#208/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/01/27 23:59 (491)
からくり魔神 3 平野年男
★内容
「大丈夫よ。ほら、さっさと食べちゃうから」
トーストを半ば強引に口中に押し込むと、ミルクたっぷりのカフェオレの協
力を得て嚥下した。
「お食事の直後ですと、その、気分が悪くなって……」
まだそんなことを言う久仁香に、良子は強い調子で告げた。
「言ってください。私なら大丈夫だって言ってるでしょ」
「はあ。それがですね……木村賢治さんがどうやらお亡くなりになったような
んですよ」
「は? 嘘でしょっ」
殺しても死なないようなあいつが、という言葉は飲み込み、良子は席を立っ
て相手を見返した。
「私も直には見ておりませんけれど……何か嫌なことが起こったのは本当のよ
うなんですよ」
「どこよ。どこで死んだって言うの?」
「離れの方で。貴之坊ちゃんと流さん、それにうちの旦那が行っています」
「そう……。あ! 警察は? これだけ晴れてんだから」
「それが、連絡はできたんですが、積雪が大変な量で、すぐには来られないと
言われましてねえ」
困ったもんですわとため息をつく久仁香。
「ついでに聞くわ。昨日の結果、どうだったの?」
「結果とは、何ですか?」
「あれよ、死んだ女記者さんの荷物、調べたんでしょう? 何か分かったのか
なと思って」
久仁香は大きな動作で手を叩いた。
「そうでした。あの女の方、嘘を言ってたんですよ。全く、恐ろしい」
「じゃあ、記者じゃなかったの?」
意外な話に、首を前に突き出し気味になる良子。
久仁香は「いいえぇ」と嫌悪の笑みに乗せて否定してきた。
「雑誌の記者なのは本当でした。雪で立ち往生したからというのが嘘なんです
よ。最初からこのお屋敷に潜り込むつもりだったんです。何か調べる気だった
んでしょうねえ」
「……だとしたら許せないけれど、何故それが分かったの?」
「手帳に、ここの住所がメモってありましてねえ。メモを見つけたのは流さん
でしたが、私は寒気が来ましたわ」
実際に腕を抱え、久仁香は寒がる仕種を見せた。
「結局さあ、車が動かなくなったのは嘘? この雪だけど」
「今は全く動かなくなってるみたいですよ。昨日の夕方、助けを求めてきたと
きはどうだったか知りませんけどね。とにかく、嘘を言っていたのは確か。こ
れで少し、気が軽くなりましたよ」
「え?」
「あの人が死んだことが、です。心を痛めていたのが馬鹿らしくなりましたわ」
芝居気たっぷりに肩をすくめると、台所仕事に復帰する久仁香。
その背中を良子はしばらく見やっていたが、やがてテーブル上のコップを手
に取り、カフェオレを飲み干すと、
「私も離れに行ってみようっと」
とつぶやき、玄関に向かった。
ドアを開けた先には、雪に染まった景色があった。雲間から覗く太陽の光で
きらめいている。
そして離れへ向かう足取りの軌跡がいくつか。
いや、それでは正確を期さない。離れから本館に向かうものもある。良子は
数えてみた。重なり合って判別しづらいが、離れへ向かうのは、途中までは五
つで、そこから先は四つのようだ。逆向きは一つだけ。
良子はそれらと並行するルートを取り、なるべく急いだ。ところが五メート
ルも行かない内に、妙な物を認識した。
「……銀の箱」
見たままを声に出す。銀色の表面をした立方体が斜め右前に転がっている。
上の面に雪は積もっておらず、太陽光を浴びて眩しく輝いていた。縦七十セン
チ、横二十センチ、高さ二十センチほどのサイズ。
良子はその箱に見覚えがあった。だが、記憶の中で明確な像を結ぶまでには
至らない。片隅に引っかかって、全部を思い出せない。
だが、しばらく考えて思い当たった。視線をさらに前方へ移したお陰もあっ
た。
「あいつの人形の一部だわ」
木村賢治がこしらえた等身大の人形。その足――左右どちらかは知らないが、
片足部分が雪の地面に放置されている。離れの小屋へ向かって、人形の他の身
体の一部も転々と落ちていた。
薄気味悪さを肌と頭で感じつつ、良子は箱を見ながら離れへと歩いた。
二つ目の箱は、やはり足の部分だった。次にあったのは腰で、大きさで言え
ば洗面器程度か。続いて胴、左腕、右腕、頭部の順で転がっていた。いずれも
その表面に積雪はない。
「どういうことよ、これ。何かのおまじない?」
低くつぶやいたのは、怖さを払拭したいがためだった。
「見ない方がいい」
突然、流の声が聞こえた。そちらの方を見ると、離れの戸口に流が厳しい顔
つきで仁王立ちしている。
良子は状況も忘れ、格好いいと感じてしまった。雪景色をバックに、全身ほ
ぼ黒尽くめの流の姿が映える。これで黒サングラスを掛ければ、洋画の主役と
言っても通用しそう。
でも、子供扱いする態度には反発を覚える。一応、足を止めたが、言いたい
ことはきっちり返す。
「ここは私の家も同然なのよ。何が起きたのか知るのは、当然の権利でしょ?」
「あとで、お兄さんからでも聞きなさい。直接見ることはない」
いくらか声を和らげ、諭す風に言った流。良子は再び歩を進め始めた。
「あいつがどうなったのか、確かめておかなきゃ、不安だわ!」
「良子さん。頼むから、ひとまずストップだ。実を言うと、雪の上の足跡が重
要な手がかりなのかもしれないんだ」
「え?」
手がかりと聞いて、足を止める。そして周囲を見渡した。屋敷と離れを結ぶ
のは、何本かの整然とした足跡のみ。いや、一つだけ、乱れた足跡がある。こ
れは恐らく第一発見者のものだろう。
「見ない方がいいと言ったのは、そのためでした?」
「足跡を乱させないためだけじゃないよ。本当に、惨状なんだ」
「……見ないから、教えて。どんな風に殺されていたの?」
「実は、遺体の状況があまりにもひどかったから、写真に収めたあと、移動し
たんだ。元々の犯行現場らしい離れに」
流の返事は、良子の質問にまともには答えていなかった。
「え! 警察が来てないのに、そんなこと。だめじゃない?」
「緊急事態だ。それに、あのまま放置しておくと、陽が高くなってから、傷み
が激しくなるかもしれないし。第一、忍びなくてね……。どうやらまだ見つけ
ていないようだけれど、人形の各部から少し離れた位置に、窪みがあるのが分
かるだろう?」
流の指差した方を振り返り、良子は目を凝らした。雪の白が眩しかったが、
相手の言わんとしたことはじきに理解できた。人形の四角い頭から、およそ三
十センチほど離れた地点に、丸とも四角ともつかない形状で雪がへこんでいる。
大きさは直径四十センチほど、いや、もう少し大きいだろうか。人形の他のパ
ーツにも、それぞれ対応するかのように窪みができているようだ。
「うん。見えた。それがどうしたの」
「……木村氏の遺体は切断され、ビニール袋にくるまれ、人形の各部分に対応
させるかのごとく、添え置かれていたんだ」
「――」
さすがに絶句した。いかに憎たらしい人間であっても、殺され、ばらばらに
切断された挙げ句、この寒空の下、人形と同じように雪上に転がされていたと
聞いては、息を飲んでしまう。わずかながら同情すら覚えた。頭を左右に振っ
ても、その思いは変わらない。
一瞬停まった呼吸を再開させると、白く染まった息が眼前一杯に広がった。
「大丈夫かい?」
「ええ。ちょっとびっくりしたけれど。あいつ、ろくな死に方をしないと思っ
ていたら、そんなことになるなんて」
喋る内に、震え声に気付いた。自分自身だ。昨日の事件で早々と麻痺してし
まったと思えた平常の感覚が、まだ生きていることを実感する。
「離れは見ちゃいけない。戻って、大人しくしているんだよ」
「でも」
足跡に注意しながら離れに引き返そうとする流だが、その腕を良子に掴まれ、
立ち止まった。
「何?」
「こんなことした犯人が、どこの誰なのか分からない……恐い。家の中にいる
かもしれない」
「……そう、注意を喚起させておかなくちゃならないな。恐がらせるつもりじ
ゃなく、あえて明言するよ。足跡から考えると、犯人が外部から来た可能性は、
限りなくゼロに近い。屋敷にいた人達の中に犯人がいると思って、まず間違い
ない」
「え」
口元を両手で押さえる良子。彼女の先ほどの台詞は、外からやって来た犯人
が、今も敷地内のどこかに隠れ潜んでいるのじゃないかという想像を語ったに
過ぎなかった。犯人は内部の者だと流に断言されて、小さくない衝撃を受けた。
「一人でいるのが不安なら、お父さんやお母さんについてもらって――」
「お父さんやお母さんは、身体が不自由だから、襲われたら一緒に」
「それなら、貴之に付き添わせよう。今、離れにいるから、すぐに行かせる。
良子さんは先に屋敷に入っていて」
「な、流さんでもかまいません。ボディガード」
「信頼してくれて嬉しいよ。だが、僕は調べて記録をしなければいけない。警
察に状況をなるべく正確に伝える役目がある」
「どうして流さんが」
他の人でもかまわないじゃない、と強く思う良子。
対する流は、意外なことを言い出した。
「僕はかつて、殺人事件に巻き込まれたことがある。警察の捜査に協力したし、
凄惨な死体を目の当たりにもした。だから、他の人よりは慣れているつもりだ」
「……分かりました」
にわかには信じられなかったが、自信溢れる流の口吻を頼もしく感じたのも
事実だった。良子は半ば後ずさるような格好で、移動を始めた。
「流さんも気を付けてください」
「大丈夫」
離れに向かう足を止めた流は振り返り、人を安心させる微笑を見せた。良子
はこのひととき、ほっとした。
しかし周りの空気は、好対照なまでに温度を下げ出した。空に残っていた雪
雲が、勢いを取り戻すかのような風が吹いていた。
良子が屋敷に入り、兄の貴之が続いて、家族の無事を互いに確認し合ってか
ら小一時間。再び小降りになった雪の中を、流と加藤医師、江田の三名が離れ
より戻って来た。
「警察ほど正確ではないが、我々でも多少のことは分かるものです。いくつか
分かった点があるのですが、皆の身の安全のためにも、判明した事実を全員で
共有しておきたい……と思っています」
口火を切ったのは、加藤だった。朝からの思わぬ作業に疲労しているらしく、
腰を自ら叩きながら、ソファに身体を埋めた。
「ただし、聞きたくない人は退席してくださって結構です。何せ、いささか凄
惨な話になりそうなので……」
一息つき、妻の運んできた温かい飲み物を口に運んだ加藤は、全員をゆっく
りと見渡した。
「身の安全と言ったが」
藤川晋太郎が口を開く。
「やはり、犯人はまだこの屋敷のどこかに潜んでいると見ているのかね」
「いえ、そうとは限りません」
答えたのは流だった。晋太郎が音のした方角を向く。その口調に若干、見下
すような響きが加わった。
「と、言うと? 外部に去ったと断言するのかね、流君?」
「雪に残った足跡から判断すると、その可能性は低いようです」
「ならば、屋敷のどこかに潜んでいるのじゃないか?」
「ここは広いですから、隠れ場所には事欠かないかもしれません。しかし、潜
んでいないとも考えられます。徒に恐怖心をかき立てるつもりはありません。
現実をきっちりと認識してもらうために言います。犯人はこの場にいる九名の
誰かだという考え方も、さほど不自然ではないということを」
広間がざわめく。しばらく止まない。藤川夫妻や加藤久仁香、牧らは口々に
非難めいたことを言う。
「皆さん、落ち着いて。静かになさってください」
江田が凛とした調子で割って入ると、場はぴたりと静まった。外見からは想
像しがたい、ぴしゃりとした言い様だった。長らく秘書として誠実に仕えた分、
藤川家の人間から信用を得、一目置かれているのがよく分かる。
「私の目から見て、流君のこれまでの判断は適切でした。加藤さんも同じ見解
でしょう」
「ええ。最善を尽くしたと言えますよ。今度の措置に、もしも警察が難癖を付
けてきたら、私と江田さんとで完璧に弁明してみせよう」
「どうも。――私達が認めた彼の判断なのです。身内に犯人がいると考えたく
ない皆さんのお気持ちは分かりますが、論理的には流君の見方が正しいのは明
らかでしょう」
二人の物言いにほとんどが反発を引っ込めたが、晋太郎だけがさらに意見を
述べる。
「言わんとすることは理解できた。だが、うがった見方をすれば、万が一にも
当の流君がこの犯罪に関与しておった場合、どうなるのだということになる」
「はい。それこそが論理的というものです」
流が認める。
「事実、容疑者には僕自身を含んでいることを、先ほどもちゃんと明言しまし
た。『犯人はこの場にいる九名の誰かだ』と」
「ふむ……そうだったな」
いささかばつが悪そうに、晋太郎は鼻の下を擦った。その後、口をつぐんだ
ので、流が会話を引き取る。
「公正さをなるべく高く維持する意味でも、全員で情報を共有したいんです。
先ほど、現場の調査に当たったのは、僕と加藤さん、江田さん。それに貴之も
少しばかり一緒でした。少なくとも、昨日が初対面の僕と加藤さん、江田さん
との間には共犯関係は成立しないと見るのが妥当でしょう。その僕ら三名で調
べたのですから、これから皆さんにお知らせする話は相当な高い公正さを有す、
と思っていただけるものと信じます」
「賛成だ。犯人に手の内を見せてしまうというデメリットはあるがな」
貴之が真っ先に同意した。こう宣言することで、自分は犯人でないとアピー
ルする意図もあったかもしれない。
他の面々からも、特に反対意見は出なかった。当主である藤川晋太郎が流を
認めたことが、大きく影響したようだ。
「亡くなっていたのは、木村賢治さん。人体各部に切断され、離れからここ本
館にかけて、放置されていた」
流は、分かり切った事実から始めた。遺体各部がビニール袋に包まれていた
ことや人形も同じようにあったこと、発見時には雪上に足跡の類が見当たらな
かったこと等、良子が先に見聞きした点も多々ある。第一発見者が江田である
ことは、初めて知らされた。本館廊下の窓から外を何気なく見て異変に気付い
た彼が、兄の貴之と流に、
「前庭に赤っぽい物と銀色の立方体が散乱しているようです。一緒に見に行っ
てくれませんか」
と声を掛け、揃って調べに出たという経緯らしい。転がる異物が人体と判明
した後に、貴之が引き返して家の者に状況を伝え、カメラを携えてくると共に
加藤医師を連れ出した。
「江田さんの話で、ビニール袋は離れにあった物らしいことが分かり、さらに
雪の上には、人体を切断した痕跡、つまり大量の血の流れた様子が見当たらな
かったことと合わせて、僕らは離れに注目しました」
「なるほどな」
晋太郎が相槌を打つ。心底感心したように見受けられた。良子は内心、密か
に得意がった。はっきりとした理由は自分でも分からないのだが、何故か流を
応援している。
「遺体を加藤さんに任せて、離れに行ってみると、玄関ドアは閉じていたが、
鍵は掛かっていなかったので、労せずして中に入ることができた次第です。最
初に気付いたのは、靴が土間に残っていたこと。遺体の足について思い起こす
と、確かに靴を履いておらず、靴下が見えていた。辻褄は合います。次に部屋
を見ましたが、元の状態を知らない僕には、判断できません。貴之と江田さん
にお願いし、異状の有無を見てもらうと……」
イニシアチブのバトンを渡す風に、流は言葉を切り、目線を江田と貴之に向
けた。話を振られた二人は互いの顔を見、双方が頷き、やがて江田が喋り出し
た。
「離れの内部について、より最近の状態を知っている私から話します。部屋か
らなくなっている物がいくつかありました。まず、最前も触れましたが、ビニ
ール袋。遺体をくるむのに使われていました。元々は、木村さんが搬入した数
数の物品を梱包していた物のようです。二枚、余っていました。部屋を探せば
もっと出て来るかもしれませんが、未確認です」
質問はありませんかとばかり、場を見渡す江田。特に声はなかった。
「次に、これも言うまでもありませんが、人形も持ち出され、遺体と同じよう
に散らばっていました。
それから、昨日届いたばかりの巨大な額縁も、二組とも消えていました。縦
一メートル、横二メートルの代物ですが、これはどこに行ったのか、まだ見つ
かっていません」
「そんな物、一人で持ち出せるのかしら」
結局、この目で見ることはなかった額縁を想像しつつ、良子はつぶやいた。
それを質問と受け取ったらしい江田が、即座に答える。
「はい。私、昨日の搬入時にお手伝いをしましたから覚えていますが、板は分
厚く、頑丈な造りの割には軽量でした。女性でもちょっと頑張れば、二枚重ね
て持ち運び可能でしょう」
「嘘でもいいから、女性には無理だと言ってほしかったわ」
冗談を言ったが、誰も笑わなかった。良子は唇を固く結び、首をすくめた。
江田は小さな会釈を挟むと、続けた。
「最後に、これは確定的ではありませんが、貴之さんが仰るには、ロープが減
っているようだとのことです」
そして貴之を見やる。すぐに補足説明が返って来た。
「ああ。前に見たときは、部屋の片隅に五つほど、とぐろを巻いていたロープ
があった。それが二つに減っていた……ような気がするんだけど、江田さんは
記憶にないと言うし、確信はない」
「五つほどあったというロープは、全部同じ種類だったのかい?」
流が、今思い付いたという風に尋ねる。これには首を傾げる貴之。
「さあ……意識して見ていなかったから、分からない。多分、同じじゃないか」
「いえ、お言葉ですが、同じとは限らないのではないですか。芸術家気取りの
彼は、雑多な物を材料にしていましたから、ロープの種類も様々だったんじゃ
ないでしょうか」
江田が異を唱えた。晋太郎の代理として、離れに頻繁に出入りしていた彼の
言葉であるし、信用できるという雰囲気が漂う。
「そうですか、分かりました」
返事をした流は、多少残念そうに伏し目がちになっていた。
「問題のロープを見つければはっきりすることだし、今は執着しないでおきま
しょう。なくなっていた物は、これで全てでしたっけ、江田さん?」
「私の記憶する限りでは……貴之さんはどうでしょう?」
「そう言われても、江田さんほど離れに行ったことはなかったから。木村の奴
が貯め込んだ金がなくなっていたとしても、分からないね」
貴之が、せいせいした口ぶりで言う。妹の良子にとって、そんな兄を見るの
は極めて珍しかったが、死んだ男はそれほどまでに家族を悩ませ続けたのだと
納得できた。
流が「じゃあ、続きはまた僕が」と断ってから、説明を再開した。
「僕らはなくなった物を気にする以上に、血の痕跡を探してみました。離れで
殺したのなら、切断も離れで行われたと考えるのが普通ですから。絶命後に肉
体に傷を付けると、経過時間によっては、出血量はさほど多くならない。それ
でも人体を切断するとなると、血糊や脂肪分で辺りは汚れるはずだから、痕跡
が残らないはずがない。ところが、離れの床には、血痕が点々とある程度で、
血溜まりの類はなかったんです」
「離れに浴室はない」
貴之が勝手に引き継いだ。
「あそこで、水を使って血なんかを流せる場所と言えば、流し台しかない。瞬
間的にそう思った俺は、流し台を覗いた。木村の奴、自炊なんかしない癖に、
創作に必要だからと言って付けさせたんだよな。案の定、赤黒く染まったのこ
ぎりが三本と、血のような物が流れた跡が残っていた」
「三本? どうしてのこぎりを三つも使う必要が……」
晋太郎が怪訝そうに眉を顰めた。疑問に答えるのは流。
「切断の際、脂肪分が出ることは先ほど言いました。その脂肪のせいで、刃が
ぬるぬるになるんだそうです。切りにくくなったので、取り替えたんじゃない
かと思います。離れにはのこぎりが何本かあったと聞きました」
説明に納得したらしい晋太郎は、二度ほど頷き、続けるように息子を促した。
「犯人は殺害後、遺体を持ち上げて、流し台に置き、作業に取り掛かった。つ
まり、それなりの力持ちじゃないと無理だと思うんだ。でなきゃ、複数犯か。
でも、足跡の問題もあるから、単独犯の可能性が高い気はする」
「足跡の問題とは何だ」
「雪に足跡も何も残さず、遺体をどうやって置いたのかということです。僕ら
が最初に見つけたとき、遺体の周りに足跡の類は何もなかった」
晋太郎の問い掛けに、流が答える。
「付け加えるなら、離れから本館まで、いかにして戻ったのか、その方法も問
題になります。何らかのトリックを弄したのだとしても、複数犯よりも単独犯
の方が、トリックを成功させ易いだろう……今、貴之が言ったのはそういう意
味です」
「うむ、理解した。だが、肝心のトリックが見抜けんのだろう?」
「まだ決め手はありません」
「そうか。では……加藤さん」
「何でしょう?」
「賢治がいつ、どのようにして死んだのかは、分かりそうなんですか」
加藤医師に身体を向ける晋太郎。当初は気乗りしなかった様子の彼も、犯人
探しに本腰を入れたらしい。
「遺体の状況が酷すぎて、死因の方は無理でしょうなあ。時間の方も難しいで
すが、本当に大まかでいいのでしたら」
「かまいません。言ってもらいたい」
「幅広く見積もって、午前二時から六時までの四時間ぐらいかと。血の凝固具
合から、午前六時よりあとということはありません」
「二時から六時か。アリバイを調べようにも、期待できない時間帯のようだ」
それでも一応という風に、晋太郎は全員に聞いた。犯行推定時刻にアリバイ
を立証できる者がいれば、名乗り出るようにと。
「私はあなたと一緒だったけれど、客観的でないとだめなんでしょう?」
妻の真美が言った。声の方を向いて、晋太郎が応じる。
「そうなるな。同じく、加藤先生も、かな?」
「そのようで」
医者は答えたあと、少し言いにくそうにしてから付け加えた。
「一つ目の事件でも同じことを思ったんだが、晋太郎さんと真美さんは、アリ
バイを心配せずとも、犯行は不可能と見なしていいんじゃないか?」
最初は自説を述べるつもりが、皆へ同意を求める形になったという響きが、
その口調に感じられる。そこへ流が聞き返す。
「どのような理由で?」
「晋太郎さんは目、真美さんは足に問題を抱えてらっしゃる。雪に何の痕跡も
残さずに離れとこことを往復するのは、土台無理だと思うんだが」
「私もそう主張したいと思っていた」
晋太郎自身が言った。
「無論、杖さえあれば、離れまで行って戻ることはできる。だが、足跡を残さ
ないなんて、不可能だよ」
「主張はよく理解できますし、僕もそうしたいです。が、少なくとも足跡を残
さない方法に見当が付かない内は、容疑者の枠から百パーセント除外すること
は差し控えなければなりません。それが論理的思考というものです」
流は冷静に答えた。晋太郎も承知という風に首肯した。
「だが、容疑が薄らいだと解釈していいかね」
「それはもう」
「結構だ。動機の面で言えば、私は一番目か二番目に来るだろうからな」
父の言葉に、良子ははっとさせられた。
動機。それなら、良子自身や貴之にもあると言える。木村賢治を疎ましく思
っていたのは確かだし、そのことを広言もしていた。殺そうなんて考えたこと
はもちろんないが、第三者からすれば殺意があったと見なすだろう。
その上、客観的には、最初の犠牲者である坂上伊予に対しても、動機がある
ことになる。今朝まで、彼女が藤川家の内情を探るために潜り込んだ記者とは
知らなかった良子だが、誰がそのことを証明できよう。
死んだ二人を殺すだけの理由を、藤川家の人間は全員有していた。その内、
自由に動き回れるのは、良子と貴之。良子には、自分がやっていないことは自
明であるし、坂上の件には客観性の高いアリバイもある。となると……。
良子は思わず、兄の方を向いていた。その貴之が口を開く。
「靴をざっと調べたんだが、どれも濡れていなかった。犯人は丁寧に拭ったの
かもしれないな」
「あの、話を戻してよろしいでしょうか」
江田が遠慮気味に割って入った。心なしか、声が震えているように聞こえる。
貴之と晋太郎が応諾すると、秘書は早速まくし立てた。
「個人的に最も重要ではないかと感じているのは、人形です。何故、人形が遺
体と同じように外にばらまかれたのでしょう? このようなことを言うと荒唐
無稽だと一笑に付されそうですが……私には人形がばらばら遺体を持ち出した
が、自らもばらばらになってしまった、という風に思えてなりません」
「ははぁ……」
江田の見方に、貴之は一瞬、呆気に取られた風に口を開け、それから唇の端
でにやりと笑った。
「江田さんらしくもない。随分と怪奇趣味なことで。超常現象を信じるタイプ
には見えないんだけどなあ」
貴之以外の男性陣も同じらしい。うんうんと黙って頷く。
ところがただ一人、晋太郎は顕著な反応を示した。見えないはずの視線を宙
にさまよわせ、腕を左右交互にしきりにさする。極短い間だが、小刻みに震え
てもいたようだ。あからさまなまでに畏怖している。迷信深いところはなかっ
た気がするのに……と、良子は父の態度に違和感を覚えた。
その良子を含めた女性の面々は、四者四様の反応だった。
牧は、恋人の貴之のような現実主義者ではないらしく、かといって頭から信
じてるタイプでもない。「端からないと決め付けるのはよくないわ」と述べる
に留まった。
加藤久仁香は信じる方なのだろう、お経の一節らしき言葉を小さく口ずさみ、
手を拝み合わせた。そんな態度を、医師である夫がたしなめている。
真美も晋太郎とのやり取りに忙しい。尤も、加藤夫妻とは違ってこちらは妻
が夫を気遣っている。ただ、「あなた、どうしたの?」などという言葉が出な
いところを見ると、夫の恐がる理由を真美も承知しているものと見て取れた。
「ねえ、人形は動くような仕組みになっていなかったんでしょう?」
良子は兄や流の方に顔を向けて聞いた。占いは信じるし、恐い話を聞けば人
並みに面白恐がるが、超常現象の類には懐疑的な方だ。だから、まずは人形が
動くかどうか確かめる。
「良子は見たことないんだっけか」
頭を掻きながら貴之が答えた。
「見たことあったけど、中にどんな機械が入っているかまでは、知らなかった
わよ」
「あれは見たまんま。ただの人形さ。何かの合金で作られていて、かなり固く
て丈夫そうだが、軽かった。少々でかい、おもちゃのロボットって感じだな」
「動かないのね。元から、ばらばらにできるように作られていたのかしら」
「ああ。と言うよりも、逆じゃないか。手足、胴体、頭などの部分を個別にこ
しらえてから、組み合わせたんだと思う。ねじ込み式でな。当然、ばらせるよ
うにできている」
「何のために作られた人形なんだろ? 単なる芸術ってやつ?」
良子のこの疑問に、晋太郎が一層激しい身震いをした。父の異変に気付いた
良子は、「お父さん、知っているの?」と全身で振り返った。
「さっきから様子が変で、心配だったんだけど……」
「隠すつもりはなかった」
思い切ったように、低い声で言った晋太郎。皆が注目する。
「隠すつもりがあったとすれば、それは私自身の子供じみた恐がり方を恥じる
気持ちからだ。いい歳をした大人が、呪いの人形などという世迷い言を半ば信
じてしまったのだからな」
「呪いの人形、ですか」
つい思わず、という口調で流がつぶやいた。晋太郎はその声に小さく頷き、
詳しく話し出した。
「あいつは――賢治は、私の前に姿を現したときから、賢治の母の死の責任は
私にあると仄めかしてきた」
「え。お父さんの前の奥さんて、亡くなってるの? 道理で、あの男、居座り
続けるはずだわ」
妙に納得できた良子や貴之、それに真美に、晋太郎が小声で「すまない」と
頭を下げた。
「経済的支援は充分にしてやったつもりだが、賢治が言うには、精神的に脆か
った母親は、普段の生活でぼうっとすることが多くなり、それが原因で交通事
故に遭ったのだと。私には、返す言葉がなかった」
「あの。話の途中ですみませんが」
唐突に割って入ったのは流。椅子から立ち上がり、ドアの方に向かおうとし
ている。
「僕は席を外した方がよさそうですね」
若者のそんな態度を目の当たりにして、加藤夫妻や牧も、慌てたように腰を
浮かせた。
だが、彼らの動きを晋太郎当人が止める。
「いや。聞いてくれていい。かまいやしない。すでに君達部外者を、この藤川
家で起きた殺人事件に巻き込んでしまったのは、痛恨の極みだ。内情をできる
限り、包み隠さずに話しておくというのがせめてもの礼儀ではないかと思って
話そう。犯人の絞り込みに役立つかもしれん」
「本来なら、話す相手は警察か弁護士ですよね。雪というアクシデントがあっ
たとは言え、僕らに話して、本当にいいんですか?」
「何度も言わせないでくれ、流君。大方話し終わったようなものだ。今さら中
断しても、あれやこれやと想像が膨らむばかりだろう」
そう語る晋太郎の閉ざされた瞼の下で、目が苦笑しているように思えた。流
は根負けした形で座り直し、牧達も落ち着いた。晋太郎の告白が再開される。
「私がいくら謝罪の気持ちを伝えても、賢治は納得しなかった。あるいは納得
できないふりを続けた。そうして二年前、母親の怨念を封じ込めるために人形
を作りたいと言い出しおった。最初は笑い飛ばした私だったが、賢治が執拗に
要求してくるので、制作費分の金を渡した。信じてはいなかった。これで黙っ
てくれるのなら安いものだという気持ちだったんだ」
「それなのに恐がるようになったのには、訳があるのね?」
良子はストレートに尋ねた。好奇心ではなく、父の心情を理解しておきたい
という気持ちからであった。
「一年前の冬、賢治の奴がこの館に角を付けたいと言い出したのを、覚えてい
るだろう?」
「覚えているも何も、今もでーんと付いてるじゃない、角」
角のある壁面の方へ、半ば無意識の内に顎を振る良子。ふと気付けば、兄の
貴之も似たような仕種をしていた。
「あの角を認めたのは、付けないと人形から怨念がこぼれ出ると賢治が言い始
めたからなんだ」
「まさか。怨念を信じてないお父さんが、どうしてそんな要求を受けちゃうの
よ。分からないわ」
「私も当初は拒否した。人形のときと同様、馬鹿々々しかったからだ。費用が、
人形に比べるとけた違いに掛かるため、今度は押し切られまいと決意していた
ほどだ。ところが……賢治の奴は怨念が溢れ出し、猛威を振るうところを、私
に体験させた。おかげで私の考え方は一変してしまった」
「どんな形で“怨念”を体験させたのか、大変興味深いですね」
流が小さな声で言った。が、すぐに、余計な口を挟んでしまったとばかりに、
「失礼をしました」と付け足した。
「かまわん。追々、話すつもりなのだから」
晋太郎は柔和に言って、椅子の上で腰の位置を直した。
「賢治は、壁の中に霊を呼び出したんだ。私の部屋の壁にな」
聞き手は、誰も何も言わない。
「あのとき、実験は私と賢治の二人きりで行われた。賢治は、まず、私に簡単
な変装をさせた。母親の霊が私を見つけて、引きずり込んでしまわないために、
と言う。私は馬鹿らしく思いながらも、賢治の用意した帽子とサングラス、そ
れにコートを身に着けた。コートがやけに重たく感じたので、そのことを口に
すると、『革製だからねえ。いや、それとも早くも霊が憑いたのかもしれない
な』等と笑いながら言いおった」
「話の腰を折ってすみません。一つ、質問があります」
流が若干、早口で言った。
「何だね」
「サングラスは、木村君の用意した物に掛け換えたということですか?」
「ああ、そうだ。サングラスを換えても、感じる光はほとんど変わらなかった
気がする。どんな意味があるのか、さっぱり理解できなかった」
「なるほど。分かりました。続けてください」
――続く