#187/598 ●長編
★タイトル (gon ) 03/11/08 04:17 (271)
口語訳_四国偏礼道指南増補大成4 伊井暇幻/久作
★内容
讃岐二十三カ所
六十六番・雲辺寺
{南東向き}三好郡白地村。巨鼇山千手院と号する。本尊は高さ三尺三寸の千手観音
菩薩座像、脇士は不動明王・毘沙門天、いずれも空海作。この寺は阿波・伊予・讃岐三
国の境にある。寺は阿波国主が造営したが、讃岐の札所となっている。巨鼇山の額は空
海が書いた。
詠歌「遙々と雲の辺の寺に来て 月日を今は麓にぞ見る」
小松尾まで二里半。{一里半は下り坂。この間に二つの池がある。二つ目の池に標石
が立っている。}別所村。{この間は野良。}辻村には宿を貸してくれる善人がいる。
{文左衛門・九十一郎左衛門が宿を貸してくれる。}
六十七番・小松尾寺
{東向き}豊田郡。小松尾を山号ともする。大興寺と称する。空海が建立した。本尊
は、空海が作った高さ四尺の薬師如来像、脇士は同じく空海作の不動明王・毘沙門天
像。高さ三尺二寸の十二神将は堪慶の作。
詠歌「植えおきし小松尾寺を眺むれば 法の教えの風ぞ吹きぬる」
琴弾八幡宮まで二里。原村。池の尻村。出作村。観音寺村。{買い物に便利だ。過ぎ
て川がある。辺に十王堂。ここから琴弾まで坂が続く。}
六十八番・琴弾八幡
{南向き}文武天皇の時代、宇佐八幡神が移ってきた。そのとき舟の中から琴の音が
したため名付けた。本尊は阿弥陀如来像。北の宮は武内宿弥大臣。南は住吉明神。{本
尊は阿弥陀如来像。作者不明だが秘仏となっている。}
詠歌「笛の音も松吹く風も琴弾くも 歌うも舞うも 法の声々」
{眺望すると、青海原と青空が溶け合い、国々や島々が眼下に広がっている。右は有
明の浜、左は川湊。出入りの舟は多く、観音寺の町には数千の軒が連なっている。}観
音寺まで二町。
六十九番・観音寺
{山地に建っており、堂は南向き}七宝山と号する。本尊は空海が作った高さ二尺五
寸の正観音菩薩座像。この寺は空海が琴弾八幡宮に詣でたとき、託宣によって八幡宮に
奉仕させるため建立した。
詠歌「観音の大悲の力強ければ 重き罪をも引き上げてたべ」
本山寺まで一里。河内村。流岡村。吉岡村。本山寺は宝持院と号し、本山庄にある。
七十番・本山寺
{平地に建っており、北西向き}宝持院と号する。本山の庄にある。これを寺号とし
たのだろう。本尊は高さ二尺五寸の馬頭観音像、両脇士として阿弥陀如来・薬師如来
像、いずれも空海作。
詠歌「本山にだれか植えける花なれや 春こそ手折れ手向けに供える」
弥谷まで三里。ここらは家居がよく{景気もよい。}しかし宿には不自由する。日蓮
宗の在家信者が多いのだ。
上寺村。伊勢林。{太神宮が鎮座している。}笠岡村。勝間村。新名村。{少し過ぎる
と標石がある。観音寺から道の左右は並松。}三野郡大見村には、宿を貸してくれる善
人がいる。{大師堂がある。}
七十一番・弥谷寺
{南向き}剣五山千手院と号する。もとは行基菩薩が開いた。空海が求聞持修行をし
たとき、五つの宝剣が天から降ったため、剣五山と称する。空海は岩屋に仏像を刻ん
だ。本尊は高さ三尺五寸の千手観音菩薩立像。不動明王・毘沙門天像が共に並んでい
る。三つの峯が聳え、目を遣る所すべてに仏像がある。とても人間のしたことだとは思
えない。
詠歌「悪人と行き連れなんも弥谷寺 ただ仮初めも善き友ぞ佳き」
曼荼羅寺まで一里。白方を抜ければ、山越えの道がある。{曼荼羅寺へは二王門から
左へ行く。}碑殿村。三井ノ江村。吉原村。
七十二番・曼荼羅寺
{平地に建っており、堂は東向き}我拝師山延命院と号する。空海が善通寺を完成さ
せて、次に建てた寺だ。七仏薬師の像を作り金堂に据えた。本堂の本尊は高さ二尺五寸
の大日如来座像。{寺から西に三町行くと}西行法師の寓居した水茎の岡がある。{そ
こで詠んだ歌「山里に憂き世は厭わん友もなが 悔しく過ごし 昔語らん」。また堂の
前に笠懸の桜があり、同じく西行の歌として「笠はあり その身はいかに成りぬらむ
哀れ儚き天が下かな」。}
詠歌「僅かにも曼荼羅拝む人はただ 再び三度帰らざらまし」
出釈迦寺まで三町。
七十三番・出釈迦寺
{ちょっとした山の上に堂がある。東向き}我拝師山と号する。本尊は釈迦如来像。
空海の御行道所と捨身の岡がある。空海が修行していたとき、釈迦如来が現れたため、
出釈迦を寺号とした。西行は山家集で、近郷の人は「わかはし」と言い習わしていると
書いた。{本尊は釈迦如来像で秘仏となっている。……中略……ほかに虚空蔵菩薩像が
安置されている。この寺の札所は山を十八町登った場所にある。とはいえ由緒こそあれ
堂舎がない。このため近年、麓に堂と寺を建てた。ここで札を納める。}
詠歌「迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺」
甲山寺まで三十町。広田村に至る。
七十四番・甲山寺
{山を後にして建っている。堂は東向き}医王山多宝院と号する。本尊は空海が作っ
た高さ二尺五寸の薬師如来座像。
詠歌「十二神 味方に持てる戦には 己と心 甲山かな」
善通寺まで十町。この間には、空海の遺跡が多い。多度郡善通寺村に至る。
七十五番・善通寺
{堂は一町東にある。南向き}五岳山誕生院と号する。屏風が浦と称する。空海が生
まれた場所だ。五岳とは、五つの峯が聳えているところから称している。善通は、空海
の父の名からとった。空海が生まれた場所は、御影堂の後に当たる。様々な空海の遺跡
がある。本尊は空海が作った高さ六尺の薬師如来座像。
詠歌「我住まば 世も消え果てじ 善通寺 深き誓いの法の灯火」
金倉寺まで二十町。金比羅へ回るときは、ここで荷物を置いて行く。一里半。{標石
あり。}上吉田村。下吉田村。
七十六番・金倉寺
{平地に建っている。堂は東向き}鶏足山宝幢院と号する。道善寺とも呼ぶ。智證大
師が生まれた場所だ。智證大師は空海の甥に当たる。本尊は智證大師が作った高さ一尺
八寸の薬師如来座像。三井寺より先に建立した。
詠歌「誠にも神仏僧をひらくれば 真言加持の不思議なりけり」
道隆寺まで一里。葛原村。鴨村。
七十七番・道隆寺
{平地に建っている。堂は東向き}桑田山明王院と号する。本尊は当初、桑の木で作
った小像であったが、空海が高さ二尺五寸の薬師如来立像を作り、もとの小像を中に納
めたと伝えられている。
詠歌「願いをば 仏道隆に入り果てて 菩提の月を見まくほしさに」
道場寺まで一里半。中津村。{石仏の地蔵堂がある。}川がある。塩屋村。{左の方
に神社が鎮座している。}丸亀城下。{町の中に橋がある。左に湊。買い物は何でも揃
い便利だ。}土器川から西は丸亀領、東は高松藩領。過ぎると海辺に出る。鵜足町。
七十八番・道場寺
{ちょっとした山の上にある。堂は東向き}鵜足郡。江照寺と号する。本尊は空海が
作った高さ一尺八寸の阿弥陀如来座像。
詠歌「踊り跳ね 念仏申す道場寺 拍子を揃え鉦を打つなり」
崇徳天皇まで一里半。鵜足村。坂出村。{塩釜がある。並松が続く。野沢の水は霊水
である。山に五町登った所に医王善逝すなわち薬師如来の石像がある。空海が作ったも
のだ。この像を木製の壇に載せると、野沢の水が出なくなる。このため石の座に据えて
いる。}八十八の水である。石仏の薬師如来は、空海の作。河野郡北西庄村に至る。
七十九番・崇徳天皇
{山地に建っている。堂は南向き}妙成就寺金花山摩尼珠院と号する。空海の開基。
本堂の本尊は高さ二尺三寸の十一面観音菩薩立像。{作者不明。}崇徳天皇が死んだと
き金棺を暫く置いたため、ここにも廟を建てたという。別に鎮守社がある。
詠歌「十楽くの憂き世の中を尋ぬべし 天皇さえも流離えぞある」
国分寺まで一里半。綾川は名所である。加茂村。綾坂。河野郡国分寺町に至る。
八十番・国分寺
{平地に建っている。堂は南向き}白牛山千手院と号する。聖武天皇の勅命によって
建てられた、讃岐の国分寺であることは間違いない。今の本尊は、空海が作った高さ一
丈六尺の千手観音菩薩立像。
詠歌「国を分け野山を凌ぎ寺々に 詣れる人を助けましませ」
白峯寺まで五十町。国分坂があり、谷川を通る。河野郡青海村に至る。
八十一番・白峯寺
{山上に建っている。堂は北西に向き}綾松山洞林院と号する。空海の開基。補陀洛
山から流れてきた霊木で、智證大師が高さ三尺三寸の千手観音菩薩立像を作った。崇徳
天皇を葬った廟は、立派なものだ。{稚児が岳と呼ばれる高さ百余丈の峯がある。延宝
年中六月、後に備州安那郡曽根原・宝泉密寺の住持となった雲識が十八歳のとき、幼か
った空海の捨身の誓いを真似したのであろうか、この岳から飛び降りた。夢うつつに、
黄衣の僧が半腹で受け止めたと感じた。道行く商人や寺の僧たちが見て、驚き焦って受
け答えするうち人が集まり騒ぎが大きくなった。そこへ思いも掛けず、道もない百余丈
の谷から雲識が飛び出してきた。仏や神が為す不思議なことに、凡俗の考えは及ばない
ものだ。
詠歌「霜寒く 露白妙の寺の内 御名を唱うる法の声々」
根来寺まで五十町。{山道が続き、村はない。この間に一宮への標石がある。}
八十二番・根来寺
{山の上に建っている堂は南向き}青峯山千手院と号する。空海が開き、高さ三尺八
寸の千手観音菩薩立像を作った。後に智證大師も杖を留めたという。
詠歌「宵の間の たえ降る霜の消えぬれば 後こそ鉦の勤行の声」
一宮まで二里半。{標石がある。}山口村。飯田村。{八幡宮を過ぎて広道。}川が
ある。小山村。成合村。香川郡一宮村に至る。
八十三番・一之宮
{平地に建っている。堂は東向き}蓮花山大宝院と号する。本尊は空海が作った高さ
三尺五寸の聖観音菩薩立像。宮は寺の前に構えている。田村大明神と呼ぶ。猿田彦命だ
という。
詠歌「讃岐一宮の御前に仰ぎきてて 神の心をだれか知らゆう」
屋島寺まで三里。ただし、仏生山を回るときは、一宮から屋島へ三里半。また、高松
城下を経由すれば、一宮から屋島まで四里。鹿角村。大田村。{八幡宮、標石もある
。}伏石村。松縄村。{行くと大池がある。堤を進む。}北村。{三十番神宮がある。
過ぎて小川がある。}恵比寿村。春日村。片本村から屋島寺まで十八町。{坂になって
いる。地蔵堂がある。}
八十四番・屋嶋寺
{山上に建っている。堂は南向き}山田郡。南面山千光院と号する。孝徳天皇の時
代、天平宝字年中、唐から来た鎮真和上が登って開基したという。空海が訪れて千手千
眼観音菩薩像を刻み、本尊とした。このため千手院と称する。
詠歌「梓弓 屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇む武士」
八栗寺まで一里。東に十町坂を下り、佐藤次信の墓。{領主が一丈四方の切石で壇を
築き、上に五尺の石塔を建立した。碑も建っている。古い五輪塔もある。後小松天皇の
時代、崇徳元年四月五日に、奥州から佐藤一族の僧・空信が墓に詣でて、真摯に回向し
た。「いたわしや 君の命を継ぎのう/次信が 印の石は衣来て」と歌えば卒塔婆が揺
れ動き、「惜しむとも よも今までは長らえじ 身を捨ててこそ 名をば継ぎ伸ぶ/次
信」と墓の中から聞こえてきた。屋島軍縁起に書いている。その先に先帝と女院の内裏
跡が残っている。壇と呼ぶ。浦を壇ノ浦と称する。合い引きの潮が西東から満ち、南面
山の麓を巡る。両側の海かは半ばほどの所で満ち合い、互いに引いていく。この入江を
三町ほど渡って、那須与市の駒立て石がある。祈り石というものもある。南脇に、洲崎
の堂が建っている。本尊は、空海が作った正観音菩薩像。南に惣門を構えている。次信
が射倒された所がある。大夫黒と呼ばれた馬の墓も建っている。また桟敷の岡、名切
水、源氏が本陣を置いた瓜生山も見える。このほか旧跡は多い。惣名を牟礼村と呼ぶ。
右の惣門から八栗へ十八町行くと坂に出る。}洲崎の堂には空海作の観音像が安置され
ている。瓜生山は源氏が本陣を置いた所だ。惣じてこの辺を、牟礼村と呼ぶ。
八十五番・八栗寺
{山上に建っており、堂は南向き}三木郡・五剣山千手院と号する。嶮岨な峯に建
つ。空海が求聞持を修したとき、五振の利剣が空から降ってきた。このため、五剣山と
称する。空海が唐へ留学に行く前試として焼栗八枝を植えた。生長したため、八栗寺と
呼ぶ。本尊は、空海が作った高さ五尺の正観音菩薩像。社には蔵王権現を祀っている。
詠歌「煩悩を胸の智火まで焼く/八栗をば 修行じゃならで誰か知るべし」
{奥の院へは山を四町登る。}志度寺まで一里。田井村には宿を貸してくれる善人が
多い。{皆篤志の人で宿を貸してくれる。道休禅師の墓がある。この人は、裸足で八十
八カ所を十二度、すべてで二十七度回った。功なって死ぬとき「今までは遠き空とぞ想
いしに 都率の浄土 そのままの月」。訪れる人は皆、道休の墓で回向する。}大町
村。志度村には宿を貸してくれる善人がいる。{町の西に園子尼の寺がある。本尊は文
殊菩薩像。東寺町の庄三良が宿を貸してくれる。ここから先、一日歩く間、米を求めら
れないときもある。ここで買っておくとよい。}
八十六番・志度寺
{南向き}補陀洛山清浄光院と号する。閻魔王の草創で、願主の園小尼は、文殊菩薩
の化身であった。推古天皇の勅願所となり、藤原房前が行基菩薩と共に再建した。本尊
は、観音が自作した高さ五尺二分の十一面観音像。
詠歌「いざさらば 今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ」
長尾寺まで一里。長行村。宮西村。
八十七番・長尾寺
{平地に建っている。南向き}寒川郡。補陀洛山観音院と号する。聖徳太子の開基だ
という。後に空海が訪れ復興し、高さ三尺二寸の聖観音菩薩{三尺六寸の正観音}立像
を作って安置した。
詠歌「足曳きの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら弥陀を唱えよ」
大窪寺まで四里。前山。岳村。ここに空海が修行した場所がある。{空海が修行した
護摩山がある。経坂を過ぎて小坂に出る。}
八十八番・大窪寺
{山地に建っており、堂は南向き}医王山遍照院と号する。開基は行基菩薩だと伝え
られている。後に空海が復興し、本尊として高さ三尺の薬師如来座像を作り、医王山と
称した。
奥の院は、本堂から十八町上った岩窟で、本尊は阿弥陀如来と観音菩薩像。ここで空
海が求聞持修行をしたという。以上が、讃岐分。
詠歌「南無薬師 諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺」
白鳥宮に参詣する人は、ここで道を尋ねて行くとよい。道筋には、拝見所もある。
阿波の切幡寺まで五里。長野村までの一里は讃岐分。犬懸村から阿波分。犬墓村。日
開谷村に番所がある。切手を改める。大窪寺からは山道で、谷川がある。切幡寺まで一
里。
この功徳をもって願う。普く一切において、我等と衆生、みな成仏道を共にすること
を。
四箇国総べて八十八箇
同 二十三カ所 阿波
道程五十七里半三丁(四十八丁を一里とする)【一町を一〇八米として(以下
同)二九八・四〇四粁】
同 十六ケ所 土佐
道程九十一里半(五十丁を一里とする)【四九四・一粁】
同 二十六ケ所 伊予
道程百十九里半(三十六丁を一里とする)【四六二・四五六粁】
同 二十三ケ所 讃岐
道程三十六里五丁(三十六丁を一里とする)【一四〇・五〇八粁】
道程すべて三百四里半余【一三九五・四六八粁/約一四〇〇粁】
{空海の遍路道程は四百八十八里と伝えられている。昔は横堂すべてを拝み巡り、険し
い道を乗り越えて、谷深い葛屋にまで食を乞いつつ歩いたためだろう。今は空海ほど宗
教的才能がないにもかかわらず、わずかに八十八カ所だけを巡拝し、大道を安楽に通る
ことができる時代だ。このため三百余里の道程となっている。巡礼の起源は明かでな
い。しかし、その功徳は経典に説かれている。素晴らしい高僧が昔錫杖を持って徘徊し
た場所も、現在では人馬の往来が盛んになっている。空海は唐で仏道を修め、鯨寄る辺
境の浦・善知鳥が飛ぶ僻地の浜にまで、善を勧め悪を懲らした伝説の跡を残した。例え
ば、こんな話がある。福島・会津の貧しい者が行脚の修行僧に宿を貸した。元来が塩の
乏しい土地柄だったが、何も馳走を出せない貧者は、以前に一包みだけ入手できた塩で
僧をもてなそうとした。屋根裏に大切に吊っていた塩は、いつの間にかなくなってい
た。旅の僧は、貧者の志を感じ、五鈷杵で加持した。すると直径八尺もある楠の株虚か
ら塩水が湧き出て、井戸となった。井戸の底には、梵字を記した石が見えた。驚いた貧
者が僧侶に素性を尋ねたところ、「四国の辺りを彷徨いている者です」と答え姿を消し
た。どうやら行脚僧は、空海であったらしい。里の者は、お礼をしようと皆で四国遍路
に出かけた。以後、ますます井戸は盛んに塩水を出した。里人は塩水から製塩し、売り
捌いた。このため耕作を怠け、収穫が上がらなくなった。かわりに領主は、製塩に税金
を課した。井戸は塩水を出さなくなった。里人は税金を課されたためかと考え、とりあ
えず領主には猶予してもらい、十七日間の予定で、里人全員で四国遍路をするから再び
塩水が湧出させてほしいと、空海に祈った。三日目、元通りに塩水が湧き出た。里人は
四国遍路に赴いた。……との説話が残っている【四国遍礼功徳記】。また、二十七番・
神峯寺の項で触れた唐の浜の喰わず貝の話もある。このように空海は、人に施そうとす
る心を愛し、吝嗇を戒め、事物に執着し凝り固まって熱した心に冷水を浴びせて正気を
取り戻させる。中でも四国は、空海が生まれた場所であり、僧俗老若を問わず人々が現
在でも八十八カ所の寺を巡っている。私は久しく真言宗を学んできた。空海没後八百五
十年の春、それまで抱いていた念願を堪えきれず、四国遍路の道標をしようと考えた。
初めて詣でる老人、西も東も分からない女性や子供にも便利なようにしようとした。筆
を手にして巡礼を繰り返し、一束の原稿を書き上げた。とはいえ、読み返してみると、
神妙のことを書き記した積もりだったが、疑わしい文字列が並んでいるだけだった。怪
しげな私の案内では、かえって人々を迷わせることになるのではないかと、出版を思い
留まった。原稿の大きさも手頃だから、瓶の蓋にして放っておいた。そうこうするう
ち、原稿のことを知った野口氏が、これを是とし、彫り師に命じて印刷のための版木を
作った。四国辺路道指南として発行することになった。願うは、この功徳が我ら一切の
衆生に普く及び、みな成仏の道を共にすること。●【山にナベに日】貞享丁卯冬十一月
宥弁・真念、謹みて申す}