#6235/9229 ◇フレッシュボイス過去ログ
★タイトル (AZA ) 10/08/19 21:08 ( 20)
『淀殿が自信を持てたのは何故ですか?』 永山
★内容
秀頼に関する書き込み、興味を持って読んでいます。
それで感じたこと。
普通なら淀殿は、そばに秀吉がいる期間に受胎したと見せ掛けられるよう、
計画を立てるはず。そんな余裕もないほど、切羽詰まっていたんでしょうか。
仮に余裕がなかったとして、その矛盾を、多指症トリックで押し通せる!と
自信を持って実行したんだとしたら、それも不思議な気がします。勇気がある
というか、思い切りがよいというか。
あと、晩年の秀吉がおかしいという話。検索してみたら、多くの人が感じて
いることみたいですね。大腸ガンに罹って脳に悪影響が出ていたんじゃないか
という説もあるそうで。
でも、「秀吉の判断能力が何らかの原因で著しく劣っていた」としてしまう
と、秀頼を実子と信じ込ませるのも容易になりそうなので、ミステリとして面
白くなくなるなあ(笑)。
そういえば、妊娠期間イコール十月十日を文字通りに信じ込んでいたがため
に誤解が生じる、というミステリがいくつかあるはず。
案外、秀吉もこの口だったりして(汗)。生母の病を聞いて一旦大坂に戻っ
たとあるから、日付は辻褄が合うのかな?
ではでは。
#6237/9229 ◇フレッシュボイス過去ログ *** コメント #6235 ***
★タイトル (mor ) 10/08/20 12:49 ( 28)
秀頼誕生の謎・守屋
★内容 10/09/03 12:22 修正 第2版
オークさんの書き込みがきっかけで、調べましたとも! 昨日の書き込みにはミスが
あったので、ちょっと訂正です。で、まとめ。
暦を調べると、秀頼の誕生は旧暦文禄8月3日で、西暦1593年9月8日。
逆算すると、淀殿の排卵は1592年12月1日で、旧暦の10月28日である。受胎はその後だ
から旧暦11月初めと思われる。
当時、秀吉及び淀殿がいたのはどこか? が議論のポイントとなる。
この時期、秀吉は朝鮮攻略に軍を送っている最中。
ちなみに、最近の研究でこの派兵は朝鮮半島を征服するためではなく、明を征服する
ためだったということがわかってきている。朝鮮半島は自分に臣下の礼を取ったので、
すんなり軍を通してくれると秀吉は思い込んでいたらしい。キリシタン大名らが大言壮
語し、秀吉は実際に抵抗されるまで疑わなかった。
彼の行動はかなり細かくわかっている。
天正20年(1592年)7月に母・なかが聚楽第で死亡し、肥前名護屋城にいた秀吉は急
遽、戻った。このとき、淀殿と松の丸殿は肥前名護屋城にいた。
8月、その葬儀。
秀吉実父説を主張する研究者と淀殿&秀頼ファンは、この葬儀にもふたりが戻らず、
そのまま肥前にいたと解釈する。ふたりが京、あるいは大阪へ戻ってきたというはっき
りした記録はない。しかし、出産前の5月下旬に淀殿は大阪城にいた。
否定派は大政所の葬儀をすっぽかすはずはないと解釈し、ふたりは急いで戻ってきた
はずとし、その後はずっと大阪にいたとする。
そして、秀吉は旧暦10月1日に大阪を船で出発。名護屋城着は10月8日ごろと思われ
る。
さて、真実は……?