#165/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 03/07/08 23:59 (499)
そばにいるだけで 62−1 寺嶋公香
★内容
ホワイトデーは朝から快晴で、しかも暖かかった。この時季にしては珍しい
くらいの陽気。これからのことを明るく祝福している、と純子は信じた。
「行って来ます。なるべく早く帰るつもりだけど、遅くなりそうだったら連絡
するから」
「別に急いで帰って来なくてもいいから、楽しんでらっしゃい。皆さんによろ
しく」
母の声に送られて、家を出た。手には大きめの紙袋。中には千羽鶴に寄せ書
きをした色紙。それともう一つ、久住のサインを記した色紙も。
まず、駅に向かう。相羽と合流してから、電車でターミナル駅まで行き、そ
こに鷲宇達が迎えに来てくれる手筈になっている。
(『俺達、芸能人なのに暇だね』だなんて、鷲宇さんもよく言うわよねえ)
純子は最終確認の電話での、鷲宇の口上を思い起こし、くすくす笑った。
みんなで吉川美咲の退院を見送りに行くのだ。
美咲は当初、専用の車で空港まで送り届けられる予定だったのが、少しでも
時間を短縮した方が望ましいとの事情に、費用面の問題が解消したことで、ヘ
リコプターの使用が決定した。車に乗るのは、近場の企業所有のグラウンドま
でだ。
(空港ならあきらめもつくのに、グラウンドまでなら行きたいな)
そう思わずにはいられない純子だったが、予定の変更はなしだった。美咲の
精神をできる限り安定させるため、ちょっとした鎮静剤をグラウンドに向かう
車中で与えるという。そうなれば、純子達が見送りに足を運んでも、言葉は交
わせない。よって、病院を出るところで区切りを付けることに決まった。
「明るすぎる……ってことはないわよね」
道すがら、歩きながらつぶやき、自らの服装を見下ろす純子。空色に白の水
玉模様のワンピースは両肩に小さなフリル付き、足は焦げ茶のロングソックス
で包み、淡い朱色の靴を履いている。髪は両サイドを束ね、赤のリボンで括っ
た。美咲の前に二度、顔を出すことを考えて、涼原純子でいる間はなるべく女
の子らしい格好をと考えた結果だ。
久住の衣服は、鷲宇サイドが調達してくれる手筈になっている。
(鷲宇さんが用意する服って、どんな感じなのかな。水玉っていうのはあり得
ないと思うけど)
あれこれと思いを巡らせる内に、駅に到着。すると、今日の気温と同様、希
有なことに、相羽の姿が見えた。白いシャツに落ち着いた焦げ茶色のジャケッ
トという出で立ち。学校の制服で来るつもりだったらしいのを、純子が言って
私服に変更させた経緯があった。
「早い!」
思わず叫んで、駅構内の方へと駆け足になる純子。出入口のところに立つ相
羽を前にし、朝の挨拶を交わしてから、先の台詞を続けた。
「いつもなら、約束の時間ぴったりに来るのに」
「他の用事があったからね」
壁の時計を振り返りながら、相羽は屈託のない笑みを見せた。
「予想よりも早く片付いたから、こっちに着くのも早くなったわけ。十分ぐら
い早く着くけれど、次来たやつに乗る?」
「うん」
切符を買って、改札を通る。人では割に多い。
「用事って?」
「ピアノレッスンのことで、ちょっと」
「ふうん。こんなに朝早くからなんて、大変」
「レッスンを受けてきたわけじゃないよ。これから……どういうペースで続け
ていけるかっていう相談をした」
「今日みたいな忙しい日に、わざわざ朝から出かけて行かなくても、電話で済
みそうな気がするけど……」
「エリオット先生の都合もあるからね」
相羽の返事に、入線のアナウンスが被さった。
そのまま電車に揺られること、十数分。特に遅延もなく、待ち合わせ場所で
あるターミナル駅に着いた。
約束より十分早いつもりでいた二人だが、この駅の二番目に大きな改札を抜
け出た途端、サングラスを掛けた鷲宇を見つけて、少しだけ驚いてしまった。
結局、三人が三人とも、早めに行動していたと分かり、笑いが起きる。
「仕事なら、万が一、遅れたとしても、自分が責任を被ればどうにかなるけれ
ど、今日は遅れると、後々まで悔いを残すだろうからね」
自称暇な芸能人は、軽い口調、真面目な顔つきでそう言った。それから、転
がしてきたワゴン車に、純子と相羽を導いた。
「あれ? 鷲宇さんお一人ですか」
車の中は、空っぽだった。運転席のドアに手を掛けた鷲宇は、二人に後ろの
席に座るよう、仕種で指示しつつ、応じる。
「おかしいかい? 大勢で動くと目立って、マスコミにかぎつけられやすい」
「募金活動は、大々的に宣伝してたじゃないですか」
「だからといって、個人の病状を大々的に宣伝することまでは、認めていない
んですよ。分かったかな、久住クン」
からかい気味に言って、運転席に乗り込んだ。
相羽と純子も後部座席に収まろうと、ドアを開ける。
「あ。花」
花のよい香りが漂い出る。きつすぎず、ほのかだが、でも確かに心に残る、
甘い匂い。直射日光を避ける形で、大きな花束が置いてあった。
「それ、邪魔になるようだったら、退けてくれていいから」
「邪魔じゃないけど、抱えていていいですか?」
「かまわないですよ。ただし、シートベルトをお忘れなきよう」
ゆっくりとスタート。道は空いており、陽射しは快適なドライブ日和。ハミ
ングでもしたくなる。
「うん。未来は明るい!」
純子が独り言を叫ぶと、ハンドルを握る鷲宇が目を丸くしたようだ。
「どうしたんだい? テンションが随分と高い」
病院に到着すると、まず、純子は純子のままで、美咲の病室に向かった。も
ちろん、相羽と鷲宇も一緒。基金の代表者と、それに協力した学生・生徒・児
童の代表、という立場である。ちなみに、鷲宇のスタッフとは病院で合流した
が、病室まで上がるのは、遠慮する形になった。
通い慣れた順路を進み、美咲の入っている階に着くと、スピードを落とした。
「ああ、どきどきしてきた。大丈夫かなぁ」
「気付かれないかってこと?」
歩きながら、ひそひそ声で会話する。行き交う人影は、極少ない。今日は、
有名人二名が来るとあって、人の出入りをある程度規制している。病院側の配
慮だが、迷惑を掛けているには違いないので、心苦しい。報道陣に対しては、
病院での撮影だけはご勘弁願うとの旨、鷲宇から丁重に断りを入れておいたそ
うだが、隠し撮りを狙うところがあるかもしれない。
「不安がっていると、気付かれる可能性が高まるんじゃないか」
鷲宇が言った。
「自信が持てないのなら、回れ右して、引き返すことだね。着替えて、久住に
なって戻ってくれば済む」
「……美咲ちゃんに、仮の姿でしか会えなくて、それが申し訳なくて、こうし
てやって来たんです。今、引き返したら、きっと、不安よりも大きな後悔が待
ってる」
決然として言った純子は、硬かった表情をすぐにやわらげた。隣の相羽の顔
を見つめて、「どうかな?」って聞いてみる。
「君自身が決めたことに――」
「そうじゃなくて。今の私を見て、どうかってこと。私は“私らしい”姿形を
してる?」
「なるほど。――僕にとったら、全てをひっくるめて、君、だからね。久住ら
しさがどこかに覗いていても、それはそれで君に違いない」
「もお。こういうときは、どこからどう見ても女にしか見えない、ぐらいのこ
と言ってくれてもいいのに。そうしたら、自信が出たんだけどな」
ふてくされてみせた純子の隣と前とで、男二人が、それぞれ苦笑の声を漏ら
した。
「それだけのジョークが飛ばせるなら、すでに充分だ。――っと」
歩を進めながら前に向き直った鷲宇の口から、そんな言葉がこぼれる。純子
達に改めて振り返ると、口元に人差し指を当て、静かにするようにとのサイン
を出してきた。
前方を見れば、美咲の病室のドアのところで、白衣の男性と美咲の母、そし
てもう一人の男性――美咲の父が言葉を交わしている。医師は、純子が以前見
掛けた人と違い、初老だが背筋のぴんと伸びた人だ。多分、この病院内の地位
が高い先生が、これから行われる大規模な転院を前に、患者の両親を相手に挨
拶をしに来たのだろう。
彼らの話の邪魔をしてはいけないと、足を止めた純子達。さして待つことな
く、会話は終わった。廊下を戻ってくる医師に、すれ違いざまに、一礼する。
「ああ、鷲宇さん。ちょうどよかった。少しお話が」
「僕にですか」
呼び止められ、鷲宇だけでなく、純子と相羽もその場にストップ。
「君達は先に行ってていいよ。時間もないことだしね」
そう言った鷲宇は医師との距離を詰め、向き合った。
言われた通り、病室に向かう。ドアが閉じられていたので、軽くノックした
ところ、「はい。どうぞ」との応答が即座にあった。
(美咲ちゃんのお母さんの声、こんなに弾んで聞こえたの、初めて)
そんな感想を飲み込み、純子は「失礼します」と言って、ドアを開けた。こ
ちらを注視する瞳が六つ。
「初めまして」
緊張を追い払い、ほのかな笑みを浮かべて、純子は言った。次いで、相羽と
ともに自己紹介と、自分達が鷲宇の募金に賛同した皆の声を届けたくて、代表
して足を運ばせてもらったことを伝える。
「伺っております」
こちらが入室したときから椅子を立っていた美咲の母が、朗らかに言った。
次に、丁寧に両手を揃え、深々と頭を下げて、「この度は、皆様のおかげで」
と始めたものだから、純子は慌てて首を左右に振った。面と向かって感謝され
るのは、落ち着かない。
なのに、父親の方まで、「本当に、いくら感謝しても足りないほどです」と、
高校生の自分達を相手に、平身低頭を始めた。
(は、早く鷲宇さん、来てくれないかな)
純子の頭の中を、そんな思いがよぎった直後、相羽がつっ、と進み出て、ベ
ッドのすぐ横に立った。
「改めて、初めまして、吉川美咲さん」
軽快な調子で呼び掛ける。美咲の方は、最前から人見知りする様子がありあ
りで、今また相羽に突然話し掛けられ、タオルケットを胸元に引き寄せた。
純子は急ぎ、彼の腕を後ろから捕まえ、引っ張る。
「あ、相羽君、失礼でしょ」
「どうして?」
「そんな風に、寝巻姿の女の子に近付いて、じろじろ見ないの」
「じろじろとは見ていないよ。でも、そう感じさせたのだとしたら、謝らない
といけないね」
相羽が、今度は遠慮がちに視線を送ると、美咲は首を何度も横に振った。そ
してしゃっくりが止まらないときみたいに調子外れの声で、答えた。
「び、びっくりしただけです。いきなりだったから」
「ということは、やっぱり謝らないといけないな。でも、一つだけ、言いたい
ことがあって、焦ってしまった」
「な、何でしょうか」
「美咲ちゃんには、元気になる権利と義務がある」
「え?」
先ほど、突然接近されたのよりも、一層驚いた風の美咲。相羽は手のひらで、
幼稚園児ぐらいの背丈を示しながら、さらに続けた。
「こんな小さい子から、杖を突いたお年寄りまで、大勢の人が、君のことを応
援してる。だから、まずはみんなの後押しに応えなくちゃ。そのあとで感謝し
たって、充分間に合う」
「……うん」
相羽に見とれる風な目つきだった美咲だが、やがてこくりとうなずいた。ふ
と気が付けば、彼女の両親もどこかしら、肩の荷が降りたような安堵感に包ま
れている。
相羽はそちらに身体ごと向き直ると、「偉そうなことを言ってしまって、す
みません」と軽く頭を下げた。いえいえ、励ましてくださってありがとう、そ
んな反応が返ってきた。
純子は渡す物があることを思い出し、このタイミングを逃さずに切り出した。
「あっ、これ。みんなからの」
紙袋に手を入れ、最初に取り出したのは、千羽鶴。折り鶴が一連の環になっ
ていて、それが何本かある。実際には千を越えるであろう。
「凄い。こんなにたくさん。ありがとう。わ、何か、うるうるしてきちゃった」
受け取って、鶴を一羽一羽、優しくゆっくりと撫でていた美咲が、瞬きを何
度もした。純子は続けて、寄せ書きも渡す。説明は不用であろう。
「もう一つあるんだけれど、これは本人から直接もらった方がいいかもしれな
いわ」
純子は、久住淳のサイン色紙を紙袋の中で持ちながら、笑顔で言った。胸に
ちくりとしたものを感じずにはいられないが、今は割り切った。
「本人……って?」
「久住淳のファンだって聞いてるけれど。か、彼のサイン色紙を預かってきた
のよ」
頬の筋肉が強張りそうになるのを意識しつつ、純子。それに対し、美咲は意
外にも表情を曇らせた。
「それってつまり、久住さんは来られないってことですか」
「あ、うん。鷲宇憲親さんから聞いたんだけれども、久住は今朝早くに仕事が
あって、終わり次第、こちらに向かうことになってるって」
久住が鷲宇と一緒に現れないことの理由として、あらかじめ考えていた筋書
きだ。言うまでもないが、このあと、久住は“駆け付け、間に合う”。
「じゃあ、来られないかもしれないんだ……」
傍目にも明らかに落胆が窺える美咲のしょげ返りように、思わず、本当こと
を教えたくなる。
「大丈夫。きっと来るさ」
相羽が胸を叩く仕種を交え、元気よく言った。普通、一介の高校生がそんな
ことを請け負っても、何の保証にもならない。なのに、美咲は「信じて待ちま
す」と殊勝な調子で言い、唇を硬く結んだ。
それでもやはり相羽の自信満々の発言に不審の念を持ったのか、
「あの……お二人は、どういう方達ですか」
と、おずおずとではあるが聞いてきた。
「最初に言ったと思うけれど、鷲宇さんの活動を手伝っただけだよ。そのとき
に、鷲宇さんと親しくなってこうして――」
「いえ、あの、そうじゃなくって」
話を遮り、美咲は恥ずかしそうに面を伏せがちにする。
相羽と純子は、ともに困惑した顔を見合わせた。相羽の最前の発言とは無関
係らしい。
そこへ美咲の、思い切った口調の声。
「お二人は……恋人同士ですか?」
「え」
戸惑って、言葉が出なくなったのは純子。
美咲の母が、「この子ったら……どうもすみませんねえ」と苦笑混じりに口
を挟む。父親の方も、
「年頃なものだから、若い人達を見ると、すぐこれなんですよ。許してやって
ください。どうぞ、聞き流してもらって結構ですから」
と笑った。娘は不満そうに頬を膨らませていた。
それを見て取ったのだろう、相羽の次の台詞は、正直な回答だった。
「実は、三ヶ月くらい前に、恋人同士になったところだよ」
これには純子もびっくり。声を上げそうになるのをこらえ、ほっぺたを掻い
た。そんな純子の動揺も知らず、美咲は一際はしゃぐ。
「わあ。やっぱり、私の思った通り。一目見たときから、お似合いだなって感
じてた。ねえ、お父さん、これでも私、見る目がないって言う?」
抗議口調の美咲に、父親は後頭部に手をやり、参ったなという風に唇を動か
した。
すっかり調子に乗った美咲は、重ねて純子達に聞いてきた。こういう話題に
飢えていたのかもしれない。無理もない。
「どういう風に結ばれたのか、教えてください。いいですか?」
「僕はかまわないが」
相羽が落ち着き払った態度で応じ、純子の方を見る。
「ちょ、ちょっと。そういう意味深な言動はやめてよね。私から告白したみた
いじゃないの」
「それじゃあ、えっと、相羽さんの方からですか」
純子の焦り気味の答を捉え、美咲が相羽に目を向ける。
「微妙なタイミングだったんだよ」
相羽は真面目腐った態度を崩さず、いささか芝居がかって応じた。純子の方
は気が気でない。
「クリスマスは過ぎていたけれど、雪が降って、ムードが高まったのは確かだ
ったね。そのせいか、僕らは同時に告白した」
「うわあ」
「や、やっぱり、やめようよ、こういう話はっ」
純子が大きく両手を振って、割り込む。美咲が顔を赤くしているが、純子も
それを上回るほど赤面している。
「こ、こういう血圧に影響を及ぼしそうな話題は、美咲ちゃんにいいとは思え
ない。そうよね?」
「もっと聞きたい」
平気なのかどうか知らないけれど、美咲はそんな風に応じた。ここでようや
く彼女の母が、「ご迷惑でしょうが」としつける口ぶりで言ってくれた。
「助かりました」
思わず純子がこぼすと、再び笑いが生まれた。
変身をすませた純子は、裏手に目立たぬよう停められた鷲宇の車から、花束
を持って地面に降り立った。念のため、その大きな花束を使って顔を隠す風に
し、病院内へと急ぐ。
ちょうど、美咲のストレッチャーが一階に着くのが目に入った。予定通りで
ある。病室で会わないようにしたのは、久住淳とお喋りをすることで、手術を
受ける美咲の決心が鈍るかもしれないとの危惧から。無論、ここに至って翻意
しても、手続きは粛々と進められるが、患者当人の気持ちを大事にしなくては
いけない。
できればエレベータホールで待ちかまえていたかった純子だが、ほんの少し
遅れてしまった。駆け足になる。
「美咲ちゃん!」
叫ぶと、横たわっていた美咲の顔がこちらを向いた。目が大きく開かれ、表
情は見る見るうちにほころぶ。
「あっ、久住さん! やっぱり来てくれた」
「遅くなって、ごめん」
軽く息を弾ませ、低く抑えた声で謝る。花束を一度美咲によく見せてから、
母親へ手渡した。両親揃って「本日はどうもありがとうございます」と、深々
と頭を下げられ、純子も同じように返した。
美咲は、そんなことよりもと言わんばかりに、話し掛けてくる。
「久住さん、ありがとう。でも、お仕事、大丈夫? 高校生の人から聞いたん
ですけど……」
「平気平気。片付けてきた。美咲ちゃんの新しい出発の日だもの。何があって
も、来ると決めていた」
「……」
言葉がないなと思ったら、美咲のひとみが潤んでいた。純子が反応を示すよ
りも先に、涙が目尻から伝って、筋を引く。
「どうしたの? 泣くことなんか……手術、恐い?」
「ううん、嬉し涙だよ、これは」
管のまとわりついていない方の腕を持ち上げ、目をごしごしこする美咲。母
親がハンカチをあてがった。
「会えないかもと思ってたのが、来てくれて、本当に嬉しい」
「僕なんかが来たぐらいで、大げさだな」
「そんなことないです」
美咲が強い調子で言い切ったとき、スタッフの一人が「時間もあまりないの
で、手短にお願いします」と囁いた。
父親が、「さあ、美咲」と切り上げようとする。が、美咲は純子の、いや、
久住の腕を掴まえた。握力は弱々しかったが、温もりがあった。
「久住さん。お願いがあるんだけど……」
すがりつくような形になって、美咲は言った。
「え。こんな間際になって、何?」
「私が治ったあとも、会えるよね。久住淳と」
真剣な眼差しで言うから何事かと身構えていたら……。純子はふっと笑みを
漏らした。
「なんだ、そんなこと。当たり前だよ。これからじゃないか」
「これから?」
不思議そうに小首を傾げた美咲に、純子は右手人差し指を立て、説明をする。
「これから、一緒に色んなことができる。まずはコンサートに来て、声援送っ
てほしいな」
「コンサート、やるの? 初めてじゃない」
「あ、うん。シークレットライブみたいな形になりそうなんだけどね。美咲ち
ゃんが治って元気になる頃には、大きな会場でやれるようにがんばる」
「楽しみ……でも、私のお腹にぎざぎざができたら、気味悪がるわ、きっと」
顔色を曇らせる美咲。なるほど、さっきの「会えるよね」はこういうことか。
純子は首を左右に強く振った。
「そんなこと、絶対にない。手術跡ができること、気にしてるの?」
「ちょっとだけ。写真見せてもらって、ほとんど目立たないって分かった。で
も、縫った跡があるのは違いないから」
「そうだよね。僕が美咲ちゃんと同じ立場だったら、やっぱり気になると思う。
だけど、ほんの少しだけだよ。友達みんなと一緒に走り回れることの方が、ず
っと大きい」
「うん、それは分かってるけど」
「美咲ちゃんは、神様って信じる?」
ほとんど無意識の内に、そんな台詞が出て来た。
美咲は少し間を取り、やがて口を開いた。
「前は信じてなかったけど、今なら信じられる。いなかったら、多分、久住さ
んや鷲宇さんとこんな風に話できなかっただろうし、手術も受けられなかった
かもしれないもの。今、凄く嬉しいし、今の境遇も幸せな感じ」
「じゃあね、これまで辛かったことは、意地悪な神様が与えた試練。美咲ちゃ
んが、ううん、美咲ちゃんと家族のみんなが負けずにがんばったから、神様は
ちょっぴりご褒美をくれた。手術の跡は、がんばった名誉の証なんだ」
「そっかあ。そうだね。うん、分かった。よかった、安心した」
不安の色が濃かった美咲の顔に、笑みが広がる。顔色はよくないけれど、輝
いて見えた。
「それじゃ、向こうに行ってからも安心できるように、これを」
純子は懐に手をやり、お守りを取り出した。美咲の腕を取ると、お守りを手
のひらに置き、しっかりと握らせる。
「美咲ちゃんが元気になれるように、僕も願ってる。また会おうね」
「うん。久住さん……行ってくるね」
今や満面の笑みになって、美咲は言った。手を力強く振って。
純子も負けないように、そして応援のために手を振った。
忙しい鷲宇と別れ、純子と相羽はいつもとは違う駅の南口に立っていた。こ
れから、ホワイトデーのデートだ。
とは言え、美咲の見送りと重なったことで、きちんとした予定は立てていな
い。それに美咲を送り出したことで、ほっとしたような、気が抜けたような、
何とも言えない軽い疲労感が二人を包んでいたかもしれない。
純子達は駅前の大きな円形花壇の周りを、ゆっくりと歩いていた。歩いては
止まり、歩いては止まりして、柵作の向こうにあるきれいに整えられた色とり
どりの花を眺める。
「え? 何?」
相羽の声にやっと気付いて、顔を向ける。髪が流れて、顔の前に掛かった。
「いや……大したことじゃないよ。風が強くなってきたねって。それよりも、
気掛かりなことがあるみたいだ。ぼーっとしちゃって」
「私? うん、そうなのかな。今朝のことがね、少し引っかかってる」
髪を指先で戻しながら、純子は再び前を向いた。ため息が出る。
相羽は純子の方を向いたまま、続けて聞いた。
「滞りなく見送ったように思えたけれど、何かあった?」
「私にあんなことを言う資格があるのかな。美咲ちゃんと同じ立場で、手術を
受けるとしたら、私は恐くてだめかもしれない。手術跡が残るのだって、実際
にそうなってみないと、分からない。一つ言えるのは、手術跡が残れば多分、
水着のモデルはできなくなるってことだけ」
「それを考えているというだけで、充分じゃないのかな」
「かもしれない。でも、美咲ちゃんを勇気づけるために、勢いで喋っちゃった
気がして……。もちろん、いい加減な気持ちで言ったわけじゃなく、本当にそ
う思ってる」
柵に両腕を載せて、顔を沈める純子。またため息をついていると、相羽が頭
を撫でてきた。
「今は、あの子が手術を受けないと、何にも始まらないんだ。背中を優しく押
してあげたのは、大切なことだよ。資格なんて関係ない」
「そう……よね」
「このあと、僕らにできることは、手術の成功を祈るぐらい。あの子自身がが
んばるしかない。あの子は今日あった出来事のおかげで、君のことを思い浮か
べて、きっとがんばれる」
「――ありがとう」
顔を起こし、柵から離れると、改めて相羽に向き直る。相羽の手を取り、両
手でぎゅっと挟んだ。
「ごめんね。折角のデートなのに」
「僕はずっと楽しいんだけれどね」
応えた相羽の目元が、ほんのわずか、赤くなった。純子が手を離したところ
で、静かに尋ねる。
「時間の見通しが立たなかったから、このあとどうするか、特に決めてないん
だ。何かある?」
「ううん。今日はゆっくりのんびり、ぶらぶらしたいな」
「それじゃ、適当に」
相羽は柵を離れ、歩き出した。もちろん着いていく。ホワイトデーのデート
は、ウィンドウショッピングでスタートした。
昼を挟んで、風が収まり、再び暖かくなってきた。
地下街をあてどもなく巡ったり、百貨店の催し物を覗いてみたりとする内に、
ふっと思い出した。
「赤ちゃん」
乳母車を押す若い母親とすれ違ったあと、純子はそう呟いた。相羽が「え?」
と言ったのは、聞き取れなかったのではなく、驚いたためだろう。
「先生の出産祝い、近付いてるんだったわ」
「ああ、小菅先生の。そういえば、生まれたという知らせ自体、まだ聞かない
けれど、どうなってるのかな」
「あ、忘れてた」
こめかみ付近に手を持って行く純子。それから、午前中の気疲れを吹き飛ば
すような笑顔になった。
「十一日に電話もらったんだったわ。無事、予定日に生まれたって。もちろん、
先生も赤ちゃんも健康」
「よかった。男の子?」
「そうよ。どうして分かったの?」
「分かったわけじゃないよ。ただの勘。そうか、あの子にとったら、弟ができ
たみたいな感覚かな」
「あの子って、すがちゃん? うーん、どうかしら。私達が会ったときから、
だいぶ大きくなってるんだし」
「年齢差は関係ないと思う」
「そうかなあ。ねえ、そんなことよりも、今からちょっと下見をしておきまし
ょうよ」
純子の唐突な提案に、相羽は一瞬、上目遣いで思案する仕種を見せた。間を
おかずに意図を解したらしく、「さっきの百貨店に戻る?」と聞き返す。
「ううん。いい専門店を知ってるの。赤ちゃん用品がいっぱいで、絵本や音楽
やビデオまで置いてあるところ」
純子は相羽より前に少し出て、軽い足取りで店を目指す。ここでも、生命の
始まりを感じ取れた気がした。
「そんなに急がなくても、帰るまで、まだ時間は大丈夫なんだろう?」
純子はいつの間にか、ちょっとした駆け足になっていた。相羽が呆れたよう
に言いながら、歩くスピードを上げて追い付く。
「それとも閉店時間が近いと?」
「まさか。こんな昼日中に。嬉しくなって、気が急いちゃっただけよ」
しばらく歩いて見えてきた乳幼児用品専門店は、暖色系の色と白、それに淡
いピンク色を特徴的に配した、くつろいだ雰囲気を持っていた。二階建てで、
一階が店舗。通路幅を広めに取っており、逆に言えば売り場面積はさして広く
ないが、様々な品がコンパクトに陳列してある。日曜日の午後という条件に加
え、元々評判が高いのだろう、大勢の客でにぎわっていた。若い夫婦ばかりと
いうわけではないが、やはり目立つ。中には、赤ちゃんを抱っこしたり、乳母
車に乗せて押したりしているカップルもいた。
「なるほど。通路を広く取らないと、すれ違うのがつらくなる」
得心する様子の相羽のすぐ横で、純子は別のことを思い浮かべていた。
(今日は私服だけど、まさか、私達もああいうカップルに見えるなんてことは、
ないよね。あはは……は)
耳が赤くなった気がして、手をあてがってこする。気付いた相羽が、そんな
に寒かったっけ?とばかりに、怪訝そうに見つめてくるので、
「早く見てみましょ。あっちかな」
と、適当な方角を指差し、さっさと移動を始める。相羽は、天井から下がる
プレート――各棚に置いてある品を大まかに示した物だ――を見上げる仕種を
しつつ、出遅れる形になった。
「結局、どんな物がいいんだろう、出産祝いって?」
「ゆっくり、全部を回りましょうよ。今から買うわけじゃないんだから」
そういった直後に、店員の一人と目が合って、思わず首をすくめる純子。今
日は買わないと言ったの、聞こえたろうか?
商品棚には、おしゃぶりやがらがら、ほ乳瓶といった物は無論のこと、写真
立て、ビニール製の大きなブロック、五十音を覚えるための玩具などもあった。
音楽CDは胎教用、乳児教育用ともに揃っている。床には、三輪車に組立式の
ブランコ、やたらとオプションの付いた巨大なバケツが並んでいる。
「赤ちゃんには早すぎるか、そうでなければ、誰もが贈りそうな物が多い気が
するな」
「そうね、そんな感じ。他の人のプレゼントと重なるのは、なるべく避けたい
し」
「赤ちゃんにじゃなくて、先生の家族へのお祝いと考えていいのかな。だった
ら、家族三人、色違いのマグカップとか」
食器のコーナーを指差しながら、相羽が提案する。純子は首を傾げた。
「それだって、赤ちゃんには早いでしょう?」
「そうだね」
あっさりと引き下がる相羽。
「君からもらったのを思い出して、ちょっと言ってみた」
「――」
嬉しいのと恥ずかしいのとが入り交じって、くすぐったい。いつから、相羽
はこんなことをこんなにさらっと言うようになったのだろう。以前からだった
ような気もするし、ついこの間のような気もする。
「……使ってる?」
照れ隠しに顔を背けつつも、聞いてみる。
「もちろん。もう手に馴染んだ」
「冗談ばっかり」
ため息混じりに苦笑した純子に、相羽は「ほんとだよ」と付け加えた。
「何か飲みながら、譜面や小説を書くことが多いから。一ヶ月間、毎日使えば、
手にも馴染む。ほら、こうして形作れるぐらいに」
相羽はカップを持ったときの手を作った。それが正しいのかどうか、純子に
は判断できない。再び視線を逸らし、ベビー服の棚に手を伸ばしながら、「譜
面は分かるけれど、小説もまだ書いてるの?」と話題を換えた。
「気分転換に時折ね。催促されることもなくなったし」
「私は読みたい」
ひまわりの柄のアップリケが付いたベビー服を握りしめ、純子は相羽に振り
返った。
「書いてるって知らなかった。催促してかまわないのなら、するわよ」
「読む時間がないでしょ、純子ちゃんの場合」
「仕事? そんなの平気平気。その気になれば、どこでだって読める。集中し
て読むから。そっちこそ、書く時間、取れるの?」
「ははは。一人の読者のために書くのも悪くない」
目を細め、嬉しそうに言った相羽。悪くないどころか、“いい”に違いない。
「もっとも、以前だって二人だけだったけど」
「あ、恵ちゃんのことね。そういえば、あの子からは催促なかったの?」
「一時はあった。だけど、どちらかというと、君のことを知りたがっていたん
だな、あれは。今でも、好きなんじゃない?」
「え。そ、そんなことないはずよ。ちゃんと男の子と付き合ってるって、恵ち
ゃんからの年賀状にあったし」
「そんなに動揺しなくても」
相羽が純子の手から、丸くなったベビー服をそっと取り上げ、手早くきれい
に直して棚に戻す。
「あの子は高校、どこに行くつもりなんだろう?」
「さ、さあ……付き合ってる相手と同じとこじゃないかしら」
「なるほどね」
「……相羽君は、私のことを、いつから好きになった?」
「え?」
相羽が絶句したのは当然としても、言った当人もまた言葉をなくしていた。
ほとんど無意識の内に、口を衝いて出たのだ。
(だ、だって、中学のとき、留学を考えていたみたいだし、高校受験だって、
私には何にも聞かないで、緑星に絞ってたし!)
――つづく