#250/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 05/01/01 23:59 (458)
特別な人にマジックを 2 寺嶋公香
★内容 06/07/27 23:07 修正 第4版
決戦の日は、朝から思いも寄らない雪。
「まずい」
朝食の席で出し抜けにそう言った暦を、碧が後ろからはたく。
「食べもしない内から、何を言ってるのよ」
食事の仕度をしたのは母で、今はまだ台所に立っているから聞こえていない
だろう。その代わりに怒った、といった感じか。ちなみに、父はすでに出掛け
ている。
「朝御飯のことじゃない」
後頭部をさすりさすり、否定する。碧は、「じゃ、何よ」と言いながら真向
かいの椅子に着席した。
「天気のこと。寒さで指先の感覚がなくなると、マジックがやりにくい」
「あ、そうか。なるほどね。うちの学校、設備はあるくせして、なかなか暖房
を入れてくれないから」
「ん、というか、俺はいいの。羽根田の方が心配だよ。本番で緊張した上に、
寒さで感覚が麻痺したら……かなり危ない」
「余裕の発言ね」
「そうじゃなくって。俺は自分が失敗するのはいいけど、他人の失敗を見るの
は嫌なんだよ!」
「大声を出して、どうかした?」
母が姿を現した。びっくりして駆け付けたのかと思ったが、そうではないら
しい。それぞれの手には、きれいに剥いたりんごを載せた小皿があったから。
「暦が男らしいとこを見せたんだよ」
碧が言った。明らかに面白がっている口ぶりで。
「あれ? 暦は随分前から男らしいと思っていたんだけれどな」
目を丸くして応じる母。びっくりする観点がずれてる、と暦は言いたかった。
言えないけれども。
碧は説明する余裕はないと知ってか、皆までは言わずに、母にこう伝えた。
「男の子らしい心遣い、気遣いっていうのかな。なかなか格好いいわよ。この
まま大きくなったら、いい男になるわ」
「お父さんよりも?」
「うーん、それは分からない」
女二人で勝手に喋ってろ、と暦は言いたかった。やっぱり言えないが。だか
らさっさと離れようと、食べることに集中しかけた暦に、母が話し掛ける。
「暦の歳だと、まだ難しいかもしれないけれど、心遣い、気遣いっていうのは、
その字と違って、心や気持ちだけじゃ足りない場合もあるの。そういうときは、
行動も伴ってなくちゃ。でないと、自分自身が落ち込んじゃう」
「……母さんでも?」
「それはもう、昔はしょっちゅう。今でもたまにね。だからせめて、行動を伴
った上で、落ち込むことにしてる」
「それ、解決になってない気もする……」
「いいの。失敗できることならね。暦や碧は、まだいくらでも失敗できるし。
マジック、精一杯ね」
最後にそう言って、母はテーブルを離れた。その背中を見えなくなるまで追
って、弟と姉は、ひそひそと言葉を交わした。
「全部聞こえてたんじゃないかな?」
「私もそう思う。今の話、ぴたりとはまりすぎ」
マジック対決はメインイベントの位置付けで、会の最後に回された。よって、
さすがの暦も、そして恐らく羽根田も、他の人の出し物を楽しむ余裕はほとん
どなかった。
唯一、違ったのが、小倉優理が一人で、恥ずかしそうに一曲唄いきったとき。
その愛らしさに思い切り拍手した。歌の方は、中の上といった感じだったが。
そして。
「文字通り楽しい、お楽しみ会も、いよいよ最後になりました」
司会役の碧が、マイクを持つ格好だけをして、調子よく進めていく。
「締めくくりにふさわしい熱闘が見られることと期待して、盛大かつ温かい拍
手で迎えてください。我が不肖の弟・暦と、羽根田君によるマジック対決!」
廊下で準備(種の仕込みだけではなく、羽根田はタキシード風のジャケット
を羽織った)を済ませ、待機していた二人は、その声を合図に教室に入った。
途端に、本当にやかましいくらいの拍手をもらう。
「二人ともがんばれ!」
たまたまなのか、取り決めでもしたのか、どちらか一方の個人名を叫ぶ声援
はない。名前を入れるにしても、必ず二人を続けて言っていた。みんなも本気
で、公平に判定を下すつもりなのだ。
「勝負に先立って、ルール確認を。それぞれ三つのマジックを交互に披露する。
三つの内、二つはトランプを使ったカードマジック。残る一つは何でもOK、
カードマジックでも可。持ち時間は、一つのマジックにつき五分を目安に。多
少のオーバーは認めます。三つ足して二十分程度に収めるように。でも、五分
は結構長いわよ。えっと、また、ここで言う“一つのマジック”とは、一連の
演目を一つとして見なします。たとえばカード当てで一度当てたら一つと数え
るのではなく、持ち時間五分の内なら色々やってかまわないってこと。――」
碧は続けて投票について述べた。二週間前の概要に付け加えるとしたら、担
任の先生と碧は投票しないと決めたことくらい。
「――みんな、今さら言わなくても分かってると思うけれど、えこひいきなく、
感じたままの投票をしてね。じゃ、これ以上待たせるのは、二人にも悪いから」
おもむろに振り返り、暦と羽根田を手招きする碧。二、三歩進み出た二人に、
「先攻後攻を決めなくちゃね。ジャンケンをして、勝った方が選べる。いい?」
ジャンケンは羽根田が勝ち、先攻を選んだ。投票直前に演じられる後攻が若
干有利と考えられるが、承知の上で敢えて先攻を取ったようだ。というのも。
「分かってると思うけれど、これで貸し借りなしだからね」
脇に引っ込もうとした暦に、羽根田が言った。
「うん?」
「指先を温めるようにアドバイスしてくれた分さっ」
早口で答え、羽根田はマジックグッズを教卓に置いた。
(なるほど)
悪い奴でないのは前から分かっていた。それでも見直してしまう。
「そうそう、忘れるとこだったわ。BGMは必要?」
羽根田に聞きながら、碧はオーディオデッキを示す。
「『オリーブの首飾り』しか用意してないけれども」
「うーん、だいたいの時間を掴むには、あった方がいいな。ボリュームは下げ
目でね」
「――このくらい?」
ほとんど気にならないレベルで、スピーカーから“ちゃらららららーん”の
メロディが流れ出る。羽根田は大きく首肯した。舞台が整い、遂に開始だ。
先攻・羽根田の最初の演目は、カードマジック。
「最初だから、軽いジャブということで。このトランプ」
プラスチック製のケースから一組のトランプを取り出すと、裏向きの状態で、
右手で縦に持つ。左手を添えてから、ぱらぱらと弾いて見せた。
「ご覧の通り、普通のトランプがばらばらになってます」
羽根田は言ったが、弾くのが早すぎて、暦には確認できなかった。他のクラ
スメートを見ると、うなずいている人もいれば、「見えない」と口走る人もい
る。
羽根田は全員が納得できるよう、五回、方向を変えて、同じようにトランプ
を弾いていった。
その様子から暦は察した。カードをシャッフルしてみせないことから、何ら
かのセッティングがしてあるか、特殊なトランプなのだと。カードがばらばら
であることを示そうと何度も弾いたため、シャッフルしない不自然さが強調さ
れる。
暦はもちろん指摘しない。誰も感づかない内に早くやれ、とじりじりした。
「確かにトランプだったよね? ところがこうして一番下の一枚を取って、振
りながら、残りのカードにおまじないをかけると、大変なことが起きる」
羽根田はカードの山を教卓に置くと、底のカードを抜き取り、目を瞑った。
神妙な顔つきになって、アブラカダブラと唱える。そして持っていた一枚を置
くと、残りの束を再び取り上げる。裏向きのまま持ち、徐々に扇形に広げなが
ら、皆の方へ表を見せるべく、傾けていく。
「あれ? 真っ白だ!」
何人かが叫んだ。羽根田のトランプは、全部ただの白いカードになっていた。
「すげー」
「すり替える暇、ないよな?」
そういった反応に気をよくしたか、羽根田が得意げな目で暦を見やる。それ
から彼は表向きでカードを束ねると、最初と同じように指で弾いてみせた。白
いカードがめくれて行く。印刷されたカードは一枚も見当たらなかった。
「以上でした」
素気ないほど不意に切り上げ、羽根田はカードを仕舞いながら頭を下げた。
起こした顔は、拍手を浴びて嬉しそうだ。五分どころか三分にも満たない演目
だったが、「軽いジャブでこれなら、このあとどうなるの」なんて声まで聞か
れる。
(演出としては全然っ、大したことないんだけど。現象が凄いだけで受けるの
か、やっぱり。くそ、自信なくなってきた)
弱気の虫が出そうになる暦。立て直そうにも、碧に名を呼ばれて急かされる。
「いきなりの大業を見せつけられた形になったけれど、プレッシャー?」
インタビュアー紛いの仕種で尋ねてくる碧が、にこにこ、にやにやしている
のを目の当たりにして、何故だか発奮してきた。
「姉さんなら、俺の実力を知っているはずだぜ」
「知ってる。けれど、今日、暦は仕掛けのある道具は使わないんでしょ? 羽
根田君と違って」
「……あのな、ここでばらすことじゃないだろ」
羽根田がデモンストレーションをやった日の晩、暦は自宅で姉に、専門的な
マジックグッズは使わないと宣言した。そのとき口止めしておくんだったと後
悔しても、もう遅い。
「つまり」
羽根田が敏感に反応した。
「今日やるマジックは、やり方を知って、トランプさえあれば、誰でもすぐで
きるってことなのかな」
「……いや」
ため息をつきつつ、振り向く暦。弱気はだいぶ減ったが、代わりに苛立ちが
募ってきた。羽根田の台詞の一部を言い替えて、返してやりたい。
(おまえがやったのこそ、グッズがあれば誰でもできるだろうが)
一瞬、主義に反してでも種をぶちまけたい衝動に駆られる。だが、他人の失
敗や狼狽えるところを見たくない気持ちに、変わりはない。
「意味が分からないよ、暦君。一番下のカードを覚えるというあれなら、誰で
もすぐにできるじゃないか。似たようなものじゃないのかな」
「……マジックはそんなに単純じゃないよ」
冷静さを取り戻すため、笑ってみせた。話し方も刺々しさを抑えてみる。
呆気に取られたような羽根田から、みんなへと向き直ると、暦は言った。
「待たせて悪いな。BGMはなくてもいいんだけど、公平を期すために、この
ままでやってみよう」
ぱちぱちと、再開を喜ぶ拍手。羽根田が最前列に陣取った。
暦は紙の箱に入ったトランプ一組をポケットから取り出すと、「このカード
はバイシクルという、マジシャンに一番使われているトランプなんだ」と説明
を始めた。
「と言っても、種も仕掛けもない、極普通のトランプさ。みんなの持ってるト
ランプと同じ。あ、ひょっとしたら、一つだけ違うか。みんなのトランプはプ
ラスチック製が多いと思うけれど、これは紙でできている。紙の方が、汗なん
かで引っ付いてしまわないから、マジックに向いてる」
「普通なのは分かったけどさ。言ってるだけかもしれないじゃないか」
冬木が挙げた手で、暦を差し示しながら言った。いいタイミングでの一声に、
暦は気をよくした。
「そりゃそうだな。だったら、マジックに入る前に、みんなに調べてもらおう」
ケースからカードを抜き出し、束のまま、一番近い女子に渡す。
「普通のトランプで、順番も滅茶苦茶になっているよ」
受け取った子が調べて、他は後ろや横から覗き込む。程なくして、暦の言う
通りだと証明された。
が、対戦相手は疑り深い。
「僕も手に取って調べたい」
「どうぞどうぞ」
トランプが羽根田の手に渡る。一枚ずつ親指と人差し指とで摘み、擦るよう
な動作をする。それを何枚かに試して、やっと納得できたようだ。
羽根田がカードを手渡そうとするのを制し、暦は全員が元の場所に落ち着く
のを待ってから始めた。
「二分近く使ったかな? でもまあ、俺も一つ目は軽く行くから、大丈夫。疑
り深い人のために、もう少しだけ時間を取れる。ということで、羽根田」
「ん?」
「気が済むまで、シャッフルしていいぜ」
「……いや、しなくていい。さっきじっくり見た。間違いなく、ばらばらだっ
たからね」
警戒も露にそう答えた羽根田。暦は黙ったまま、微かに笑ってみせた。
「それでいいのなら、カードの中から一枚を選び、俺に渡す。俺はこう、後ろ
向きでカードを――」
言いながら、くるりと回って、黒板の方を向く。腰の後ろで組んだ手をひら
ひらさせ、
「――受け取る。ここまで言えば分かるだろう、カード当てだ。後ろ向きのま
ま、指で読み取るのさ」
「……みんなにもカードを見せないと行けないのかな?」
「そうしないと、みんなが面白くないだろ」
「誰かぐるなんじゃないのか。そいつがサインか何かで、君に数字とマークを
伝えるのかもしれない」
「種の見破り合戦じゃないんだぜ。その手は使わないけど、疑うのなら、おま
えだけ見て、数字とマークを紙に書き留めればいい。俺が答えたあと、照らし
合わせるんだ」
「……うん、それでいこう」
紙と鉛筆が用意され、羽根田はカードを引いた。数字とマークを彼だけが見、
紙に書き付ける。その紙を、念入りに折り畳んだあと、言った。
「書いた。で、カードを渡せばいいんだね」
「そう。早く頼む。時間が気になってきた」
後ろ向きで、右手を動かして催促する暦。裏向きのカードが渡された。
ここでようやく、暦は正面を向いた。
「みんな、背中を向けて失礼をしました。お詫びに投げキッスでも」
と、空いていた左手で本当に投げキッスの仕種をやる。女子からは歓声をも
らえたが、男子からは「早く当てろ!」と罵声をもらった。
「慌てないの。こういうことは精神を集中しないといけない」
左手を軽く握り、拳に当てて、目を閉じた。その様が真に迫っていたせいか、
教室内は急に静まり返った。衣擦れの音や、足を組み替えるときに上履きが床
を擦る音が断続的にする中、何秒かの時間が過ぎていく。
と、不意に暦は目を開け、左手を後ろに戻した。
「分かった気がする」
みんなから声はない。息を飲んで待っている、そんな感じだ。
「黒……スペードだ。数は……奇数で、大きくもなく小さくもない。そう、ス
ペードの7!」
暦が言い切ると同時に、観客の視線は一斉に羽根田へ。そして、彼がメモを
した紙を開く前に、その表情から、マジックの成功をみんなは悟った。
「当たっているよ。スペードの7、間違いない」
それを聞いてから、暦は表情を緩め、後ろ手に持っていたカードを、身体の
前に持って来た。端っこを摘み、「よかった。確かにスペードの7だ」と、全
員にカードが見えるよう、高く掲げた。
「なかなかやるね。ちっとも分からない」
「そりゃよかった。うまくいってほっとした」
大きな拍手と称賛の声を受けながら、暦は羽根田から残りのカード全部を受
け取った。気の早いクラスメート数名が、一つ目のマジックだけで、どちらが
よかったかを議論している。
「不肖の弟が心配で、見てられなかったけれども、どうやら巻き返しに成功し
たみたいね。それじゃ、羽根田君。二回戦、行ってみよう!」
碧の明るい声を合図に、次のマジックへ。
羽根田は、二つ目もトランプマジックを持って来た。
一つ目と同じく、シャッフルせずに、ぱらぱらと弾くやり方でカードを皆に
改めてみせたあと、彼は切り出した。
「では、一人に手伝ってもらいたいんだけど、誰がいいかな」
はいはいはい!と、立候補者が手を挙げる。クラスのほぼ半分が挙手してい
る。その数に、羽根田は驚いた表情を作った。
「嬉しいんだけど、全員は無理なんだよね。それに、ぐるだと思われては行け
ないから……碧さん、お願いします」
恭しい態度で空いている手を差し出す羽根田。指名を受けた碧も調子を合わ
せ、「光栄だわ」と微笑んだ。
碧は、教卓を挟んで、羽根田と向かい合わせに立った。他のみんなは横から
その様子を見る形になる。
羽根田はカードの表を下にし、またも弾いた。
「こうやってぱらぱらと弾くから、好きなところで指を挿し入れてください」
「分かったわ。どの指でもいいの?」
「うーん。人差し指で」
意表を突かれたのか、苦笑いを浮かべる。かなりリラックスしてきたようだ。
羽根田が弾き始めると、碧はすぐに右手人差し指を挿し入れた。
「その指の下のカードが、あなたの選んだカードですが、やり直してもいいで
すよ」
「これでいいわ。優柔不断な弟とは違うから」
俺をだしに笑いを取るんじゃないっ、と暦は内心、毒づいた。
「では、そのカードを取って、みんなに見せてください。僕には見えないよう
にね。そして覚える。くれぐれも、声に出さないように」
碧が胸元で掲げたカードは、ハートの9。彼女の「みんな、分かった?」の
声に、全員が首を縦に振った。
「では、元に戻してください」
先ほど選び取ったときのまま、上下二つに分けられていたカードの山へ、碧
はハートの9を戻した。
「実は、このトランプには不思議な力があって、選んだ人を引き寄せるんだよ
ね。たとえば、さっきと同じことをすれば、碧さん、君はまた同じカードを選
んでしまうよ」
「本当にそうなったら、私がマジシャンになれるわね」
「いえいえ。あくまでカードが覚えているだけだから。では、これから弾くか
ら、さっきやったみたいに」
やり取りを聞いていて、暦は焦れったくなっていた。
(姉さん、ここはもっと驚くか、嘘だぁ信じられなーい、みたいな反応をした
方が盛り上がるだろ。羽根田も羽根田だ。お客の言葉を否定しないで、かもし
れないね、ぐらいで受けろ。だいたいおまえ、さっきから「では」連発してる
の、気付いていないな? 口上が単調だと、弛れるぞ)
等と胸中でぶつくさやっている内に、段取りは進み、碧が二度目に選んだカ
ードもハートの9だった。もう一度繰り返しても、現れるのはハートの9。
「とりつかれちゃった……?」
自分の人差し指を見つめる碧。彼女が心底驚いた表情をするのは珍しい。
「人差し指だけじゃなく、親指もとりつかれたかもしれないよ」
羽根田が言った。右手の人差し指と親指を大きく開くと、カードの山を縦に
挟む格好をしながら、「こういう風にして、適当なところで持ち上げてみて」
と碧を促す。
碧は言われるがまま、カードの山に手を伸ばし、上辺と下辺を挟んだ。持ち
上げたのは、上から四分の一ぐらいのところから。
「持ち上げた分は横に置いて、下のカードの山の、一番上を開いて」
「――うそ」
碧はカードを取り落とした。ひらりと舞って、床に落ちたそれは、またまた
ハートの9だった。
「段々、気味が悪くなってくるわね」
碧がそう漏らしたのもよく分かる。見ているクラスメートも、拍手や歓声は
減って、ざわつき出した。
「では、そろそろ魔法を解いてあげよう」
羽根田はカードをひとまとめにして左手に持つと、碧に、そこへ右手を置く
ように言った。
碧が置くと、彼女の手の甲に、羽根田は右手を重ねた。ちょっとした冷やか
しが起こるが、羽根田は意に介した様子もない。
「初めにアブラカダブラと言ったから、解くときは、逆を唱えればいいよ。ラ
ブダカラブアってね」
「私も言うの?」
「うん」
碧は淀みなく、ラブダカラブアと唱え、すっと手を引っ込めた。
羽根田は名残惜しそうに苦笑すると、
「これで魔法は解けた。と言うよりも、最初から、秘密なんかないんだけれど
ね。つまり……」
手にしたカードを表向きに持ち直すと、例のごとく、指で弾く。ぱらぱら漫
画のように次々と現れるカードは……どれもハートの9。
「全部、ハートの9だったというわけ。以上でした!」
おお、というどよめきに続き、拍手の嵐。
これには、暦も拍手を惜しまない。喋りはともかく、一つ目の素気なさに比
べると、かなりうまく演じ切っていた。もしかすると、優秀なお手本が解説書
にあったのかもしれない。
「さあ、後攻。出番だよ」
姉の声に、すっと進み出た。羽根田と入れ替わりで教卓を前に立つと、「俺
もトランプを使う」と言って、一つ目と同じく、バイシクルのカードを取り出
した。
片手できれいな扇形を作り、広げた状態で表を見せる。
「ジョーカーを除いた五十二枚を使います。ご覧の通り、順序はばらばら。そ
れでも信用できないなら、ちょっとカットを」
暦は扇を閉じ、束に戻したカードを、右手だけで三つの塊に分け、順序を入
れ換える動作をした。鮮やかな手つきに、おおっ、すごーい、もういっぺんや
って、と声が掛かる。暦はこのカットを三度やった。
「手伝ってくれる人を選ばないと行けないんだけど、また羽根田っていうのも
面白くない。そこで、羽根田。手伝ってくれる人を選んでくれるか」
「……なるほどねえ。全員がぐるってことは、あり得ないものね。それじゃあ、
遠慮なく選ばせてもらおうっと。えっと」
室内を見渡す羽根田は、さして時間を掛けずに一人を指名した。
「小倉さんに」
「え?」
白いセーター姿の小倉は、戸惑った風に小さく声を上げた。
戸惑ったのは暦も同じ。
(小倉さんを選ぶなんて、羽根田の奴、俺を動揺させる作戦か? いや、嬉し
くもあるけれど)
などと勘ぐってしまう。
「頼むよ」
「私で務まるかしら……」
「大丈夫。――どうせ、難しいことなんてしないだろ?」
急に尋ねられた暦は、どもりながらも答える。
「あ、ああ。ぜ、全然、難しくない。簡単」
くどい返事になったのを、激しく後悔。が、気を取り直すのは早い方だ。
「小倉さん、手伝いをお願いします。みんなは拍手を」
テレビで観たプロのマジシャンを思い出しつつ、さらりと言った……つもり。
教卓を間に、小倉を向こう正面にエスコートする。さすがに手に触れること
はできなかった。羽根田が碧にしたことの真似に見えかねないし。
(……もしかして羽根田の奴、碧のことをいいと思ってる? 万が一にもあい
つが義理の兄になるなんて、ないだろうな)
自分の心理と重ね合わせ、そんなことまで想像した。集中力が途切れそうだ。
再びカットをして、手の感覚を確かめる。よし。
「ようこそ、小倉さん。緊張してる?」
「少し」
「本当に簡単だから、リラックスして。時間は気にせず、僕、いや、俺の言う
通りにして」
暦もまだ緊張が残っているのかもしれない。慣れない一人称を打ち消し、カ
ードを配る動作を始める。教卓の上には、二つの山ができていくことになる。
「こんな風に配って行くから、好きなときにストップと言って」
「私の思ったところで止めていいってこと?」
「そう」
「それじゃ……ストップ!」
彼女にしては大きな声でストップが掛かる。楽しんでくれてるのかなと、暦
も気合いが入った。中途で浮かしたままの一枚に視線を落とし、判断を仰ぐ。
「これはどうしますか?」
「えっと。置かないで、戻して」
暦は手元のカードを戻し、それらの束を教卓の隅に置いた。
「――こうして二つのグループができたわけだけれど、どちらを使いたい?」
聞かれた小倉は瞬きをしながら、目を左右にきょろきょろさせた。
「右、かな」
「じゃあ、俺は左を使うから、右のを取ってください」
と、暦が相手から見て左、つまり自分からは右にあるカードに手を伸ばすと、
小倉の手の甲に触れてしまった。
「え?」
「あ、あれ?」
ともに、反射的に手を引っ込める。暦は、小倉の赤面ぶりを前に、自分もあ
あなっているのかなと不安を覚えた。
「あの、小倉さん?」
「み、右左って、暦君から見てのことだと思った!」
気恥ずかしさを振り払いたとばかり、激しく頭を振った小倉。笑いに加えて、
「わざとじゃねーの?」という冷やかしまで聞こえてくる。
(ばかが。わざとならどんなに嬉しいことか)
暦は内心とは正反対に、精一杯微笑んでみせた。彼女のフォローを考える。
「そんな心遣いをしてくれるなんて、感謝感激雨あられです。改めて、どちら
のカードを使いたい? 指差してみて」
小倉は黙って、彼女の左側のカードに触れた。
「OK。それを持って、俺と同じことをして。カードをさっきみたいに、二手
に配るだけ」
率先してやってみせる。小倉も表情の赤みをようやく薄め、手の中の十枚足
らずを配り終えた。教卓上には都合、四つのカードの山ができた。それぞれ四
枚ほどの小山だ。
「もう一度、小倉さんの好きな山を指差して。そうしたら、一番上のカードを
めくってほしい」
小倉は少し迷って、結局、暦の使った方の一番端の山に触れた。「いいの?」と最後
の確認をしてから、トップのカードをめくる。ハートのキングが現れた。
ここで暦は素早く考え、段取りの変更を決めた。折角のチャンスに何もしな
いのはばかげているし、見たところ、雰囲気は悪くない。
「さっき、委員長の指がカードを覚えたようなことは、割と起きるんだ。そし
て、指同士を合わせれば人から人にも移る。俺の指先に、ちょっと触れてみて」
指紋の側を上向きに、伸ばした人差し指を前に。すると、小倉は素直に触れ
てきた。
「これでいいの?」
「ありがとう。触れてもらった指で、他の山のカードをめくると」
残りの山のトップを、右から順に、ゆっくりと開いていく。
「クラブのキング、ダイヤのキング、スペードのキング」
「わぁ」
小倉が感嘆の声を上げ、周りで見ていたみんなも続く。騒がしくなるのを、
暦は制した。
「ところで、キングよりも強いカードって、分かる?」
「13より強いって……もしかして、エースのこと?」
「そう。察しがよくてやりやすい」
暦はそれぞれの山からキングを除くと、新たにトップに来たカードを両手を
使って、一気にめくった。
「あ! 凄い!」
エースが勢揃いしていた。ハートのキングが出た山からはハートのエースと
いう風に、マークも対応している。
驚きの波が収まらない内に、暦は引き続いて、カードをひとまとめにすると、
上下半分に分けた。
「うわ、時間ないかな? 小倉さん、好きな方を取って」
急いだ空気が伝わったのか、小倉は「はい」と言って、上の方を手に持った。
「一枚抜き取り、覚えてください。みんなに見せるのは……羽根田、いいか?」
「急いでるみたいだし、しょうがないな」
「サンキュ」
礼を述べると、暦は持っていたカードを教卓に置き、背を向ける。
「覚えたら、今、教卓に置いた山に差し込んでほしい。どこでも好きな位置に」
「裏向きね?」
「あ、もちろん」
「――したわ」
それを聞いて向き直った暦は、問題のカードの山を手に取り、扇を作った。
自分だけが表を見る形だ。その表面に人差し指を走らせ、やがて一点で止めた。
「小倉さんの指紋が付いていたから、すぐ分かったよ」
「え? 嘘でしょ?」
指が汚れていたとでも思ったのだろうか、自らの手を見つめる小倉。暦は慌
てて否定した。
「指紋というのは冗談。でも、これに間違いないと思う」
一枚のカードを摘み取ってから、皆に尋ねる。
「小倉さんが選んだカードは何だった?」
「クラブの3」
揃った声で返事があった(中には、「3のクラブ」や「クローバー」「三つ
葉」と言った人もいたけれど)。
暦はうなずき、手にしたカードの表を見せた。言うまでもなく、クラブの3。
「小倉さんが選んだおかげで、このカードも特別な物になった」
クラブの3を小倉に渡すと、「確かめて」と言った。
「急いでやったから、五分に何とか収まったかな」
残るカードをひとまとめにし、ケースに一旦仕舞う。と、ここで小倉に渡し
たカードのことを思い出したふり。ケースを開けて再びカードを取り出しつつ、
「いけない、返してもらうのを忘れてた」
「はい、これ」
「適当なところに入れてよ」
強く握ったカードの束を差し出すと、小倉は中程に挿し込む。
「時間ぎりぎりで、もう一つだけ不思議なことをしようか。カードをこうして」
暦は全枚数揃ったカードを左手で持つと、後ろ手の姿勢をし、背中越しに右
手へとパスする動作をした。そうしてカードを身体の前に持ってくると、両手
で少しずつずらしていく。
裏模様が並ぶ中、一枚だけ表向きのカードが現れた。クラブの3である。
「凄い凄い!」
小倉が驚愕を含んだ最高の笑顔で、目の前で手を叩いて喜んでくれる。他の
人の拍手の何倍も嬉しい。
「やっぱり、暦君て凄いわ。修学旅行のときから思ってたんだけれど、今ので
ますます好きになっちゃった」
え?
――つづく