AWC お題>秘密>ふたりはひとり?(上)   寺嶋公香


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#252/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  05/04/08  23:59  (383)
お題>秘密>ふたりはひとり?(上)   寺嶋公香
★内容                                         17/04/27 03:27 修正 第3版
 疑問を持つきっかけは、些細なことの集積である。
 星崎譲が久住淳と音楽番組で共演したその日、起きた小さな出来事も、彼の
内にまた一つ、小さな欠片を積み上げた。限界に達し、堤を決壊させることに
なるかもしれない一片を。
 蒸し暑い日で、スタジオ内は空調が効いてはいたが、演出の都合上、風の流
れは最小限に抑えられていた。加えて、ライトの熱。人数の多さも相まって、
収録は一旦休憩に入ることに。
 メイクや髪、衣装直しのために控室に戻る者もいたが、星崎や久住らは、そ
の場で簡単に手を入れるだけで済んだため、壁際でお喋りをしていた。ユニッ
トを組んで歌を出す話が進行中で、話題は専らその点に集中する。
 そこへ一脚のパイプ椅子を、アシスタントディレクターが持って来た。
「すみませーん。数が足りなくって……」
 ベテランや大物、それにグループの出演者が多く、椅子の数が間に合わない
らしい。星崎は嫌な顔をすることなく、それどころか椅子を半ば奪うように受
け取ると、自ら開いた。
「かまいませんよ。僕は若いし、体力あるから」
 小声で言いながら、目は久住に。座るよう促す。しかし、スタッフが去って
も久住は座ろうとしなかった。
「年齢を持ち出すなら、星崎さんよりも若いです」
「こういう場合、遠慮はよくないね。君は体力ないのだから、少しでも休まな
いといけない。一緒に唱うとき、振り付けが遅れるなんてことのないようにね」
「でも、先輩だし」
「その先輩がいいって言ってるんだよ」
 両肩に手を置くと、椅子に押し付けるようにして座らせた。久住は居心地が
悪そうに、星崎を見上げてきた。
「ありがとうございます……このあと、倒れないでくださいね」
「はは、ほんと、言うようになったね。大丈夫。君の方こそ、ちゃんと食べて
るか? 全然、太ってないようだけど」
「無理をして痩せてるわけじゃないですから。食べた分だけ、動いてます」
「あとは充分な睡眠を取れば、完璧ってわけかい」
「確かに、睡眠時間は減ってるなぁ。少しでも寝ちゃおうかな」
 久住はそこまで答えて目を瞑った。
 同時に、星崎には、さっきのスタッフが早足で再び現れるのが視界の隅に捉
えられた。と言っても、二脚目の椅子を運んできたのではない。両腕には飲み
物の缶を抱えていた。ふと見渡せば、他の出演者達も缶飲料でのどを潤してい
る。
「どうぞ、お好きなのを」
「どーも。持ち直すのも大変だろうから、適当に上にあるやつを」
 星崎はそう言って、お茶とコーヒーを手に取った。お茶の方は、久住が以前、
よく飲むと言っていたブランドだ。
「これでいいだろ、久住君?」
 声を掛けるも、返事がない。まさか、速攻で眠りに落ちてしまったのかと思
い、顔を覗き込もうとした星崎だったが、急に、驚かせてやろうという考えが
浮かぶ。指先に痛いほど伝わってくる缶の冷たさが、思い付かせたのかもしれ
ない。
「ほら。もう取り替えはきかないよ、と」
 意識的に声のボリュームを下げる。そうして缶の底を、久住の細いうなじに、
ちょんと当てた。
 次の瞬間、悲鳴が上がった。絹を裂くような悲鳴が。

「もう絶対にやめてください、星崎さん」
 収録が完全に終わったあとも、まだ久住はぷんぷんしていた。星崎が声を掛
けても、しばらくはまともに返事をしてもらえなかったくらい。
 やっと答えてくれたのが、先の台詞だった。
「ごめんごめん。まさかあんなに驚くなんて、想像していなかった。……もっ
とも、僕も驚いたけれどね、君の悲鳴には」
 星崎が手を合わせながら謝る。しかし、久住は再度、口を噤む。横顔が赤い。
どうやら、余計な一言を付け加えてしまったらしい。
 缶飲料を押し当てられた久住の悲鳴は、星崎だけでなく、その他大勢の出演
者の注意を引いた。何人かにはからかわれたほど。
「気にしてるのか? きれいな声なのに」
「……そういうんじゃなくて……」
「みんな悪気があって言ったんじゃないんだし、本当に気にすることないさ」
 斜め後ろから、相手の肩をぽんと叩いた星崎。だが、彼の手は、邪険な仕種
で払われた。続いて、思いも掛けない大きな声が、久住の口を衝いて出て来る。
「そんなの分かってる! ――ごめんなさい、一人にさせてください」
「あ、ああ……」
 ごく短い間に沸点と凝固点を見せた久住を、星崎は最早、黙って見送るしか
なかった。「またな」というつもりで挙げた右手が、宙で虚しく握られる。そ
のまま、力無く下ろし、ため息をついた。
(逞しいんだか、か弱いんだか、まだよく分からないな)
 控室は違うが、顔を合わせると気まずいとの思いが立ち、その場に留まる。
(そういえば……久住君と一緒の部屋になったときも、着替えているところを
見た覚えがないな。恥ずかしがりなだけなんだろうが、一度、「実は胸毛が凄
いとか?」なんてからかったら、やっぱり怒り出したっけな。結構、プライド
が高いのかねぇ?)
「あら。どうしたんです、こんなところで、一人で。忙しいんじゃ?」
 記憶を掘り起こしたり、独り言を言ったりして時間を潰していた星崎に、後
方から女性が呼び掛けた。声の主には、すぐに察しが付いた。加倉井舞美。
「今日はこれでおしまい」
 振り返りながら答える。ついで、尋ねた。
「加倉井君は何?」
 彼女は俳優活動重視で、滅多に唱わない。昔出した歌を、若気の至りと言っ
て悔いているほどだ。当然、星崎達の出演した番組にも姿はなかった。
「ドラマの宣伝で、色んな番組に顔見せ。やっと終わったところ。そうしたら、
こっちのスタジオに知ってる人がたくさん出ていると分かったら、ちょっと覗
いて行こうとしたのだけれど、一足遅かったわ」
「誰かに用事でも?」
「特に誰というのはないわ。まあ、久しぶりに久住君と会っておきたいなって。
また一緒にやりたいのに、口を酸っぱくして言わないと、なかなか本気になっ
てくれないもの」
「あー、彼なら、今は一人になりたいと言っていた……」
 そう口走ってから、失敗だったかなと後悔する星崎。わざわざ事実を伝えな
くても、忙しいらしくてもう出たぜとでも答えるべきだったかもしれない。
「一人になりたい?」
 案の定、加倉井は食いついてきた。なかなか耳ざとい。
「星崎さん、久住君と何かあったのね」
「どうしてそう思うんだ」
 図星に動揺しつつも、星崎は平静を装って聞き返した。加倉井は即答で応じ
た。
「彼、一人になりたいと言ったんでしょ。で、あなたがここに一人、衣装のま
まぼんやり立ってるってことは、二人の間に何かあったと考えるのが、自然じ
ゃないかしら」
「さすが。げに恐ろしきは、女の勘なり……」
「ばかな冗談を言ってないで、どうなんです?」
 加倉井の靴が、床をきゅっと鳴らす。一歩詰め寄られ、星崎は仕方なく、今
日の顛末を話した。仮に喋らなくとも、他の出演者から伝わることだ。
 聞き終えて、加倉井はこれ見よがしに嘆息した。
「あんまりいじめちゃ、だめじゃない」
「人聞きの悪い。親しい友達なら、これくらい当たり前さ」
「反応が面白くて、わざとやってるんじゃありません?」
「そりゃ、その意識が全然ないとはね、言わないよ。でも、機嫌を損ねるよう
なことかねぇ? 正直、あれしきのことで嫌われるんだったら、僕と久住君と
の仲はその程度だったのかと、悲しくなる」
「……分からないでもない、としておきましょう。だけど、彼って、普通の芸
能人とはちょっと違う感じがあるから」
 “普通の芸能人”という言い方に、星崎はつい頬を緩めた。おかしな表現に
思える一方、ニュアンスはとても理解できる。ともかく、久住淳が芸能人らし
くないという見方には、大いに頷けた。
「私達と同じような仲間意識で接したら、傷ついちゃうんじゃないかしら。繊
細なガラスの置物みたいに」
「見た目で語ってないかい? 確かに、彼は線が細いが、性格までそんな、箱
入り娘かお姫さま……」
 言いかけでとまる。閉じられた口元に左拳をあてがい、思い返してみる。
(女の子みたいな体格。腕力もない。食の細さ。一緒に着替えない。キャリア
の割に、専属のメイクさんがいる。髭を剃っているところを見ない。僕より四
つか五つ下で、髭が生えないってことはないだろ。あっ、それに、トイレに出
入りする姿も見た覚えがない。声も男にしては高いし、あの悲鳴……)
 黙り込んだ星崎は、加倉井に目を向けた。比較のために。
 彼女は首を傾げていた。だが、星崎がまじまじと見つめると、不機嫌そうに
目を細めた。
「何ですか、ほ・し・ざ・き・さん?」
「あ、いや。肌の感じがどうだったかなと思ってね」
「肌?」
「久住君の肌も、君ぐらいきめ細かかった気がするんだが」
「ああ……悔しいけれど、彼の肌には負けるわ。薄く化粧しただけで、あんな
にきれいになるということは、土台がいいに違いない。つまり、素顔だと多分、
私の負け」
 少しだけ自らの頬に触れ、苦笑を浮かべた加倉井はその直後、「こんなこと
言われたと知ったら、また彼、傷つくかもしれない。オフレコでお願いします
ね」と口止めをしてきた。
「うん……それはかまわない。……こんなこと、加倉井君に聞いてもしょうが
ないしな」
「さっきから、焦れったい。気になる言い方をするくらいなら、はっきり口に
出してくださいよっ」
 このままだと粗野な物腰になりそうな加倉井を見て、星崎は念のため、尋ね
てみることに。
「久住君がトイレに行ってるとこ、見た覚えない? 髭を剃ってるところとか、
諸肌脱いでるところでもいいんだけれどね」
「微妙に、セクシャルハラスメントな気がしますけど。もしくは、私が彼のス
トーカーだとでも? いくら私が久住淳を買ってるからと言って、それは――」
「そんなつもりは、ないない。ただ、僕ですら一度も見たことがないなと、ふ
と思ったんでね。気になっただけだよ」
「そんなことを気にするなんて。イメージ戦略でしょう。生活感のある物事を
徹底的に切り離し、神秘的なイメージを作る。今では珍しいけど、昔は割とポ
ピュラーな戦略だったはず」
「いや、でも、僕ら仲間内でも隠すとはね」
「噂が立つのは、同じ業界の人間が喋るから。違いますか」
 年下の女性に言い負かされて、星崎は頭を掻いた。照れ笑いの表情だが、内
心では安堵もしていた。加倉井の言った通りとすれば、自分の抱いた馬鹿げた
疑問を打ち消せる。
「ついでにもう一つだけ。加倉井君から見て、久住君は魅力的な男性なのかな」
「私個人の見方はともかく、一般論としてなら、久住君のようなタイプを好む
女は、たくさんいるでしょうね。何故、こんなことを?」
「何でもないよ。大した意味はない。あっと、いい加減、着替えないと、マネ
ージャーから大目玉だ」
 それを逃げ口上に、星崎は男性控室へと急いだ。

 スタジオでの一件以来となる再会は、早い内にやって来た。ユニット結成の
話を詰めるためだ。
 関連レコード会社の用意したビルの一室で待つ間、星崎はやきもきし通しだ
った。気まずい顔合わせになることが、容易に想像できたためだ。星崎自身の
中では、一応の決着をしていたが、だからといって久住もそうとは限らない。
むしろ、引きずっている可能性が高い。
 久住とちょっと揉めたことを、星崎は事務所の関係者には言っていなかった。
隣に座る柏田マネージャーも、もちろん知らない。
(まあ、見ていて危なっかしいとは言え、久住君もプロだ。仕事に悪い影響を
与えるようなことにはならないだろうが……)
 そう信じようとするものの、実際に会わない内は、落ち着けないでいた。
「そろそろかしら」
 柏田が壁の時計を見上げながら、つぶやく。約束の時刻まで、あと七分ほど。
「久住君のところは、五分から十分前に現れるのが常だから」
 誰に問われたでもないのに、場に向けて柏田が続けて言った。これを合図と
したかのように、ドアが控え目にノックされ、言葉が交わされる。久住達の到
着だ。
 星崎は知らず、緊張した。頬の筋肉が強張るような感じを覚える。それでも、
ドアの方に目を向けた。
 鷲宇と市川の挨拶が聞こえた。扉は星崎の座る側に開くため、まるで仕切り
のようになって、久住達の表情は依然として見えない。
 やがて扉が目一杯開かれるや、久住の何かを探すような視線が、こちらを向
く。
「やあ」
 片手を挙げ、幾分堅い調子で応じようとした星崎に、久住が駆け寄る。短い
距離故、まるで飛び込むかのように。
「やっほー、星崎さん!」
 そして、挙げていた星崎の右手に強くタッチ。乾いた音が心地よく響いた。
「元気にしてた?」
 間近に久住の明るいが真剣な表情。「あ、うん、元気だよ」と答えると、そ
れが見る間にほころんだ。
「よかった! 立たせっ放しで、足腰に来たのじゃないかと、あとになって心
配で」
「……」
「あれ? 面白くなかった? 念のために言っておくと、冗談だから」
 途端に眉根を寄せた久住。そのめまぐるしい変化がおかしくて、星崎はせき
込むような笑い声を漏らしながら、「わ、分かってるよ」と言った。するとま
た、相手の表情が変わる。
「この間はごめん。あの日は僕、始まる前から少しブルーになってて。星崎さ
んが元気そうだから、よかった」
 両手を取りながらの満面の笑み。星崎の懸念は杞憂で済んだ。しかし。
(やばい)
 星崎は、片方の手を離し、それを自分の額に持って行きながら、心中で密か
にこぼす。
(かわいいと思ってしまった)
「感動の再会はそれくらいにして、ぼちぼち、お仕事と行きませんか、お二人
さん?」
 鷲宇の言葉で、星崎の動揺も収まる。
「星崎さん、隣に座っていい?」
「いいとも」
 普通に答えることができた。

 ねえ、星崎さん。
 ここ、星崎さんはどう思う? 僕は、こうした方がいいんじゃないかな。
 ごめんなさいっ、星崎さん。もっと鍛えないといけないね……。
 今のはよかったよね、星崎さん! 一度きりの奇跡にならないようにしなく
ちゃ。
 星崎さん、星崎さん、星崎さん――。
(……何なんだ、これ)
 身体を起こした星崎は、ベッドの上から目覚まし時計を寝ぼけ眼で睨む。立
ち上がって、時計を手に取り、音を止めてから顔を近付ける。一時間早くセッ
トしてしまっていたことを理解し、元の位置に戻した。
 それから、さっきまで見ていた(はずの)夢について思い返す。
 星崎と久住、二人の歌はほぼ順調に進んでいた。双方のスケジュールの都合
で、ユニットとしてどれくらい活動できるのか、見通しが立たないため、とり
あえず特別セッションという形を取ることになったものの、基本的に変わりは
ない。
 順調でない部分があるとしたら、久住の体力面と、星崎の感情ぐらいだ。前
者は関係者にとって周知の事実だが、後者は誰も知らない。
(一緒に練習しているからって、夢にまで見るとは)
 起き出して、今日のスケジュールや電子メールをチェックしようかと手を動
かすが、いまいち身が入らない。でも、頭はすっきりしており、予定より早く
起きたにも拘わらず、欠伸一つ出ない。
(歌だけなら問題ない。振り付けがな。身体を密着させるところが特に)
 思い出す。それだけで目の下辺りに赤みが差した。
「くそっ。これなら、女であってくれた方がよかった。……ん?」
 声に出してみて、まだ確認したわけではないことに気付く。
 以前、加倉井に反論されたが、実際には完全に否定されてはいない。久住が
男ではない可能性は残る。星崎が感じた疑問は、どちらとも取れる、表裏一体
の情況証拠のようなものだ。
(しかし、仮に男でないとしたら、隠していることに、何か理由があるはずだ。
事情を知らない僕が、暴き立てていいのかどうか……)
 自答するまでもない。暴くのはよくない。そんな予感がする。第一、事情を
云々する以前に、性別を偽って芸能活動していたとなると、それだけでちょっ
としたスキャンダルだ。騒動になるのは間違いない。
(確かめるにしても、大っぴらにはできない。一人でやるほかないな)
 胸の内で呟いたものの、決意を固めるまでには至らなかった。心のどこかで、
今のままでいいと感じ取っているのかもしれない。

 少なくとも、この歌の仕事が終わるまでは、何も行動を起こさないでおこう。
星崎がそう決めてから、しばらくは順調に進んだ。
 今回のプロジェクトは、制作サイドの力の入れようも相当で、プロモーショ
ンビデオ用に、建設中の大橋での撮影許可を特別に得るほど。幸い、当日はイ
メージ通りの晴天で、撮影日よりと言えた。
 が、好事魔多しというやつか、その撮影の佳境も佳境に、久住が急に体調を
崩したのだ。
 ダンスの途中、不意に表情を歪めたかと思うと、お腹を押さえた。ついで身
体を折ってうずくまり、そのまま動かなくなる。星崎はすぐ隣にいたが、どう
することもできなかった。
 緊急事態に現場は一気に騒然となり、久住はとりあえず車の中に運び込まれ
た。撮影日は一日しか押さえておらず、改めて許可を申請していては手間が掛
かるし、そもそも許可が下りるかすら怪しい。撮影のために、橋の完成を遅ら
せることは非現実的だ。
 関係者らが久住の身体と撮影の段取りを心配する中、星崎は車に駆け寄った。
励ましの声を掛けてやりたいし、病院に運ぶのならついて行こうと思った。
 ところが、久住を乗せたワゴン車は、カーテンをしっかりと引き、久住に極
近い者以外が入ることを拒んだ。
 それだけならまだしも、いつまで経っても病院に向かう気配はないし、救急
車を呼んだ様子もない。目立った動きと言えば、市川の部下で杉本という男が
車でどこかに行き、じきに戻って来た程度だった。
「何してんです!? 早く医者に見せないといけないんじゃ?」
 帰って来てワゴン車に乗り込む直前の杉本に、星崎は強い調子で尋ねた。相
手は気圧されたようにのけぞりつつも、
「いや。そこまでする必要はないみたいで。うん、心配ないと思うよ」
 と答えて、車内に消えた。その手には、薬の箱らしき水色の直方体が握られ
ていた。真ん中やや上に、白地に黒で商品名が記されているようだが、しかと
は見えなかった。
(薬だけで間に合うのか? いや、それよりも、診断は誰がしたんだ? 大丈
夫なのかよ)
 星崎は、車のボディを激しく叩きたくなるのを我慢した。周りの人間の対応
に納得はできないが、せめて久住を静かに休ませるのが先決と思った。仕事と
か撮影とかではなく、このとき一番純粋に久住の身体を心配したのは、星崎だ
ったかもしれない。
 その一念が通じたのでもあるまいが、小一時間も経った頃、久住は復活した。
ワゴン車から出て来た彼は、恥ずかしげな照れ笑いを浮かべ、みんなに頭を下
げて回る。もちろん、星崎のところにも来た。
「ごめんなさい。ご心配とご迷惑をお掛けしました。でも、もう大丈夫ですか
ら」
 丁寧な物腰の久住の姿が、いつにも増してか弱く映る。
「本当に大丈夫なのかい。ちょっと休んだだけじゃないか」
「はい。薬が効いたみたい」
「結局、何だった? お腹を押さえていたようだけれど」
「えっと。ちょっとした腹痛というか」
 何故か目を逸らし気味になる久住。星崎は気になって、追及した。
「ずっと車にいたんだから、冷やして下したとかじゃないよね。病院で診ても
らった方がよくないかな」
「い、いえ。ほんっとに、もう平気です。それより、時間もないことだし、が
んばらないと」
 そう言う久住の表情は明るく、確かに大丈夫なように見える。多少の無理は
している可能性があるが、動けないことはあるまい。
「君が問題ないのなら、当然、そうするさ。だが、ねえ。また悪くして、次は
倒れたなんてことになったら、僕も寝覚めが悪いからね」
「もう、星崎さん。いじめないでくださいよ。こんな大事な日に体調を崩すな
んて、自覚が足りなかったと、反省してます」
 手を拝み合わせる久住。その仕種に免じ、星崎は追及を緩めた。
「少なくとも今の仕事に取り組む間、僕らはかけがえのないパートナーなんだ。
どちらかが欠けても意味がなくなる。それを忘れないでくれ」
「はいっ」
 久住が元気よく答える。
 二人の会話が終わるのを待っていたのだろう、そこへ市川が呼び掛けてきた。
両手を口に当て、遠くから声を振り絞る。
「もうすぐ再開! 風が強まらない内に、一気に行くわよ!」
 今度は二人声を揃えて、はいと返事した。

 橋での撮影をどうにか無事に終えて、五日が過ぎていた。星崎は久しぶりの
完全オフを、実家で家族と過ごしていた。
 実家と言っても、距離はさほど遠くはない。仕事絡みで家族に迷惑を掛けな
いように、星崎が独立したというのが正確なところである。そういったことか
ら明らかなように、実家に身を置いても景色の印象が大きく変わるわけでもな
く、かといって、下手に出歩けないくらいの人気を博す星崎だけに、結局は家
に閉じこもらざるを得ないでいた。
「テレビ、見ていいかい?」
 母親が言った。テレビの仕事が多い息子を気遣っているのだ。実家に来てま
でテレビでは、たまらないだろう、と。
「ああ。気にしないで、じゃんじゃん見てよ。それよりさ、庭で花か果物でも
植えてみたいと考えたんだけど、世話をどうしよう」
 窓から庭を見通しつつ、星崎は聞いた。豪邸とまでは行かないが、大きな家
に広い庭がある。ただ、いささか広すぎて、殺風景な感じを受けたのだ。
「手順さえ教えてくれたら、私がやるさ」
 リモコンでテレビの電源を入れながら、母。飽きっぽい反面、気に入って習
慣づくと、まめに続けるところがある。庭いじりを好きになるだろうか。ガー
デニングと言い換えれば、その気になるかもしれない。
 テレビ画面では、昼ドラマが始まった。昔の少女漫画に出て来そうな純愛物
に、どろどろした人間関係を持ち込み、どぎつい台詞をスパイスとして効かせ
た話題の番組だ。ご多分に漏れず、主婦層に人気が高い。星崎の母ものめり込
んでいるようだが、出演者達のサインがほしいとは不思議と言ってこない。芸
能界の格付けで、息子のランクはまだまだ低いと思い込んでいるのだろうか。
「話し掛けて邪魔しちゃ悪いな」
 そう言って腰を上げた星崎だが、どこで何をしようか、具体的に考えていた
わけではなかった。立ったまま、何気なしにテレビを見つめていると、オープ
ニングの歌が終わって最初のコマーシャルに、ふと惹き付けられた。あとにな
って思うと、大写しになった商品が記憶を刺激したせいに違いない。
 それは鎮痛剤だった。頭痛や生理痛などに効くと謳う、有名商品。
(この薬……どこかで見た覚えがある)
 上半身は後ろ、下半身は前を向いた姿勢で、しばらく立ち止まっていたが、
ずっとそうしていても仕方がない。星崎は今一度考え、車のキーを手にした。
ぶらっと走って来よう。車から出なければ、人目につかず、問題あるまい。
 ラフな格好のまま、玄関を出て、車庫に向かう。車のドアを開ける刹那、閃
きがやって来た。最前のコマーシャルの薬、あれは……。
(あの青と白の箱って、前の撮影のときに、杉本さんが持っていたやつじゃな
いか? 久住君のために買ってきた、あの薬)
 お腹の痛みを和らげるのに鎮痛剤。最初は、その取り合わせのおかしさに気
付かず、納得しかけた。
 だが、腹痛にまで効能を発揮する鎮痛剤というのは、聞いた覚えがなかった。
この手の薬に詳しいわけではない星崎だが、子供の頃、腹痛・頭痛それぞれの
ときに母親からもらった薬は、確かに別物だった。
(腹痛に効かないのに、鎮痛剤を買ってきたということは……どういうことだ)
 当然、以前に抱いた疑いが、改めてクロースアップされる。星崎は、ドアの
取手に指を引っかけた状態で、動きを止めた。
(もしかすると、腹痛が嘘だった? お腹を押さえていたのは、実は生理痛だ
った……のか? まさかね。しかし、久住君が男でないとしたら、すべての辻
褄が合ってくるのも事実だ)
 自分の思考に、星崎は心中でのつぶやきすらやめ、沈黙した。ドアから手を
離し、反対の手を額に当てると、指で前頭部を軽く叩く。
(いや、あの杉本さんは粗忽なところがあるって、結構有名だ。間違えて買っ
てきたのかもしれない。久住君の体調が治ったのは、薬のおかげとは限らない
じゃないか。
 あるいは……僕の記憶違いということだってある。あの箱と鎮痛薬の外見が
似ていただけで、同じ品物かどうか、僕の記憶だけでの判断は無理だ)
 何故だろう、この間は久住が女であることを――わずかではあるが――願っ
たのに、今は疑念を否定する材料を探している。自分が分からなくなった。
 星崎は、ようやく車のドアを開けた。あてのないドライブに出掛ける理由が
見つかった。

――つづく





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