹き抜けるような板ガラスを爪で引っ掻くような、とても人
間に発音のできるような音ではなかった。
「ええーん。そんな人外魔境な言葉で発音されてもわかんないよぉ」
「そうか、ならば人間の言葉に変換する」
 中途半端に名前だけ原音主義にするからややこしくなるのだ。全ての言葉を聞き
取れないように発音してくれれば、ありすは気のせいだと思って関わることもなか
っただろう。
「わかってるなら最初っからそうしてよ」
 言葉として聞こえてしまったものを無視するわけにはいかない。
「我の名はルキフ・ゼリキボセウイだ」
 舌を噛みそうな名前だった。
「あのー、めちゃくちゃ言い辛そうな名前なんですけど」
「汝の事情など知るか。きちんとこの世界にある汝の国の言語に変換したのだぞ。
我が侭を言うでない」
 そんなぬいぐるみの言葉は無視して、彼女はこう告げる。
「よし、キミの名前はホワイトラビット、愛称はラビ。その方が自然だよ」
 ありすは目の前にあるぬいぐるみの胴体を両手で掴み、斜め上に持ち上げた。
「……」
 ぬいぐるみは不満そうに、声にならない音で唸っているようだ。だが、唸ってい
るだけで手足どころか顔の表情さえ動かそうとしない。
「キミは動けないんだね。それとも動けないぬいぐるみに取り憑いちゃった間抜け
な悪霊さん?」
「さっきから聞いていれば好き勝手云いよって。我はそんな下劣な存在ではない」
「じゃあエネルギーの切れちゃったぬいぐるみ型のロボットで、中にいるちっこい
パイロットがキミなのかな?」
 ありすの想像力がぬいぐるみの状況を好き勝手に想像する。だが、陳腐な設定は
どれもしっくりとこない。
「違う。我はもっと高貴な存在だ。悠久なる魔法を伝える者。グランドマスターで
ある」
「……はぁ」
 彼女は力のない返事をする。目の前の出来事が妄想や幻想でないのなら信じるし
かないのだろう。だが、どこか冷静になっているありすは、妙にテンションの高い
ぬいぐるみの言葉にはついて行けなくなっていた。
「我は、高次元より来たりし」
「それで、そのグランドなんとかさんがあたしに何かご用?」
 長くなりそうなぬいぐるみの言葉を遮って彼女は問いかける。小難しい説明など
されてもありすにはまったく理解できない。こんな場所でゆっくりと拝聴する気は
なかった。
「それについては話が長くなりそうじゃ。ここから我を密かに連れ出し、汝の住み
処へと案内せよ。そこで重要な使命を汝に託そう」
 古本屋といっても、もちろん古本以外のリサイクル品も置いてある。目の前のぬ
いぐるみが商品でないとは言い切れない。ここで一番肝心な事は、ありすがそのぬ
いぐるみを持ち出さなければならないという事実だった。
「ええーん、それって万引きじゃん」
 ありすは涙目で恨めしげにぬいぐるみを見つめる。


 家に帰るとありすは真っ直ぐに自分の部屋に向かう。母親は今日も帰りが遅いの
で、部屋の中で大声で話をしても不審がられることはない。
 国語辞典や漢和辞典などの数冊の辞書とノートが散らばった机の上を片付けると、
彼女は古本屋から連れ出したあのぬいぐるみのホワイトラビットをそこに置く。
 ありすは椅子に座ると、両肘を机について頬を両手で支えながらホワイトラビッ
トと向き合った。
「さて、説明してもらいましょうか?」
「うむ、よろしい。では我の存在について語ろう」
「あ、ちょっと待って。そういえば、どうしてあたしに声をかけたの?」
 ふとした疑問を訊かずにはいられないのはありすの性格だった。語り出そうとい
うホワイトラビットの出鼻を挫くかのようである。
「待て! まだ何も話してなかろう。質問はそれからじゃ」
「えー、なんかそれが一番気になるんだよぉ」
 不貞腐れそうになる彼女を見て、ホワイトラビットは考えを改めたようだ。
「わかった。まあ、それを先に話しても差し支えはなかろう。そうじゃな、汝には
素質がある。汝は普通の人間には見えない我の姿を見ることができる。我の声を聞
くことができる。そして、汝は我を恐れない。大抵の者は我の声を聞くことができ
ても恐れ戦いて逃げ出してしまうのだ」
 その事を聞いて彼女はほっとする。自分以外に見えないのであれば、やはり目の
前のぬいぐるみは商品として扱われていなかったようだ。これで万引き犯として捕
まえられることはない。
 それにしても、ありすのようにホワイトラビットの声が聞ける人たちはなぜ怖が
ってしまうのだろう。
「そうかなぁ、こんなかわいい声なのに」
 どちらかというとコメディタッチのアニメに出てきそうな声質なのだ。プロの声
優が吹き替えでもやっている感じである。
「かわいいと云うな。我はグランドマスター、かわいいとは悪口雑言にも等しい」
 照れているのか本当に怒っているのかはわからない。なぜなら動けないぬいぐる
みの為に表情が読めなかったからだ。
「かわいいって言われるのが嫌なら、もう言わないけどさ。でもね、あたしがあな
たの声を聞いて怖がらなかったのはそれだけが理由じゃないかもね」
 視線を逸らしてありすはそう呟く。その表情には少し陰りが見えていた。
「どういうことだ?」
「あたしね、わりとその手の声とか日常的に聞こえちゃう人なんだよ。だから、慣
れなのかな」
 そう言って彼女は溜息を吐く。そういえば昔、友達に「霊感が強いかも」と言わ
れたことを思い出した。
「そうか。だが、それは素質なのだ。選ばれた人間の悩みでもあるな。案ずるでな
い。それこそが我の求めていた者だ。我の力を託せるのは汝しかおらぬ」
「あたしが選ばれた人間?」
 目をまんまるくしたありすは、驚いたようにぬいぐるみを見つめる。
「そうだ。それを誇りに思え、己の素質を疎んじるな」
「ははは、なんか喜んでいいのかよくわからないな。そうか、考えてみたらまだ説
明聞いてなかったもんね」
 彼女は思わず苦笑する。
「そうじゃな、まず基本的な事から伝授しよう。我が住まいし世界は……」
 ホワイトラビットが語り始めてから数分後、ありすは寝息を立てて船を漕いでい
た。
「ありす!」
「ひゃ!」
 心地良い眠りの底から引き摺りだされる。びくりと痙攣した身体は、不快な目覚
めを余儀なくされた。
 ホワイトラビットは呆れたように言い放つ。
「……話聞けよ」


■Everyday #1

 後ろから脇腹をぷすりと指で突かれる。
「うひゃ!」
 思わず妙な声が出てしまった。被害者である種倉ありす(たねくらありす)は加
害者が存在するであろう後ろを振り返る。
「うにゅ」
 今度は頬を指で突かれた。隙がありすぎだと、彼女は少々自己嫌悪に陥る。
「夢中になるのはいいんだけどね。もう図書室閉める時間だって」
 頬に食い込んだ指を引っ込めながら、鈴木美沙(すずきみさ)はそう告げる。シ
ャープな顔立ちでショートカットの似合う彼女は、美少年のような微笑みでありす
を見つめる。
「え? もうそんな時間?」
 ありすは壁に掛けられたアナログ時計の時刻を確認する。短針は五の位置、長針
は一の位置に近づいていた。夢中になると時間が経つのも忘れるというが、彼女が
最後に時計を気にしたのが三時前だからもうかれこれ二時間も経っていた。
「もうこんな時間なんだ」
「その分だと途中で成美が帰ったのも気付かなかったみたいだね」
 半ば呆れたような顔をしながらも、後の半分はしょうがないなとの苦笑い。もと
もと三人で勉強していたのに、ありすはそのうちの一人が帰った事にも気付かなか
った。だから、呆れられても文句は言えない。
「うん。あ、悪いことしちゃったかな。あたしからここに誘っておいて」
「試験勉強しようって言いながら、途中で気分転換に小説を書き出す時点で、もう
悪いと思うけど」
 美沙の目線が机の上の一冊のノートへと注がれる。すべての元凶はそれだよね、
と言われているようなものなので、ありすとしては反省するしかないのである。
「ごめん」
 数学のノートの上に重ねて置かれていた創作用のノート。ありすはそれをあわて
て閉じて胸に抱きしめる。
「まあいいって、こっちは却って捗ったから」
 一転して、気にしないという笑顔の美沙。小学校の時からの付き合いなだけに、
ありすの扱いは慣れたものだった。
「うん、ほんとにごめん」
 彼女は立ち上がると上目遣いに美沙を窺う。怒らせてしまったかな、そんな事を
心配するが、それくらいの事で怒り出すような性格でないことも承知していた。
「そんな謝ることないよ。成美も怒って帰ったわけじゃないし。ほら、今日ピアノ
のレッスンがあるって言ってたでしょ」
 不安になりかけたありすの心を、人懐っこい美沙の声がふわりと包むようだった。
いつもこうやって助けられているような気もした。
「えへへ、そうだったね」
 ようやくありすの表情にも笑みが戻る。
「帰ろっか」
「うん」


 昇降口から外に出ると、そこは夕暮れの一刻前の色だった。空は水色を残したま
ま微かな闇を引き摺り、その反対側を茜に染めつつある。
「そういえばさ、ありすっていつから小説を書き始めたの?」
 ありすより頭一つ高い美沙がそんな言葉を投げかける。
「え?」
 思わず横に居る彼女を見上げ、三つ編みにしたお下げの二本の髪が揺れる。
「素朴な疑問だよ。ありすってさ、それがさも当たり前かのように自然と書き始め
るんだもん。今日だって気付いたら勉強そっちのけで書いてるし」
 気分転換していたつもりが、ついつい夢中になってしまっていた。これは、あり
す自身も不思議に感じている事だ。
「うーん、それは難しい質問だね。あたしさ、昔っから空想癖っていうか、物語を
創るのが大好きだったんだよ。だから、それを文章にしようとしたのがいつだった
かまでは、ちょっと覚えてないんだよね。ほら、絵が大好きな人がいつから絵を描
き始めたかなんて覚えてないのと同じだよ。無意識に書いてるんだよ、あたしは」
 水色の空を見上げながらありすは静かに語る。無意識の部分はどうにも説明がし
にくい。自分の気持ちを素直に語るだけでは、その想いは伝わらないようだ。
「たしかに絵は物心が付かないうちでも描けるけどさ、小説は少なくとも文字を習
わないと無理じゃない」
 美沙の言うことはもっともな意見だ。絵と小説は確かに勝手が違う。
「うーん、だからね。『小説』って形式に倣おうと思ったのは最近だよ。でもね、
イコールそれは小説を書き始めたことにはならないんだ。少なくともあたしの中で
はね」
 ありすにとっては、絵も小説も同じカテゴリになる。どちらもゼロから或いは一
から創造することには変わりはない。
「いまいち理解できないな。もうちょっと具体的に説明できる?」
 頭を捻りながらも真剣に聞いてくれるところが美沙らしくもあった。その気持ち
に応える為に、ありす自身の中でも曖昧だった気持ちを順序立てて説明する。
「あたしはね、小さい頃から両親に本とか読んでもらってたし、物語に人一倍興味
を持っていた。だからそれを自分の物にしようって無意識に創作を始めたの。たぶ
ん小さい頃って誰でもそんなもんじゃない?」
「そうか?」
「うん。少なくともあたしの場合はさ、それが絵から始まって、周りから言葉を吸
収しながら学校で文字を習って、本を読みながらいろんな文章に触れて、その過程
でいろいろな創作物を吐き出してきたと思うよ」
「創作物って?」
「初めは意味不明な文字の羅列だったかもしれないし、それがポエムっぽいものだ
ったり、台詞だけの短いセンテンスだったり、小説とは言えないような物語の切れ
端だったり……そりゃ最近になってルールとか解ってきて、そういうものに縛られ
て小説らしきものを書き始めたけど。でもね、あたしの中の線引きとしては『この
日から小説を書き始めました』みたいなものはないわけ。それでも厳密な答えを求
めるのなら、あたしの創作物を過去から順に全部検証して、小説になっているもの
を探し出して、そこで線引きすればいいのよ。もっとも、その方式でいくと現在で
すら小説を書いているかどうかはわからないけどね」
 それは、彼女の中に凝縮された創作に対する想いだった。
「なんか凄いね」
 美沙が空を仰ぐ。闇に染まらず、そして茜に染まりきらない水色の空だ。
「え? なんで?」
「私なんかさ、物語なんて自分の周りに勝手に湧き出てくるくらいの感覚しかなく
てさ、誰かがそれを本気で創っているなんてあんまり考えたこともなかったから」
 本屋に行けばマンガや小説など、そこは物語で溢れている。自分の家でだって、
テレビの電源を入れればドラマや映画など毎日のように物語が流れてくる。本来娯
楽の為に創られる物語を、普通の人たちはそれが当然であるかのように消費するの
だ。
 美沙だって今まではそうやって物語を消費していたのだろう。ありすという存在
がなければ作り手の存在など気にかける事もなかったのかもしれない。
「まあ、全力の本気だからね。手が抜けるほど、技術もなければ才能もないし」
「才能なければ物語なんて創れないでしょ」
「そうだけどさ。物語を捏ち上げる事は誰にでもできると思うよ」
 誰だって夢を見る。現実ではない仮初めの世界を創り上げている。それは目覚め
ている時でさえ例外ではない。
「それは夢とか妄想って言わないかい? ありすのは妄想じゃないでしょ」
 妄想と空想の区別を美沙はわかっていたようだ。それがありすには嬉しくも感じ
る。
「うん、まあ基本的にはね」
「ゼロからにせよ、何かをベースにするにせよ。ありすは物語を組み上げているじ
ゃない。根拠のない誤った世界、それを妄想と言うんだけど、そんな無責任な世界
は創らないじゃない。そこがね、なんか凄いなって思うんだ」
「そうかなぁ」
 小さい頃から当たり前のように物語を組み立ててきたありすにとって、美沙の
「凄い」という感覚がよくわからなかった。





#290/598 ●長編    *** コメント #289 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:32  (374)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[02/10] らいと・ひる
★内容                                         07/02/05 22:29 修正 第2版
■Everyday magic #2

 それは毛並みのフサフサした白いネコ耳が付いたカチューシャだった。
 たしか数年前に千二百円程度で買ったことをありすは思い出す。
「えー? なんで、よりにもよってコレなのよ」
 ありすの不満はそれを装着しろとの指示を受けたからだ。いくら彼女に子供っぽ
い部分があるからといって、そんなものを日常的に装着できるわけがない。一般的
な羞恥心は持ち合わせている。
「しょうがないじゃろ。それが一番魔力を込めやすいのだから」
 彼女は鏡を見ながら頬を赤くしていた。頭の上にはネコのような耳が生えている。
まるで罰ゲームのようだ。
「これって絶対装着しなくちゃいけないの?」
「魔力が安定するまでじゃ。汝の魔法が暴走したらとんでもないことになる。それ
に、これは敵の姿を識別するのに役立つのじゃ」
「だって、これで街を歩いたら頭のおかしい人だよ。とってもマニアックな人だよ。
その手の店にスカウトされちゃうよ。その手のお兄さんにストーカーされちゃうよ」
 彼女は少し涙目になっていた。
 鏡を見ていて空しくなってきたありすは、目を閉じて元凶であるカチューシャを
外す。
 このカチューシャは大昔、仲良しの友達とテーマパークへ遊びに行った時に買っ
たものだった。しかしながら、当時ならまだしも、日常でこれを付ける勇気は彼女
には
ない。
 それをホワイトラビットが「これは魔力の制御に丁度良い」とマジックアイテム
へ変えてしまったのだ。さらに「魔法を使いたいのならこれを着けるべし」と鬼畜
なことを言い放つ。
「ごめんなさい。あたし、やっぱり魔法使いになれなくていいです」
 まるで告白してきた男の子を振るように、ありすはホワイトラビットに対して深
々と頭を下げる。そして普通の男の子なら、苦笑いをしながら深く溜息を吐くのだ
ろう。
「今更何を云う。汝に選択肢などないのだ。事態は緊急を要するのだから」
 だがホワイトラビットは容赦なかった。一度は望んだ魔法使いだが、ありすが考
えていた魔法とはまったく違っていたのだ。できるならクーリングオフを適用した
いくらいだと、密かに思う。
「ええーん。動けないぬいぐるみの癖に、言うことだけは偉そうだ」
 彼女は涙目になりながら地団駄を踏む。
 その時、ありすの頭の上を風が通り過ぎる。それはとても奇妙な事であった。
 部屋の窓は閉め切ってある。扇風機もエアコンも稼働してはいない。
「いかん。我の居場所を気付かれたか」
「え? 何?」
「邪(よこしま)なるモノだ」
 部屋を見回すと、形ははっきりしないが灰色の靄のような物が飛び回っている。
「もう一度、ネコ耳を装着しろ。魔法で攻撃せねば」
 部屋の中ということもあって、ありすは躊躇することなくカチューシャを着ける。
 するとぼやけていた物体が、はっきりと形をなして見えてきた。
 それは空を飛ぶ蛸のようなものだった。八本近くある触手にやや楕円形の頭。目
はぎょろりとこちらを睨んでいる。空中に浮かぶ姿はクラゲに見えなくもないが、
質感は蛸そのものだった。
「装着したよ。どうすればいいの」
 空飛ぶ蛸を目で追いながら、彼女はホワイトラビットに指示を求める。
「まずは魔力の増幅、そして法術の具現化じゃ。奴らはまだ完全に我に気付いてい
るわけではなさそうだ。丁度良い練習になるぞ」
「増幅? 具現化? もうちょっと具体的に言ってよ」
「そうだな初めて魔法を使う場合は、古典的な呪文を用いるのがよい。例えば有名
どころで云うならば 『Abracadabra』だ。これは退魔呪文としても有効だ。人間世
界では有名だと思うが」
 昔読んでもらった御伽噺に出てきた呪文。スリルのある冒険譚にありすはわくわ
くした覚えがある。でもあれは攻撃呪文だったのだろうか。
「アブラカダブラ? 知ってるよ。アラビアンナイトだっけ」
「少し違うがな。まあ呪文を知っているのなら、なんとかなるだろう。それから見
習いの汝は魔力が不安定じゃ。魔法の放出をコントロールする為に指で照準をとれ」
 ありすは左手の人差し指と中指を真っ直ぐに伸ばし拳銃のような形を真似ると、
それを浮遊している化け物に向ける。
「よーし。えーと、アブラカダブラ!」
 静寂。
 フランス式で言えば上空を天使が通り過ぎる。お笑い芸人がここ一番のギャグを
外してしまった時の空気そのものだ。
「ってあれれれれ?」
 呪文を唱えても何も変化が起きない。本当に自分は魔法使いの素質があるのだろ
うかと、自信がなくなる。
「ただ言葉を復唱すればいいのではない。呪文とはあくまで魔法を導き出す為のも
のだ。意味もわからず呟いてもなんの効果も持たぬぞ」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「呪文に意味を持たせろ。魔法を導くのじゃ。まずは自分の理解できる言語で意味
を持たせろ。具現化の為の呪文はその後でよい」
「導く? 理解? わかんないよ」
「仕方ない。我が手本を示す」
 そうしてしばらくホワイトラビットが沈黙する。それは、何かのタイミングを計
っているかのようだった。
 蛸のような物体はゆっくりと部屋を回りながら索敵でもしていたのだろうか。突
然、気配を察知したかのようにホワイトラビットに突進していく。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 呪文の完成を示すのか、ぬいぐるみの小さい身体全体が青白い光を帯び、そこか
ら光の矢のようなものが邪なるモノに向かって投射される。
 音こそしなかったものの、光の矢は敵を貫き、そしてその動きを止めた。
「すごい!」
 ありすは目の前で起きているとても幻想的な状況に心を囚われていた。

──魔法だ。                                                                   
──魔法が存在している。                                                       

「惚けている場合ではない。我の魔力では、邪なるモノを消し去ることはできない」
 だからこそありすが選ばれたのだ。そう言いたいのだろう。
「え? あたしが」
「汝にしかできぬ。それが汝の使命」
「使命?」
 今のありすには考えられなかった。それがどれだけ重要な意味を持つかを。
「考えるな。目の前の邪悪を消し去れ」
 ありすは頷くと、もう一度指先で蛸のいる方角を捉える。
 ホワイトラビットが詠唱したように、まずは自分の理解できる言葉で意味を確か
め、それを呪文に込めた。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 ありすの身体から光の矢が飛び出てきた。その大きさ太さは、矢ではなく槍に近
い。
 蛸の化け物に突き刺さったそれは炸裂して、爆発したかのように部屋全体が閃光
に包まれる。
 静寂。
 日常が再び動き出す。
「よくやったありす」
 賞賛の言葉が彼女に向け発せられる。これほど他人の期待を受け、それに応えら
れたことなど今までなかっただろう。
「え? できたの? やっつけたの?」
 ありすには実感が湧かなかった。もしかしたら、今の出来事は夢ではないかと考
えてしまう。
「そうだ。初めてにしては上出来だ」
 でも、それはありす一人が見ていた夢ではない。ホワイトラビットと一緒に戦っ
たのだ。二人で成し遂げたのだ。幻であるはずがない。
「すごい。すごいすごい!」
 彼女はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねながら、身体全体で喜びを表す。
「うむ。だが、これは始まりに過ぎぬ。しっかりと気を引き締めるのじゃ」
 はしゃぐ彼女が調子に乗らないようにと、ホワイトラビットは釘を刺す。
「うん。そうだ。ねぇ、他の魔法も教えてよ。変身するやつとか、空飛んだりする
のとか、雨を降らせたり、お菓子を作っちゃうのとか。そうそう、消えたりするの
とかできないかな」
 ありすは目を輝かせながら、両手を胸の前で組んでホワイトラビットに向き直る。
「おいおい、誰がそんな魔法が使えると云った」
「だって、あたしは正義の魔法少女なんでしょ。魔女っ子と言ったら、変身できる
のがデフォじゃないかなぁ」
「頭の上の耳」
 ホワイトラビットはただそれだけを言い切る。
「えー? まさか、これだけ?」
 頭上のネコ耳に右手で触れながら、ありすは不満そうに頬を膨らます。
「ていうか、これってコスプレとしても中途半端なんじゃない? しかも、あたし
だってみんなにバレちゃうじゃん」
 魔女っ子アニメの『お約束』である、変身しても本人と気付かれない、という点
がまったく無視されていた。
「贅沢を云うな。魔法とは本来、敵を攻撃し殲滅する為に編み出されたものだ。さ
あ、レベルを上げて魔法力を高めるぞ」
 それはつまり、敵を倒して経験値を稼いでレベルアップするあのタイプのゲーム
と同じなのだろうか、との問いは空しくなるので飲み込むありすであった。


■Everyday #2

 それは微睡みの夢の中だった。
 周りの風景は夢の中でも夢の王国だ。某所に存在するリゾートテーマパークであ
る。安っぽい遊園地とは夢の具現化のスケールが大違いだった。
 彼女が立っているお土産用の商品を販売するそのお店もまた、洒落た感じの造り
で幻想的な雰囲気の一部となっていた。
 一面に飾られたぬいぐるみやキャラクターグッズをありすはぼんやりと眺めてい
る。エプロンドレスを着た女の子、懐中時計を持ったウサギ、ニヤニヤ笑ったネコ、
双子の兄弟、大きな卵のような身体をした得体の知れない物体等々。
 ずっと昔、彼女は誰かとこのテーマパークへ来た事があった。
 ふいに聞き覚えのある声がする。
「ねぇねぇ、タネちゃん。あれ買わない?」
 ありすと同じ黒髪で三つ編みの女の子。名前は思い出せないが、とても懐かしい
匂いがする。
 相手の女の子が示す方向には、ネズミやネコやウサギやロバの耳が付いたカチュ
ーシャがあった。それぞれがこのテーマパークに存在するキャラクターたちのもの
だ。
「なんか恥ずかしいよ」
 そう言いながらも、どんなものかと手にとってみる。フワフワした感触が心地良
くて毛並みを撫でていると「隙あり!」とばかりにその子がありすの頭にネコ耳を
装着する。
「かわいいよ」
 おせじにもそんな事を言われたものだから、彼女はますます恥ずかしくなって耳
まで紅潮してしまう。
「お返し!」
 彼女は手に持ったネコ耳をその子に被せ「お揃いだね」と笑う。相手の子もにっ
こりと笑い返してくれる。
 これは昔の記憶だった。
 あの子の名前なんだっけ? ありすは記憶の引き出しを探る。
 自分はいつもあの子になんと声をかけていただろう。彼女は考え、ふと思い出す。
『キョウちゃん』


「例えばさ、成美ちゃんがピアノを弾くことができなくなっちゃったらどうする?」
 公園のベンチでキャンディーコートされたチョコレートをつまみながら、ありす
は祁納成美(けのうなるみ)にそう問いかける。今日は成美とまだ来ていない美沙
の三人で遊びに行く約束をしていた。
 この公園で待ち合わせをしたのだが、一時間ほど遅れるとの美沙からの連絡があ
りすの携帯電話に入った。いったん家に帰るのも面倒ということで、二人はここで
気長に美沙を待つことにしたのだ。
「それは創作に関連したことですの?」
 隣に座る成美は肩口まであるセミロングのストレートで、前髪はカチューシャで
上げて額を出している。もちろん、ピンク色の女の子らしいシンプルな物だ。ネコ
耳など付いてはいない。
「うん、そうだよ。なんでわかったの?」
「小学校の時からの濃ゆいお付き合いですから、それくらいわかりますわ」
 成美はとても優雅な口調で語った。資産家の父を持つ彼女は根っからのお嬢様な
のである。だが、大らかな両親の下で育てられたせいか、基本的な礼節は弁えなが
ら、庶民的な部分を併せ持つという特質があった。そのおかげで、普通なら私立の
お嬢様学校に通うはずが、本人の希望で公立の平凡な中学校に入学することとなっ
たのだ。
「実はね。今構想中のお話に出てくる登場人物の一人なの。主人公じゃないけど、
成美ちゃんみたいに綺麗で純粋だから、ちょっとご意見を伺おうかなって」
 成美は美沙と共にありすの大親友である。どんな些細な悩み事も隠さずに話す間
柄であり、同時に二人はありすの作品の読者でもあった。
「そうですね。それは、身体的なものでしょうか? それとも心理的なものでしょ
うか?」
 成美に意見を求めることは何度かあった。その度に彼女は真剣に考え、適切な言
葉をありすに伝えるのだ。
「うーん、どっちかって言うと心理的かな。腕に怪我をして一時期ピアノが弾けな
くなっちゃったんだけど、それはもう完治してるみたい。でも、強力なライバルが
出てきて、自分の実力を思い知ってしまったの。自分にはそれだけの才能がない。
どうやってもその人に追いつくことすらできないって。それが原因でその人はピア
ノを弾くことができなくなっちゃったの」
 ありすは創作ノートに書き記した人物設定を思い起こす。
「うふふ。そうですね。それはとても単純な事だとわたくしは考えておりますわ」
 柔らかな笑みを浮かべながら口調だけは相変わらず優雅に、そして答えは簡潔で
あると成美は言う。
「というと?」
「たぶん、ありすさんと同じだと思います」
「え?」
 自分の名前が出てきたものだから彼女は驚いた。
「あなたは物語が大好きで、それを創ることが大好き。でも、ありすさんが創るよ
り優れた物語なんていくらでもあるでしょう?」
 さすがに付き合いが長いだけあって、その言葉は的確であり容赦はない。
「うん、あたりまえだよ」
 彼女は物語が大好きなのであって、自分自身が大好きなわけではないのだから。
「でも、ありすさんが物語を大好きなことには変わりはない。だったら、急いで追
い抜かなければならない理由はあるのかしら?」
「へ?」
 またもや驚かされる。彼女が最初に考えていた事とはベクトルがまるで逆だった。
「わたくしはピアノが大好きで、音楽が大好き。奏でることも触れることも、そう
することに意味がありますの。自分自身の矮小なプライドに振り回されて本質を失
うことの方が悲劇ではないかしら? もし、わたくしが心の傷に囚われたのなら、
好きでいることを否定するのは止めますわ。指が一切動かなくてもピアノの前から
逃げるようなことはしませんわ」
 緩やかな口調。迷いのない意志。それは成美自身の強さを示しているのだろうか。
「うん、そうだね。それは成美ちゃんらしいかも」
「でも、これはわたくしの場合に限らせていただきますわ。通常プロになられてい
る方々は、より高みを目指さねばなりません。だから、それは試練と思うでしょう
ね。その場合、解決法は人それぞれでしょう。だからこれは、わたくし祁納成美に
関してのみの解答ということになりますわね」
 成美は最後に、それが絶対的な答えでないことを付け加える。人間は一人一人違
うのだからと。
「ありがと、参考になったよ。でも、成美ちゃんってなんかテツガクシャみたいだ
ね」
 ありす自身、素人とはいえ創作者の立場でもあるので多少理屈っぽくなる時もあ
る。が、成美もそれに負けず理屈っぽさを際だたせる場合があるのだ。
「わたくしの愛読書はサルトルでもハイデガーでもありませんわ。わたくしがこよ
なく愛するのはショパンの楽譜ですもの」
 ただし彼女は根っからのピアニストであった。


 隣駅に新しいショッピングモールが完成し、本日グランドオープンとなる。成美
と美沙が行ってみたいと言い出したので、ありすはそれに付き合うことにした。
「でっかーい!」
 現地に到着してありすの第一声はそんな単純な言葉だった。高さこそ五階建て程
度ではあるが、その長さは三百メートルをゆうに超えそうだ。
「東京ドームより一回り大きいみたいだぞ」
「参入店舗は百以上あるという話ですわ」
 さすがにここに来ようと言い出した二人は、事前に情報を仕入れてきているらし
い。美沙は予め買ってあった雑誌の特集記事を、成美と一緒に見ながらああだこう
だと打ち合わせをしている。
「あ、甘い物」
 出入り口付近に屋台のクレープ屋が見えた。屋台とはいってもお祭りの出店とは
違う。パステルカラーでお洒落にデザインのされた小型のワゴンカー。それ自体が
お店である。
 思わずふらふらとそちらへ歩き出すありすを、成美と美沙がその両腕をがっちり
とそれぞれ抱えて止める。
「中にもっとおいしい甘味処がありますのよ」
「そうそう、そんなお手軽なデザートはこんなトコでなくても食べられるだろうが」
 犯罪者のように両脇を抱えられて、ありすはショッピングモール内に連れ去られ
ていく。まるで警官に護送される犯人なのか、はたまたトレンチコートの政府組織
に連行される宇宙人の心境か。
 中に入ると、吹き抜けの天井が心地良く感じられた。ありすの学校の体育館より
断然天井は高い。おまけに天版のガラスからは青空が見える。
 まずはありすの腹を満たそうと、一階にある洒落た感じのカフェで軽い昼食をと
った。エネルギー補充ののち、ウィンドーショッピングの任務の為に出撃する。
 成美と美沙の付き添いで来たものの、一番はしゃいでいたのはありすだったのか
もしれない。わくわくと胸が躍るような空間が自宅から近い場所にあるという事に、
彼女はある種の感動を覚えていた。ここには彼女の好奇心を満たす様々な物が至る
所に存在するのだ。
 欧風建築を思わせる内装と近未来的なゆとりと癒しのある空間。インパクトはあ
るがどのような意味かわからない通路に立つ幾何学的なオブジェ。舌の上でとろけ
るようなデザートの甘さに、まるで美術デザイン見本のような店内にある商品のデ
ィスプレイ、そしてその衣服の煌びやかさ。
 ついには子供のようにくるくると回りながら踊り出す有り様。
「ほら、そこ! 通行人の迷惑!」
 美沙がぴしゃりと怒声を発する。
「まあまあ、美沙さん。あれだけ喜ばれると連れてきた甲斐があるというものです
わ」
「そりゃそうだけど……アレの仲間と思われるのはちょっと恥ずかしいぞ」
 成美の意見に不満のある美沙が、まるで赤の他人であるかのようにありすの事を
指さす。
「美沙。むやみに人を指ささないの!」
 注意されたのが気に入らなかったのか、単に気分を害されたのか、逆に怒りを露
わにするありすであった。世間ではそれを『逆ギレ』と言うが。


「ちょっとだけいいかしら」
 ショッピングモール内を半分ほど見歩いた頃、成美が右手にある店を指し「寄っ
ていきたいのだけど」と控えめに呟いた。
 そこはその筋では有名なブランドショップだった。飾られているのはエレガント
でコケティッシュなアイテム。姫袖のブラウスやドレスのようなワンピースも当た
り前のように売られている。
 中世のヨーロッパを思わせる、まさにヴィクトリアンスタイルの世界がそこにあ
った。
 一般的なロリィタ・ファッションとはひと味違い、フリルも少なくシックな味わ
い。
 ありすの好奇心が再び動き出す。うっとりと眺めながら夢心地で呟く。
「お姫様みたいだよね」
「そういえば成美ってこの手の服持ってたもんな。ゴスロリっていうんだっけ?」
 その手のファッションには興味のなさそうな美沙が成美に問いかける。
「美沙ちゃん!」
 成美ではなくありすの口が開く。その口調は少し厳しくもあった。
「え?」
 思わぬ相手から反論があったことで美沙から驚きの声が漏れる。
「ゴスロリってのは、もともとゴシック&ロリィタファッションの略称なのよ。純
然たる姫ロリを退廃的で悪魔的なゴスロリと一緒くたにするのはどうかと思う」
「まあまあ、このお店では確かにゴシック的なアイテムも扱っております。それに
流行によって『ゴスロリ』という言葉に、本来のロリィタファッションも含まれる
ようになってきましたから」
 ありすを宥めるように成美の緩やかな口調がそれを包み込む。
「でも、成美ちゃんの持ってるのは、薔薇をモチーフとしたエレガントなものがほ
とんどでしょ?」
 成美は右手の人差し指を唇にあてて少し考え込むと、何か閃いたかのように美沙
の方に向き直る。
「そうですね。あまり自分のスタイルを押しつけるのは好みではありませんが、い
い機会です。美沙さんにも、この世界の素晴らしさを味わってもらいましょうか」
「え?」
 顔色を変えて美沙は一歩後退をする。何か嫌な予兆を感じたのだろう。
「うん、たしか試着とかできるよね。うんうん。中性的なイメージを一新するのに
いい機会かもしれないね」
 ありすにも成美の考えが伝わったようだ。顔をニヤニヤとさせながら美沙に近づ
いていく。
「え? え?」
 ありすと成美を不安そうに交互に見る美沙は、何かただならぬ空気に怖じ気づい
てきたようだ。
 今日の彼女のファッションは、ブルージーンズに水色のストライプのカッターシ
ャツ、カーキ色のフライトジャケット。
 ボーイッシュな顔立ちは同性には人気がある。女の子じみたものをあまり身に付
けないこともあって、中性的な外見はさらにベクトルをかわいらしさから遠ざけて
いた。
 だが、根本的には整った顔立ちなのだから、女の子らしい服が似合わないはずは
ない。
「楽しみですわ」
「楽しみだね」
 ありすと成美の声が店内に輪唱する。


「ねぇねぇ、コレかわいいと思わない」
 建物の中央部にある、噴水がある憩いの広場。日によってはここでイベントが開
催されるらしい。今日は、大きなイベントはないが、噴水を囲むように小さなワゴ
ンスペースのショップが軒を連ねている。その中のアクセサリショップでありすは
思わず足を止める。
「あれ、かわいいいと思わない?」
 その店は不思議の国のアリスをモチーフにしたアクセサリが売られていた。
「いい感じですわね」
 ありすが指さしたものを成美が手に取る。それはホワイトラビットを象られたも
のだった。アルミ製のキーホルダーで、安っぽい感じではあるが彼女たちが購入す
るには手頃な価格設定だった。
「これって、裏に文字を刻んでくれるみたいだよ」
 美沙が、店頭に掲示されている広告を見つける。それによると、文字は二十二字
×三行まで入れられるそうだ。『今なら文字入れサービス中』とのPOPも出てい
る。
「買っちゃおうかな」
 ありすがそう言うと、成美が美沙に対して頷き、再び彼女の方に笑顔を向ける。
「どうせですから、記念に三人で同じものを買いませんか?」
「記念コインだとちょっとセンスがないけど、ホワイトラビットのキーホルダーな
ら許容範囲だね」
「いいの?」
 他の二人が気に入らなくても自分一人は買うつもりでいただけに、ありすは嬉し
かった。
「ちょうど三人いますし、一行ずつ考えませんか?」
「それいい。そうだ、みんな自分の名前の頭文字から始めるってのはどう?」
 不思議の国のアリスとくれば言葉遊びだろうと、ありすはそう提案した。さすが
に極端に凝ったものは難しそうなので、単純に名前の頭文字ということにしたのだ。
「うんうん。面白そう」
「一生ものですからね。後で後悔のないものを考えた方がいいですわ」
「じゃあ、成美ちゃんの「な」から」





#291/598 ●長編    *** コメント #290 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:33  (367)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[03/10] らいと・ひる
★内容                                         06/09/02 21:21 修正 第2版

■Everyday magic #3

「呪文ってさ『Abracadabra』じゃなくてもいいって言ったよね」
 机の上に置いたホワイトラビットに向かい、ありすは魔法についての講義を受け
ていた。そして、そのお復習いの為にいくつかの質問をしていた。
「魔法を導くことができるのなら、新たに創り出しても構わない。ただ、ゼロから
創り出すとなるとかなり大変じゃ。一つ一つの文字に込められた意味や組み合わせ
による変化等をすべて理解せねばなるまい。意味を知ったところでセンスがなけれ
ば、効率のよい呪文は創れぬ。だからこそ、先人達の創り上げた呪文を利用するの
が一番なのじゃ。特におまえのような素人はな」
「うーん」
 ありすはしばらく考え込む。センスというならば 『Abracadabra』は古すぎるの
ではないかとの見方もある。
「『Abracadabra』では何か不満か? 先ほどの戦闘でも使えたではないか。後は
訓練すれば実戦でも苦労することはないと思うが」
「うーん、なんかね。いまいち格好がつかないんだよね」
「格好ばかり気にしてどうするのじゃ」
「日本人は形から入るんだよ。今のままじゃ、魔法に対する情熱も冷めちゃうかも
しれないよ」
 それが詭弁であることを承知でありすは押し通す。魔法に対するイメージの差を
埋めるのには、せめて呪文だけでもという考えもあった。
「ありすがそれでは効率が悪いというのならいたしかたないが、苦難の道だぞ」
「うん。とりあえず、試しにやってみるね」
 ありすは椅子から立ち上がると、手に持ったシャープペンシルを魔法の杖のよう
に振りながら呪文を唱えた。
「ピピルマピピルマプリ」
「ちょっと待て」
 詠唱の途中で待ったをかけたのは、もちろんホワイトラビットだ。
「へ?」
「それはどういう意味を持っているのだ? だいたい、未熟なおまえが魔法を導く
場合、己の理解できる言語で意味を持たせなくてはならぬ」
 口うるさい小姑のような台詞にありすはうんざりする。
「そうだけど、枕詞みたいにいちいち日本語で解釈を付けるのもどうかと……」
「ありす、云ったはずだ。魔法を導くことができなければ意味はないと。必要なの
は、己を守り、敵を殲滅する為の力を持った呪文じゃ」
 ホワイトラビットにとってそれは正論であろう。お遊び半分の呪文など、承認で
きるはずがない。
「ラミパスラミパスとか、パラレルパラレルも却下されそうだね」
「馬鹿もん! 意味のない言語の羅列は無駄じゃと云っておろう」
「びっくりだよ。そんな大声出さなくてもわかってるって」
「わかっているなら基本に戻るのじゃ」
「乗らないんだよね。気分が」
「幼子のように駄々を捏ねるでない」
「わかりました。やればいいんでしょ」
「ならば魔法の発動までをいかに短くするかの訓練じゃ。今から詠唱百回!」
「勘弁してよぉ」
「弱音を吐くな」
「楽な方法ないの? もっとさ」
「そんなものあるわけがない。いくら汝に素質があるからといって、日々の鍛錬を
怠っては実戦で使い物にならなくなる」
「ずっとそんな事やってたら、実戦の前にヘトヘトになっちゃうよ」
「よくそこまで不平をたらたらと述べられるな」
「やっぱりさ、魔法って精神的なものが影響してくるでしょ。気分が乗らないとき
は、いくら効果のある鍛錬でも却って逆効果になると思わない? あたしもそれだ
け精神的に疲れてるわけでさ……」
 ホワイトラビットは何かに気付いたのか、それまでの続けざまに発していた言葉
に間を空ける。
「ん? 疲弊している割には言葉になにやら不穏当な雰囲気が漂っておるぞ。それ
とも気付いていないだけか?」
「さて、何の話でしょうか?」
 ありすは誤魔化しの意味も含めて苦笑いをする。
「本当に無意識なのか?」
 ホワイトラビットは気付いていたのだろう。ただ、直接言葉に出されたわけでは
ないので叱るわけにもいかず、ただ黙認するしかない。
 『ラミパス……』から『やっぱり』まで、ありすの言葉の頭文字を順番に並べる
と文章になる。つまり『ラ・ビ・の・わ・か・ら・ず・や』と。
 無意識というのは正確ではないが、ちょっとした偶然がきっかけで、このように
アクロスティックを日常会話に組み込んでしまうことがごくたまにあるのだ。とは
いえ意図的にいつも組み込めるわけではないので、特技と呼ぶには心許ない。
「あのさ、もう一回試させてくれないかな。今度はきちんと意味のある呪文にする
し、これで駄目だったら諦めるから」
 仕切り直しということで、改めてホワイトラビットに懇願する。
「わかった。一回だけ試してみるがいい。じゃが、成功しなければ既存の呪文に戻
るぞ」
「うん」
 返事をすると、ありすは目を閉じて両手を胸の前で交差させる。次に頭の中に魔
法の効果を思い浮かべた。
 それを導くような言葉をありすは口の中で声に出さずに呟く。途中でホワイトラ
ビットに邪魔をされてはかなわないと思ったのだ。
 どくん、と鼓動が高まった。
 イメージが頭の中に広がり、それを具現化する為の力が身体の内より生まれ出る。
 最初は胸の奥が熱くなるような感覚だったが、それがだんだんと身体全体へと伝
わっていく。
 ついには炎に包まれたかのような熱がありす自身を襲う。
「熱!」
 たまらず声に出した瞬間、ありすの身体は急激に平熱へと引き戻された。
「ありす、大丈夫か」
 ホワイトラビットがありすの身体の変化に気付いたようだ。口調から心配してる
素振りが窺える。
「やっぱり魔法、発動しなかったね。才能ないのかな」
「いや、一瞬だが、防御の魔法が発動しかけておった。今の段階では役には立たな
いが、鍛錬すれば使えるようになるかもしれん。守りの呪文は教えてなかったが、
ありす、おまえはどうやって魔法を導いたのじゃ」
 そう聞かれてもありすには上手く答えられなかった。イメージから魔法を導くと
いう理屈はわかったが、彼女が行ったのは 『Abracadabra』と同じく元となる呪文
からの真似だ。
「うん、ちょっとね。アニメの主人公になったつもりで呟いたの」
「どんな呪文だ?」
「『絶対、大丈夫だよ』って」
 呪文に分類してしまってよいものかとの疑問もあるが、ありすはこれは無敵の呪
文だという噂を聞いたことがある。いや、その噂は本来、笑い話の部類に入るのだ
が。
「……」
 ホワイトラビットはそのまま黙り込んでしまう。呆れてしまったのか、それとも
怒らせてしまったのか。
「ねぇ、怒ったの?」
「いや、しばらく我は休息を取る。その間、好きに鍛錬するが良い」
 その言葉はなぜか穏やかだった。怒りも呆れも、見放すような口調でさえない。
「え? いいの? 他の呪文とか試してみても」
 ありすはホワイトラビットの言葉に他意があるのではと心配になる。
「汝の好きにするが良い。ただし、物語の影響を受けすぎるでないぞ。下手をすれ
ば邪神の類すら呼び出しかねないからな」


「ねぇ、ラビ。ほんとにこの格好で出るのぉ?」
 自動販売機の陰に隠れていたありすは、胸に抱えたホワイトラビットに問いかけ
る。もちろん、ネコ耳のカチューシャを装着していた。
 ここは商店街の一角だ。家の中にいたのでは敵を見つけられないから外に出るよ
うにと、ホワイトラビットに指示されたのだった。
「我の居場所が知れわたるのは時間の問題だ。ならば、こちらから討って出るのが
得策であろう」
 たしかに敵を殲滅することが目的とするならば、守りに入っていては効率が悪い。
「だいたい、その邪なるモノってなんなの?」
「昨日説明したはずじゃ。何度も云わせるな、我の敵であり、放置しておけば人間
を害する」
 半分寝ぼけていたありすには、肝心の知識は頭に残らなかったようだ。
「そんなに簡単に見つかるのかなぁ」
「我の匂いを嗅ぎつけて嫌でも向こうからやってくるわい。あの場所に居た時は結
界のおかげで奴らから逃れることができていたがな」
「だったらあの古本屋にずっといれば良かったのに……」
「戯け! それでは根本的な解決にはならん」
「わかってるよぉ」
 ありすは覚悟を決めて自動販売機の陰から出る。その時、ちょうど前から歩いて
きた若い男と目が合ってしまう。
「にゃっ!」
 相手の表情がニタリと不気味な笑みを浮かべたので、それが怖くて再び引っ込ん
でしまう。
「どどどどどうしよう。その手の趣味の男の人にビンゴだよぉ」
 ホワイトラビットに顔を寄せて泣きそうな声でありすは呟く。
「ね、ねぇ、キミさぁ」
 先ほどの若い男が言い寄ってくる。小太りで、そんなに気温も高くないのに額に
汗が吹き出している。後部のデイパックにはポスターが刺してあり、アニメのキャ
ラクターが描かれた紙袋を下げていた。
 ありすの本能が危険を告げる。
「さ、さよならー」
 全力でその場から駆け出すありす。その瞳には涙が溢れていた。


 ネコ耳付きのカチューシャを外したありすは、人気もまばらな夕刻の公園にいた。
噴水の縁に腰掛けて、疲れたように遠くを見つめている。
 ここは都内でも最大規模の公園であった。それもそのはず、三年前までここには
様々なビルが建ち並ぶ商業地帯だったのだから。
「そろそろ日も落ちてきた。この程度の夕闇なら装着しても目立つまい」
「……」
 ありすは諦めたように溜息を吐くと、再びカチューシャを装着しようとして根本
的な事に気が付く。
 せっかく髪を纏める為に三つ編みにしているのに、それにカチューシャを着けて
も意味はないのではないか。そう思い、おもむろにその髪を解いていく。
 夕暮れの気まぐれな風がありすの頬を撫でる。胸まである彼女の髪は解けてその
風に靡いた。
「どうした? 髪など解いて」
 ホワイトラビットが不思議そうに問いかける。
「まあ、たまにはいいかなって」
 彼女はそう呟いてカチューシャを持ち直す。そして額から後ろへと髪を梳くよう
に装着した。
 顔全体に風を感じる。普段は前髪を垂らしているので新鮮な感じもした。そうい
えば昔こんな風におでこを出したことがあった、ありすはそんな事を思い出してい
た。
「なんだかいつもと雰囲気が違うな」
 声だけでははっきりわからないが、ホワイトラビットのその口調は照れているよ
うにも感じた。
「いつもって……出会って三日目なんですけど」
「そうだな」
 ありすはそのまま立ち上がって風を全身に受ける。心地良い空気の流れ、緑の香
り、鳥の声。まるで世界が一変したかのようにも思える。
「昔ね。あたしには大親友って言えるほどの友達がいたの。このカチューシャはね、
その子と一緒に遊びに行ったテーマパークでお揃いで買ったの。当時はお気に入り
だったわ。恥ずかしげもなく、日常的に付けていた時期もあったの」
 彼女は静かに語り出す。
「その子とは連絡を取っているのか?」
 ホワイトラビットのその質問に、ありすは下を向く。そして、一瞬の沈黙の後に
こう答えた。
「ううん。お別れの直前に喧嘩してしまってね。それっきり」
「そうか」
 それ以上は訊かない。それはホワイトラビットなりの気遣いなのだろう。
 淀みなく流れてくる風さえもありすには優しかった。
 だが、緩やかに吹いていた風が一瞬やむ。
 そして、不意に突風が吹き荒れた。
 砂が目に入りそうになったので、彼女は右腕を顔の前にかざしその風を避けた。
「ありす!」
 ホワイトラビットが叫ぶ。同時に嫌な気配。
「うん」
 彼女にはわかっていた。ネコ耳はその為のマジックアイテムなのだから。
 風が流れていった先には、空中を浮遊する蛸がいた。そして今度はもう一匹、別
の形の化け物を確認できる。
 大きさは蛸と同じ全長が一メートルはありそうなそれは、巨大な虫であった。全
体を硬い殻で覆われたダンゴムシのようなものである。
「二つともスピードは遅い。だが、硬い方は攻撃されるときついぞ。気を付けるん
だ」
 ホワイトラビットの言葉が終わらないうちに、二匹の化け物はありすに向かって
放たれた矢のような勢いで突進してくる。けして鈍い動きではなかった。
「何をどう気を付けるのよぉ?!」
 ありすは二つの化け物を必死になって躱す。その心に余裕などなかった。
「汝の雷を死に浴びせよ。あぶらだぶら! あぶはらぶらだ!」
 呪文に魔法など込めていられない。しかも、焦っているのかきちんと呪文が言え
ていない。まるで早口言葉の練習のようだ。
 ありすの詠唱は失敗に終わった。
「落ち着け」
「どうやって落ち着けっていうの。一つやっつけるのだって大変だったのに、いっ
ぺんに二つもなんて無理だよぉ。昨日みたいに動きだけでも止めてよぉ」
「落ち着いて対処すれば大丈夫だ。どちらも邪なるモノの中でも下等の部類だ。見
た目通り虫程度の思考能力しかない。昨日の件は、ちょうど目視上に邪なるモノが
いたからタイミングよく魔法をぶつけることができただけじゃ。動けない我には、
今の状況で魔法を使うことなどできぬ」
 ありすは死に物狂いで逃げながらも、今ホワイトラビットが言った言葉を頭の中
で咀嚼する。
「じゃあ、目の前にいればいいのね」
 いいアイデアとは言えないが、能力の低いありすにはその方法しか思いつかない。
「そういうことだが……何をする?」
「分担作業しかないでしょ」
 そう言ってありすはその場に立ち留まり、ホワイトラビットを持った右手を迫っ
てくるダンゴムシに向ける。
「ラビはあっちの方をヨロシク」
 ありすの左手は蛸を指す。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 ありすとホワイトラビットの声はほぼ同時だった。二本の矢がそれぞれの方向に
飛んでいき相手を貫く。魔法が効いた事を示す二つの光の爆発が確認できた。
 ありすが攻撃した方は消滅したはず。ならば、のんびりしている場合ではない。
ホワイトラビットの攻撃は時間稼ぎにしかならないが、それでも各個撃破する為の
戦術にはもってこいだ。
 閃光が消え、空中に停止しているダンゴムシに向かって今度はありすの左手が向
いた。深呼吸をして息を整える。
 そして、もう一度呪文を唱えた。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 彼女の放つ光が邪なるモノを貫いた。
 光は爆発し、閃光の後にはもう何も存在しない。
 気が抜けたようにありすはその場にぺたんと座り込む。
「大丈夫か?」
 ホワイトラビットの気遣いが彼女にはなんだか嬉しかった。厳しくありすを叱責
する事もあるが、それでも彼女を見捨てることはない。
「大丈夫?」
 ふいを突く声。
 それは少女のものだった。もちろんホワイトラビットではない。
「にゃ?」
 振り返った彼女は仰天する。
 そこには自分と同じくらいの年頃の少女が、こちらを不思議そうに眺めていたの
だ。
 急いで頭を隠そうとするが、その動作は途中で止まる。
「そのネコ耳……」
 彼女の目線はありすの頭の上だ。隠すには遅すぎた。
「……ねぇラビ。泣いていい?」
 右手のホワイトラビットに彼女はそっと告げる。
「コスプレ?」
 そう呟いた少女と目が合ってしまう。
「……えーん、悲しすぎて涙が出ないよぉ」
 ありすは目の前が真っ暗になった。頭の中は真っ白だった。一般人に目撃される
のは何度目だろう。
 これで近所に噂されるのだろう。頭のおかしなネコ耳を付けた女の子がうろつい
ていると。そのうち話は歪められ、小学校では怪談話として盛り上がるのだ『怪奇!
 人面ネコ』と。いや、普通にネコ耳付けた人間なんですけど。
「ぬいぐるみ?」
 少女の視線がありすの右手に持ったホワイトラビットへと向かう。それは予期せ
ぬ言葉だった。
 なぜなら、通常の人間にその姿が見えるはずがない。
「へ? 見えるの?」
 右手に注がれていた視線が再びありすに向く。少女と再び視線が交差する。立ち
上がってみると背丈はありすと同じくらい、顔立ちは整った美少女。ただ、衣服は
かなり人目を惹く格好であった。
「それ、ウサギのぬいぐるみだよね?」
「ウサギではない、我が名は@☆※£@」
 少女の問いかけにホワイトラビットは怒声で反応する。その存在が見えているこ
とは確かだった。
「きゃ! ぬいぐるみが喋った。え? それともあなたの腹話術?」
 ありすは驚いて口をぽかんと開けたままだ。それはそうだ。普通の人には確認で
きないホワイトラビットが見えるばかりか、その声まで聞けるのだから。
「そうね。口を開けたままじゃ、少し無理があるかもね」
 彼女は一人納得しているようだ。
「我が見えるとは素晴らしい。あと四日早く汝と会いたかったものだ」
 ホワイトラビットが喋って驚いたのは初めの一瞬だけであった。怖がることも逃
げ出すこともなく、少女はにっこりと笑みを浮かべながらありすの前に立っている。
「ちょっと待って。あなたは驚かないの? こんなぬいぐるみみたいな物が喋るん
だよ」
「うん、不思議だと思うけど、それほど驚く事じゃないと思うよ。だって、すごく
ファンタスティックじゃない」


「私は能登羽瑠奈(のとはるな)。月見学園の二年生よ」
 前髪は真っ直ぐに切り揃えられ、肩口まである艶やかな黒髪、背の高さはありす
とほぼ同じでフリルの付いた黒いドレスのような洋服を纏っている。流行のゴシッ
クロリータだが、彼女が着るとあまりにも自然で、その自然さが却って非日常的な
印象を受ける。
「あ、学年一緒なんだ。あたしはね、穴中。穴中の二年生。叉鏡ありす」
 ありすは簡単な自己紹介を済ませた後、公園の隅にあるベンチの所へ行き、そこ
に座って今までの経緯を羽瑠奈に話した。
 無闇に話していいものかと一瞬悩んだが、見えないはずのホワイトラビットが見
えたのだ、信じてくれる可能性もあるとありすは判断する。
 古本屋でぬいぐるみを見つけたこと、魔法を伝授されたこと、そして部屋での最
初の戦いを掻い摘んで説明した。
「ふーん、ということは、ありすちゃんって地球を守る正義の魔法使いなんだ」
 疑うことなく信じてくれたものだから彼女は拍子抜けする。それに、初対面だが
『ありすちゃん』と好意的に呼んでくれたことも嬉しかった。
「えへへ、まだ見習いみたいなもんなんだけどね」
 照れて頭を掻くような仕草をしながら、ふと目線を下に逸らすと視界に白いもの
が映る。それは、羽瑠奈の左の袖口から見え隠れする包帯だった。
 ありすの目線に気付いたのだろうか、彼女は袖口を少しずらしてこちらへとその
包帯を見せてくる。それは、手首から親指の付け根にかけて巻いてあった。
「これは、別に大した怪我じゃないの。うん、二週間くらいピアノが弾けなくなる
くらいのもので、今はほとんど完治しているはず。気休めで湿布を付けているだけ
なんだけどね」
「まだ痛むの」
 なんだか痛々しく感じたので、ありすは心配そうにそう問いかける。
「うん。というか、治っているはずなのに、未だにピアノを弾くことができないん
だよね」
「どうして?」
「指の感覚がなんだかおかしいの。ちょっと痺れた感じがあって。……お医者さん
は精神的なものだって言うんだけど。どうなんだろう? 怪我を負った二週間の間
にライバルに先を越されて焦ってるのかもね」
「ライバル?」
「うん、同じトコのレッスンに通ってる人。私より三ヶ月遅くに入ってきたの。で
も、休んでいる間に私は追い抜かれてしまった。だから、どうしてもあの人に勝ち
たかったの。それなのに今の私は前に進むことすらできないの」
 羽瑠奈の答えは悔しさが滲み出てくるような悲痛な言葉だった。
「ねぇ、羽瑠奈ちゃん。羽瑠奈ちゃんはどうしてピアノを弾き始めたの?」
 ありすは穏やかな口調で羽瑠奈に問いかける。それはまるで古くからの友人に言
葉をかけるようだった。
「うん、小さい頃にね、親戚のお姉ちゃんが弾いてくれたモーツァルトのピアノ協
奏曲が大好きでね。それをどうしても自分の手で弾いてみたくなって始めたのがき
っかけかな」
 ありすの言葉に包まれて、羽瑠奈の口調も穏やかになりつつあった。
「あたしね。昔から不思議に思っていたことがあるんだ。どうして芸術に勝ち負け
があるんだろうって。上手い下手はあっても、それは勝ち負けじゃないでしょ。な
のに、まるでデジタルの世界だよね。0か一かって。音楽を含む芸術作品ってそん
なに単純なのかなぁって、いつも不思議に思うんだよね」
 素朴な疑問に想いを込めてありすは静かに語った。
「どうしてだろう? でも、人間は誰かに勝ちたい。誰かより自分は優っていると
いうことを誇示したい。そういう生き物なんだよ」
 それは本当に悲しそうな答えだった。羽瑠奈自身はもう自覚しているのだろう。
「それはプライドに縛られた悲しい人間の習性だよね。でもさ、何かを好きな気持
ちって他人に評価できるものなの? 羽瑠奈ちゃんが大好きだと思ったピアノは、
他の誰かの大好きと比べて意味のあるものなの?」
「ありすちゃんって意外と理屈っぽいんだね。うん、他人からの評価を窺ったり比
べたりするのは確かに人間の悪い部分なのかもしれないね」
 彼女は自嘲気味に笑う。
「勝ちたい。でも、勝った先に何があるの? 名誉? 地位? お金? そういう
のが目的ならあたしは何も言わない。それはそれできちんとした目的なのだから。
でもね、目的だけが主体になって大好きだった気持ちをどこかへ捨ててしまうのっ
て悲しいよね」
 それが子供じみた考えだということはわかっていた。そうしなければ生きていけ
ない人間がいることも理解していた。でも、ありすはその考えを受け入れることは
できなかったのだ。
「それはしょうがないことなんだよ」
 諦めたような言葉がありすの心に引っかかる。
「しょうがない……か。でもさ、ピアノを弾けなくなってしまったら、勝ち負けす
らないんだよ」
「そうだけど……」
「だったらさ、しばらくはその事を考えるのはやめたらどうかな? その間に原点
に戻ってみればいいと思うよ。もしかしたら、答えが見つかるかもしれない」
「原点?」
「ピアノを弾かなくてはならない目的じゃなくて、ピアノを弾き続けたい理由だよ」
 彼女には勝つ為にピアノを弾くという目的以外に、大好きだからこそピアノを弾
き続けたい理由があるはずだ。何かに憧れた気持ちがきっかけとなって、それがど
う自分の中で変化して大きくなったのか。それをもう一度確かめれば、つまらない
目的に囚われることもないであろう。ありすはそう願っていた。
 羽瑠奈はしばらく考え込むと、ありすに向き直り微笑みを返す。
「ふふふ、ありがとう。少しだけ気持ちが軽くなったよ」





#292/598 ●長編    *** コメント #291 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:34  (287)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[04/10] らいと・ひる
★内容                                         07/02/05 22:27 修正 第3版
■Everyday #3

 とても痛かったことを覚えている。身体の痛みなら我慢すればいい。
 でもありすにとって、心の痛みは耐え難いものだった。
 うっすらとして霞のようになってしまったあの頃の記憶。忘れたい記憶を無理矢
理封じ込めた結果がこれだ。
 そんな事だから時々夢を見てしまう。罪の意識に苛まれ、夢の中では霞んでしま
っている少女の事を。
「タネちゃん帰ろ」
 そう呼ばれて振り返る。そこにはありすと同じ三つ編みのお下げ髪の女の子が立
っていた。
 大親友だと彼女は思っていた。
 学校ではいつも一緒にいて、放課後もいつも一緒に遊んだ。
 三学期の終了日に交わした言葉が蘇る。あの子と同じクラスでいられた最後の日
でもあった。
「学年上がっても、またキョウちゃんと同じクラスになれるといいね」
 ありすは心の底からそう思っていた。
「うん。そうだね」
 『キョウちゃん』と呼んでいたあの子もありすと同じ心境だったのかもしれない。
 転校してきたあの子に初めて声をかけた小学四年生の冬。それから二人の時間は
ずっと一緒に流れていくのだと思い込んでいた。今思えば幼い考えである。
 だから新学期になって学年が上がり、クラス分けの発表を見た時、ありすはどう
して『キョウちゃん』の名前が同じクラスに見つからないのだろうかと、ずっと探
し続けていた覚えがある。
 ショックは大きかった。
 しかし、離ればなれになるわけではない。同じ学校なのだから、授業中以外は会
うことも可能だし、放課後になれば以前と変わりなく二人で遊びに行くことができ
るのだ。二人は前とあまり変わらない生活であることを願い、そしてその事に納得
したつもりだった。
 ところが、新学期が始まるとありすの周りにも徐々に変化が訪れてしまう。
 一番の変化はクラスメイトとなった成美と美沙との出会いだった。
 おっとりしているが芯の強い成美と、行動力があって情に厚い美沙。この二人と
仲良くなるのにそれほど時間はかからなかった。
 そうしていつの間にかありすは、成美や美沙などのクラスメイトたちと過ごす時
間も大切になってしまったのだ。本来なら、それはとても自然な出来事であった。
 だが、大親友のキョウちゃんは、その当時のクラスメイトとの交流をあまりよく
思っていなかったらしい。自分以外の友達と親しくする事に対し、不機嫌そうな態
度を取るばかりだった。
「タネちゃん。あたしよりクラスの子を優先するの?」
「……」
「あたしの方が前から約束してたじゃない」
「そうだけど……」
「あっちに行って遊ぼうよ」
 キョウちゃんの気持ちはありすには痛いほどわかった。彼女にはまだ親しいクラ
スメイトはいなかったのだ。心細く思う彼女がありすを頼ってしまう気持ちは理解
できなくはない。
 だから、その場の情に流されてしまう。優柔不断な、クラスメイトと親友を天秤
に掛けるようなどっちつかずの返事で言葉を濁す日々が続いていく。
―「今日の放課後は絶対空けておいてね」
―「休み時間はうちのクラスに絶対遊びに来てね」
―「来週の日曜日も一緒に遊びに行こうね」
 まるでありすを必死で捕まえていたいかのように、朝の登校時や放課後だけでは
なく授業の合間の休み時間まで足を運んでくる。そんな彼女の行動は、ありすにと
って重荷にしかならなかった。
 もちろん彼女の事は嫌いではない。だから、できる限りは受け入れてあげよう、
そう思っていた。
 成美や美沙に相談したところ、一緒に遊べばいいじゃないかと、単純な解決方法
を提示してくれた。今まで、どちらかを選択するような方法をとっていたありすに
とっては、それは目から鱗が溢れるような名案であった。
 ありすは早速、キョウちゃんにその話をもちかけた。人見知りの激しい子ではあ
るが、彼女の説得が効いたのか、期待半分不安半分といった表情でそれを受諾して
くれたのだ。
 日曜日にありすと美沙と成美とキョウちゃんの四人で待ち合わせをして隣駅にあ
る少し広めの公園に向かう。そこでフリーマーケットを開催しているので、それを
見に行くことが目的だった。
 最初は警戒して人見知りの激しかったキョウちゃんも成美や美沙の誰とでも分け
隔てなく接する性格もあってか、次第に馴染んでいったのだ。
「キョウちゃんさん、あちらにネコのぬいぐるみがありますわ。とてもかわいらし
いと思いませんか」
 愛称の『キョウちゃん』にまで『さん』を付けるところが成美らしくもある。と
はいえ、旧来の友人のように彼女を扱ってくれていたのだ。
「あ、本当だ。うん、かわいいね」
 成美が笑いかけ、それに対して当初はぎこちなく笑みを浮かべていた彼女も、公
園に到着した時にはもう満面の笑みを浮かべていた。
 ありすはそんな彼女を見て安心する。
 だから気が緩んでしまったのだろう。帰り道、ふと明日の宿題の事を思い出し成
美に話を振ったところから歯車が狂い始めた。
「ありすさんも慌て者ですね。明日は算数の授業はございませんよ」
「そうだよ。明日の三時間目は体育だって」
「水泳の授業でしたわね。そういえば葛西さんも張り切っていらっしゃったわ」
「葛西さんは、小学校に入る前からスイミングスクールに入っていたらしいよ」
「だったらわたしも負けらんないね」
 明日の宿題から明日の授業、続いて水泳、クラスメイトの話題と三人だけで盛り
上がる。
 気付いた時、キョウちゃんは数メートル後ろをとぼとぼと歩いていた。その表情
には疎外された事による悲しみに溢れていた。
 ありすが駆け寄って話かけるものの、それは逆効果であった。彼女の顔を見た途
端、泣き出してしまい、そのまま逃げるように駆け出していった。
 それから一週間、キョウちゃんは学校を休むことになる。
 ありすは何度も何度もお見舞いに行き、その度に謝罪した。最初は拒んでいたキ
ョウちゃんも落ち着いてくるとありすを許してくれた。
 結果、彼女と仲を修復する為にありすは我が侭を聞くことになる。何があっても
彼女との約束を最優先とすることを誓ったのだ。
 だが、いつしかありすはそんな彼女との仲に重みを感じてしまう。それまで対等
であった友人関係が、主従関係とも思えるほどになってしまったのだ。
 原因はわかっていた。ありすが彼女を甘やかし、我が侭を言いたい放題にさせて
しまったからだ。
 友人と遊んでいるのに楽しくない、そんな状態がありすの身体にストレスを溜め
させた。
 ちょっとした事でイライラして、時には彼女と喧嘩になりそうになったこともあ
った。
 唯一の安らぎが、授業前の数分や掃除の時間等に成美や美沙たちに話しかけても
らえる時だった。
「ありす、来週の日曜日空いてる?」
 体育の着替えの時に、美沙がそう聞いてきた。空いてるとは答えられない。予定
はまだないけど、予定は入るかもしれない。なにより親友との約束を最優先にしな
ければならないとありすは思っていた。
「……」
「ありすさん、最近元気がないようですから、ぜひお呼びしたいと思ったのですが」
 成美の真っ直ぐな瞳で見つめられると、なぜか後ろめたい気持ちになる。
「どこか遊びに行くの?」
 訊いてもしょうがないことはわかっていた。でも、ちょっとした好奇心が彼女の
心をくすぐった。
「実はさ、成美の誕生日なんだよね」
「毎年、お友達を家にお呼び致しておりますの。質素なパーティーですが、ありす
さんにも来ていただけたら嬉しいですわ。もちろん、プレゼントなんていりません。
わたくしにとっては来ていただけるのが、最良のプレゼントなのですから」
「誕生日かぁ」
「無理にとは言わないよ。来られるようだったら来な。それで、楽しもうよ」
 クラスメイトの誘いはありすにとって確かに嬉しかった。この何日かのモヤモヤ
した気分が晴れそうだった。
 あれだけ我が侭を聞いて毎日付き合っているのだから、一日くらいいいじゃない
か。そんな気持ちがありすの中に芽生えていた。キョウちゃんも一緒に呼んではど
うか、と成美は言ったが、また同じ過ちを繰り返してしまいそうなのでありすは自
分一人で行くことにする。
「うん。じゃあ、空けとく。楽しみにしてるね」
 そんな言葉を成美たちに返した。それは久しぶりの心からの笑顔だった。
 しかし、その週の土曜日にキョウちゃんはこんな誘いをしてくる。
「ね、明日さ、遊園地行こうよ。そんで、一日たっぷり遊ぼう」
 その日は成美の誕生日だった。約束は彼女の方が先である。一日くらいなら、許
してくれるだろう。そんな軽い気持ちで答えた。
「あのね。明日は無理なんだ」
「どうして?」
 キョウちゃんの無邪気な問いかけは、心にナイフを突き立てられるようだ。
 ありすは口淀む。はっきりと友達と約束があると言ってよいものなのだろうか。
そうしたら、また駄々を捏ねられるのではないか。そんな不安が彼女を包み込む。
「うん、用事があるから」
「だったら断って、その用事」
 彼女は笑ったまま、それが当然であるかのように言ってくる。
 あまりにも簡単に出てきたその言葉に、ありすは一瞬耳を疑った。今までずっと
親友である彼女を優先してきたのだ。それがわからないのだろうか? ありすには
無性に腹が立った。
「そんなこと……」
 身体が怒りで震えているのがわかる。今まで我慢していただけに、そのはけ口を
心が求めていた。
「え?」
「そんなことなんで言うのよ。なんでそんな簡単に命令するのよ。あたしたち友達
じゃなかったの。それなのに、なんで命令なんかするのよ」
「……タネちゃん?」
 ありすがいきなり怒り出したので、彼女はびっくりしたように目をまんまるくし
て動揺している。
「もう、キョウちゃんのわがままには付き合えないよ」
 言ってはいけないとわかっていても止めることはできなかった。
 それでも、どこかで落ち着かなければという考えも頭の隅に残る。だから、大き
く深呼吸をした。だけど、心のもやもやは晴れやしない。
「タネちゃん……」
 彼女は言葉を失っていた。瞳を潤ませて、今にも涙が溢れそうだ。
「しばらく会うのやめよう」
 このまま会っていてはお互いの為にならない。ありすが甘やかしてしまったから
彼女はここまでつけ上がってしまったのだろう。
 だから、その時はそれが一番良い選択だと思った。
「どうして?」
「あたしはキョウちゃんの物じゃないんだよ。あたしだってあたしの生活がある。
この世界はあたしとキョウちゃんの二人しかいないわけじゃないんだよ。だから、
キョウちゃんのわがままだけに付き合うわけにはいかないの」
 怒りは収まらなかった。ありすは感情のまま言葉を吐き出し続ける。
「ごめん。ごめんなさい。わがまま言ってたのは謝る。謝るから、明日だけは一緒
にいて。お願いだから」
「無理だよ。キョウちゃんの為にずっと誘いを断っている友達の、一年に一度しか
ない誕生日なんだよ」
「でも、明日だけは……」
 しつこく食い下がる彼女に、ありすの苛つきは頂点に達する。
「それのどこがわがままじゃないって言うの?!」
「……」
 キョウちゃんは何も言えなかったのだろう。それからはありすの怒声をただ黙っ
て受け止めているだけだった。
 だが、何も言わない彼女が今度は逆にありすの怒りにさらに火を注ぐ事になった。
「キョウちゃんなんか大嫌い!」
 ありすにとって、それが彼女と交わした最後の言葉だった。
 その翌々日、キョウちゃんは転校した。
 ありすがその事実を知ったのは、さらに二日後のことだった。
 知らなかったとはいえ、それが取り返しの付かない事だと気付いてしまう。
 後で聞いた話だが、彼女の両親は離婚し、急遽転校という事になったらしい。本
人はきっと混乱していたのだろう。一日でも長くありすと一緒に居たかっただけな
のだ。
 それなのに、拒絶という最悪の形で別れを迎えてしまった。
 どうして彼女は転校の話をしてくれなかったのだろう。
 理由さえ話してくれれば、ありすはその残された日々を大切に過ごしたと思う。
 でも、もしかしたらその問いかけ自体が間違っているかもしれない。
 転校の事を話したら、ありすには同情というフィルターがかかってしまう。だか
らこそ、純粋に友達として最後まで過ごしたかった彼女は、転校の話ができなかっ
たのだろう。


 それは昼下がりの事だった。
 クラスメイトの各々は友達と歓談したり、本を読んだり、体力の余った男子生徒
達は校庭でサッカーでもしているのだろう。ありすは、図書館から借りた本を読も
うとしたが、精神的にそれを行えるような状態ではなかった。ここ数日見る夢が、
彼女の心を蝕んでいたからだ。
「悪意ってさ、自覚のある人より自覚がない人の方が多いよね」
 ノートから目を離し、目の前で写譜をしている成美にそう問いかける。彼女は音
楽の先生から借りた練習曲の譜面を自分の五線譜ノートに写しているのだ。楽譜く
らい買えばいいじゃないかとありすや美沙は思うが、譜面を覚える為に必要な事な
のだと成美は言う。彼女にとって、ピアノは弾くだけではなく、その音符に触れる
ことから始まるのだろう。
「悪意ですか?」
「悪意ってのは本来自覚があって他人に害を与えようとする心なんだけど、その
『害を与えよう』という部分が麻痺して自覚がなくなってる場合が多いんじゃない
かって」
 写譜をしていた成美の手が止まり、心配そうにありすを見つめる。
「創作ネタ……とは違うようですね」
「うん。夢でさ、昔の事思い出しちゃってね」
「もともと善と悪なんて立場によって変わるものじゃありませんか。それは、創作
を行っているありすさんの方がよくわかっているはずですが」
「でもさ、その時は自覚なくても後で『あれは悪意だったのかな』って後悔しちゃ
うじゃない」
「悔やんでいるんですか?」
「例えばさ、誰かを虐めている人間がいるでしょ。虐めている方は悪意ではなくて
ただ『からかっているだけ』。でも、虐められている方は『悪意』以外のなにもの
でもない」
「そうですが……でも、ありすさんの悩んでいることはまったく別の問題だと思い
ますよ」
 ありすの口調から何か気付いたのだろうか、成美は柔らかい笑みを浮かべそう言
った。
「そうかな? 根っこの部分は同じじゃない」
「ありすさんが悔やんでいるのは、キョウちゃんさんの事じゃありませんか?」
 ちょっとした会話だけで、成美はありすの心を見透かしてしまったようだ。彼女
の鋭い部分にありすは頭が上がらない。
「うん。そうなんだけど」
 隠していてもしょうがないと、ありすは素直に認めることにした。事情も知らな
いわけではない。
「その事についてはもう十分苦しんだじゃないですか。自覚のない人はそんな辛い
顔はしませんですよ」
「罪は罪だからね、自覚ができたからといってその罪自体が消えるわけじゃないよ」
 ありすは深く溜息を吐く。
 二人の間にしばしの沈黙が訪れる。成美もありすに対し、どう言ってあげれば良
いのかがわからないのだろう。
 そんな中、美沙の元気な声が聞こえてくる。
「成美」
 男の子達と一緒にサッカーをやってきたであろう彼女は、午後の授業開始までま
だ余裕のある時間に早々と帰ってきた。
「お願いあるんだけどさ。数学の宿題あったじゃん。あれ見せてくれない。今日当
たりそうなんだよ。さっきまですっかり忘れてて」
「ありすさん」
 成美は美沙ではなくありすの方を見る。そして微笑みながらこう言った。
「ここで美沙さんの為にならないと、宿題を見せてあげないことは善意でしょうか?
 それとも悪意なのでしょうか?」
「へ?」
 ありすは急に話を振られて、素っ頓狂な声を出してしまう。
「宿題を見せてあげることは簡単です。でも、簡単に見せてあげることで美沙さん
はそれに甘えて自力で宿題をやらなくなってしまう可能性もあります。友達だから
甘えさせてあげるってのは、わたくしは間違っていると思いますけど」
「あのー、成美? 数学の宿題は?」
 状況がわからない美沙は、不思議そうに成美に問いかける。
「今回は自力でやってください。まだ授業が始まるまで時間がありますから」
「ちぇっ、しょうがないな」
 美沙はそう答えると、自分の席へと戻ってノートを取り出す。たぶん、今日彼女
が当たる箇所のみに絞って自力で解こうとしているのだろう。
「ありすさん」
 呆気にとられていたありすは、成美の呼びかけで我に返る。
「何?」
「根本的にはありすさんの考えは間違っていなかったと思います。だからそこに
『悪意』などあるはずもありません。でも、何かが間違っていたというならば、そ
れはお互いを理解する為の話し合いがなされなかったことです。相手が悪意を持っ
ているかどうか、自分が悪意がないかどうか、それらをきちんと確かめ合わなかっ
た事自体が間違っていたのでしょう。悔やむべきはその部分です。それと、この問
題で一番重要なのは二度と同じ過ちを犯さないという事ではないでしょうか。だと
したら、今のありすさんは十分それを理解していると思いますよ。でなければ、わ
たくしはありすさんを友人などとは思わないでしょうから」
 成美の言葉には確固たる信念が込められていて、強い意志を感じる。ありすの曖
昧な揺れる心を時々こうやって諭してくれた。そんな彼女に感謝をしながらも、キ
ョウちゃんを優しく諭してやれなかった事をありすは後悔する。
 今のありすならもう少しあの子の気持ちを理解してあげることができた。自分の
気持ちを上手く伝えることができた。
 時間はもう巻き戻ることはない。
 そんな事を考えているとふいに創作のアイデアが浮かび上がってくる。
 人物設定、情景描写、台詞、そして感情の流れ、……。
 後悔の念に駆られている時だというのに不謹慎だということはありすも自覚して
いる。
 だが、時に自分自身の痛みさえ喰らう彼女の中の創作の虫は、恐ろしい速度で成
長し始めていた。最後にはありす自身の人格さえも喰らい尽くすのではないかと恐
怖するときもある。
 目の前の成美は、そんなありすの内部を理解してくれるだろうか。優しく諭して
くれた彼女をまるで無視するような形で、創作の虫は自身の制御を離れていくのだ。
 なんて勝手なのだろうか。
 それでもありすは、物語を生み出す事を嫌いにはなれなかった。





#293/598 ●長編    *** コメント #292 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:35  (367)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[05/10] らいと・ひる
★内容                                         06/09/04 20:30 修正 第2版

■Everyday magic #4

 カメラのシャッター音がした。
 学校帰りに公園の前を横切った所で、ありすは音に気付きそちらを見て立ち止ま
る。
 大きな一眼レフカメラを構えて、一人の男がこちらをレンズ越しに見つめている
ようだ。
 初めは風景でも撮っているのだろうと思っていた。だけど、立ち止まった彼女が
歩き出すとレンズもそれを追いかける。
 不審に思った彼女は再び立ち止まる。レンズはそれに倣って動きを止め、シャッ
ター音を吐き出す。
 なぜ自分など撮すのだろう。疑問に思い首を傾げていると、男はカメラから顔を
離しありすに近づいてくる。
 どこかで見たような気がした。小太りで大して暑くもないのに額から汗が吹き出
ていて……。
「……」
 ありすは反射的にくるりと男に背を向け、逃げ出そうと足を踏み出したところで
呼び止められる。
「アリスちゃんだよね」
 背筋に悪寒が走った。
 誰?
 ありすは見ず知らずの男に名前を呼ばれた事を薄気味悪く感じていた。
 首だけ振り向いて、苦笑いをしながら男を観察する。二十歳くらいだろうか、油
でベタついた長い髪を後ろで縛っている。
 知り合いではないはずだ。前にネコ耳を付けた時に声をかけられたあの男と同一
人物かどうかも、ありすには思い出せない。もし同一人物だとしても赤の他人には
変わりはない。
「なんであたしの名前知ってるんですか?」
 苦笑いはそのまま顔の筋肉を引きつらせていく。彼女はなんとか冷静に言葉を紡
ぎ出した。
「いや、こうしてお話するのは初めてかもしれないね」
 そう言って男は名刺を出す。
 名刺には『Tweedledum』とあり、その下にhttpから始まるウェブアドレスのよう
なものが書いてあるだけだ。だが、目の前の男は典型的な日本人にしか見えない。
 ありすが名刺と男を見比べて首を傾げていると、それに気付いたかのように呟く。
「『トゥイードルダム』。呼びにくかったら『ダム』って呼んでくれていいよ。サ
イトでの管理人名だから」
「あの、どちらさまでしょうか?」
 ありすは警戒しながらそう訊いた。名刺を渡されたので、カメラマンか雑誌の記
者かと思ったのだが、それも違うらしい。
「アリスちゃんの写真」
 男は唐突に言葉を吐き出す。どうも会話が噛み合わない。
「へ?」
「サイトに載せてもいいかな。ボクのサイトね、一日千くらいしかカウンタ回らな
いけど、結構評判はいいんだよ」
「困ります」
 ありすはインターネットがどんなものかくらいは知っていた。そんな所で自分の
写真を晒されるなんて許可できるわけがない。
「そう、残念だな。じゃあ後で、ありすちゃんところに今まで撮った分送ってあげ
るね」
 男はそう言ってニヤリと笑った。
「え?」
 メモ帳を取り出してありすに質問する素振りはない。まるで、既に彼女の住所を
知っているともとれる。そう考えるとぞくりと背筋が凍えた。
 それとも、またこの公園で出会った時に渡すという意味なのだろうか。
 ありすは二度とこの男には近づきたくなかった。それは本能がそう告げているの
だ。今だって、逃げ出したい気分なのだから。
 その時、沈黙を守っていたホワイトラビットが叫ぶ。
「いかん! 邪なるモノの気配が増大している。近くにいるぞ」
「まさか、アレを付けろっての」
 ありすは小声でホワイトラビットに問いかける。『アレ』とは言わずもながらマ
ジックアイテムであるネコ耳付きのカチューシャだ。
「当たり前じゃ、敵を目の前にしてわざわざ見逃すこともあるまい」
 ホワイトラビットの立場ならそれは当然の指示であろう。でも、ありすには躊躇
せずにはいられない。
「だって、普通の……普通じゃないかもしれないけど、一般人がいるんだよ」
「言ったじゃろ、奴らは人間を害すると。今すぐ排除せねば、その一般人にも被害
が及ぶ」
「やだよ。あんな変な人、助けろっての」
 思わず本音が溢れてしまう。ありすは目の前の男に対して良い印象を持っていな
い。
「それが魔法使いの宿命じゃ」
 ありすは泣きそうになった。というか、涙目にはもうなっていた。「魔法を使い
たいって思わなければよかった」と小声で愚痴をこぼしながら、半ば自棄になって
肩に下げたトートバックからネコ耳付きのカチューシャを取り出して装着する。
「おお!」
 目の前の男が仰け反るように興奮していた。「キター」と奇声を発しているよう
な気がするが、そんな事に構っている場合ではない。ありすは注意深く周囲を索敵
する。
「いないよ」
 空中を浮遊しているような化け物は見あたらなかった。ありすはホワイトラビッ
トだけに聞こえるような小声で囁く。
「目の前の男を見ろ。邪気が溢れておる」
「え??」
 ありすが男を見ると、その周囲が灰色の靄で囲まれている。まるで身体から燻っ
て出た煙が彼自身を覆っているかのように。
「取り憑かれたのじゃ。邪なるモノに」
「え? え? そんな事できるの?」
 これまでは単純に見た目でわかりやすい敵ばかりに遭遇してきたのだ。異様な状
態の敵を前に戸惑いは隠せない。
「云ったじゃろ。人間を害すると。取り憑かれた人間は自覚のないまま他人を攻撃
する」
「どうすればいいのよ。普通に魔法を使っちゃっていいの?」
「攻撃の魔法は取り憑かれた人間まで消滅させてしまう。できれば男の身体から引
き離す魔法がよい」
 カシャリと短い機械音がする。
 ホワイトラビットとの会話に夢中になっていて気付かなかったが、先ほどから何
やらシャッター音のようなものが聞こえていた。
「……って、えぇぇぇ! また写真撮られてる」
 再びカメラのレンズと対面したありすは恥ずかしがって頭を抱え込む。
「何をしておる。早く魔法を発動させんかい。簡単な呪文は伝授したはずだ」
 無責任なもの言いには慣れた。命令を聞いてネコ耳を装着してしまったのだから
これ以上恥をかくこともあるまい。ありすはゆっくり深呼吸をすると、記憶に刻ま
れた呪文を思い起こす。
「えーとなんだっけ……邪なるモノよ、この地より退け! えーと、えーと……ニ
フラム……だっけ?」
 自信なさげな詠唱ではあったが、彼女の身体から青白い淡い光が放たれた。
 靄で覆われていた男の身体はその淡い光に包まれる。
 口をあんぐり空け、構えていたカメラが男の手から離れる。ストラップが付いて
いるのでカメラは地面には落ちなかったが、男の身体に変化は起きていた。顔面は
蒼白になり、脂汗のようなものをかいている。
「教えた呪文と違っていたがまあいい。効果は期待できそうじゃ」
 男はそのうち手足が震えだした。何かを喋ろうと口を開くも、言葉にならないら
しい。
「ししししし……しむ」
 本当に効果があったのだろうか。首を傾げながらありすが一歩近づこうとすると、
男は一歩後退する。もう一度首を傾げて一歩踏み出すと、今度はくるりと背を向け
た。
「な、なおまあー!」
 男は奇声を上げて逃げ出してしまう。
「へ?」
 何が起こったのか分からずにありすは唖然とした。
「やはり、完全に魔法が発動していなかったようじゃな。おかげで、取り憑いた人
間ごと逃がしてしまったわい」
「もしかして呪文間違ったせい?」
 がっくりと項垂れながらありすは問いかける。話をきちんと聞いていなかったこ
とをまた怒られそうだった。
「間違ったも何も、教えた呪文とまったく違っていたではないか。発動した方が奇
跡に思えるぞ」
「そ、そうなの? でも、なんであんな呪文がとっさに出たんだろ」
 もし既存の呪文でないのなら、自分には即席で呪文を創り出せるセンスがあるの
かもしれないと、ありすは密かに喜んだ。
 だが、本当にオリジナルの呪文だったのだろうかとの疑問もある。
「ありすちゃん!」
 背後から聞き覚えのある声がする。
「え?」
 振り返るとそこには羽瑠奈がいた。
 からみ素材の黒いジャンパースカート姿で、ウサギの耳のような物が付いた黒白
のボンネットを被り、リボン付きの黒いブーツを履いている。相変わらずのゴシッ
クロリータファッションだ。
「すごいね、見てたよ。悪者やっつけたんだ」


 公園のベンチにありすは座り、羽瑠奈が散歩の為に連れてきたコリー犬のフカフ
カな毛並みを心地良さそうに撫でている。
「前に会った時は、見習いとか言ってたけど、もう一人前じゃない」
 隣に座った羽瑠奈は感心した口調でそう呟く。ありすには少しくすぐったい言葉
だ。
「うーん、呪文間違えちゃったし、魔法も完全に効いたわけじゃないから、まだま
だなんだけどね……あはははは、やめてやめて」
 犬にすっかり気に入られたのか、ありすは顔をぺろりと舐められた。それを嬉し
そうに避けている。
「でも、すっかり正義の味方が板についてきたんじゃない? 普通の女の子だった
ら逃げちゃうでしょ」
「あはははは、逃げたかったけどね」
 犬にじゃれつかれて大笑いしながらも、羽瑠奈の言葉には苦笑するありす。逃げ
たかったというのは本音なのだから。
「いいなぁ、私も魔法を使ってみたいな」
 羨ましそうな羽瑠奈の顔を見たありすは、ふと右手に握りしめていたホワイトラ
ビットに視線を移す。
「ねぇ、ラビ。羽瑠奈ちゃんもラビの声が聞けて姿も見えるんだから、魔法使いの
素質があるんじゃないの?」
「それは無理じゃ。素質があったとしても、魔法を託せるだけの力がもう我には残
っておらん。まあ、ありすに会う前に彼女に会っていたら、逆だったかもしれない
がな」
 もしかしたら、羽瑠奈の方が聞き分けがよくて魔法に対するセンスも良かったか
もしれない。運命とはどこでどう転がるかわからないものだなと、ありすは思う。
「ははは、残念。心強い仲間ができると思ったのになぁ。というわけで、羽瑠奈ち
ゃん、魔法は無理だってさ」
 再び羽瑠奈の方へと視線を戻したありすは、そこに柔らかな笑みを浮かべた彼女
の表情を見る。同年代だというのに、それはまるで幼い我が子を見守る母親のよう
な表情だった。
「ふーん、無理ならしょうがないね。せいぜいありすちゃんの邪魔にならないよう
に、応援させてもらうわ」


■Everyday #4

 あれは初めてキョウちゃんと出会った時だろうか。
 微睡みの中でありすはぼんやりと昔の事を思い出す。
 転校生としてやってきた彼女は、ありすと同じ三つ編みのお下げ髪だった。担任
の教師に促されて壇上で自己紹介をするあの子は、俯きながら小さな声で自分の名
前を口にする。そして、驚いた。
 苗字は違うが、名前は自分と同じ「ありす」だった。
 そして名前や髪型だけではなく、奥手な部分もありすと共通し、とても他人とは
思えなかった事を覚えている。
 転校してきたばかりのあの子は人見知りが激しかったのか、クラスの子が話しか
けても下を向いたまま黙ってばかりいた。そんな態度が気に入らなかったのだろう
か、その日はもう誰も声をかけることはなかったのだ。
 その頃のありすは、あの子と同じ引っ込み思案の性格で、クラスメイトのように
気軽に声をかけられるわけでもなかった。その日一日、誰からも相手にされなくな
って寂しそうにしている彼女を横目で見ながら、ありすは心を痛めていた。
 次の日の放課後、一人でぽつんとしているあの子に、ありすは思い切って声をか
けてみることにしたのだ。
「ね、家はどっちの方? 一緒に帰らない?」
「……」
 一瞬だけ目が合うがすぐに逸らされてしまう。他人を警戒して怯えているのだろ
うか。まるで昔の自分と同じだ。その時、ありすはそう感じた。
「あたしもね、ほら三つ編みなんだ」
 彼女の興味を惹くように、頭を動かして二本のお下げを揺らしてみる。自分は敵
ではないというアピールをする為に。
「そのピンク色のゴム」
 あの子の口が開く。
 編んだ髪を留めているピンク色のゴムには白いウサギが付いている。ありすが一
番気に入っている髪留めゴムだ。お気に入りのアイテムという事もあって、家には
予備が五、六個ある。
「ん?」
「かわいいね」
 伏し目がちながらも、ちらちらとそれを羨ましげに見つめる彼女にありすは「気
に入ったのならあげようか?」と微笑みかける。
「いいの?」
 ようやくあの子の顔が真っ直ぐにこちらを向く。
「うん。うちにまだあるから」
 ゴムを外すと彼女の髪へと付け替えた。「似合うよ」とありすが言うと、あの子
も微笑み返してくれる。
 そんな時に、タイミングが悪く現れたのがクラスの男子数名だった。彼らは、あ
の子がその日一日クラスメイトたちを無視していた事に対していきなり言いがかり
を付け始めたのだ。それは子供っぽい理屈で固められた幼い故に容赦のない言葉だ
った。
 そこで交わされた言葉の詳細をありすは覚えていない。ただ彼女は、生まれて初
めて自分が傷つく事を厭わずに、他人を庇おうと行動に移したのだ。二対多数、し
かも相手は男子ということで勝ち目がないことも理解していた。それでも彼女は必
死になってあの子を守ろうとした。まだ友達にもなっていなかったけど、友達にな
れるだろうという確信がありすの中にはあったのだ。
 結局、廊下を通りかかった担任の教師が教室内の異変に気付いて間に入ってくれ
たので、なんとか治まりはついた。
 その日以来、ありすとあの子は急激に仲良くなった。後に取り返しのつかない喧
嘩をするまで、二人はずっとお互いを信じ合っていたのだ。
 そして、永遠に楽しい日々が続くと幼心に思っていたのだった。


「ええーん、遅刻するー!」
 ありすは、人通りの極端に少なくなった通学路を疾走する。いつもなら登校する
生徒で溢れる銀杏並木の道も、ほとんど人の姿は見えない。
 昨日、夜遅くまで書いていた創作が災いして寝坊してしまったのだ。思いの外に
筆が進み、キリのいいシーンまで書いていたところ、普段の就寝時間を三時間も上
回ってしまったのが原因だ。おまけに無意識のうちに目覚ましを止めてしまったら
しい。夢の中で彼女は、誰かに言いがかりをつけられそれをうるさいと感じてしま
っていたのだ。もちろん、その原因は目覚ましのベルに他ならない。
 今まで何があっても遅刻だけは避けてきただけにかなり焦っている。もちろん朝
食は抜きで洗顔さえ満足に行われていない。
 ただし、食パンを喰わえながら走るなんて乙なことはできないし、曲がり角で転
校生にぶつかることなど有り得ない。
 いつもなら待ち合わせをした成美や美沙と一緒に登校するのだが、さすがに遅刻
スレスレの時間まで待っていてはくれなかった。
 なんとか生活指導の先生方の並ぶ校門をギリギリの時間で通過して、急いで上履
きに履き替えると教室まで一気にかけあがる。
 扉を開けて挨拶。
「おはよう!」
 その一声が限界だった。体力を使い果たしたありすはそのまま床へぺたんと座り
込む。
「おはよ。おいおい、大丈夫か? ん?」
 美沙が駆け寄って肩を貸してくれる。彼女はそれに掴まりなんとか自分の席に座
ることができた。
 既に着席していた成美が振り返る。
「ごきげんよう、ありすさん。あら、今日は新風ですか?」
「へ?」
 そう言われてはたと気付く。彼女は朝起きてから、髪を何もいじっていなかった。
三つ編みを止めるゴムさえ忘れてきてしまっている。
「ブラシぐらいならお貸し致しますわ。そうですね、いつもの三つ編みも正統派で
よろしいですけど、今日のナチュラルな髪型も魅力的ですわね」
「あわわわ。成美ちゃん貸して貸して」
 手渡されたブラシでありすは急いで髪を梳く。
「ついでにカチューシャもお貸し致しましょうか?」


「おい、そこのネコ耳。六十四ページの七行目から読んでくれ」
 嵌められたと思ったときにはもう手遅れだった。いや、たぶん成美は嵌めるつも
りはなかったのだろう。純粋に「かわいいのではないか」というつもりで渡したの
かもしれない。彼女はそういう性格だ。
 状況はこうだ。成美がそのカチューシャをありすの頭に装着した時、ちょうど一
時間目の授業を担当する英語教師が入ってきた。彼女は自分の頭にある物体がどん
な形状をしているのか確認する暇はなかったのだ。さらに、事実が発覚するのが遅
れたのは、ありすの席が一番後にあったからであろう。
 教室に入ってきた英語教師はありすをちらりと見てニヤリと笑った気がした。
 だがそれはいつもの三つ編みの髪型でない彼女を見て、新鮮に感じたのだろうと
ありすは思い込んでいた。
 十数分後、それは見事に裏切られる。
 教師が発したその「ネコ耳」という言葉がクラス全員の好奇心を刺激した。八割
の生徒が何事かと教室内をぐるりと見渡す。間違い探しの部類としては簡単な問題
だ。気付くのに時間はかからなかったのだろう。
 そして視線の集中。それは、ありすの頭上へと注がれる。
 一瞬の静寂。天使が通り過ぎたのか? そう違和感を抱いたありすの背筋を、嫌
な感じの汗がたらりと流れる。
 あとは祭りのようだった。
 室内から歓声があがる。
 クラスメイトからは「かわいい」とか「萌え〜」「ネコ耳最高!」や「笑いすぎ
てお腹痛いよ」などとお笑い芸人を賛美するような言葉も聞こえてきた。
 一瞬、ありすには何が原因で笑われているかがわからなかった。だが、すぐにそ
の理由に気付く。あわてて外したカチューシャにはかわいらしいネコの耳が付いて
いた。
「ねぇ、成美ちゃん」
「はい。なんですか」
 天使のような笑顔の成美がこちらを向く。その表情には一点の曇りもない。
「泣いていい? ていうか、なんでこんなもん持ってるの?」


 洒落のわかる教師だった事もあって、その場でのお咎めはなかった。むしろ、騒
ぎ立てる生徒と一緒になって笑い出していた。成美もそれをわかってネコ耳付きの
カチューシャを貸したのだろう。
 授業が終わり、恥ずかしさで真っ赤になった顔を冷やす為にお手洗いへとありす
は向かう。彼女はそこで先に来ていた三人組のクラスメイトを見かけた。
「あ、ネコ耳だ」
「ネコ耳だね」
「ネコ耳じゃん」
 声のトーンはあくまでも訝しげ。笑顔ではなく嘲笑がありすを出迎えた。とても
冗談で受け流せるような雰囲気ではない。
 というのも、この三人組の女子、彩実清花、氷月冬葉、館脇純菜とありすはあま
り仲がよくない。 
 ネコ耳騒動の元凶である成美の場合はあくまでも『天然ボケ』という性格上、そ
こに悪意は感じない。授業中に盛り上がって笑っていた八割方のクラスメイトだっ
て、そこには純粋な『ありすの格好のおかしさ』に着目していたのであって他意は
ないだろう。
 だが、目の前の女子達はどうなのか。
 ありすは無視して、洗面所の鏡の前へと向かう。火照った頬を見てみっともない
なと思いながら蛇口をひねる。
「人気取りは大変だね」
「これで男子にも大注目ってか」
「やっぱさ、男が欲しいと手段は選ばないものなのかね」
 彼女への嗤いは止まらない。頭を冷やす意味も含めてありすは顔を洗う。
 これがどこのグループにも所属していない女子ならば、陰湿な虐めへとエスカレ
ートしていくのだろう。ありすは独りではない。だから、目の前の女子も最低限の
嫌味を言うに留まるはずだった。
「……」
 ありすは続けて無視を決め込む。相手をするだけ時間の無駄だ。
 だが、女子生徒達はその場からなかなか離れようとしない。
「なんかムカつくよね」
「金持ち女と暴力女を味方に付けてるんだもの。そりゃ調子に乗るよ」
「でも、一人じゃ何もできないのよね」
 空気がおかしかった。仲が良くないとはいえ、ここまで攻撃的な彼女たちを見る
のは初めてだ。ありすは深く溜息を吐く。自分に何か他の落ち度があったのだろう
かと考えた。
「あたし、前からムカついてたんだ」
「だよね、わたしも気に入らないね」
「そうだよ。ちょっとかわいいからって調子に乗ってるんだよ」
 攻撃の意図がわからなかった。あまりにも言葉が直接的で、あまりにも粘着的で
ある。虐めるのであればもっと間接的に、もっと陰湿的に徹底するだろう。
「それはあたしの事?」
 状況を把握できないありすは、なるべく穏やかに笑顔を浮かべる。もちろん作り
笑いだが。
「あんたバカにしてんの」
 三人のうちリーダー格である館脇純菜が一歩前に出た。他の二人と違って、明ら
かに興奮している。主犯格は彼女なのだろうか。ありすは冷静に分析する。
「授業を妨害してしまった事を怒ってるのなら謝るよ。でも、あれは質の悪いジョ
ークに嵌められただけなんだから、勘弁して欲しいんだけど」
 言い終わると同時にありすは胸ぐらを掴まれた。他の二人が、純菜の行動に驚い
て一瞬固まる。
 だが、すぐに同調したのか、ありすを囲むように他の二人が両脇へと詰め寄って
きた。
「あんた生意気なのよ」
 純菜の鋭い視線がありすに突き刺さる。それは相手を恨んでいるに等しい感情な
のだろう。
 ありすは必死に心当たりを探った。これは虐めというより、憎しみや嫉妬に近い
感情だ。
 たしかに彼女の友人である成美と美沙は、クラスの中でも少し特殊な存在だ。成
美は資産家の令嬢であり、その親しみやすい性格と美貌から学内でも一二を争うほ
どの人気ぶりだ。男子はその家柄に尻込みするが、女生徒達からは逆に慕われる。
美沙はそのサバサバした性格と中性的で整った容姿から男女問わずに憧れる生徒も
多い。腕っ節は強いので、真っ向から喧嘩を売ろうという女子は皆無だ。
 一方、ありすはなんの取り柄もない普通の女の子である。成美や美沙とは不釣り
合いな関係に見えるのだろう。妬まれたとしてもしょうがないのかもしれない。
 だけど、本当にそれが理由だろうか。今ひとつ決め手には欠けていた。
 もし、三人を相手に戦うとするとしても、成美や美沙に頼ることはしたくない。
難癖を付けられたのはありす自身だ。甘えるわけにはいかない。
 そして、逃げることもありすのプライドからは許されなかった。





#294/598 ●長編    *** コメント #293 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:36  (358)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[06/10] らいと・ひる
★内容                                         06/09/04 20:31 修正 第3版

■Everyday magic #5

 夕闇に紛れて索敵するのが日課となっていた。ありすが周りに細心の注意を払っ
ていたのは、もちろん敵を探すことも目的だが、知り合いに出会わないようにする
為でもある。まったくの赤の他人ならまだしも、知り合い、特にクラスメイトに見
つかってしまったら何を言われるかわからない。
 そんなありすが、駅前のロータリーで見慣れた人影を見つける。
 彼女と同じくらいの背丈で、一回り、いや二回りくらい太めの女の子だった。そ
の子はありすと同じクラスの浮田珠子(うきたたまこ)という。見た目の通りずん
ぐりむっくりした体型の為に、呼ばれる蔑称は『タマゴちゃん』だ。
 珠子は封筒のようなものを手にして挙動不審に辺りをきょろきょろと見渡してい
る。
 挙動不審な行動といえば、ありす自身も人のことは言えない。一般の人間には見
えない敵を探しているのだから、彼女もまた目を惹きやすいのだ。だからありすは
それを自覚しつつ細心の注意を払っている。
 知り合いを見つけたということで、ありすは急いでネコ耳の付いたカチューシャ
を外す。もちろん、いつでも装着できるように手に持ったままでいた。
 珠子を見つけてから数分もしないうちにまたもや知り合いを見つけてしまう。こ
ちらもクラスメイトの氷月冬葉(ひょうづきとうは)だ。ありすは彼女が苦手だっ
た。
 そんな彼女が珠子に近づいていく。そして、声をかけると珠子はペコペコと頭を
下げながら持っていた封筒を冬葉に渡す。それは奇妙な光景でもあった。
 たしかに同じクラスの者が、学校外で待ち合わせをするというのは普通に考えれ
ば不自然ではないだろう。
 だが、ありすには『有り得ない』と思えた。あの冬葉が一人で珠子と会おうとす
るなんて、そんな事は学校での彼女を知っている者としては考えられない行動だっ
たのだ。
 それは単純に冬葉と珠子の間の力関係だけではない。珠子と一対一で会って何か
メリットが得られると冬葉が思うはずがなかったのだ。
 とても嫌な感じがする。それは二人の性格を思い出せば思い出すほど、その感覚
はじわじわと広がっていく。
 違和感と不快感を抱きながら、ありすはその場を後にした。
 今日はもう敵を見つけられるような気分ではなかった。途中、何度もホワイトラ
ビットに声をかけられ心配されながらも、とぼとぼと家路を歩く。
 自宅のあるマンションに辿り着くと、郵便受けを確認しエントランス前のオート
ロックを解除して中に入る。働いている母親は帰りが遅いので、鍵を常に持ってい
るありすが郵便受けの中身をいつも取り出しているのだ。
 ダイレクトメールが何通か、それと母親宛の葉書が二枚、あとはありす宛の封書
が一枚届いていた。
 彼女は差出人を確認するために裏返すと、そこにはアルファベットでこう書かれ
てあった。
『HARUMIZU UKITA(Tweedledum)』
 ローマ字部分の名前に心当たりはなく、かといって括弧の中の外人名のような知
り合いはいない。もう一度表書きを確認する。宛名は『叉鏡ありす様』となってい
た。
 ありすは不思議に思いながらエレベータに乗った。五階に到着してエレベータホ
ールから数メートル歩くと彼女の自宅だ。中に入るとダイニングキッチンのテーブ
ルの上にありす宛の封書以外を載せ、自分の部屋へと向かった。
「なんだと思う?」
 ありすはホワイトラビットに聞いてみるが、彼の返事は素っ気ない。「興味はな
いな」の一言だった。
 レターナイフをどこにしまったのか忘れてしまったので、ありすは仕方なく指で
封書の頭をびりびりと破く。そのまま逆さにして、机の上へと中身をぶちまけた。
 どさりと写真の束が散らばる。
 その瞬間、ありすの身体が固まったかのように停止した。ぞくりと背筋が凍える
のは、あの時と同じだ。
 写真に写っているのはすべてありすだった。
 後ろ姿、物憂げな横顔、アップで撮られた正面の顔。そして、ネコ耳のカチュー
シャを装着した姿。
 あの時、公園でカメラを構えていた男はたしか『ダム』と名乗っていた。
 どうしてありすの住所を知っているのだろう。
 今の世の中、どこから情報が漏れてもおかしくはない。
 だが、明らかにありすをターゲットに絞っている。情報が漏れてありすを狙った
のではない。彼女が目的でその情報を調べたのだ。
 ホワイトラビットが言っていた『取り憑かれた人間は自覚のないまま他人を攻撃
する』という説明は、そのまま人間の悪意となんら変わらないような気がしてきた。
 あの男は、邪なるモノに取り憑かれたからこのような行動を起こしたのだろうか。
それとも、もともとそのような性質だったのだろうか。
 どちらにしても注意しなくてはいけないことは確かである。
 ありすはストーカーという可能性も考えて、不審者がいないかどうか窓から表を
覗く。幸い外にはそれらしき人物は見あたらなかった。


「ありす! 右だ!」
 ホワイトラビットが叫び、ありすがすぐさま反応する。裏路地の狭い空間ではあ
ったが、ありすの小柄な体型とホワイトラビットの的確な指示のおかげで確実に敵
を捕捉する事ができた。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 大気が弾け飛ぶように巨大な閃光が空中を走る。
 それは敵を貫く魔法の槍。貫かれた者はこの世界から消えてゆく。
 そして空間は沈黙した。
「よくやったぞありす。上手くコツを掴んできておるようだな」
 あれから何度か戦闘を経験した彼女は、今日は一度に六体もの邪なるモノを相手
にすることになった。
 的確に敵を捉え殲滅する姿は、少し前のありすからは想像もできないほどに成長
している。もうネコ耳ですら恥ずかしがることはなかった。
「なんかもう慣れたって感じ。ふふふ、今日は狩って狩って狩りまくりましょう」
 「けけけっ」と、今にでも笑い出しそうなくらい気分が高揚したありすは、調子
に乗って駅前の商店街を疾走する。その姿はまるで薬物中毒の患者か。いや、この
場合はランナーズハイということにしておこう。


 あれから三十分近くが経過する。さすがにそれだけの時間敵に出会わないとあり
すの頭も冷えてくる。おかげで誤魔化されていた身体の疲れもどっと出てきた。
 喉が渇いたありすは自動販売機でジュースを買おうと小銭を財布から取り出す。
が、無意識に右手に持っていたホワイトラビットを落としてしまう。
「うぎゃぎゃぎゃ」
 妙な悲鳴を上げながら転がってしまった。そんなホワイトラビットを追いかけよ
うとしたありすは、前を見ていなかったのが災いして歩行者の足に衝突してしまう。
「わわわわっ」
 派手に転げ回らなかったものの、バランスを崩してそのまま額を地面にぶつけて
しまった。はずみでホワイトラビットを掴む事ができたのは怪我の功名ともいえる
だろうか。
「君、大丈夫?」
 ありすが顔を上げると、そこにはどこかで見たような男が立っていた。小太りで、
そんなに気温も高くないのに額に汗が吹き出していて……。
「へ?」
「大丈夫?」
 涙目になりながらありすは、この間公園で声をかけられた『ダム』という男の事
を思い出していた。なんでこんなに似ている人間がいるのだろうと、混乱した頭で
考えていて、ふと我に返る。
「……って、本人じゃん!」
 ありすは起きあがると、そのまま駆け出した。ようは逃げ出したのである。


 走り回ってさらに疲れたこともあり、小腹の減ったありすはバーガーショップへ
と入る。
 手持ちのお金も少なかったので、「ご一緒にポテトはいかがですか」の攻撃を躱
して、シンプルなハンバーガーを一つだけ注文する。今どきバリューセットも利用
しない客など希少価値であろう。しかも、それをお持ち帰りではなく、店内で食べ
るという強行に出た。
 トレイを持って席を探していたありすは、そこに知った顔を見つける。禁煙席で
ある三階の窓側の奥の角。そこだけが空間を切り取られたような、異質な空気を放
っていた。異質といっても悪い意味ではない。ファーストフードという庶民的な雰
囲気とは明らかに違ったエレガントさだ。
「羽瑠奈ちゃん」
「あら、ありすちゃん」
 ありすの声に気付いた羽瑠奈が顔を上げる。
 彼女は姫袖の黒いドレスを身に纏っている。今日はそれに加え、お洒落な黒いフ
ァーハットを被っていた。この前の典型的なゴシック・ロリータ・ファッションと
は違って、少し上品でおとなしめである。まるで中世ヨーロッパ貴族の娘がタイム
スリップでもしてきたかのようだった。
「羽瑠奈ちゃんっていつも綺麗だよね。服もすごく似合ってるし、それって特注の
洋服なの?」
 あまりにも貴族然とした格好にありすは思わずたじろいでしまう。だが、それを
変だとは思わなかった。むしろ、彼女自身もそのような格好に憧れてしまうのだ。
「ううん。普通に売ってる服だよ」
「あたしもそういう服に憧れるんだけど、でも似合わないかな」
「そんなことないよ。でもどっちかというとありすちゃんに似合うのは甘ロリよね」
「うんうん。あたし白とか明るい色の服の方が好きだよ。フリルとかリボンとかも
大好きだし」
「そういえば、これでありすちゃんがエプロンドレスでも着ててくれれば雰囲気出
たのにね」
「なんでエプロンドレス?」
 エプロンドレスとはメイドさんが着ているようなものだというのが一般的な認識
だ。飲食店によっては、制服として採用しているところもある。もともとヨーロッ
パ各地に伝わる民族衣装で、家事等の仕事をする時のオーバースカートとして、ヴ
ィクトリア朝の初期に普及したものだ。本来の名前は『ピナフォア』と言うらしい。
「ほら不思議の国のアリスであるでしょ。ティーパーティーって」
 そういえばウサギを追いかけていたアリスはエプロンドレスを着ていて、穴に入
った先の不思議な世界で奇妙な人物達と出会うのだ。ティーパーティーは物語の中
の一つのエピソードだった。
「あ、うん。思い出したよ。でもさ、二人しかいないからティーパーティーには人
数が足らないんじゃない?」
 物語の中のティーパーティーでは、アリスを含めて四人いたはずだ。
「そんなことないよ。まずありすちゃんはまんまアリスでしょ。私は『Hatter』キ
印の帽子屋でしょ。それからほら」
 そう言って、携帯電話に付いたストラップのマスコットを見せる。そこにはネズ
ミを丸くしたような、かわいい小動物のフィギアが付いている。
「あ、ヤマネだ。かわいい」
 ヤマネとは『Dormouse』のこと、時に眠りネズミとも訳される。そのモデルは袋
ネズミであったりオポッサムであったりヨーロッパヤマネであったりと様々な説が
ある。本来の山鼠(ヤマネ)は日本にしか生息していない。
「でもって、ありすちゃんが手に持っているのは『サンガツ』」
「へ?」
 ありすは右手に掴んでいたホワイトラビットを見る。眠そうな声で「興味がない」
と呟いた。
「三月ウサギでしょ」
 羽瑠奈にそう断定されて「ホワイトラビットだけどね」と言おうとしたが、たし
かにウサギには変わりはない。細かいことを言ったら、羽瑠奈だって帽子を被って
いるだけだし、ありす自身もローマ字にしてしまうと『ALICE』ではなく『ARISU』
なのである。なんだか格好悪い。『ティーパーティー』に見立てた『ごっこ遊び』
なのだ。重箱の隅は杓子で払えということだろう。彼女はパーティーを素直に楽し
むことにした。
「ほんとだ。ティーパーティーだね」
 そう言ってありすはホワイトラビットをテーブルの上に座らせる。そして「とり
あえず三月ウサギの代役を務めてね」と笑いかけた。
「ティーパーティーといったら、不条理な謎かけよね。ありすちゃんはチェシャ猫
って覚えてる」
 羽瑠奈は首を傾げながら謎めいた笑みを浮かべる。
「うん。ニヤニヤいつも笑っていて、消える時もしっぽから消えて最後にニヤニヤ
した笑いだけが残るってやつでしょ」
 三日月を寝かしたような大きな口をありすは思い出す。彼女が持つイメージはア
ニメ版であろう。
「そう。じゃあ、シュレディンガーの猫は?」
「え? それもアリスに出てきたっけ?」
 どこかで聞いた覚えがある。それがアリスの物語に出てきたかどうかはわからな
かった。
「ううん。シュレディンガーってのは物理学者なんだけどね」
「あ、思い出した。あれってたしか量子力学の思考実験だったよね」
「そう。よく知っているわね」
「で、そのシュレディンガーの猫がどうしたの?」
「今はティーパーティーだからね。不条理な謎かけをやろうと思って」
「不条理?」
「さっき言ってた。チェシャ猫、そしてシュレディンガーの猫。二つに共通するこ
とは何でしょう? 両方とも『猫』だっていう基本的なものは外してね」
「えー、そうだなぁ。どちらも『架空』の猫って事かな。チェシャ猫はアリスのお
話の中のもので、シュレディンガーの猫は思考実験で創り上げたもの。共通するの
は人間が想像の中で拵えたって事」
 どちらも幻。それはわかりきったことだ。
「そう。その調子。あとは何かあるかしら?」
「うーん……シュレディンガーの方は、漠然と猫だから共通といっても『架空の猫』
という以外、これといって特長がないんだよね」
「じゃあ、チェシャ猫の方を考えてみては?」
「え? そうだなぁ、相手の質問に質問で答える……って、喋れるのはチェシャ猫
だけじゃん」
「ヒント、チェシャ猫の一番の特長は?」
「えと……えと、なんだっけ?」
 ありすは焦ってくると思考が空回りする。簡単なものさえ思い出せなくなる。問
いかけにクイズ番組のような時間制限なんてないというのに、何か喋らなくてはと
いう思いが頭の中を真っ白にした。先ほど自分で口にした説明さえ忘れている。
「有名なシーンがあるでしょ。笑い顔を残して消えていくって」
「うん、そうだったね。でも、それが? ……あ、そうか存在の重ね合わせね」
「そう、シュレディンガーの猫はかわいそうにも箱の中で生死不明の状態。いつ放
射性物質が検出されて、装置に連動した毒瓶が割られるかも分からない。いえ、既
に割れていて猫はお亡くなりになっている可能性もある。だけど、箱の外側の人間
にそれを知るすべはない。だから科学者達は定義した。箱の中の猫は生と死が重な
り合っていると。コペンハーゲン解釈ではね」
「チェシャ猫は消えているのに笑顔は残っている。でも、笑顔は存在していなけれ
ば成り立たないから矛盾している。シュレディンガーの猫だって常識で考えれば、
生きているのなら死は成り立たない。でも、二つは相反するものが重ね合わせの原
理で存在しているってことだね」
 笑っているのに消えている。
 消えているのに笑っている。
 矛盾した二つの命題。
「そういうこと。納得した?」
「うん」
 ありすが真面目にそう答えると、羽瑠奈が急にニヤリと笑い出す。
「え?」
「ごめんごめん。あまりにも簡単に引っかかったから……うん、まあ、ありすちゃ
んぐらいの人じゃないと引っかからないというのがそもそも問題なんだけどね」
「え? どういうこと?」
「チェシャ猫とシュレディンガーの猫との共通点ってのは、どちらも『架空』であ
ること。あとはどちらも『猫』というだけ。それ以外に共通点なんてないわ」
「だって、二重の存在が……」
「いい? チェシャ猫の消えても残るニヤニヤした笑いってのは、ある種の残像現
象とも考えられるのよ。強い光を受けた時、目を瞑ったり視線を移してもその光は
残るでしょ。それと同じ。一方、シュレディンガーの猫は、ボーア的にはまぎれも
なく二重の存在よ」
 要するにありすは、もっともらしい話に惑わされて、理解してもいないのに納得
してしまったわけだ。
「……もう、いじわるだなぁ。だとしたら、夏目漱石の『我が輩は猫である』の猫
の方が、シュレディンガーの猫との共通点は多いよ。どちらも『架空』だし」
「名前はまだない」
「うにゅ」
 羽瑠奈に落ちを言われてしまう。
「でも、シュレディンガーの猫の話って興味深いでしょ。不条理さにおいてはティ
ーパーティーに相応しい話題だと思うけどな」
「けどさ、羽瑠奈ちゃんの話だと二つの猫はさも関連が強いみたいな言い方だった
から」
「私たちのしてるのはね。ただの言葉遊びなの。一見まったく関係の無いものでも、
表面上は関連している部分はあるし、無くても無理矢理関連させることもできるの。
それを見つけて遊んでいるだけ」
 羽瑠奈の口元が微妙に吊り上がる。ありすには『無理矢理関連させる』という言
葉が引っかかった。
「むう。なんか詐欺師みたい」
「言葉なんてそんなもんだよ。そうだ、これはシュレディンガーの猫の話の続きな
んだけどね。さっきは『二重の存在』って事を言ってたでしょ。でも、いくら科学
だって、そんなへんてこな事実を放置するわけがないの。あの話の続きは知ってる?」
「続き?」
「そう。猫の生死は蓋を開けることによって確定される。つまり、観測者が状態を
決定するの。この観測者って概念を覚えておくと、もう一つ面白いものとの共通点
が見つかるの」
「また謎かけ?」
「例えばある連載小説の主人公Aが物語の山場、この場合は最終回の一つ手前の話
で生死の危険に晒されるの。連載だから今回読めるのはそこまで。後の展開は作者
の頭の中にしかありません。さて、この状態は何かに似ていませんか?」
「もしかしてシュレディンガーの猫ってこと? たしかに、小説の世界は箱で主人
公は猫と置き換えて、その作者が最終回で主人公を殺す傾向が五割くらいだったら、
続きが書かれていない今の段階では、主人公Aは半分死んで半分生きている。つま
り二重の存在だよね」
「そうそう。では、この場合の観測者とは?」
「え? もしかして読者ってこと? 読者が主人公Aの状態を確定するの? でも
おかしいよ。読者がそれを読む前に、作者がそれを確定して書くんじゃないの?」
「発表される前の作品は蓋を閉じた箱の中の猫と同じだよ」
「じゃあさ、例えば素人の作家さんがいるとするじゃない。その人はプロじゃない
から、誰も読む人がいないの。この場合、観測者不在だけど、どうなるわけ?」
「その場合はずっと不確定なまま。主人公は二重の存在となる」
「でもさ、作者は機械じゃなくて人間だよ。観測者になり得ないのかな」
「日の目を見ない作品は、いくらでも改竄……いえ、書き直しできるからね。主人
公Aを殺さない作品に仕上げても、いつ作者の気が変わって殺してしまうかわから
ない。読者がいないということは箱の蓋を誰も開けていない事と同じなの」
「へぇー」
 なるほどとありすは感心する。一見科学とは無関係のような文学の世界も、面白
い部分で繋がっているのだ。……無関係? 自分で出した結論に彼女は引っかかる。
「うふふふ。ありすちゃんて、ほんと素直に納得するんだよね」
 羽瑠奈の片方だけ吊り上がった笑みを再び目にして、ようやくありすは気が付い
た。
「え? え? もしかして今のも言葉遊び?」
「うん、まあね。これだけ素直に納得してくれるとカタリがいがあるわ」
 羽瑠奈の言葉の「カタリがい」は「語る」ではなく、「騙る」の方に聞こえてし
まう。
「あうー、羽瑠奈ちゃんって結構いじわるなんだね」
「あら、いじわるだなんて、私は考えることが好きなだけ。家に帰ってもずっと部
屋で考え事をしているよ」
「え? テレビとか見ないの?」
「うちにはそういう俗なものは置いてないから。ビデオもDVDも見ないしね」
「なんか凄いね。あたしなんかそういう誘惑から逃れられなくて」
「ありすちゃんも量子力学をかじったことがあるのなら、入門書や専門書を読んで
みたり自分で考えてみたりすると面白いわよ。今までの常識を根底から覆すことに
なるから」
「そうなの?」
「真面目な話、シュレディンガーの思考実験にしてもさ。もともとパラドックスだ
からね。彼はこの実験を通して、量子力学の矛盾を説明したかっただけなんだよね。
ところが科学者達の反応からおかしな事になっていったの。生と死が二重に存在し
ているなんて普通に考えたらありえないでしょ。たとえそれが計算式の上だけでも
さ。でも、解釈としてはそれで正しいことになってしまう。だから、私たちみたい
に言葉の上だけで共通点を探し出そうってのは愚かしい話。本来、学問と空想はま
ったく別の物。だからね、そんな論理を日常の感覚に当て嵌めちゃいけないの」
「もし、当て嵌めてしまったら?」
「世界が崩壊するわ」


 小一時間ほど店内で談笑した後、「暇だったら付き合って」という羽瑠奈の言葉
に従い彼女が通う教会へと行くこととなった。教会という神秘的な場所を見てみた
いというありすの好奇心もある。
 彼女がよく行く都内最大規模の公園に隣接するような形で、小さな教会があった
事は前から知っていた。だが、眺めるのはいつも外からで中に入るのは今日が初め
てであった。
「へぇー、これが教会の中なんだ」
 正面にはステンドガラスがあり、そこから光が差し込んで室内を明るくしている。
祭壇の奥には磔にされたキリストの像があり、左手にはマリア像、そして右手には
聖人であるヨハネの像、手前には礼拝の為の椅子が並んでいた。
「誰もいないの? 勝手に入って怒られない?」
 がらんとした室内を見渡し、ありすは羽瑠奈に問いかける。
「左手前に懺悔室があるでしょ。いつもならあそこに神父さんがいるわ。それによ
っぽどの事がない限り白昼堂々と教会に盗みになんか入らないからね。神父さんの
計らいで誰もが気軽に入れるような造りになっているのよ」
「ふーん、そうなんだ」
「ちょっと待ってて、お祈りしてくるから。そこに座って待ってるといいわ」
 羽瑠奈が祭壇の前まで進み、両手を胸の前で組んで祈りを捧げる。その姿はまる
で絵画のようでもあった。ステンドグラスやキリスト像や祭壇と一体化し、生ける
芸術品であるかの錯覚を感じる。ありすは魅入られるようにじっと息を呑んだ。
 数分だったろうか、それとも数十分経ったのだろうか。時間の感覚を無くしかけ
たその空間は、羽瑠奈がこちらへ戻ってきた事でゆっくりと時を取り戻し始める。
「お待たせ。行こう」
 外へ出ると、少し曇りがちな空模様だった。
 隣を歩く羽瑠奈の横顔を見て、教会の中での神秘的な空間がありすの頭に蘇る。
「羽瑠奈ちゃんて、クリスチャンなの?」
 それは聞くまでもないだろうと思っていた。会話の取っ掛かりを得る為にありす
はあえて質問をした。
 だが、即座にそれは否定される。
「違うよ」
「え? だってお祈りして……」
 予想外の答えにありすは戸惑う。だったら彼女は何をしていたのだろう。
「あそこに行くと、神様の声が聞こえるの。私は別にイエスキリストを崇拝してい
るわけではない。あの空間が神様の声を聞くのにちょうど良い条件を満たしている
のかもしれないだけ」
「神様の声?」
「そう。自分はどう生きるべきか、それを教えてくれる。私が黒い服を好んで着る
のも、その声に従ったから」
 すごい。ありすは素直にそう思った。考えてみれば、ホワイトラビットの姿と声
が分かるのだから、彼女にも人を超えた能力を持っているのは当然だった。しかも、
神の声まで聞けるという。
 特定の宗教に縛られることなく、彼女は神の声に従う。
 果たして彼女の瞳にはこの世界はどのように映るのだろう。





#295/598 ●長編    *** コメント #294 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:37  (356)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[07/10] らいと・ひる
★内容                                         06/09/04 20:32 修正 第2版

■Everyday #5

 三人に囲まれたありすには本当に心当たりがなかった。
 もしかしたら、自覚のない悪意をこの三人に与えてしまったのかもしれない。
 でも、それならばきちんと抗議としてくれてもよいものだ。ありすが一方的に虐
めている相手ではなく、どちらかといえば今の段階での力関係は彼女たちが上であ
る。三対一ではどちらが有利かは考えなくてもわかるだろう。抗議をする側になん
の障害もあるはずもない。ありすは微かな苛立ちを感じていた。
「ありす!」
 トイレの入口のドアが勢いよく開けられて美沙が入ってくる。さらに、続いて入
ってきた成美が開いたドアをゆっくりと優雅に閉めている。二人の性格がよく表れ
ていて微笑ましく思えてきた。
「なにやらありすさんが言いがかりを付けられていると聞きましたので参上致しま
したわ」
 美沙と成美の登場に、純菜たちは驚いて硬直してしまう。
 あまりにも簡単に形勢逆転してしまったので、ありすは拍子抜けしてしまった。
二人が入ってきたおかげで、目の前の三人組は怯えたように美沙や成美を見ている。
どちらかといえば、勢いよく入ってきた美沙の方が手を出しそうな雰囲気である。
「お願い美沙ちゃん、大したことはされてないから、落ち着いてくれない?」
 今にも相手を殴り倒しそうな美沙をありすは宥めようとする。一番被害を受けて
いる人間が一番冷静だというのも変な話であった。
「袋叩きにあってるってヨーコに聞いたんだけど」
 いや、それは誇張し過ぎですからと、ありすは苦笑いする。
「教室での大騒ぎが原因でしたら、わたくしも謝罪致しますわ。元はといえば、わ
たくしの好奇心から起こした行動が元凶なのです。本当に申し訳ありませんでした」
 成美が純菜たち三人の前へと歩み出ると、穏やかな口調で頭を下げる。
 「やっぱり好奇心なのかよ」との突っ込みをありすは飲み込む。成美の性格はわ
かっていたはずなのだからと。
「いや、それなんだけど、たぶん三池が原因だろ。教室での騒動はきっかけに過ぎ
ないと思うよ」
 美沙は何か事情を知っていそうな口ぶりだった。
「三池君?」
 三池君といえばクラスメイトの男子で、サッカー部のエースストライカーだ。運
動神経の良さと甘いマスクは一部の女子生徒からは憧れの的であるらしい。そんな
事をありすは思い出す。
「ネコ耳騒動をきっかけに『憧れの三池君がありすに興味を持ち始めちゃってるぅ』
ってんで、彼女たちはそれが気にくわないんじゃない」
 美沙は純菜の真似をするがあまり似てはいない。だが、これで状況が把握できそ
うな気がした。
 そういえば、ネコ耳騒動では彼が大声で「かわいい」などと叫んでいたかもしれ
ない。目の前の純菜たち三人は彼に好意を持っていたのだろう。そしてありすがそ
の彼の注目を集めてしまったことが、彼女たちの嫉妬心に火を付けてしまったのだ。
 蓋を開けてみればくだらないことだ。
「別にあたしは、三池君の事はなんとも思ってないから」
 言い訳のように純菜たちにそう告げる。たしかに「格好いい」と思ったことはあ
るが、それ以上の感情はまだ持っていない。
 それでも目の前の彼女たちは納得がいかないようで、ありすを睨んだまま固まっ
ている。
「あのさ、わかってると思うけど、今のこの状態、つまりあんたらがありすを虐め
ていた事実が三池に伝わったらどうなるか考えられる?」
 美沙が脅しともとれる言葉を吐き出す。
「わたしたちは別に虐めてなんて……」
 虐めという言葉にすぐさま反論をしようとするが、それも続いて出た美沙の言葉
にかき消されてしまう。
「虐めかどうかは周りが判断するんだよ。虐めている側には、自分の行為が虐めじ
ゃないなんて言う権利はないよ」
「……」
 純菜も他の二人も何も言い返せなかったようだ。顔を俯いてありすたちから視線
を逸らしてしまう。
 考えてみれば人を想う心は誰にでもある。それが行き過ぎる事も多々あるのだ。
だから、ありすは寛大な気持ちで彼女たち三人を許してあげようという気になった。
ありす自身にはなんら被害はないのだから。
 ただし、その行き過ぎた行為がどんな結果を招くかを彼女たちに気付かせてあげ
なければならない。だから、ありすは純粋な気持ちでその事を伝える。
「あのさ、あたしは誤解さえ解ければそれでいいの。平和主義者だからね。ここで
起きたことは誰にも言う気ないしさ、あの騒動で注目されたからといって三池君に
アタックしようなんて思わない。でもさ、あなたたちがそんなんだと三池君だって
迷惑なんじゃない?」
「迷惑?」
 ようやく純菜が口を開く。
「彼が誰を好きになるかは彼の自由だもの。今回はあたしが注目されたけど、次は
違う人かもしれない。でも、彼が好意を持つかもしれないってだけで、あなたたち
はその人を攻撃するの?」
「……」
「ありす、そいつらに説教なんかしても時間の無駄だよ。わかりやすく行こうよ」
「そうですわね。これ以上、ありすさんに絡まないと約束するのであれば、今回の
事は三池さんには言わないでおきましょう。それができないということであれば、
三池さんだけではなく学校全体を敵に回すということになりますが、いかがでしょ
うか?」
 成美は言い回しを穏やかにオブラートに包めてはいるが、その中身は毒薬である
ことは明白だ。それを見せることで交渉材料としているのは、ある意味恐ろしくも
ある。
「わかったわ。謝ればいいのね。ごめんなさい種倉さん」
 完全に納得はいかないのだろう。謝罪の言葉に感情は込められていない。
 純菜たちは頭を下げると、そのまま扉を開けて出て行ってしまう。後に残るのは
空しさだけだった。
「ありす。納得がいかない顔だね」
「だって、理解されないってのは悲しい話だよ」
「でもさ、嫉妬とか恨みとか、そういう感情的な話は理屈じゃどうにもならないん
だよ。おまけに今回の件は色恋沙汰が絡んでいるからね」
 美沙の言っていることは理解できる。人は簡単に他人を憎むことができるし、そ
れに対して理屈で対抗することがどれだけ愚かな事かもわかっていた。
 純菜たちがいなくなったことで、今まで張っていた気がプツンと切れてしまう。
倒れそうになるのを壁に寄りかかることでなんとか堪えた。
 そんな時、ふいに成美の声が聞こえてきた。それはいつもの穏やかで、でも芯の
強い響きを持つ彼女のものとは違っていた。まるで迷子にでもなってしまった幼子
のように弱々しい言葉だった。
「ありすさん。本当に申し訳ありませんでした」
 成美が、瞳を潤ませながら頭を下げている。いつもと雰囲気の違う彼女にありす
は混乱した。
「いいって、あれくらいのこと。ほんと、大したことされてないし。ね、どうした
の?」
「ありすさん。ありがとうございます」
 そう言って成美は、ありすに抱きついて泣き出してしまう。そんな彼女の姿を見
るのは初めてだった。ますます訳がわからなくなる。
「え? ねぇ、どうしたの成美ちゃん」
「成美さ、ヨーコからありすが大変だって話を聞かされた時、すごく動揺してたん
だよ。自分の所為でありすが嫌な思いをしてるってね」
 美沙の説明で思い出す。成美は友達をとても大切にする子だ。小学校の時も似た
ような事があったかもしれない。
「大げさだよ、成美ちゃん。あたしはね、あれぐらいじゃへこたれませんから」
 ありすは成美の頭を優しく撫でる。その艶やかで綺麗な黒髪は、彼女の憧れでも
あるのだ。だから泣かないで欲しい。成美には気高くあって欲しかった。
「そういえばさ、『ありすがトイレに閉じこめられて袋叩きにあっているかも』っ
てヨーコが言った時さ、小島がぼそりと呟いたんだよね『まるでシュレディンガー
の猫みたいだ』って。あれってどういう意味かな?」
 小島君はクラスでも異質な存在で、その言動は真面目なのか不真面目なのかよく
わからない人物だ。時々ぼそりと呟く言葉は、時に的を射た意見でもあり、人を惑
わす答えでもあった。
「うーん、あんまり関連がないというか、閉じた空間で何が起きてるかわからない
って事の喩えじゃないのかな。深い意味はないと思うよ」
 ありすがシュレディンガーの猫を知っているのも創作を行ってるが故の雑学だ。
普通なら、大学の専門課程でないと習わない言葉ではある。量子力学など一般の中
学生が知るよしもない。そういう意味では、クラスの小島君も侮れない存在だ。
「シュレディンガーの猫といえば、あの状況を人間に置き換えると密室犯罪ですわ
ね。トリックはわかりきっているので推理小説には向きませんが」
 成美がぼそりとそう言った。それは意味を知っていないと置き換えられない解釈
である。彼女もまた侮れない人間の一人なのであろう。
「そもそもシュレディンガーって何?」
 ただし、美沙の問いかけはごく普通の人間の反応だった。


■Everyday magic #6

 茜に染まった空を見上げながら、ありすは公園のベンチに腰掛けていた。左手に
は頭から外したネコ耳のカチューシャを膝に置いて握りしめ、右手のホワイトラビ
ットは胸に押しつけるように抱えている。
 公園で遊んでいた子供はもう帰ったのか、辺りは静けさを取り戻しつつあった。
「疲れたか?」
 今日倒した敵は五体だ。どれも動きが素早く、それなりの苦労はしている。
「少しね」
 魔法を使って敵を倒す事自体は慣れてきた。楽しくはないが、嫌な事を忘れられ
るという意味では爽快感はある。世界の敵を倒しているという正義感と達成感はな
んともいえずありすに充実感を与えていた。
 ふいに金属でできた箱のようなものが転がる音がする。誰かが一斗缶でも蹴飛ば
したのだろうか。そう思って音のする方を向くと、公衆トイレの前で一人の初老の
男が倒れているのが見える。その横には大きめのダストパンと箒が散らばっていた。
「敵?」
 ありすは条件反射でネコ耳付きのカチューシャを装着すると、男の元へと駆け出
す。
 一般人には見られてしまうかもしれないが、緊急事態なのだからとありすは自分
に言い聞かせる。そんな緊張感が漂う中、初老の男に駆け寄ろうとトイレの前まで
行ったところで足の裏に何か違和感を感じる。何かねっとりとした粘土状の物を踏
んでいた。微かに鼻孔を刺激する匂い。それはたぶん犬の糞であろう。
「うぎゃ」
 なんてツイてないのだろうとありすは嘆くが、倒れている男の様子からして尋常
ではない。そんなことを気にしている場合ではなかった。
「大丈夫ですか?」
 声をかけるが、男は障害者用のトイレを指さしながら震えているばかりだ。
 不審に思った彼女は、彼が指すトイレの中を覗こうとして足下に何か蠢くものを
見つける。
「ひぇ!」
 それは一匹の蛇だった。黒と赤のまだら模様のようなものが見えるが、辺りが夕
闇に近いのではっきりと確認できなかった。
 蛇はそのままどこかへと行ってしまったので、今度は恐る恐る中を確認する。
 人型。
 初めは人形だと思った。だが、口や鼻や目などから血を流しているのを見て、彼
女はそれが人間であることに気付く。同時にその顔には見覚えがあった。ありすに
写真を送ってきたカメラの男である。
 たしか『ダム』と名乗っていた事を思い出す。もちろん本名など知るわけがない。
 仰向けで倒れているので、腹部を観察するも呼吸はしているような動きは見られ
なかった。
 ありすの不完全な魔法は、この男を死に至らしめてしまったのだろうか。それと
も、別の事故で死んでしまったのだろうか。そんな事を考えてしまう。
 後ろを向くと、倒れた男が携帯電話で警察に連絡していたようだ。腰を抜かして
起きあがれないのか、倒れたままの状態で通話している。
 このままありすは、殺人の容疑者として警察に連れて行かれるのではないかと心
配になった。だが、彼女は中の様子を窺おうとした時の事を思い出す。
 そういえば、中から何か出てこなかったか? ありすはそう自問する。
 最初に思いついたのは黒と赤のまだら模様、細長い身体、そして足下を蠢くもの。
「毒蛇だ」

 初めは二人の警官だけだった。だが、だんだん人数は増え、今では何十人もの警
察官が公園内を捜索している。
 逃げた毒蛇を探す為に増員をかけたようだ。ありすが目撃した黒と赤のまだら模
様の蛇という証言と、被害者の死因が毒蛇に噛まれたものらしいという事から大騒
ぎとなっている。
 障害者用トイレは初めは鍵がかかっていて、いつから使用中だったのかは今の段
階ではわからないようだ。長い間施錠されていたことを、近くの住民が不審に思っ
て管理会社へ連絡したらしい。駆けつけた職員がノックをしたところ、返答がなか
ったので鍵を使って開けたそうだ。すると、中には男の死体があって腰を抜かして
しまったということだ。
 そこへありすが駆けつけたというわけである。
 状況として整理するならば、障害者用トイレという閉ざされた空間で男が死んで
いた。内側から鍵がかかっていた為に密室ともとれる。死因は蛇の毒によるものか
は、今のところわからないようだ。脇腹に噛まれた痕が数箇所と、目や鼻などの粘
膜からの出血は見られる。
 警察の到着から一時間後、公園内の草むらで山楝蛇(ヤマカガシ)と思われる毒
蛇を捕獲したようだ。
 蛇を凶器とするならば、完全に密室殺人である。
 だが、いくつかの疑問点はある。
 なぜ閉鎖された空間に被害者は蛇と一緒に居たのか。
 なぜ蛇に噛まれた被害者は、外に出て助けを求めなかったのか。※山楝蛇の毒は
即効性ではないため。
 なぜ都心部のこんな街中に毒蛇が出現したのか。

 警察の事情聴取から解放され、「送らせていただく」との警官の申し出を「家が
近くだから大丈夫です」と断り、ありすは疲れ切った表情で家路を歩いていた。家
に帰ってもまだ母親は帰宅していないが、マンションの住人にパトカーで送られた
事を見られて後で噂されても困るのだ。
 歩きながら考えるのは死んだあの男の事だった。警察は蛇の毒らしい言っていた
が、本当にありすの魔法でないと言い切れるのだろうか。
 あの時、なんらかの魔法が発動していた。未熟なありすにはそれがどんな効果が
あったかはわからない。でも、結果的に彼は死んでいる。だいたい、こんな都会の
真ん中の公園に毒蛇が存在すること自体がおかしいのだ。
「ありすちゃん」
 夜道で声をかけられたものだから、ありすは身体がびくりと飛び上がりそうにな
る。
「なんだ、羽瑠奈ちゃんかびっくりした」
 振り返った彼女は、声をかけたのが知り合いであることに安堵する。色の濃い服
を着ていたものだから闇に溶け込み、余計に恐怖を感じてしまったのだ。しかも、
めずらしく今日はゴスロリではない。ジーンズにブーツを履いて、ブラウスの上に
これまたデニム地のジャケットを羽織っている。ラフな格好の彼女を見るのは初め
てだった。
「どうしたの? こんな遅くに」
 羽瑠奈がありすに問いかける。
「うん。ちょっとね」
「ちょっと?」
 話を濁そうかと思った。だが、不安を抱えている身で口を閉じてしまうのは、却
って逆効果なのかもしれない。ありす自身が滅入らないように、なるべく明るく事
件を語ることにした。
「さっきね。人が死んでるとこ発見しちゃったの」
「うわ、ありすちゃん凄い。後でTV局の人とか取材にくるかもよ。それで、その
人殺されてたの?」
「うんとね。それは今のところわかんないみたい。毒蛇に噛まれて亡くなった可能
性が高いって警察の人は言ってた。その人が死んでた場所って、障害者用の広いト
イレで鍵がかかってたの。だから、事故って可能性の方が高いかも」
 ありすは自分がかけた魔法の事には触れないでおいた。今は、事実のみを話す方
が良いと判断したのだ。
「ふーん、そうなの。それは気の毒ね。毒蛇って溶血作用があるらしいからね、噛
まれても腫れとか痛みがないから毒が入った事がすぐわからないみたい。そのうち
頭痛や目眩がして、最初は傷口とか粘膜とか歯茎とか身体の弱い部分から出血が起
きるみたい。人によっては古傷や皮膚の下、症状が悪化すれば内臓や消化管からも
出血するらしいよ。最悪の場合、腎不全を起こして死に至るんだって。それほど重
症感がないから、処置が遅れると大変みたいだよ。私のおばあちゃん家の近くの山
にもよく出たみたい。昔、中学生が噛まれて亡くなったって、遊びに行くたびによ
く脅かされたなぁ。まあ、即効性の毒じゃないから、処置をすれば大丈夫なのにね。
でも、なんでその人は噛まれてからすぐに病院に行かなかったんだろう?」
 羽瑠奈の疑問はそのままありすの疑問でもあった。


 家に帰ってもありす一人なので心細いだけである。余計な事を考えてしまいそう
なので、羽瑠奈の用事に付き合うことにした。彼女はレンタルビデオを返却すると
いうことだ。
 羽瑠奈との何気ないお喋りはありすの不安な気持ちを薄めてくれた。誰かと一緒
にいる事がとても心地良かった。こんな気持ちは久しぶりである。
 店に着くと「ちょっと待っててすぐ返してくるから」とありすを残し、羽瑠奈は
中へと入っていく。
 ありすは暇を持てあまして辺りを窺うと、一人の女の子が三人の男達に囲まれて
絡まれているのを見つけてしまった。
 その女の子は羽瑠奈が好みそうなレースやリボンの付いた黒いブラウスにミニス
カート姿の、所謂ゴスロリファッションだった。ただ、羽瑠奈と違って似合ってい
るかと聞かれれば言葉を濁してしまいそうな容姿である。
「かわいい服着てんじゃん」
「服だけはかわいいよな」
「それってかわいいのか?」
 三人の男は口説いているというよりは、からかっているのに等しいかもしれない。
誰も本気で言い寄ろうとせず、何か人間以外の異質なものを見るような目で嗤って
いる。
「かわいいって言うならおまえナンパしてみろよ」
「おまえこそ誘ってみろよ。きっとしっぽ振りながら付いてくるぜ」
「誰がこんな奴本気にするかよ」
「だよなぁ。俺だって選ぶ権利はあるぜ」
「こんなひらひらしたもの着てりゃ、男が寄ってくると思ってんのか?」
「無理に決まってんじゃん。所詮、服は服だよ」
 そう言って男の一人が、頭を叩くように女の子のヘッドドレスと掴むと、短く悲
鳴を上げる彼女を無視してそのまま引きちぎった。彼女はそのまま俯いて泣いてし
まう。
「あなたたちは何か勘違いしているわ」
 いつの間にか店の外にいた羽瑠奈が、勇ましく男達の前へと躍り出る。
「なんだと?」
「このヘッドドレスも、ブラウスもスカートも、中に履いてるドロワーズに至るま
で、私たちは誰の為でもない自分の為に着ているのよ。ロリィタはロリィタである
ことに誇りを持っているの。あなたちみたいな、主体性もない馬鹿が触れていい物
じゃないの」
「あん? なんだと、何言ってんだよ、おまえさぁ」
「待てよコーイチ、こっちは結構いい線いってんじゃん。喧嘩なんか売ってもしょ
うがないぜ」
「でもよ、その誇りとやらをボロボロにしてやりてぇな」
 真ん中の男の右手が羽瑠奈の顔に触れようとした瞬間、空を切った何かにその手
が弾かれる。男の手の平からは血がしたたり落ちていた。
 羽瑠奈の右手にはナイフがある。
「こいつやべえよ」
「クスリでもやってんじゃねぇか」
 両脇の二人は完全に怖じ気づいてしまっていたが、手を切られた男は怒りが収ま
らないようだ。
「このヤロウ!」
 そう言ってかかってこようとする男を両脇の二人が止める。
「マジやべえって」
「関わんないほうがいいって」
「なんでだよ。コケにされたんだぞ!」
 手を切られた男は両腕を二人に掴まれ、今にも羽瑠奈へと襲いかかろうとするの
を必死に止められていた。
「ねぇ」
 羽瑠奈の目が真ん中の男に鋭い視線を投げかける。
「んだよぉ」
「あなたは死にたいの?」
 羽瑠奈が放ったその言葉は、氷のように冷たかった。
「ざけんな!」
 男が言葉を放つと同時に、その喉元に羽瑠奈のナイフが寸止めされる。
「私は自分の世界に誇りを持っているの。それを汚すものは誰であろうと許さない。
同じ世界に生きることを許さない」
 威勢のよかった男は恐怖で身体が硬直する。言葉すらもう出てこないようだ。
「おい、冷静になれ、警察に捕まりたいのか?」
 右隣にいた男が羽瑠奈に対しそんな事を言ってくる。
「正当防衛よ。このナイフは量産品だし、私のものじゃないと主張することもでき
る。揉み合っているうちにナイフを手にしてしまったってね。もし私があなたたち
の誰かを殺したとしても、私とあなたたちのどちらを警察は信じてくれるでしょう
ね。たとえ私に殺意があったとしてもね」
 羽瑠奈は嗤う。その嘲笑は、男達にとっては恐怖だったのだろう。彼らは何の信
念も持たず、ただ悪意を持って人をからかっていただけなのだ。殺し合いなど想定
すらしないのだろう。
「とりあえず退こうぜ。こちらの方が分が悪い」
 左端の男はわりと冷静だった。
「そうだな。おい、行くぞ」
 そう言って右隣の男が、ナイフを突きつけられた男を後ろへと引っ張る。そして、
よろよろと倒れそうになる男に肩を貸して、三人はどこかへと去っていった。
 羽瑠奈は溜息を一つ吐くと、ありすの方へと顔を向け微笑みながらナイフをしま
う。
「あの、ありがとうございました」
 からかわれていた女の子が羽瑠奈へとお礼をする。そんな彼女の乱れた髪を羽瑠
奈は優しく整えてあげていた。
「萎縮しては駄目よ。誇りを持ちなさい。ロリィタであることにね」
 女の子は「はい」と返事をするともう一度頭を下げ、背筋をピンと伸ばして歩い
ていく。
「うわ、羽瑠奈ちゃん凄い! 格好いいよぉ」
 一部始終を見ていたありすには感動の出来事であった。初めて見せた羽瑠奈の本
性は少々怖くもあるが、そんな事はどうでもよくなるほどの誇り高き姿には純粋に
憧れてしまう。
「私は絶対に世界に屈したくないの。ロリィタである事に誇りを持ちたいからね。
そういう意味では、あの服はある意味乙女の戦闘服なのかな」


 帰り道、高層マンションの建ち並ぶ新興住宅地を通った時にありすは歌を聞く。
それは詩と言った方がいいのだろうか。発音の良い英語の声が耳に浸透してきた。
どこかで聞いた声だが思い出せない。
 たぶん、英語であることが声の主の存在をぼやかしてしまっているのだろう。そ
して、それはとても戯けたようで、とても悲しくもあった。

 Humpty Dumpty sat on a wall,
 Humpty Dumpty had a great fall.
 All the king's horses,
 And all the king's men,
 Couldn't put Humpty together again.





#296/598 ●長編    *** コメント #295 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:38  (395)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[08/10] らいと・ひる
★内容

■Everyday #6

 すべては愛しき世界だった。
 少女が育む日常も、少女が愛する人々も。
 優しき世界はここに存在し、残酷な規律がそれを包み込む。
 世界がどのようなものかを理解した上で、少女は全てを受け入れた。
 だから、たとえ目の前に絶望が立ち塞がろうと、それでも少女は世界を想い続け
る。

 そう。世界が終わりを告げるまで。

 消しゴムが床に転がった。
 拾おうとしたありすの右手より先に、大きくてごつごつした大人の右手がそれを
拾う。親切にも拾った消しゴムを彼女に渡してくれた。
「え?」
 迂闊だった。
 創作に集中すると周りが見えなくなるのはありす自身も自覚している。
 今は数学の時間であり、真横に立っているのは担当の福島先生である。
 ありすが机の上に出しているのは教科書とノート、そして創作用のノートだった。
「種倉!」
 そう呼ばれてありすはびくりと身体が震える。
 眠気覚ましにと創作ノートに手を着けたのが間違いだった。教師の接近に気付く
ことなく創作に集中してしまった彼女は後悔の念にかられる。
「あ」
 抵抗する間もなく教師に創作用のノートを取り上げられた。言いようもない喪失
感がありすを襲う。
「何を内職しているんだ?」
 目を細めた福島先生のきつく恐ろしい声が教室内に響き渡る。
「……」
 何も答えられなかった。「小説を書いてました」なんて言えるわけがない。せい
ぜい誤魔化せたとしても読書感想文の課題をやってました程度である。それにした
って、今は数学の時間なのだから言い訳にすらなり得ない。黙秘権を行使して教師
をやり過ごすしか手はないだろう。
「これは没収だ。担任の手津日(てづか)先生に渡しておく。返して欲しければ放
課後に説教を受けに行くのだな」
 そう言って教師は教壇へと戻っていった。その後ろ姿を恨めしげな表情で彼女は
見送る。
 最悪の状態だった。
 今日の星占いはランキング一位。人知れず行動するのが吉だなんて、やっぱり当
てにならないなと、ありすは思い知る。
 なんてツイていない日なのだ、そう悔やみながらありすは頭を抱えた。
「まいったなぁ」


 それ以後の授業はほとんど頭に入らなかった。
 没収されたノートには覚え書きの設定資料と3つの短編小説、そして書きかけの
長編小説が記してある。
 中でも長編小説はありすと同じ年齢の少女を主人公としたもので、思い入れはか
なり強かった。なによりも書きかけということが、彼女の心の喪失感をさらに増大
させていたのだ。
 完成していたのならば、まだ諦めはついたのかもしれない。だが、物語として中
途半端な状態では悔やむに悔やみきれない。しかもこの書きかけというのは、厳密
に言えば連載形式に当たる。一つ一つのブロックにおいて、物語は完成していると
いってよい。
 頭の中に、ある程度は物語が入っているので、新しく書き直すという方法もある。
 ところが、書き直してしまったらそれは元の物語とは微妙に変わってきてしまう。
元の物語の登場人物にとっては、まったく別の世界での出来事なのだ。
 このまま没収されて返却もされないという事であれば二度と同じ世界は訪れない。
 日常に身を委ねるものであれば、なんの意味もない些細な事にありすは心を痛め
ているのだ。
「おかしいかな?」
 休み時間、声をかけてくれた成美と美沙にありすは自分の考えを話す。
「ありすさんの心の痛みは、純粋に物語の喪失から来るものなんでしょうね。わた
くしも途中まで読ませていただいておりますから、その気持ちはわからないでもあ
りません」
「あたしがもうちょっと記憶力が良ければ……ううん、そういう問題じゃないか」
「そうですね。たとえ前の物語を全て覚えていたとしても、今のありすさんは、前
に書いていた時のありすさんとは微妙に変わってきてますからね。新しく書き直し
た物語は、以前の物語とは微妙に違ってくると思いますわ。それがいいか悪いかは
別として」
「でもさ、完全に没収されるって決まったわけじゃないだろ。ありすの反省次第で
はきちんと返してくれると思うよ。手津日先生って、そんなに分からず屋じゃない
し」
 悪いのはありす自身なのだから、今は反省するしかないのだろう。彼女はノート
が戻ってくることを祈りながら残りの授業を真面目に受けたのだった。

 放課後、ありすは覚悟を決めて職員室へと向かう。
 ノートを取り上げられたのは今回が初めてだった。それだけに心の動揺は計りき
れない。
「失礼します」
 職員室のドアを開けると、すぐに目的の教師と目が合う。どうやら待ちかねてい
たようだ。気が滅入りながら担任の手津日先生の前まで歩いていき、開口一番で
「申し訳ありませんでした」と謝る。
「うむ。悪いことをやったのだと理解できているのだな」
 三十代半ばの手津日先生は必要以上に怒らない性格だ。だが、裏を返せば必要が
あれば厳しく叱りつけるという事だ。もし、ノートの中身をちらりとでも見られて
いたのなら、ありすがどれだけ不真面目に授業を受けていたかが露見してしまう。
「はい。今後、このような事がないよう気を付けます」
 余計な事は言わずに彼女は深々と頭を下げる。
「このノートだが」
 手津日先生はノートを手にして、それをまだありすに渡そうとはしない。やはり
中身を見られてしまったのかもしれない。その可能性は高かった。
「……」
 返してくれないのだろうか、そう思うとありすは悲しくなる。
「そう泣きそうな顔をするな。ちゃんと返してやるよ。ただな」
 教師の顔が険しくなる。
「申し訳ありません。申し訳ありません。本当にもうやりませんから」
 ありすは取り乱したかのように何度も頭を下げる。彼女の想いが凝縮されたあの
ノートだけは取り上げられるわけにはいかなかった。あの書きかけの物語を葬り去
られるのだけは何としても避けたかった。
「勘違いするな。返してやると言っただろ。実は、中身を読ませてもらった」
 見られたというより読まれたらしい。しかも手津日先生の担当は国語だ。
「え?」
 鼓動が速まる。たしかに他人に読ませる事を意識して書いたものだ。だが、それ
が担任の教師では否が応でも緊張は高まる。
「表現の重複する箇所や、視点の揺れが目立つ。未熟な部分も多い。だが、よく練
られた物語じゃないか。先生は面白いと思ったぞ」
「……」
 表面的に読み取ったのではない。批評はされたが、一読者としての意見もあった。
「素直で純粋な物語だ。たぶん、今の種倉にしか書けないだろう」
 それは褒められたのであろうか。予想外の反応にありすは言葉が出てこない。
「あ、はい……」
 これこそ、まるで狐に摘まれたような話である。あまりの結末に、彼女はすっか
り拍子抜けしてしまった。
「種倉は物語を書き続けたいか?」
 その質問の意図はよくわからなかったが、とりあえず彼女は正直な気持ちを吐き
出す。
「え? あ、あの、物語を創る事は大好きですから、その……できれば書き続けた
いです」
「だったら授業は真面目に受けることだな」
 手津日先生は手に持ったノートでありすの頭を軽く叩く。
「はい」
 それほど痛くはなかった。
「これは説教じゃないぞ。もし種倉が物語を創り続けたいのなら、できる限りの知
識を吸収した方がいい。今のおまえでは純粋だが狭い世界しか構築できない。だか
らこそ、知識を吸収する事でその世界は広がるのだ。無論知識だけではどうしよう
もないことは確かだ。だが、義務教育を受けているおまえにとって、それは基本的
な知識。基本という骨格がスカスカでは、どんなに膨らんだイメージも一瞬で崩壊
してしまうぞ」
 それは至極まっとうな意見だった。
 自分の創り出す物語を誰かに読んでもらいたいのであれば、基本的な知識の蓄積
及び構築は必要不可欠な事だ。自分の住む世界の仕組みを知らなくてどうして新た
な世界を創る事ができようか。自分にしか理解できない世界など、それは物語など
とは言わない。そんな自分勝手に創られた世界を世間では『妄想』という。

 職員室から教室へと戻る間、彼女は自分の周りの人たちについて改めて考えてい
た。

 種倉ありすを取り巻く心地良い世界。
 鈴木美沙の大らかさと力強さ。
 祁納成美の優雅さと優しさ。
 手津日先生の厳しさと寛容さ。

 彼女たちは深く自分を理解してくれようとしている。ありすの純粋さを守るよう
に彼女たちはいつもそこに居てくれる。
 世界はこんなにも優しい。こんなにも恵まれた世界で、自分は何を紡ぎ出せばい
いのだろう。
 もちろん、優しさだけでないことも知っている。でも、自分が追究すべき、守る
べき欠片はこんなにも身近に存在しているのだ。
 教室の扉を開けると見慣れた二つの笑みがこちらに向く。成美と美沙だ。
「待っててくれたの?」
 当たり前でしょ、と言いたげな二つの視線が言葉を紡ぐ。
「帰ろっか」
「帰りましょう」
 それは温かい世界の全て。かけがえのない世界の一部。
「うん」
 昇降口までのとりとめのない会話。でも、その一つ一つがありすにとっては宝石
のように輝いている。
 靴に履き替えて外に出ると、日が落ちるにはまだ早い時間。
「寄り道してこっか?」
 言い出したのは美沙。
「この間行った、あのカフェに行きましょ。わたくし、あそこの雰囲気とても気に
入っておりますの」
「そうだね。あそこのケーキおいしかったし」
 美沙の寄り道の提案に二人は喜んでそれに乗った。
 こんなにも日常は心地良く流れている。
 神様という概念はよくわからない。でも、ありすはこの世界に感謝したかった。
「そういえばノート返してもらったの?」
 美沙の問いかけに、ありすは照れたように「うん」と答える。
「どうかなさったのですか?」
 彼女の表情を見逃さなかった成美が不思議そうに問いかけた。
「手津日先生にね、中身読まれちゃった。でね、ちょっとだけ褒められたの」
「説教はされなかったの?」
「うん、注意はされたけど、さほど。でも釘を刺されたことは確かかも。あたしは
もう授業中に内職しようなんて考えないようにする」
 真っ直ぐ前を見つめる。そこに迷いがない強い意志を込める。
「読んでいただいたことが相当嬉しかったのですね」
「ふーん、なるほどねぇ。で、ありすって今、どんな小説書いてるの」
 まだ美沙には読ませていなかった事を思い出す。成美にはアドバイスを求めて書
きかけの状態で読んでもらう事もあるのだが、美沙の場合は完成してからの方が多
かった。
「……普通のだよ」
 ありすは一瞬だけ考えて、シンプルにそう答えた。
 それに対して成美が補足を加える。
「途中まで読ませてもらいましたが、普通であり純粋でもありますわね。魔法も出
てこない、戦いがあるわけでもない。そこに奇跡も世界の危機もあるわけでもない。
だけど、誰もが温かい気持ちになれるような、ごく普通のお話。わたくしはその物
語が大好きですわ」


■True magic

 上履きは使えなかった。
 靴の中には犬の糞らしき、汚物が入っている。
 これで何足目だろうか。そんなことをありすはぼんやりと考える。不思議と怒り
は湧いてこない。悲しみだけがじわじわと彼女を襲った。
 事務室でスリッパを借りることにして、二階の教室へと向かう。
 教室前の廊下にあるロッカーは、ありすの場所だけなぜか鍵が開いていた。中を
確認するとお気に入りのポーチがボロボロになっていた。体操着が盗まれていない
だけましなのかもしれない。
 気分が沈んだまま教室に入り、クラスメイトの珠子の姿を探す。まだ来ていない。
もし来なければ今日はありすへと攻撃が集中するだろう。そう考えるとますます気
分が滅入ってきた。
 そこでありすは違和感に気付く。
 いつもなら嫌味ったらしくからかわれるように声をかけられるのだが、教室にあ
りすが入ってきたことに誰も気付いていないようだ。
 それもそのはず、クラスメイトのほとんどが黒板のところに集まっていた。
 何か告知でもされているのだろうか。ありすは鞄を机の上に置くと、人だかりの
方へと歩いていく。
「あ、叉鏡だ」
 一人の男子が彼女に気付き声を上げた。
 それと同時に、そこに集まっていた全ての生徒が一斉にありすの方を向く。あま
りにも統制のとれた行動に彼女はおぞましささえ感じていた。
 くすくすと小声で笑いながら各々が何やら囁きあっている。陰口の類は慣れたと
はいえ、あまり気分の良いものでもなかった。
 クラスメイトの視線に耐えきれず、ありすは席に戻ろうと黒板をちらりと見て呆
然とする。
 黒板には写真が貼り付けてあった。
 公園にある噴水の縁に座っているもの、駅前の商店街を疾走しているもの、自動
販売機の前でジュースを買っているもの、全ての被写体がありすであった。しかも
ご丁寧にネコ耳のカチューシャを付けたものばかりだ。「いったい誰が?」と彼女
は思うが、よく考えてみればその写真には見覚えのあるものがいくつかあった。撮
影したのはたぶん『ダム』とかいう男だろう。あの時、彼は言っていたのだ「今ま
で撮った分送ってあげるね」と。撮影は公園で声をかけてきた時が最初ではなかっ
たのだろう。その前後も撮り続けていたことは写真を見れば明らかだった。
 それと、彼の本名かもしれない封筒に書いてあった『HARUMIZU UKITA』という文
字。よく読めば『うきた』と書いてあったのだ。クラスメイトにこの苗字が一致す
る生徒は一人しかいない。『タマゴちゃん』こと浮田珠子だ。あの男の妹、もしく
は従姉妹が彼女なのだとも考えればどうやって入手したかも簡単に予想が付く。
 冬葉と珠子が会っていたのも、そう考えれば納得ができた。きっと取引でもした
のだろう。自分を守る為に、攻撃対象を自分以外のものにする為に必死だったのか
もしれない。
 この件はもしかしたら冬葉たちが企んだ事ではなく、珠子の方から持ち出してき
た話なのかもしれない。
 ありすが写真を見つけたことにより、黒板の前にいた生徒達は席へ戻っていく。
そろそろ教師がやってくる時間だ。戻ったのは授業の準備をする為か。
 おそらく生徒達の意図は別のものだろう。
 表面上、写真は誰のものかはわからない。わかったとしてもきっと証拠がない。
教室に来た教師は有無を言わさずその責任を被写体であるありすに取らせるだろう。
彼女は何もやっていなくても叱られてしまう。仕掛けた側にすれば、自分の手を汚
さずに簡単に相手に恥をかかすことが可能だ。
 どうしてこんなことになるのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。誰一人
として味方のいないこの教室で、ひたすら悪意を浴び続ける。そこに救いはあるの
だろうか?
 あるわけがない。だからこそ、ありすはいつも思うのだ。
 『消えてしまいたい』と。


 本日最後の授業の終了を合図するチャイムが鳴る。これでひとまず、ありすは学
校という名の箱から抜け出せる。
 珠子はとうとう来なかった。同じように虐めを受けているとはいえ、根は真面目
な子だ。致命的な肉体のダメージを与えられるわけではないのだから、学校を休ん
でしまったらそれは仮病になってしまう。勉強はできる子だから、あまり休んで内
申書に響くような真似はしないだろう。
 それとも、やはり彼女が今回の写真の件の発案者で、良心に耐えきれず学校に来
られない心理状態になってしまったのだろうか。
 うだうだと考えながら帰り支度をしていたところで、隣の女子生徒にいきなり鞄
を盗られてしまう。
「あ」
 気付いて声を発した時には、その鞄は生徒から生徒へと投げ渡される。最後に窓
際の男子がそれを受け取ると、ニヤニヤと笑いながら鞄を窓から放り投げた。
 机にぶつかりながらもありすは窓枠まで突進して鞄の行方を追う。すると、下で
鞄を受け取った男子生徒がそのままどこかへと走り出してしまう。
 ありすは教室から飛び出ると、全力でその鞄の行方を追った。中には大切なもの
も入っている。上履きと違ってただ買い直せばいいという訳にはいかない。
 だからありすは必死になって探した。男子生徒が走っていった方向から彼女は推
測する。辿り着いたのが校舎裏にある焼却炉だった。今はもう使われなくなったそ
れは、前にも体操着を隠された場所でもあったのだ。
 焼却炉として現役で使われてたら洒落にならない場所でもある。
 ありすは焼却物を放り込む為の穴に顔を突っ込んで中を探すと、底の方に鞄らし
きものが見えた。
 そのままでは手が届きそうもなかったので、胸下あたりまでその穴に入り左手を
伸ばした。その瞬間、「せーの!」というかけ声とともに両足を誰かに掴まれその
まま胴体を軸に回転させられ、中へと押し込まれた。
「うぎゅ」
 穴の外からは笑い声がする。聞き慣れた声はクラスメイトの女子だ。
 彼女たちには楽しいのだろう。自分より劣った者が存在することが。


「ただいま」
 玄関の鍵を開けて誰もいない空間に言葉を投げかける。もちろん返ってくる言葉
はない。
 廊下の先にある自分の部屋へ真っ直ぐに向かう。
 そして扉を開けて、今度は期待を込めて再び言葉を紡ぐ。
「ただいま」
「おかえり、ありす。ん? どうしたんだ、制服が煤だらけだぞ。まるでボロ雑巾
のようだ」
 『雑巾なんて酷いなぁ』という言葉を飲み込み、そのまま椅子に座ってホワイト
ラビットに向かい合う。
「ちょっとね」
 疲れ切った口調でありすは答えた。
「虐めか?」
「うん。いつもの事だから、平気だよ」
 『いつもの事』という部分に諦めにも似た感情が込められている。
「平気じゃないだろ。いつものような汝のパワーを感じないぞ」
「ねぇ、邪なるモノをやっつけるのにあとどれくらい時間かかるのかな?」
「それはわからない。強いて云えば、ありすの頑張り次第だな」
 もう頑張れないよ。一生懸命やったって誰も認めてくれないんだよ。ありすの心
はそんな想いでいっぱいだった。
「もう辞めたいよ。魔法使いなんて……」
 その言葉の最後は涙で途切れる。
「弱気な事を云うな。孤独な戦いというのは、汝にはちと辛いかもしれぬ。だが、
汝がやらなくて誰がやる?」
 相変わらずホワイトラビットは厳しい言葉を投げかける。
「……」
 でも、それに対抗するような気力は彼女には残っていない。
「汝はこの世界が嫌いか? 汝を虐げる者がいるこの世界に憎しみを抱いておるか?」
「……」
 はっきり嫌いとは答えられなかった。そういえば、どうして自分はこの世界を憎
んでいないのだろう。ありすは自分自身のその気持ちに疑問を感じる。
「違うじゃろ。汝からはこの世界から去ろうという意志も、破壊したいという衝動
も感じられぬ」
「……」
 何かを期待しているありすは、この世界から消えることができない。憎しみがな
いから破壊衝動など沸き上がらない。でも、それはなぜ?
「汝はまだこの世界を愛しておるのだろう? どれだけ周りの人間に虐げられてき
ても、汝はまだ人間という存在に希望を持っておるのだろう? 憧れておるのだろ
う?」
「憧れ?」
 思い当たることは彼女にはあった。心の奥底に沈んでいる一欠片の光だ。
「ならばこれは試練じゃ。虐めなど物ともせぬ強い力を持て。強靱な精神を鍛えよ」
 大きな声でありすを励ます。自身には強力な魔力はないと言うけれど、ホワイト
ラビットはいつもそれ以上の力をありすに与えてくれる。生きる気力を与えてくれ
る。
「ラビはいつでも厳しいよね。きついことをいつも平気で言い放って……それでも
……それでも、あたしを見捨てたりしないもんね」
 それはまるで親友のようだった。ありすの瞳から涙が溢れる。その涙はけして悲
しみの粒ではない。
「わかったよ。もう少し頑張ってみる」
 ありすは精一杯の笑顔をホワイトラビットに向ける。


 索敵しながら街を歩く。学校での事は考えないようにしよう。ありすは気持ちを
そう切り替えた。
 繁華街での見回りを終えて、自宅のマンションがある場所まで戻ってくる。
 そして今度は住宅地を回ろうと考えた。
 高台の住宅地へと上がる長い坂道を歩いている時、彼女は見知った顔に出会う。
「あ、羽瑠奈ちゃんだ」
 羽瑠奈はまだありすたちに気が付いていなかった。声をかけようと手を挙げた彼
女の動作が凍り付く。
 羽瑠奈の真横から空を飛ぶ不気味な物体が迫っていた。
「邪なるモノ!」
 ホワイトラビットがそう認識し、ありすは彼女へ危険を告げる。
「羽瑠奈ちゃん! 危ない、避けて!!!」
「え?」
 突然、大声をかけられたことに驚いて、彼女はバランスを崩し躓いて倒れてしま
う。
 だが、それが幸いして邪なるモノの直撃をなんとか避けたようだ。
 ありすの目はすぐに敵を捉え、攻撃の態勢に入る。
 大きく息を吸い込んだ彼女は、飛び回る目標を左手の指先で追う。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 ここ数日の戦いで、ありすの能力は格段の進歩を遂げている。破壊力、そして速
さもだ。
 五十メートル近く離れていた敵に、一瞬で光の槍は到達する。
 まばゆいばかりの閃光。
 仕留めたことを確認して、すぐに彼女のもとへと走り出した。怪我をしていなけ
ればいいとありすは心の中で祈る。
「羽瑠奈ちゃん」
 近づくと、真っ先に彼女に声をかける。
「ありすちゃん?」
 ようやく彼女はありすの存在に気付く。
「大丈夫? わぁ、痛そうだね」
 羽瑠奈の右足膝の部分から出血があった。転んだ際に擦りむいたようだ。とはい
え、大けがを負っていなかったので、とりあえずありすはほっとする。
「うん、ちょっとドジったみたい」
「あ、そうだ。あたしんち、このすぐ近くなの。消毒しといた方がいいでしょ。応
急手当ぐらいならできるから」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
 立ち上がる羽瑠奈にありすは肩を貸し、自分の家へと連れて行く。


 羽瑠奈を自分の部屋に招き入れ椅子に座らせると、ありすは救急箱を取りにダイ
ニングキッチンへと向かう。
 いつも使っているその箱を開けると、肝心の消毒薬が切れていた。
 ありすは部屋にいる羽瑠奈に声をかけると、近くの薬局へと買い出しに出かける。
ホワイトラビットがいるのだから退屈はしないだろう。その時は安易にそう考えた
のだ。
 家に戻ると救急箱と新しい消毒薬を持って自分の部屋に向かった。その途中で彼
女は大事な事に気付く。そういえば、机の上には他人に見られては恥ずかしいもの
が置いてあったのだ。
 今更遅いと思いながらもありすは早足で部屋へと向かう。
「羽瑠奈ちゃんお待た……」
 扉を開けたありすの言葉はそこで止まってしまう。彼女が危惧していたことが現
実となってしまったのだ。
「おかえり、ありすちゃん」
 彼女は一冊のノートを手にしていた。それは、表面がボロボロになった見覚えの
あるもの。クラスメイトの虐めに遭ったときだって、絶対に渡さずに守りきったあ
りすの大切なノート。
「あ……」
 遅かった。ありすは思わず机の上を睨む。ホワイトラビットは無言だった。黙秘
権を行使する気だろうか。
「暇だから読ませてもらったわ」
「あわわわ……」
 ありすはあまりの事態に対応ができず、言葉が出てこない。




#297/598 ●長編    *** コメント #296 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:39  (399)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[09/10] らいと・ひる
★内容                                         06/09/04 20:33 修正 第2版
「興味深い物語ね。綿菓子で丁寧に包まれたみたいな優しくて甘ったるい世界じゃ
ない。いいよね、こんな風に名前だけじゃない『本当の友達』がいる場所は。でも
さ、ありすちゃん。無意識に込められたメッセージに気付いている? 登場人物の
苗字、主人公とその親友二人と先生の分ね。最初の文字を繋げると『た・す・け・
て』になるけど……これは偶然? それともありすちゃんは誰かに助けてもらいた
いの?」
「……」
 血液が凍るような感覚。頭から血の気が引いていく。
「内容も考えてみればすごいよね。これはありすちゃんの理想の世界なのかな? 
もしかして現実では誰もに忌み嫌われ、誰からも愛されない。だから、愛される理
想の自分を夢見ている」
 否定できるわけがない。彼女は読み解いてしまったのだから。
 だが、それは安息に付く死者の眠りを妨げる墓荒らしのようでもあった。
「返して!」
 ありすは咄嗟にそのノートを奪い取る。これだけは誰にも汚されたくない。そん
な想いで彼女の中はいっぱいであった。
 どんなに罵られたっていい。
 どんなに痛めつけられてもいい。
 これだけは……これだけは誰にも触れて欲しくない。ありすの心は悲鳴を上げて
いた。

 ありすがこのノートに、妄想ともよべる世界を書き始めたのは、三年前。
 ある事件をきっかけに、彼女は現実を拒絶し、妄想の中に生きる事を選んだのだ。
それは妄想という形の中で一つの世界を構築しつつある。
 綺麗で純粋で優しくていつもそばに居てくれるありすだけの友達。
 ありすを愛してくれる世界の一部。
 最近はホワイトラビットのおかげで書くペースが遅くなっていた。それでももう
一つの世界の日常は、止まることも壊れることもなくゆったりと流れていた。
 だからこそ、これは他人が触れてはならないもの。
 それなのに。
 羽瑠奈に心を許したおかげで、隙ができてしまったのだ。
 現実に再び希望を持ってしまったのだ。
 その僅かな隙が命取りとなった。
 懸命に構築してきたこの世界に亀裂が入る。
 二人の間を重苦しい空気が張りつめた。
 ばつが悪いと感じたのか、羽瑠奈はしばらくの間黙している。
 苦痛だけの時間が過ぎていく。
 後悔しか感じられない。
 時間はもう巻き戻ることはなかった。
「そういえばさ」
 沈黙に耐えられなくなったのか、羽瑠奈の方から口を開く。
 そして、つまらなそうに机の上のホワイトラビットを小突きながら彼女は言葉を
続けた。
「そういえばさ、このウサギってさ、英語だと『hare』なんだよね」
 聞き慣れない言葉が出てきたので、ありすは英語の知識を記憶から引き出す。
「え? ウサギって『rabbit』でしょ」
「うん。でも、この『サンガツ』は『hare』なんだよね。『野ウサギ』はそうだっ
て聞いたよ」
「サンガツ? 野ウサギ?」
「だって、茶色でしょ。それに頭に変な藁の冠被ってるし」
 一瞬、羽瑠奈が何を喋っているのか理解できなかった。いや、この世界に漂う違
和感にありすは気付いていなかっただけかもしれない。
「羽瑠奈ちゃんには茶色に見えるの?」
「ありすちゃんには何色に見えるの?」
 ホワイトラビット。白兎。着色を忘れられたのではないかと思えるほど真っ白だ。
体毛だけでなく、着ているチョッキでさえ。
「白一色だよ。だからあたしはホワイトラビットだと思っていたんだけど」
 どうも会話が噛み合わない。ありすには何がおかしいのかもわからない。
「『march hare(三月兎)』と『white rabbit(白兎)』は色も役割も全然違うよ。
私、ファーストフードで言ったよね。アリスのティーパーティーみたいだって。だ
から、ありすちゃんもてっきりそう見てると思ったのに」
 どうして二人の見ているものが違うのだろうか。ありすは混乱しそうな頭を精一
杯働かせる。
 もしかしたらありすの方が魔法使いとしての資質が低いのかもしれない。だから、
色まで認識できないのだ。そう思い込もうとした。
 だが、何かが引っかかる。羽瑠奈は「頭に変な藁の冠被ってる」と言った。そん
なものは彼女には見えない。それさえも、能力の差なのだろうか。
「ラビ、どういうことなの?」
 ホワイトラビットは沈黙を保ったままだ。
 どうして教えてくれないのだろう、そう思いながらも何か嫌な考えが頭を過ぎる。
それを確認する為の質問は簡単だ。
「初めての時、ラビがなんて喋ったか覚えてる?」
 ありすは慎重に言葉を選びながら問いかける。
「うん。『こんにちは』って挨拶してくれたでしょ」

 ソンナハズガナイ。

 あの時、羽瑠奈が「ウサギ」と言ったのでホワイトラビットはそれに怒って興奮
して、わけのわからない言語で自分の名前を叫んだのだ。だから「こんにちは」と
いう彼女の記憶は間違っているはずだ。もちろん、ありすの記憶が間違っていない
という前提だが。
 会話が噛み合わない。有り得ない状態だ。二人は同じものを見て、同じ感覚だと
わかって、それで仲良くなったというのに。
 いくら考えても答えは出てこなかった。ありすはそれを誤魔化す意味も含めて、
まったく関係のない世間話を始めながら羽瑠奈の怪我の手当をした。
 余計な事を考えてはいけない。
 それはありすがうっすらと『世界が崩壊してしまう』という事に気付いているか
らだろう。
 だから慎重に言葉を選び、羽瑠奈に接した。
 ふと彼女の右腕の包帯が緩んでいることに気付いてしまう。こういうときに気を
利かせすぎたところで悪い方向にはいかないだろう。
「あ、羽瑠奈ちゃん、包帯巻き直してあげようか」
 そう言って彼女の手に触れたありすは何か違和感を感じる。
「あ、ごめん。大丈夫だから」
 するりとありすの手から離れていく。
 ゆるりと躱された。拒絶されたわけではない。だから彼女はそこで思考を止めた。


 羽瑠奈との信頼は回復した。ただし、ありすが必要以上の沈黙を守ることで。
 家に帰るという羽瑠奈を送ってありすも外に出る。もともと索敵の為に町内を巡
回中だったのだ。
 隣を歩く羽瑠奈は何も喋らず、ありすも黙って口を閉じている。不必要な事を喋
らない限り、羽瑠奈とは友達でいられる。彼女はそれを本能的に悟っていた。
 だから今日のことは忘れよう。せっかくできた友達なのだからと。
 ありすはなぜか溢れそうになる涙に気付いて空を仰いだ。
 長い坂道の途中で羽瑠奈の足が止まる。
 ありすは何事かと、彼女を見るとその表情は驚きで硬直したかのようだった。
 ふと人の気配を感じて前を向くと、どこかで見かけた人物がこちらへと歩いてく
る。
 小太りなその体型と顔には見覚えがあった。
「どうして、生きてるの?」
 ありすが言おうとした言葉をそのまま隣の羽瑠奈が呟く。
「やあ、奇遇だね。こんなところで会うなんて」
 男はありすの存在など気にかけない素振りで、隣の羽瑠奈へと言葉をかける。
「どうして……」
 そこで羽瑠奈の言葉は止まってしまう。まるで目の前の現実が受け入れられない
かのようでもある。
 だが、その気持ちはありすにも少しは理解できた。なぜなら、目の前の男は生き
ているはずがないのだ。公園のトイレで死んでいた。公園の管理業者の老人が発見
して警察に通報したのだ。彼女もその場に居合わせたのだから間違いない。
 まさか、それさえも幻だというのか。ありすは忘れようとしていた家での羽瑠奈
とやりとりを思い出す。
 記憶が改竄されているのか。それとも現実がねじ曲がっているのか。綻びを見せ
た世界はどちらもありすには認め難いものだった。
「ほう、俺を見てそれほど驚くとは興味深いね。まさかとは思うけど、弟のハルミ
ズを殺したのは君だなんてオチはないよね」
 冷静だがどこか粘着的な喋りは、不気味さとおぞましさを秘めているようだ。
「弟?」
 言葉を発したのはありすだ。それが事実なら違和感の説明は簡単にできる。そう、
カメラの男はたしか『ダム』と名乗っていた。『トゥイードルダム』と。よく考え
れば、それはアリスの物語に出てきた人物ではないか。彼らは双子だ。
「そう、残念ねダイチさん。せっかくあなたが死んだと思って喜んでいたのに」
 開き直ったかのように羽瑠奈が笑う。口元を歪め、まるで現実そのものを嘲り笑
うかのようだ。
「相変わらず嫌味ったらしいね『コスプレお嬢ちゃん』」
 粘着的な言葉は軽蔑感を含む呼びかけで終わる。
「典型的なオタが何言ってんの?」
「ふん、見栄えばかりに心を囚われている人間が何を言う。きっとその醜い心を隠
す為に、そんなゴテゴテの衣装が必要なんだね」
「あなたの方が醜い人間でしょ。そんなあなたがピアノを弾くなんて考えただけで
もぞっとするもの。バイオリンが駄目だからって簡単にそれを捨ててピアノに転向
するなんて、浅はかな考えとしかいいようがないわ」
「ふん、所詮は貴族階級の生活に憧れるだけの似非お嬢のクセに」
「あなたみたいに確固たる信念もない人にそんな事を言われる覚えはないわ」
 二人の間には何か確執があるのだろうか。会話から感じられるのは張りつめた雰
囲気だ。とてもじゃないが、冗談を言い合っているようには聞こえない。
「そんなひらひらした服を着て男の注目を集めることしか考えられないような女に、
音楽の何がわかるというのだ」
 そう言って男は羽瑠奈の胸元のリボンに手を触れようとする。
「私に触れるな!」
 直前で放たれた羽瑠奈の声に、男の手はびくりと止まる。だが、ニヤリと笑みを
浮かべる男の顔はなぜか勝ち誇っているかのようにも感じられた。
「俺はね、つくづく不思議に思ってたんだよ。君の服は安い物じゃない。貧乏人で、
やっとの思いでピアノ教室に通える君がどうやってその服を手に入れたんだ?」
「そ……それは」
 羽瑠奈は言葉に詰まってしまう。
「俺は知ってるんだよ」
「……」
 彼女は完全に俯いてしまっている。前に見た勇ましい姿の彼女はどこに行ってし
まったのだろう。
「俺はね、援助交際なんていう濁した言葉は使わないよ。だから、君の友人のいる
前ではっきりと言ってあげよう」
 男はちらりとありすを見る。
「やめて!」
「こいつはね。男に身体を売って、金だけじゃなく……」
 羽瑠奈が男に突進していったかと思うと、彼の言葉はそこで途切れてしまった。
「あなたなんかにわかるわけない。あなたなんかにわかるわけない。あなたなんか
にわかるわけない」
 悲鳴もなく男は倒れる。その胸の辺りは血で真っ赤に染まっていた。
 振り返った羽瑠奈は虚ろな瞳でありすを見つめる。右手のナイフは鈍い光を放ち、
左手に巻かれていた包帯はさらにほつれて患部と思える箇所が見え隠れしていた。
「今見たことは黙ってて、そうじゃないとありすちゃんも殺さなくちゃいけないか
ら」
 その言葉からはなんの感情も読み取れなかった。ゆっくりとありすに近づいてく
る。
 だが、彼女が黙っていたところで、羽瑠奈が警察に捕まるのも時間の問題だろう。
公園での殺害と違って、証拠がありすぎるのだから。
 後ずさりしようとしたありすの足が止まる。
 公園?
 彼女はなぜか当然のように羽瑠奈と公園での事件との関連を見いだしていた。た
しかにあの男は羽瑠奈が犯人かもしれないことをほのめかしていたし、今の彼女に
は人を殺すことなど造作もないように思える。
 ふと頭に浮かぶのはあの事件の日のこと。
 不条理な謎かけを解いてみたいのではない。ティーパーティーの続きをしようと
いうわけではない。
 ただありすは、ふと思い出した事を訊かずにはいられなかっただけだ。
「ねぁ、あの日……あの男の人が殺された日に、あたし羽瑠奈ちゃんと会ったよね。
で、羽瑠奈ちゃんはレンタルビデオを返しに行くって言ってた。でも、それってよ
く考えるとおかしいんだよね。だって、羽瑠奈ちゃんの家ってテレビもビデオもD
VDもないって言ってたじゃない。だとしたら、借りたビデオはどうしたの? 誰
かからポータブルのDVDプレーヤーを借りたのかな……ううん、羽瑠奈ちゃんは
DVDじゃなくてビデオを返すって言ってたんだから、ビデオデッキが必要だよね。
ねぇ、それはどうしたの?」
「それはあれよ。友達の家で見てきたから」
 羽瑠奈はさらりと答える。
「それからね。もう一つ疑問だったのが、あの日の羽瑠奈ちゃんの格好。もちろん、
いつもゴスロリってわけじゃないと思うから、それはそれでいいんだよ。でもさ、
黒い服を着るってのが羽瑠奈ちゃんの信条じゃなかったの。あの日はそれが崩され
ていたよ。まるで何かを恐れるように身体の防護に徹した服装だった。上下ともに
ジーンズ。これが何を示すかは、なんとなくわかるよ。ジーンズはインディゴで染
め上げられている。昔の人は毒虫や毒蛇を避ける為にこれを身に付けたとも言われ
ている。もちろん、どれだけ効果があったかはわからないけどね。でも、ブーツま
で履いての完全防備だった。もしかしたらと思うんだけど、あの時、あたしと会っ
て現場の状況を聞かなければ、そのままあの公園まで行ったんじゃないの? 扉が
開けられて蛇が逃げ出すのも計算に入れてたんじゃない? もちろん、これはあた
しの想像。だから、間違っていたら間違っているって言って」
「……そうね、私だっていつも黒い服を着ているわけではない。それが効果的な場
所を考えているわ」
 羽瑠奈は歪んだ笑いを浮かべている。ありすが言っていることはあくまも状況証
拠だ。決定的な根拠があるわけではない。否定されればそれ以上は追及する気はな
かった。
 ところが彼女の頭の中には、次から次へと疑問が湧き出てくる。思考を無理矢理
停止させていた箍が外れてしまったのだろうか。それゆえにありすは気付いてしま
った。
「あと、これも素朴な疑問。毒蛇に噛まれた事は話したけど、どの種類の蛇かはあ
たし言ってないよね? それなのに羽瑠奈ちゃんは、ヤマカガシに関しての症状を
きっちりと説明してくれた。ううん、もちろん都内のこんな場所でコブラやハブが
いるわけがないし、いくら本州に生息しているからといって山奥にいるマムシが出
てくるはずがない。こんな場所でもヤマカガシならギリギリでありえる……だから、
一般論として羽瑠奈ちゃんが説明してくれたのならわからなくはないの。でも、で
もね、もしかしてって思うの。羽瑠奈ちゃん、ヤマカガシに噛まれたことがあるん
じゃないかって」
「バカバカしい。私が毒蛇に詳しかったからといって、どうしてありすちゃんはそ
んな飛躍した想像ができるの?」
「だって、羽瑠奈ちゃんのその手の傷」
 ありすはほつれた包帯の端を引っ張ると、するりとその白い手が剥き出しとなる。
彼女が見つめる親指の付け根にはぽつりぽつりと二箇所、点のような刺し傷の痕が
残っていた。それは、よくみれば牙を持つ動物に噛まれたような痕にも見えた。
「え?」
「それが毒蛇に噛まれたものだとしたら、ずいぶんと納得がいくの。神経にまで毒
が回っていたら、ううん、ヤマカガシは溶血性のものだから、この場合影響するの
は指先の毛細血管ね。毒のせいで指先の感覚は普通じゃなくなる。いくら噛まれた
患部が治ったからといって、他の箇所もすぐには治らない。そりゃ、ピアノを弾く
のにも支障が出てくるでしょ。羽瑠奈ちゃんあの時言ったよね、気休めで湿布を貼
ってるって。でもその痺れは毒によるものだから、そんなものを付けるはずがない。
あたしと会ったとき、毒蛇に噛まれた事を言うわけにはいかなかった。とりあえず
差し障りのない症状だけを正直に告白した。で、それに後付の説得力を持たせる為
に湿布の話を持ち出した。違和感はあったんだよ。羽瑠奈ちゃんからは湿布の香り
がしない。ついさっきだってあんなに患部に顔を近づけたのにね」
「……」
 羽瑠奈は答えない。何か答えようと、口の中でぶつぶつと呟いている。でもそれ
はありすには届かない。
「羽瑠奈ちゃんのおばあちゃん家って、群馬県薮塚町かな? あたし調べたんだけ
どね。マムシの血清って全国どこでもあるのに、ヤマカガシの血清を保管している
のって全国に数箇所にしかないんだってね。日本蛇族学術研究所ってとこが群馬県
薮塚町にあって、担当医はここに直接連絡して血清を入手するらしいよ。だから、
逆を言えばここを調べれば、誰がヤマカガシに噛まれて血清を必要としたかがわか
るってことだよね。どうして蛇に噛まれたのか? この場合、そのおばあちゃんの
家に遊びに行って噛まれたというのが無理のない答え。でもさ、ヤマカガシって、
こちらからちょっかいをかけない限り、攻撃されることは滅多にないんだよね。た
とえ歩いていて間違って踏んづけてしまったとしても、最悪でも噛まれるのは足だ
よね。けどさ、実際には手を噛まれている。……少し考えればわかるよね。羽瑠奈
ちゃんは不注意に毒蛇に噛まれたんじゃない。それを捕獲しようとして噛まれてし
まった」
 喋りすぎだった。沈黙は守るべきだった。それはわかっていたはずだ。でも、そ
れに気付くにはもう手遅れだった。
「どうしてみんな真実が好きなんだろうね。そんなのどうでもいいじゃない」
 羽瑠奈は嗤っていた。ありすを嗤っていた。世界を嗤っていた。
「あ……ははは」
 世界の崩壊は始まっていた。今度はありすの笑顔がひきつる番だ。こんな世界で
真実を追究しても意味はないのだから。
「それよりもありすちゃん。あなたの魔法とやらで、あの男の死体をなんとかして
くれない? さすがにちょっとまずいよねぇ。今度ばかりはさすがに私ケーサツに
捕まっちゃうよ」
「え?」
「あなたなら簡単でしょ? それとも私の願いなんか叶えられない?」
「ちょっと待ってよ。羽瑠奈ちゃんなんか……」
 その後の言葉は続けられなかった。どう考えても彼女の行動は異常だ。異常者に
その行動が変だと指摘することは無意味に近い。
 ありすが何も答えられずに呆気にとられていると、しびれをきらしたかのように
羽瑠奈が言葉を投げかけてくる。
「ねぇ、だったらそのウサギのぬいぐるみを私にくれない? ありすちゃんができ
ないのなら私が代わりにやるからさ。私だって魔法使いの資質はあるんでしょ?」
 そう言われてありすは思わずホワイトラビットを見つめる。そして、擦れるよう
な声で問いかけた。
「言う通りにした方がいいの? 羽瑠奈ちゃんの方が魔法使いの資質があるんでし
ょ?」
 それに対し、ホワイトラビットは静かに語る。
「ありす。おまえは確かに魔法使いとしては未熟だ。だが、誰にも負けない真っ直
ぐな心を持っている。おまえは許せるのか? 魔法をそんな事に使おうとする彼女
を。もし友情という目先の利益を優先するというのなら我を渡すがいい。そんな心
の持ち主に我は用はない」
 自分が助かる為に、一番の理解者であるホワイトラビットを渡すなんて……そん
な事できるわけがない。たとえこの場を逃げられたって、後で必ず後悔する。
 逃げてもいい。でも、大切なものだけは捨ててはいけない。
「ごめん。ラビは渡せない」
 羽瑠奈に向き直ってそう告げた。
「いかん! ありす、逃げるのじゃ!」
 それは、ホワイトラビットの叫び。そして、本能が告げる危険信号。羽瑠奈のナ
イフを握る手に力が入る。
 ありすは、羽瑠奈に背を向けると全力で駆け出した。もしかして、彼女もまた邪
なるモノに取り憑かれてしまったのであろうか。そんな可能性を考えてしまう。
「待ちなさい!」
 羽瑠奈の呼び声は正気ではなかった。何かが壊れてしまった。何かを超えてしま
った。その上、何かを失ってしまった。そんな感じだった。
 追いかけられるうちに、だんだんと恐怖がありすの身体を蝕んでいく。頼みの綱
であるホワイトラビットは先ほどから反応が鈍い。「逃げろ」としか喋らなくなっ
ている。
 ありすは混乱して手足が思うように動かなくなっていた。しまったと思った時に
は、足がもつれて転んでしまう。なんとかホワイトラビットは放さずにいたが、左
肩に下げていたトートバッグを落としてしまう。
 バッグの中身が路面に散らばる。だが、それを全部拾っている余裕はない。背後
には羽瑠奈が迫ってくる。
 ありすは、咄嗟に一番大切な物を一つだけ掴んでそのまま駆け出す。この時、あ
りすが左手に握ったのは一冊のノート。後に魔法のアイテムであるカチューシャを
取らなかった事を彼女は後悔する。
 転んだ事で距離が縮まったのか、振り返ると、既に羽瑠奈は追いついていた。
「なんで逃げるの? 真実が知りたいんじゃないの?」
 彼女の手に握られたナイフが迫る。
「落ち着いて羽瑠奈ちゃん。あたしを殺しても何にも解決は」
 その言葉は聞き入れられなかった。突き出されたナイフがありすの左肩をかすめ
ていく。回避行動をとっていなかったら、今頃背中を刺されていたかもしれない。
 切り裂かれた衣服から血が滲み出す。
 羽瑠奈の持っているナイフにはうっすらと血液が付いていた。たぶんあの男のも
の、それに加えありすの血も付着したのだろう
「どうして? どうしてこんなことになるの?」
 正面に羽瑠奈を見据え、ありすはゆっくりと後ずさりしながら必死でホワイトラ
ビットに問いかける。マジックアイテムであるネコ耳付きのカチューシャは先ほど
落としてしまった。今の彼女には魔法どころか、敵の姿さえ見つけられる状態では
ない。
「理解不能」
 感情のこもらない声でホワイトラビットは答える。
「どうして? 羽瑠奈ちゃん、もしかしたら邪なモノに操られているんじゃないの?
その可能性が一番高いんじゃないの?」
 それが一番自然な答えだった。それならばありすにも納得ができる。だが、ホワ
イトラビットは肯定してくれない。
「理解不能」
 まるで機械のような返答だ。いったいこの世界に何が起きているのだろう。
 ナイフを持った羽瑠奈は、顎をあげてありすを見下すように視線を投げかける。
「どうせ生きててもしょうがないんでしょ。友達すらいないこの世界になんの未練
があるのよ」
 その言葉は痛かった。まるで心の傷口を抉られているかのような痛みだ。
 でも、自分から死を望まないうちは殺されるわけにもいかない。ありすはまだ
『逃げる為に消えたい』と思っても『この世界から消えたい』とは考えていなかっ
た。
 じりじりと後退しながら、なんとか逃げる手段を考える。
「あ」
 だが、その緊張は一瞬で崩れた。
 再び足がもつれたありすはそのまま尻餅をついてしまう。
 最悪の状況だった。
 無論、それを見逃す羽瑠奈でもない。
 彼女の口元が右側だけニヤリと吊り上がる。
 突き出されるナイフ。

 消えたい?
 本当にそう願うなら、この狂った世界から消え去ることは簡単だ。ちょっと苦痛
を味わうかもしれないが、ただそれだけで願いは達成できる。
 消えたい?
 そうすれば楽になれる。もう何も悩む必要はない。生きる苦しみも、灰色の未来
も見ずに済む。

 でも、ありすは消え去ることを拒絶した。なぜだかわからない。これほどまでに
世界に絶望しても、希望すら掴めなくても、それでも彼女は拒絶する。
 そして、心の底から叫んだ。
「助けて」
 それは生への渇望だった。

 刹那。
 右手で握っていたホワイトラビットが急に動き出し、そのままナイフへと突進し
ていく。
「!」
 ホワイトラビットに突き刺さるナイフ。
 その瞬間、そこから生み出された光の球がみるみる膨張してありすと羽瑠奈を包
み込んだ。
 視界が光に飲み込まれ、右も左も天も地も全ての方向感覚がなくなるというホワ
イトアウトにも似た現象が彼女を襲う。
『契約受理』
 そんな言葉がどこからともなく聞こえてきた。
 光しかない真っ白な世界はだんだんと薄れていき、再び現実の世界が戻る。見慣
れた街並み、聞き慣れた雑音、木々の青臭い匂い。
 現実に引き戻されたありすは右手を前に掲げていた。
 羽瑠奈はそれに向かってナイフを突き出している。
 そして、そのナイフの先にあるものは、ありすが持った一冊の本であった。ちょ
うどその本にナイフは突き刺さっているのだ。それは、ハードカバーの古臭い書物
である。製本技術が発達する前に造られたのではないかと思われる、地金で綴じた
頑丈で重々しい本だった。
「叉鏡ありす」
 人間とは思えない機械を通したような歪んだ声が響いてくる。
「え?」
 ありすは声の主を確かめようと、横を向いた。
 そこには異形の人型が立っていた。黒い翼を持ち、猛禽類のような嘴がある顔立
ち。目が非常に鋭く、見つめているだけで気分が悪くなってしまう。
「ひぃー!」
 そのあまりにものおぞましさに、ありすと対峙していた羽瑠奈が悲鳴とともに口
から泡を吹いて倒れてしまう。
「汝は契約者なり。汝の思うままの願いを申すがよい」
 鋭い眼光はそのままありすを捉える。胃の中の物が逆流してきそうだ。羽瑠奈が
倒れてしまったのも納得が行く。
「願い?」
「汝は我と血の契約をした正統なる者だ。どんな望みも叶えよう。それが世界を破
滅させようと」
 書物に刺さったナイフ。それにはありすの血が付いていた。それが何を示すのか
は、今の言葉で理解ができた。だが、彼女にとってはそんなことはどうでもいい。
「ちょっと待って、ねぇラビはどうなったの?」
 右手にもっていたホワイトラビットは、いつの間にか書物と入れ替わっていたの
だ。
「ラビ?」
「そう、ウサギの形をしたぬいぐるみ。あたしの一番の理解者」
「なるほど、それは言い得て妙だな」




#298/598 ●長編    *** コメント #297 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:40  (276)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[10/10] らいと・ひる
★内容                                         06/09/02 21:27 修正 第2版
「どういうこと?」
「おまえの持っているその書物は、契約者を捜す為に人間の精神に僅かながらの影
響を与える。おまえは知らぬうちに幻を創り出していたのだ。『一番の理解者』と
いう自分の分身をな」
「自分の分身? じゃあ、ラビは……」
「最初から存在などしない。あえて言うならば、おまえ自身。そしてただの妄想だ」
 それはうっすらと予感していた。
 羽瑠奈と見ているものが違うと気付いたとき、最悪のシナリオが頭を過ぎってい
たのだ。
 ありすは創作の世界だけでなく、現実の世界にまで幻想を創り上げてしまった。
 ホワイトラビットの存在は、自分自身を勇気づけ慰める為に生みだされたもう一
人の自分。
 思えば、なぜあのネコ耳のカチューシャに拘ったのかも理解できる。あれは、友
達と最後に遊びに行ったテーマパークでお揃いで買ったものだ。当時はお気に入り
で、普段でも着けていた時もあった。そのうち周りから馬鹿にされて、付けるのが
恥ずかしくなってしまったのだ。
 だが、なんのことはない、ありすはあれを堂々と着ける口実が欲しかったのだ。
マジックアイテムだと思い込んで、羞恥心を打ち破りたかったのだ。

──バカだよ……情けないよ。                                                   

 理解者だと思い込んでいたホワイトラビットは、自分の心の創りだした幻。仲良
くなった羽瑠奈も所詮、幻想の中での危うい関係。
 壊れてしまわないように必死だった。
 いや、壊れてしまうことは必至だったのだ。
 ありすはまたもやこの世界で独りぼっちになってしまう。

──でも……。                                                                 
    
 ありすは自分自身に問う。
 自分はこんなにも過酷な世界から逃げ出したいのか?
 自分はこんなにも残酷な世界を壊してしまいたいのか?

──あたしはそれでも憧れてしまう。                                             
    
 現実世界でいくら裏切られても。
 現実世界でいくら孤立しても。
 『優しさ』というファンタジーに憧れてしまう。
 それは、破壊や破滅が心の隙間を埋められないと理解しているから。
「ねぇ。えーと、悪魔さんでいいのかな」
 ありすは怖々と声をかける。初対面で相手の名前を知らないのと、自分が置かれ
ている状況から目の前に存在するものを『悪魔』と判断したのだ。
「なんとでも呼ぶがいい。『愛すべからざる光』と呼称される場合もあるがな」
 それはギリシャ語で『メフィストフェレス』と言う。ありすの呼び名はあながち
間違いでもなかった。
「どんな願いも叶うのかな?」
「我にできることなら」
「んーとね。じゃあ」
 ありすは照れながら悪魔に向き合う。
「あたしと友達になって」
 その言葉に悪魔の鋭い眼光が一瞬だけ和らいだような気がした。
 だが、変化はその一瞬だけであった。
「それはできぬ」
 歪んだ声には感情は読み取れない。
「どうして?」
「我には人間と同じ感情はない。我の力で偽りの感情を作り出すことは可能だ。し
かしながら、それは人間のみに有効である。そして我は我に力を使うことは叶わぬ」
「だって、なんでも叶えてくれるって」
 ありすは人間ばかりか悪魔にまで見捨てられた。誰一人、彼女の味方になってく
れる者などいないのだろうか。
 彼女の頬を一筋の涙が伝う。
「願いにも例外はある。例えば我を殺せという願いも聞き入れることはできぬ。理
屈は同じだ」
「だったら、どうすれば……」
「人間にその偽りの感情を植え付けることは可能だ。例えばそこに転がっておる人
間に『友達』という感情を永遠に持たせることもできる」
 悪魔は気絶している羽瑠奈に視線を移し、そう答えた。
 彼女との想い出が頭を過ぎる。初めて出会った公園、ティーパーティーでの不条
理で楽しい一時、絡まれた女の子を助けた彼女に素直に憧れたこともあった。
 今思えば初めから歯車は噛み合ってなかったのだ。ありすは『white rabbit(白
兎)』を生み出し、羽瑠奈は『march hare(三月兎)』を生み出した。住んでいる
世界は同じでも、見ている世界はまったく違うものであったのだ。
 公園での殺人はたぶん彼女だろう。双子であることを知らず、公園でよく見かけ
るあの男を兄と勘違いし殺害を計画したのだ。彼女は短絡的な思考の持ち主である
ゆえに、一度思い込んだ事に疑いをもたなかったのかもしれない。
 公園にいたあの男の背中に、怪我を負ってまで入手した山楝蛇を入れ、犬に追い
立てさせて障害者用トイレに閉じこめる。二匹以上使って巧く追い込めば容易に誘
導できるはずだ。なにしろ相手は犬を苦手としている。そして、山楝蛇は本来攻撃
的ではないが、下手に動けば攻撃されていると思い込み噛まれてしまう。背中に入
れた事で男は状況が把握できず、ただ違和感を抱いてもぞもぞと動いていたに違い
ない。背中から出そうとして無理矢理蛇の身体を掴もうとしたのだろう。だから噛
まれるのは必至だった。
 トイレに逃げ込んだ男は噛まれた違和感から外へ出ようとするが、ちょうどその
前を犬に番をさせていれば足止めは可能だ。犬が苦手な男は出られないまま徐々に
毒が回り手遅れとなってしまう。鍵をかけたのも男自身が犬への恐怖で行った事だ
ろう。結果的に密室になってしまったが、羽瑠奈がそこまで考えたかについてはわ
からない。たぶん、偶然だろう。密室にさせる意味などないのだから。もしかした
ら、毒蛇を使って殺人を計画したというより、恨みのこもったいたずらに近いのか
もしれない。ただし、本当に死んでもいいと思っていたのだろう。
 犬が苦手だということは事前に知っていたのか、もしくはありすが公園で男に魔
法をかけた時、ちょうど犬の散歩にやってきた羽瑠奈がそれに気付いたか。
 どちらにせよ、ありすの魔法は初めから存在などしていなかった。あの時、男を
退散させたのは彼女の魔法ではなく、羽瑠奈が散歩の為に連れてきた犬なのだ。す
べてはありすが都合良く生み出した幻だった。
 しばらく羽瑠奈の顔を眺めると、悪魔に向き直りしっかりとした口調でこう答え
る。
「ううん。そんな偽りの友達はいらない。そんなことじゃたぶん、あたしの心は満
たされない。優しさには憧れるけど、でもね、現実の世界にまで幻想を持ち込むの
は空しいだけだってわかったから」
「ならば願いが思いついた時、再び我を呼ぶがいい。我はいつでも汝の下に現れよ
う」
 そう言って悪魔の身体は細かく、まるで粒子レベルまで分解したかと思うと霧散
してしまう。
 ありすは一人取り残された。

 近くでパトカーのサイレンが鳴っている。どこかで人の悲鳴が聞こえる。
 ありすは家に戻る道を一人寂しく歩いていた。
 途中、追いかけられて転んだ時に落としたトートバッグを見つける。
 しゃがみ込んでそれを手に取り、散乱した中身を拾い集める。
 奇跡的に財布もポーチも無事だった。身分証代わりの生徒手帳があるので、運が
良ければ誰かが警察に届けている可能性もあったが、それさえもしっかりと路面に
転がっている。穴掘中央高等学校、二年三組叉鏡ありす自身のものだ。
 今となってはなんの意味もないネコ耳の付いたカチューシャもしっかりとある。
 カチューシャの裏側には、白の顔料系マーカーで書かれた名前が見えた。それは、
ありすのものではない。
 いつだったか交換した友達の名前であった。
『京本ありす』
 かつて『キョウちゃん』と呼んでいた少女だ。



■The true world

 原稿用紙から顔を上げて美沙がありすを見つめる。その瞳には穏やかな優しさが
込められているようだ。
「作風、変わったね」
「うん」
 アイスティーの入ったグラスを両手で抱えるようにして、ありすは口元へそれを
持って行くと一気に飲み干した。
「こういう物語も嫌いじゃないよ。だけど、どういった心境の変化があったわけ?」
 美沙は原稿用紙を揃えてローテーブルの上に置くと、グラスを手に取りそれに口
をつける。
「今まではね。綺麗なもの純粋なものをより綺麗に、より純粋に書きたいって衝動
の方が大きかったの。自分が憧れたものが憧れたままの姿で存在する世界を創りた
かったの。でもね、それだけじゃ伝わらないこともあるって気が付いたから」
「わたくしも、それを読んだ時は驚きました。まるで、今までの作品を全て否定す
るような内容でしたから」
 成美がありすの空になったグラスにピッチャーからアイスティーを注ぐ。今日は
成美の家でお喋りに華を咲かせていたのだが、書き上がったばかりの新作を美沙が
読みたいと言い出したことから急遽お披露目会となったのだ。
「やっぱりね、伝える意志ってのを明確に盛り込まないと、作品が死んでしまうの。
例えばさ、どんなに綺麗な壁紙の模様も、一人の画家が魂を込めて描いた絵画には
敵わないのと同じ。綺麗だ、正確だそんなものはいくらでも量産できるし、メッセ
ージが読み取れなければ人はただ通り過ぎていくだけだもん」
「ふふ、ありすもいっちょまえに語るねぇ」
 美沙がありすの額を小突く。
「それで、ありすさんはどうしてこの物語を書いたのですか?」
「偶然かな」
 それは偶然物語を思いついたという意味ではない。偶然を追究する上で生まれた
という事だ。
「偶然?」
 美沙が不思議そうに声を上げる。
「例えば、あたしたちが出会った偶然。出会わなかった偶然も確率的にそこには存
在するわけじゃない。そうすると現実では一つしか見えない世界も、物語ならば二
つの世界を同時に描けるわけ。多世界構造を同時に観測できるのは今のところ物語
だけだからね」
「つまり二重の存在を描きたかったと」
「うんとね、それだけじゃないんだ。ただの偶然に人は意味を置くでしょ。それが
占いだったりジンクスだったり、宗教的に神の行為だと思い込んだりね。あたし自
身が行ったことでさえ、実は偶然だったなんてのはよくあることなの。そう考える
と誰かに対する『優しさ』でさえ、偶然でないとは言えないんじゃないかって」
 だからといって人間性を否定するつもりはなかった。全てが決められた世界であ
るならば人に意識は宿らない。例えば、人の身体も世界の全ても細かく分ければ粒
子や電子などの物質から成り立っている。そんなニュートン力学が通用しないミク
ロの世界での物理現象は、全て確率的にしか予言できないのだ。だとしたら、その
どこに決定された事象があるのだろうか。
「そうですね。世の中、必然と思えることですら本当は偶然だった場合も多々あり
ますからね。神様だってサイコロを振りたくなる時があるかもしれませんわ」
「ところでさ、この物語ってこれで終わり?」
「ううん。この子の物語はまだ始まったばかりだよ。絶望はけして終わりじゃない。
あの子にはそれを乗り越えて世界と向き合ってほしいの。だって、この優しくも残
酷な世界は、あたしの全てが詰まっているの。その世界をそう簡単に嫌われてなる
ものですか」
 ありすは自分の構築したもう一つの世界にいる少女に想いを馳せる。
「しかし、まさかね」
 美沙が含みを持ったように笑う。
「なによぉ」
「時代劇を書いてくるとはね。予想外と言えば予想外。しかも戦乱ものだからね。
こりゃこの先、ますます化けるかもね」
 茶化すように、でも本心は期待を込めているかのように美沙がそう呟いた。


■OPEN〜The end of the story


 公園のベンチに座り、まるで魂の抜けたように虚空を見つめるありす。服は破れ、
肩口からは血が染み出ている。はたからみれば何事かと思われるだろう。
 膝の上にはボロボロになった一冊のノートを、無意識にその表面を撫でている。
 身体の痛みは感じない。
 ただ心の痛みだけが化膿しかけた傷口のようにじくじくと疼いていた。
 手にしている一冊のノート。
 これを守る為に何を無くしてしまっただろう。
 でも、これを守った事で確実に何かを得たと思いたかった。
 ……だけど本当は、ただ憧れていただけかもしれないんだ。
 守った事に意味を持ちたくて。
 守った事で何かを得られると信じて。
 実際には何も失うこともなく、そして何も得られることもなかった……。
『こらっ!』
 懐かしい声を聞いたような気がする。空耳だろうか。
 その時、風向きが急に変わり、強風がありすの座っている場所に吹き付ける。
 頭上にある小枝が大きな音を立ててがさがさとその風に煽られた。
 こてん、とありすの頭に何かが落ちてくる。
「痛っ!」
 地面に転がったそれは、見覚えのあるウサギのキーホルダー。随分前に彼女が無
くしてしまったものだった。量産品なので、ありすの所有物だったものかどうかは
一目ではわからない。だが、確認する方法はある。
 裏には文字が刻んであったはず。それはオーダーメイドで彫られたもの。
 願うように、祈るように裏返すありすの瞳が涙で潤む。

『
 何があっても私たちの友情は変わりません 成美
 未来永劫、この出会いに感謝 美沙
 明日も明後日もまた会えるよね ありす
                        』

 忘れていたわけではない。悲しみに沈み、二度と起きあがれなくなるからと心の
底に閉じこめていたもの。
 あの日、永遠にも続くと思われた日常は突然終わりを告げた。何があったかは悲
しすぎて思い出すことさえ苦痛だ。だが、一人生き延びたありすがそれを悔やんで
も意味はない。あれは、彼女のせいではない。
 それでも、天災とも人災とも噂されたあの日以来、彼女は変わってしまった。
 現実を拒み、物語を創ることさえ拒んだ。逃げるのを嫌っていた彼女が初めて逃
げることに躊躇をしなくなる。はては妄想を生み出し、その混沌とした泥の中にど
っぷりと浸かってしまった。
 けど……。

『ありすは物語を組み上げているじゃない。根拠のない誤った世界、それを妄想と
言うんだけど、そんな無責任な世界は創らないじゃない。そこがね、なんか凄いな
って思うんだ』
 美沙ちゃん?

『でも、ありすさんが物語を大好きなことには変わりはない』
 成美ちゃん?

『もう大丈夫だよね』

 懐かしいその声は空耳なのか、自分が生み出した幻なのかはわからない。
 よくわからないのに、涙が溢れた。その溢れた涙を見て、自分が何をすべきかよ
うやく理解した。
 ありすは躊躇わず、手にしたノートを一気に破る。でも、まだ半分に引き裂かれ
ただけだ。だから、今度は一ページ一ページ、丁寧に細かく刻んでいく。
 風で空に舞い上がるノートの切れ端。その一つ一つには、彼女の想いが込められ
た文字がびっしりと書き記されてある。でも、それはもうどうでもいいのかもしれ
ない。彼女はこんなものを守りたかったのではない。こんなものを誇りたかったの
ではない。
 誇るべきは出会った友たち、そして一緒に過ごした時間。
 失ってしまったものを悔やむのではない。
 ありすに影響を与えてくれたことを感謝しなければならない。それが生きてここ
にいる理由。

 優しくて強くて活動的で、それでいて大らかな美沙に憧れていた。

 優しくて気高くて優雅で、それでいて親しみやすい成美に憧れていた。

 彼女は想う。
 どれだけ裏切られても、
 どれだけ痛めつけられても、
 諦めることができないのは、自分の中に残る『憧れ』なのかもしれない。
 一度知ってしまった『優しさ』というぬくもり。
 いっそのこと憧れることなどなければ良かった。そうすればこの世界に未練など
持つことはなかった。いつもそうやって悔やんでいた。
 でも、本当は知らないよりはましなのかもしれない。
 こんなにも心を純粋にして憧れてしまえるほど、それは尊いものなのだから。
 一度知って、それがかけがえのないものだと気付いてしまったのだから。
 それだけは胸を張って幸せだったと思える。

 だから、この残酷な世界にもう一度憧れを芽吹かせよう。
 この優しい世界を取り戻そう。

 それがささやかなの願いなのだから。

 自身が望むなら、ありすは何度でも再生する。



                                了




#299/598 ●長編    *** コメント #298 ***
★タイトル (lig     )  06/09/01  20:43  ( 43)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[後書き] らいと・ひる
★内容                                         06/09/04 20:34 修正 第3版
 この物語は2年前の2004年10月にアップした「この優しくも残酷な世界」を設定
から見直し、キャラクターの掘り下げ、エピソードの追加、修正及び、前作では入
れることのできなかったミステリパートの組み込みを行ったものです。
 登場人物の名前も違いますので、前作の雰囲気を継承しながらもまったく違う物
語となったはずです。
 反省点としては、だいぶ凝りすぎたかなと。無駄なものは削ったつもりなのです
が、形跡が残っていたり繋ぎが不自然な箇所も出てきそうなのが怖いですね。一応、
自分でも読み直しておりますが、補正がかかってしまってるので完全には無理かな
……。
 それと本音としては、前作は削除してしまいたかったです。稚拙な部分も多く、
思いつきの設定をコテコテと塗りたくった感じで、伏線もスカスカだったような気
もします。
 ですが、それでは感想を書いていただいた方に申し訳ないと思い、きちんと残し
てあります。というか、前作で修正箇所を指摘されたのに直していなかったという
のは、実はこういう訳でした。修正していくうちに別の物語になってしまったとい
うオチです。
 あの時、感想を頂いた永山さんには深くお詫びを申し上げます。申し訳ありませ
んでした。

 初めての方は、こちらの作品だけお読みいただいても問題はありません。お暇で
したら、前作との違いを比べていただけると、それはそれで違う楽しみ方ができる
かもしれません。

 まあ、いつものようにネタバレ防止のフタの役割でしかない後書きの文章です。
某お方とは違い、己の器の小ささを感じるなぁ。大昔と比べて、後書きにかける情
熱も薄っぺらくなってしまったものです。

                                 2006.9.1

※2006/09/02

 03の316行目と06の239行目の台詞を一部変更しました。それにともない01のバー
ジョン表記も更新。
 前者は致命的ミス、書いたつもりが書き落としていたもの。後者は、雰囲気的な
もので、まあ変更しなくても意味は通じたのですが。

 それから、10の183行目のサブタイトルを修正。タイトルとの関連でより深く意味
を持たせました。まあ、わからなくても支障はないです。

※2006/09/04

 永山さんから指摘された箇所プラス自分読んでいて気になった数箇所を修正しまし
た。




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