AWC 会津旅行記『春日八郎記念館』を訪ねて(5) /竹木貝石


        
#87/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  02/05/20  08:53  (108)
会津旅行記『春日八郎記念館』を訪ねて(5)  /竹木貝石
★内容
   第3日目

 一泊目もそうだったが、私は寝付きのよい方なのに、夜中に目を覚ますと暫
くは眠れず、そろそろ起きる時間の6時頃再び深く眠ってしまう。
 今朝も7時半まで眠り込み、S君の準備の物音でやっと起きあがった。
 もう一回温泉に行き、サッと入ってから食堂へ行く。朝食はごく普通のメニ
ューだった。
 旅館を出るとき、受け付けで柳津駅までの所要時間を訊いたら、
「階段を下りれば20分くらいですが、大変でしょうから、回り道をすると
30分弱かかります。」
 と言い、盲人が階段を歩くのは危ないと思っているらしい。
「階段でも大丈夫。」
 と言ったら、
「じゃあ、20分もあれば駅まで行けます。」
 と教えてくれた。
 登りのだらだら坂が長く続き、例によって私が息切れしているので、S君が
速度をゆるめる。
「こんなに腹が出ていては良くないよ。5年後に来られないとしたら、君の方
だろう。」
 と言われてしまった。昨日私が、
「もし5年後にまだ君が生きていたら、また春日記念館へ来よう。」
 と言ったので、その冗談のおかえしである。
 程なく駅が見えて、15分もかからなかったが、旅館の人は大事をとって時
間を長目に教えてくれたのだ。
 会津若松まではどんな話をしたのだろう? 途中坂下町を通ったときは特に
名残惜しい感じがして、心の中で春日八郎をしのび、耳の奥に彼の声を呼び起
こしていた。
 会津若松からの郡山行き普通列車も空いていて、ボックス席を二人で占領し
て広々と使った。

 猪苗代駅で下車。コインロッカーを捜して、また17番に荷物を入れる。
 季節外れのせいか、駅前は寂しいくらい静かだ。昼食の店を物色しながら駅
前を歩いていると、通り過ぎた店のおばちゃんが後ろから声を掛けてきたので、
戻ってその店に入った。商売屋は声を出す方が勝ちのようだ。
 私がラーメン、S君は何ソバだったか?
 猪苗代湖畔までバスで行き、船着き場から遊覧船『白鳥号』に乗った。
 かなり大きい船で、73トンだそうだ。上と下に船室があり、上の部屋の席
に座ったが、乗客は僅かに7、8人しか居ない。
 案内放送のスピーカーの声が聴き取りやすく、細かい数字は記憶していない
が、
「猪苗代湖の大きさは、長い所で15キロ、短い方の幅が9キロ、周囲51キ
ロで、深さは一番深い所で93メートルあります。硫黄分の多い水質なので、
魚の種類はあまり多くありません。」
 というような説明を聞きながら、途中うとうとと眠ったりして、30分足ら
ずで湖を廻ってきた。
 1時35分のバスに乗って野口英世記念館を見物することも考えたが、ちょ
っと急がねばならないので、次の2時48分に乗ることにする。
 自動販売機でお茶を買い、ベンチを借りて休んでいると、建物の上から長椅
子を下ろす男の人や、その長椅子を雑巾で拭いている女の人など、5月からオ
ープンするのに、店や休憩所の設営・準備をしているものと思われる。貸しボ
ートも今はまだ開業していないが、段幕を広げているようだ。
 立て看板に、
「天鏡閣まで400メートル。有栖川の宮別邸」
 と書かれていたので、一応行くだけ行ってみることにする。有栖川の宮とい
えば、薩長連合軍が江戸を目指して進撃してきたときの征討副将軍の筈だ。

 400メートルにしては上り坂が長すぎたが、確かにそれらしき建物が現れ、
案内放送のスピーカーが聞こえてくる。門を入ると、洋風建築が見え、二階の
バルコニーと手すりが特徴的とか…。中を見物する時間が無いので、トイレだ
け借りて帰ることにした。
 ここで私が言葉遊びのなぞなぞを出したが、これは教え子が夏休みのキャン
プの折りに教えてくれたクイズであり、その生徒は早死にしてこの世にいない。
「有栖川の宮殿下が大便所に入ってなかなか出ておいでにならない。30分経
ち40分経っても出て来ないので、外で待っていたお付きの人が待ちくたびれ
て…、そのとき何と言ったか?」
 答は、
「デンカ」
 である。
 下記の言葉は誰が言ったのだったか、
「人は必ず二度死ぬものだ。一回目は肉体が死ぬとき、もう1回は、生きてい
る人々が死者のことを忘れてしまったとき」
 だとすると、「デンカ」のクイズを出題した生徒は、私の心の中でまだ生き
ているのかも知れない。ちなみに、彼が語った折りの「殿下」の名前は有栖川
の宮ではなかったが…。

 そろそろ旅も終わりに近い。
 バスが遅れてきて心配したが、猪苗代駅には定刻に着き、コインロッカーか
らリュックを出して、快速郡山行きに乗車した。
 東北新幹線は帰りもマックスやまびこの二階席。隣車輌の販売所で、みやげ
物の『薄皮饅頭』と『笹蒲鉾』を買った。
 博学のS君の話は勉強になり、この旅行中に次のことも教わった。
「浪曲家の濁声は、声帯皺襞ではなく、室皺襞を使って発声する。」
「阪神大震災の教訓から、水道のレバーをどちらへ動かすかの結論が出た。蛇
口のハンドルを下方向に倒したときに水が止まるようにするのが良い。」
 東海道新幹線はひかり169号。
 私も色々なことをしゃべったが、駄洒落や持論を押しつけすぎたかも知れな
い。中でも、戦後におけるノンフィクション作品で、藤原てい(文字不明、新
田次郎夫人)の著書『流れる星は生きている』から引用した、「猿股」のエピ
ソードは、私の地声が大きすぎて、列車の中の話題としては顰蹙物だった。
 浜松でS君が降りた後、眠って乗り過ごさない為に、座席の背もたれや肘掛
けから体を浮かせて、なるべく寄り掛からないようにした。
 名古屋駅には既に妻が出迎えに来ていて、中央線に乗り換え、無事帰宅した。
 忘れ物や落とし物が無かったのが、私としては上出来といえよう。
 S君はおそらく相当に疲れたに相違ないが、おかげで楽しい思い出が一つ増
えた。


    おわりに

 家に帰ってから、パンフレットを読んでもらったら、記念館の正式な名前は
〈春日八郎記念公園・思い出館〉という。
 春日八郎は本名渡部実、大正13年10月9日生まれ、平成3年10月22
日に67歳で亡くなった。
 記念館が出来たのは、それから4年後だそうだ。


     [2002年(平成14年)4月18日   竹木 貝石]






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