#5221/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/10/31 0:13 (159)
そばにいるだけで 53−7 寺嶋公香
★内容 06/08/29 17:13 修正 第2版
自転車を自転車置場に入れ、駅の待合室で相羽の到着を待っていると、雨が
落ちてきた。霧のような雨粒だが、それでも景色が煙って見えにくくなる。足
元に目を転じれば、アスファルト道の色を少しずつ変えていくのが知れた。
「まじいな」
庇の下から顔を覗かせ、空を見上げた唐沢。
「小降りで収まっててくれよ、おい」
「唐沢君、もういいよ」
純子は気遣って言った。こちらは木のベンチに座ったまま、雨を見に行くこ
ともない。
「早く帰らないと、濡れてしまうんじゃあ……」
「いや。俺が言っているのはそうじゃなく」
駅構内の時計を振り返る唐沢。午後一時十分。相羽が約束した合流時刻まで、
あと十分だ。
「あいつとこれからどこへ行くのか知らないが、範囲が限られるだろ。それが
気の毒だと思ったまで」
「……相羽君と会ったら、すぐ帰るわ。誕生日おめでとうって言ってもらえた
ら、それだけで充分だもの」
「涼原さん。言っちまわないつもりか」
「え」
「あいつに、君の気持ちを伝える気は、まだないのかい」
「ええ」
目を閉じ、即答した純子。
(「まだ」じゃなく、永遠にない)
純子が目を開けると、立ったままの唐沢が、床を蹴る仕種をするのが見えた。
「ちぇ。俺があれだけ言っても、だめかいな」
「ごめんね。本当に感謝してる。でも、これは私の問題だから……」
「分かってる。俺が口出しして、どうこうなる話じゃない。たださあ……」
外を見ていた唐沢が、急に純子に向き直った。しばらくそのままでいて、ま
た外へと視線を戻す。
「涼原さんがずっとこのままでいるつもりなら、今度こそ本気でアタックする
よ。今日だって本気だったけどね。次は、決して引き下がらない」
それを聞いて、純子は胸元に手を当て、空つばを飲み込んだ。鼓動が早まっ
たのを意識する。
(唐沢君の告白、本心なのか演技なのか分からなかった。でも、本気だったの
ね。それなのに、私のことを考えてくれて……)
胸に痛むものを感じる。自分の行動が思いもかけない人にまで影響を及ぼし
ていたのだと分かって、気重になった。
(郁江や久仁香、芙美だけじゃなく、唐沢君にまでつらい思いをさせてしまっ
てた。それに、相羽君にも。だけど、私には――あのときの私には、相羽君を
選ぶことはできなかった。分かってよ、みんな)
言葉に出せない感情が、渦を描くように内を蠢く。
再び涙しそうになるところを、唐沢の陽気な一言が救った。
「涼原さん、笑え。笑う練習しておくんだ。そろそろ、王子様のご到着だぜ」
「王子」
弱い苦笑を浮かべてつぶやきながら、純子も時刻を確かめた。あと三分で、
相羽の乗った電車がプラットフォームへ滑り込んでくるはず。
「傘を……買って来ようかな」
純子は精一杯、つぶやいた。このあと相羽と一緒にどこへでも行く準備があ
る、というポーズを唐沢に示すために。
「そんな物は、相羽が来てからで充分じゃないか。今は、あいつが来たら、し
っかり出迎える、これが最優先だろ」
「う、うん。分かった」
唐沢の言い方に触発されてしまったのかもしれない。純子は、手櫛で髪を整
え、服のわずかな乱れを直した。鏡があれば、泣きはらした目が元通りになっ
たかどうか、チェックしたことだろう。
直後、アナウンスが掛かった。電車が入ってくる。改札に意識を向けた。人
の波が押し寄せ、通り抜けていく。
相羽の姿は、すぐに見つかった。自動改札の順番を待っている。
「あ」
相羽君!と呼びたかったのに、できない。唐沢に促されたからと言って、相
羽との距離を縮めるような行為は、やはり躊躇せざるを得ない。気持ちが揺れ
てはいるのだが。
「あのねえ」
隣で唐沢が大げさなため息をつき、髪を片手でかきむしった。
「何で黙るんだよ」
小声で言って、ジャケットのポケットに深く入れた手で、純子の肩を突っつ
いてくる。
「いいの。こうして会えるだけで」
「……やれやれ。友達思いなことで」
再度、ため息の唐沢。呆れた風にうつむき、首を振った。
そうこうする間に、相羽が改札を抜けてきた。一度だけ首を左右に巡らせ、
純子達を見つける。笑みが広がる。歩きながら後ろを振り返ったのは、駅の時
計で時刻を確かめたらしい。
向き直った相羽と、目が合った。純子はとりあえず、手を小さく振った。
「どうやら、間に合ったかな」
幾分、表情を引き締めて、相羽は純子と唐沢を交互に見やった。
「こっちも予定通りだ」
唐沢が、ぶっきらぼうな調子で告げる。相羽は平べったい手提げ鞄を持ち直
し、どうだった?と低音量の声で唐沢に尋ねた。
「――へっへーん。そりゃあ、もう凄く楽しかったぜ。当然だろ」
対照的に大声で答え、舌を出す唐沢。相羽がしかめっ面になって、首を傾げ
た。
「あ、あの。相羽君、忙しいのにわざわざ来てくれて、ありがとう。ピアノレ
ッスンの邪魔に、なっちゃったでしょう?」
純子がおずおずと切り出すと、相羽は唐沢に背を向けた。
「全然、大したことじゃないよ。それよりも、改めて――誕生日、おめでとう」
「あ、ありがとう」
今一度礼を述べる純子。相羽のこの言葉で充分。これでおしまいにして、帰
ってもいい。
どうしてもうつむき加減になる純子の前を相羽は離れ、外に目を向けた。そ
れから唐沢に聞く。
「降り出したけれど、どうする? 自転車を置いて、バスで動くか? 電車と
いう手もある」
「二人で決めてくれ。俺、そろそろ帰るから」
「え? おい、どうしたんだよ」
外から内に方向転換する相羽。唐沢の表情を覗き込むようにした。
「今日は一日中、空けておくと言ってたじゃないか」
「急用ってことで」
にやりと笑った唐沢は言ったあと、純子に聞こえぬよう、相羽に耳打ちした。
相羽の顔付きが微妙に変化し、寄り目になる。そうして、呆れたように嘆息。
そんな様子を見守りながら、会話の中身を色んなことを想像してしまう純子。
唐沢は相羽の手を叩き、バトンタッチの仕種をした。
「そんじゃ、小降りの内に帰るわ、俺。時間はまだあるんだが」
「あ――」
呼び止める間もなく、唐沢は雨の中を駆け出していく。純子は一瞬、躊躇し
た後、息を吸い、思い切って声を張り上げた。
「今日はほんとにありがとーっ!」
唐沢は背を向けたまま、片手を一度だけ振った。そのまま、自転車置場の方
へ向きを換え、姿が見えなくなった。
純子はしかし、姿勢を変えずに一点を見ていた。唐沢が自転車に乗って出て
来るのを待つつもりだった。
でも、途中で、はっと思い直し、相羽へと振り返る。
相羽も、自転車置場の方を静かに見ていた。
「……出て来るのが遅いな。唐沢の奴」
「う、うん」
「まさか、僕らが見ていると、出て来にくいのかな。一回、さよならしたあと
だしさ」
真顔で言ってから、笑みを含ませる相羽。
雨の勢いが、気持ち、強くなったように感じた。純子はつられて微笑しなが
ら、待合室の奥に戻った。
「だったら、しばらくよそを見てなくちゃ」
外に背を向け、ベンチに腰掛けた純子。相羽も倣う。ちょっと距離を取って、
同じように座る。
「純子ちゃん。今日は急な話になったけれど、大丈夫だった?」
「え、ええ。何にも予定なかったから……本当は、一日中眠っていたかったん
だけどなあ」
「ごめん。どうしても、おめでとうって、直接言いたくて」
「じょ、冗談よ。気にしないで」
相羽と二人きりでお喋りするのが久しぶりであるせいか、会話の端々に、ぎ
こちなさが残る。それでも、楽しかった。
「私こそ、相羽君の今年の誕生日に、何もできなかった……」
「そうだったっけ。過去は忘れた」
とぼける相羽。気遣いを感じて、純子は反射的に彼の横顔を見やる。ほんの
わずか、照れの色が覗いたような。
「ところでさ、これからしたいことって、ある? 実は、三日ぐらい考えても、
気の利いた案をが思い付かなくて」
「特にないわ。急なんだもん。私も心の準備が……。それに、こうして話して
るだけで、充分楽しい」
「それはありがたいけれど、いつまでも居座っているわけにもいかない――」
天候を見定めようと、首を後ろに向けた相羽が、不意に立ち上がった。思わ
ず、目線で追う純子。視野に、一人の老婦人が入ってきた。和服を召して、手
からは大きな直方体の包みを提げている。
「どうぞ」
相羽が空いた席を促す。他の席が埋まっていることに、今初めて気が付いた
純子。遅ればせながら、自分も立った。二人分のスペースを空ければ、荷物も
置けるだろうと考えてのこと。
「ああ、ありがとうね」
婦人は礼を述べたが、座ろうとせず、駅の電光掲示板に目を細めた。だが、
あきらめたように首を小刻みに振ると、瞬きをしょぼしょぼと繰り返した。
「ついでに、すみませんが、次の上りは何分発となってます?」
「四十五分です。あと十五分近くありますね」
相羽に対し婦人は再度、礼を述べて、ベンチに腰を下ろした。
「お嬢ちゃんも、ありがとうね。折角、お話に花が咲いているところを邪魔し
てしまって」
荷物を大事そうに脇に置いて、純子にもお辞儀をする。純子は「いえ」と、
静かに返礼し、そして相羽と顔を見合わせてから互いに微笑んだ。
――つづく