AWC お題>うどん(下)      [竹木 貝石]


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#150/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  03/05/14  07:03  (241)
お題>うどん(下)      [竹木 貝石]
★内容                                         03/05/15 10:51 修正 第2版
     【5】

 寄宿舎では鉱石ラジオが流行していた。
 確かその前年にスタートした日本最初の民間放送CBC(中部日本放送)ラ
ジオが珍しくて、〈ペンギンタイム〉〈浮雲日記〉〈りんご園の少女〉など夢
中で聞いた。トランジスタのまだ発見されていない頃である。
 僕の鉱石ラジオは、同室の中塚という上級生に組み立ててもらった物だが、
いつも調子が悪くて故障がちだった。
 電気に関する知識のなかった僕は、故障を自分で直すことができず、その都
度、中塚に修理してもらっていたが、そんなある日、僕は中塚に頼んで、毎晩
連続で『電気学入門』の講義をしてもらうことにした。
 舎室は畳18畳敷きの12人部屋で、生徒は個人持ちの座机や本立てを窓際
に横に並べ、その他の荷物は押し入れにおさめていた。
 押し入れは、部屋の両側にそれぞれ上下2段の三つずつ、合計12あり、各
々土壁でしきられていた。押し入れの口は当然部屋に面していて、べにや板を
はった2枚の戸が引き違いにはめてあった。押し入れの広さは間口6尺(やく
180センチ)奥行3尺(やく90センチ)の、ちょうど畳1畳分で、高さは
1メートルもなかった。
 舎生のなん人かは、この押し入れを個室代わりに使っていて、荷物を片隅に
積み上げ、棚を吊ったり小机を置いたり、時には電気スタンドまで引込んで、
押し入れの中にこもった。押し入れで寝起きし、仲良しの2、3人が狭苦しい
中に入り込んで、夜遅くまで語り明かすこともあった。
 中塚の押し入れには100ワットの電気スタンドがあり、はんだごても使え
るようになっていて、本立てには電気に関する書籍がぎっしり並んでいる。彼
は毎夜これらの本を引っ張り出しては、乏しい視力を頼りに、虫眼鏡で1字1
字ひろい読みして勉強した。彼は僕を押し入れへ呼んで、自分が学んだ電気の
知識をすこしずつ講義してくれた。彼が本を読む速度は極めて遅く、話の仕方
も間延びして随分まどろっこしかったが、僕は未知の学問に対する憧れに胸躍
らせて聞きいった。原子核と電子・直流と交流・オームやフレミングの法則・
雷の話など、どれも初めて聞くことばかりだった。
 常々彼は、
 「電気の講義をしていることを誰にも言うな。」
と硬く口止めし、2年下級の僕を対等の友達として扱ってくれた。
 相撲をとったり将棋をさしたり買物や銭湯にも一緒に行ったりしたが、中で
も一番彼と趣味が一致したのは、ラジオ番組の〈夢声百話〉の大ファンだった
ことである。徳川夢声と七尾怜子の演じるラジオ漫画〈西遊記〉は、古関裕而
のハモンドオルガンをバックにして、実に楽しかった。語り口といい音楽とい
い、構成や効果音にいたる総てが申し分なくて、あんなに短い30分は他に記
憶がない。その日のラジオ漫画の放送が終った瞬間から、2週間後のその時間
を待ち遠しく思ったものである。
「後2週間!」
「後十日!」
「後五日!」
「後二日。」
 二人は毎日指折り数えてその日を待った。



    【6】

 中塚の他にその頃僕がよく遊んだ寄宿舎生は、例の浜田と5年上級の安井だ
った。安井は僕が小学生の頃よく苛めたものだが、今では良くも悪くもいろん
なことを教えてくれて、煙草も彼から教わった物の一つである。
 盲学校は中途失明の年長生徒が多いので寄宿舎で煙草を吸うことが許されて
いた。しかし未成年者はいけない。
 夜中に小さな火鉢を押し入れに持ち込んで、安井と浜田と僕の3人は、こっ
そり煙草を吸った。当時人気のあった煙草は一袋20本入り40円の〈しんせ
い〉である。
僕が立て続けに3本、4本と火をつけて吸うのを見て安井が、
「そんなに吸っても大丈夫かい?」
 と言いながら僕の吸いかたを観察し、そしてこう言った。
「その吸いかたは〈金魚〉といって、ちっとも吸ったことにならないんだよ。
口に煙を含むだけでは駄目さ。もっと肺の奥まで深く吸い込まなくちゃあ!金
魚だったら何服吸ったって平気なわけだ。」
 と、マアこんなことがあったりして、僕はいつのまにかすっかり煙草の常習
犯になってしまい、人のをもらったり吸い殻をあさったりして、毎晩押し入れ
の中にこもった。
 冬休みに父が迎えに来た時、僕の布団に煙草の焦げ痕がいっぱい付いている
と言って注意した。
「誰かが布団の上で煙草を吸うらしいが、危ないから気をつけにゃいかんぞ
よ。」
 と言われ、内心ぎくりとしたものだが、もしかしたら、父は僕の隠れ煙草を
知っていたのかも知れない。

 ある晩のこと、例によって3人が押し入れで煙草を吸っていた時、突然火鉢
の中にあった紙屑がすごい勢いで燃え始めた。戦後の復興期に急遽建設した盲
学校の校舎は木造のガタピシで、寄宿舎の天井はばふんしと呼ぶ粗い線維のパ
ルプでできていた。焔がその天井に達した時には生きた心地がなく、3人は思
わず天井を手の平で守った。非常に熱かった。
幸いまもなく焔は小さくなり、ほっと命拾いしたが、一つ間違えば、校舎が全
焼していたかも知れないと思うとぞっとする。

 そんなことがあって数日後、授業から帰った僕は例のごとく、小型の火鉢を
押し入れの中に持ち込んだ。するとその時どうしたというのか、中塚がいきな
り大声で叫んだ。
「オオイ、みんな聞けよお! 竹木が押し入れで煙草を吸っとるぞお。」
 ちょっとした悪ふざけのつもりだったのだろうが、僕にはものすごいショッ
クだった。
 人にはそれぞれ弱みという物があり、その弱みに触れられると思わぬ怒りを
発するものだ。中学生のくせに、押し入れで煙草を吸っていると知れたら、停
学か、下手をすると退舎処分になりかねない。長年、模範生として自他ともに
認めて来た僕が、処罰を受けるなど死ぬより辛いことだった。僕の弱点は、自
尊心を傷つけられることなのだ。
 僕は血相変えて部屋を飛び出すなり、隣の部屋の安井にことの重大さを告げ
た。
「どうして中塚君はあんなことを言わなきゃならないんだ。冗談にもほどがあ
る。日頃仲よくし尊敬さえしていたのに、見そこなった。中塚君だって自分の
押し入れに、100ワットのスタンドやはんだごてまで持ち込んで危ないこと
をしているくせに、自分のことは棚に上げて人に恥をかかせようとはなんとい
うことだ。もう友達とは思わない。絶好だ!」
僕は興奮に身を振るわせて安井に訴えた。
 中塚にしてみれば、まさか僕がそんなに憤慨するとは思いもよらず、軽い冗
談のつもりで言ったのだから、逆に当惑してしまった。後になって聞いた話で
は、そのおり中塚は、別の上級生の前で涙を流して口説いたそうだ。
「竹君(僕の略称)も、自分が後ろぐらいからといって、ああまで怒ることは
ない。押し入れで煙草を吸っていてもしものことがあってはと、心配のあまり
ふざけ半分に注意したまでのこと。たしかに声は大き過ぎたかも知れないが、
舎監の先生に聞かれた訳ではなし……。」

 以後、僕と中塚とは同じ部屋に寝起きしながら、何ともいえず気まずくなっ
て、無論、電気学の講座は沙汰止みとなった。
 それでも、ラジオ漫画の〈西遊記〉を楽しみにして、
「後1週間。」
「後三日。」
「後2時間!」
 と言う挨拶だけは続けていた。



    【7】

 浜田は毎晩僕の押し入れで夜更かしをしては、朝、学校が始まる頃になると、
頭が痛いと言って授業を休んだ。
 安井から借りたアコーディオンが僕の押し入れに置いてあって、夕方みんな
が授業を済ませて寄宿舎に戻って来る頃、浜田は元気になって、アコーディオ
ンを弾いたり歌をうたったりしていた。それなのに、明くる日はまた学校をサ
ボり、僕の押し入れで1日中、鉱石ラジオを聞いているのである。
 そんなことが度重なるうち、僕はだんだん浜田を疎ましく思うようになった。
貸した金のこともあるし…、ずる休みしている彼に次第についていけなくなっ
て、僕は煙草をやめ、一緒にアルバイト捜しにも行かなくなった。

 僕は中学(義務教育課程)を卒業して、4月から高等部に入ったが、浜田は
学校をやめ、昭和区八事町の矢島治療院に就職した。僕の方も、山田という年
長の同級生が、瑞穂区雁道町の渡辺治療院を紹介してくれて、二人はそれぞれ
別の道を歩くことになった。
 学校から渡辺治療院までは、市電を2回乗り変えて、歩道のない危険なバス
通りを20分も歩く不便な所だったが、主人は気の良さそうな60がらみの老
人だった。
 間に立ってくれた山田氏が何とも頼りない感じだったので、さほど期待して
いなかったが、なぜかこの時は話がすらすらとまとまり、数日後、僕は手紙で
郷里から父親を呼んだ。
 いよいよ就職と決まったおり、渡辺氏は父と僕に向かって次のように言った。
「わしは、よその治療院と違い、弟子に稼がせた金を不当にぴんはねして大儲
けするつもりはない。そのかわり仕事は厳しいから、按摩の腕は上達するはず
だ。頑張ってほしい。」

 ところが、その翌日、浜田が寄宿舎にやって来て、自分の勤めている矢島治
療院の様子を僕に説明して、
「どうだろう、君も雁道町の渡辺さんを断って、僕と一緒に働こう。矢島治療
院の先生(院長のこと)も、もう一人くらいなら雇えると言っているから。」
 と誘った。
 もともと一人ぼっちで勤めるのを心細く感じていた矢先だったので、僕は1
も2もなく承知して、早速渡辺治療院へ断りに行った。
 初めのうちなかなかきりだせずにいる僕を見て、渡辺氏は打ち合わせに来た
ものと思ったらしいが、
「実はこの話、取りやめにしていただきたいんですが…。」
 と言うと、不思議そうにその理由を聞いた。
「色々考えてみたんですが、やっぱり学校のほうが心配なので、もうしばらく
勉強に身を入れたいと思いまして…。」
 と弁明した。
 主人は気性のさっぱりした人らしく、
「君がそう言うのなら無理にとは言わない。話はなかったことにしよう。それ
にしても、ちゃんと断りに来ただけ、君は真面目だよ。」
 と褒められ恐縮してしまった。

 その夜、僕は浜田について八事行きの市電(路面電車)に乗った。入中→宮
裏→半僧坊…、当時まだ名古屋の外れに近かったこの辺りの停留所は、僕の初
めて聞く名前ばかりで、ガランとした市電は夜の町をガタガタと走った。
 矢島治療院の主人は30歳前後の全盲者、奥さんはきびきびした弱視の人だ
った。浜田が、
「竹木君が一緒に働きたいと言うので連れて来ました。」
 と言うと主人は、
「それは無理だよ。うちじゃあ二人も働いてもらうほど患者さんの数が多くな
いからねえ。」
 と意外な返事である。
 驚いた僕は、話が違う、そこをなんとかならないものか と頼んでみたが、
絶対に駄目だと言う。
 今や、浜田のいい加減な安請け合いに腹が立つというより呆れてしまい、僕
は彼を信じたことをつくづく後悔した。

 一人トボトボと帰る道すがら、僕は無性にせつなくなった。
 市電は「ゴオーッ」とけたたましいうなりを上げて夜の町を突っ走る。
 車内に客はなく、男の車掌さんが低い調子の声で駅名を呼び上げていた。
「次は、半僧坊、半僧坊でございまあす。」



    【8】

 僕は浜田の不誠実に嫌気がさし、貸した金を返してくれない腹立ちもあって、
つい寄宿舎の皆の前で彼の悪口を言った。
 すると、お調子者の田川が、
「よし、俺が借金を取り立ててやろう。任せておけ。」
 と言い、翌日例の公衆電話で矢島治療院を呼び出した。当時電話はまだ数少
なく、手軽に掛けられない頃である。
 お金の催促はどんな場合でも嫌なものだ。さすがの田川も言いにくそうに妙
な言葉遣いで切りだしたが、治療院の主人と奥さんが入れ替わり電話口に出る
だけで、当人の浜田はついに表れず、電話の遠くの方から、
「金を借りた覚えは全く無い。」
 と言いはった。
 たまりかねて僕が受話器を取ると、奥さんが、
「あの田川さんというちんぴら風(不良っぽい若者の意味)の人が間に入って
いる以上、まともに話はできないよ。」
 と言った。
 田川がてれかくしに変な声色を使い、やくざ調の言い回しを連発したのが、
かえって相手方の不信をかったのである。
 田川などに頼むべきではなかった。

 僕と浜田とは小学2年生からの遊び友達で、元々彼は繊細な優しい性格だっ
た。
 それが何時の頃からか我侭で身勝手になっていき、中学生時代には、自らを
「ひねくれ者」と称して、授業中よく先生にも反攻した。
 家庭に不幸が続き、両眼を相次いで摘出するなどの事故が重なって、すっか
り心がすさんでしまったようだ。
 浜田と二人で、アルバイト先を何十軒探し歩いたことか! 一緒に働こうと
あんなに約束しておきながら、彼は自分だけさっさと働き口を見つけて契約し
てしまい、遅ればせに僕が決めた渡辺治療院を断らせておいて、自己判断で矢
島治療院へ僕を連れていったのだ。
「マアなんとかなるさ。」
 という彼特有のやり方に騙された僕が愚かだった。

 その後僕は浜田に会う機会が2度あったが、貸した金のことは言い出せず、
半年後に、安井が浜田の保護者に直接話をしてくれて、全額返してもらうこと
ができた。



    あとがき

 あれから20年、私は東京の大学を出て札幌に赴任した。
 母校の教員として名古屋に戻り、懐かしい〈鶴亀屋〉の前を通ったら、入り
口の所に女将さんがいて、
「あんた、先生になったんか?」
 と声を掛けてくれたので、私は店に入り、木の腰掛けに座って棊子麺を注文
した。
 味は昔と替わらず美味しかったが、新しい綺麗な店がたくさん出来て、〈鶴
亀屋〉はすっかり寂れてしまっていた。


        [1991年(平成3年)9月23日   竹木 貝石]






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