AWC 秀頼誕生の謎・守屋


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★タイトル (mor     )  10/08/20  12:49  ( 28)
秀頼誕生の謎・守屋
★内容                                         10/09/03 12:22 修正 第2版
 オークさんの書き込みがきっかけで、調べましたとも! 昨日の書き込みにはミスが
あったので、ちょっと訂正です。で、まとめ。

 暦を調べると、秀頼の誕生は旧暦文禄8月3日で、西暦1593年9月8日。
 逆算すると、淀殿の排卵は1592年12月1日で、旧暦の10月28日である。受胎はその後だ
から旧暦11月初めと思われる。
 当時、秀吉及び淀殿がいたのはどこか? が議論のポイントとなる。

 この時期、秀吉は朝鮮攻略に軍を送っている最中。
 ちなみに、最近の研究でこの派兵は朝鮮半島を征服するためではなく、明を征服する
ためだったということがわかってきている。朝鮮半島は自分に臣下の礼を取ったので、
すんなり軍を通してくれると秀吉は思い込んでいたらしい。キリシタン大名らが大言壮
語し、秀吉は実際に抵抗されるまで疑わなかった。

 彼の行動はかなり細かくわかっている。
 天正20年(1592年)7月に母・なかが聚楽第で死亡し、肥前名護屋城にいた秀吉は急
遽、戻った。このとき、淀殿と松の丸殿は肥前名護屋城にいた。
 8月、その葬儀。

 秀吉実父説を主張する研究者と淀殿&秀頼ファンは、この葬儀にもふたりが戻らず、
そのまま肥前にいたと解釈する。ふたりが京、あるいは大阪へ戻ってきたというはっき
りした記録はない。しかし、出産前の5月下旬に淀殿は大阪城にいた。
 否定派は大政所の葬儀をすっぽかすはずはないと解釈し、ふたりは急いで戻ってきた
はずとし、その後はずっと大阪にいたとする。
 そして、秀吉は旧暦10月1日に大阪を船で出発。名護屋城着は10月8日ごろと思われ
る。

 さて、真実は……?




元文書 #6235 『淀殿が自信を持てたのは何故ですか?』   永山
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