#5220/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/10/31 0:12 (185)
そばにいるだけで 53−6 寺嶋公香
★内容
「――」
表情が強張る。再びうつむく。何秒間か経過して、うつむいたのが肯定の仕
種に受け取られたかなと、心配になった。
「そんなこと、ないわ」
髪をかき上げ、笑顔を起こす。しかし、唐沢は全てを塗りつぶすかのように、
強い調子で言った。
「嘘つくなよ。つかないでくれ」
「嘘なんか……」
「無理はやめろって。俺まで、泣きそうになるじゃないか」
唐沢の言葉で、純子は自分の目尻に涙が滲んでいると、気が付いた。人差し
指をあてがい、そっと拭う。
「……どうしてそう思ったの?」
「見てれば分かる」
「……そっか。分かっちゃうんだ……」
「分かるさ」
声が沈んでいく純子に対し、唐沢は雰囲気を暗くしたくないかのごとく、強
い口調を保った。
「いつ、気付かれたのかな」
「ずっと前。忘れた。他人のことにとやかく言いたくなかったから、黙ってき
たよ。でもな、この間の……ほら、相羽のピアノの練習をみんなで見に行った
日。あれで、辛抱できなくなった」
「どうして」
「涼原さん、俺にばっか話し掛けてきただろ。最初は嬉しかったけどね、涼原
さんの目は、しょっちゅう相羽に向いてた。富井さん達のためかどうか知らな
いが、身を引くみたいな真似して。何やってんだよ。何でそんなことするんだ
よ」
口調が、徐々に激しくなった。純子は答に窮し、やがてかわす風に言った。
「……ごめんなさい、唐沢君には、関係ないこと」
「関係ないことないね。見てられない。無理している君を、見てられない」
「無理なんて、してない」
「してる。富井さん達と気まずくなってたのを解決するために、相羽から自分
を遠ざけようとしている。友達がそんなに大事かい?」
「大事よ」
ここだけは、力を込めてしっかりと返事する。大事だからこそ、あんな選択
をしたんだ。
しかし、唐沢の次の言葉が突き刺さった。
「相羽のことは、大事じゃないのか?」
「それ……」
「相羽の気持ちはどうなるんだよ。好きなくせしてふるなんて、ひどいぜ」
「えっ。か、唐沢君はそのこと……知っていたの?」
今日何度目かの驚きが、純子を覆う。どれも驚きの質が違うが、今のが最も
大きなショックをもたらした。息を飲み、唐沢と真正面から見合っていると、
感情が堰を切って出て行きそうになった。
「相羽から、無理矢理聞き出したんだ」
「相羽君から」
「俺は、興味本位で聞いたんじゃない。相羽だって、冗談めかして答えたんじ
ゃない。真剣に聞いて、真剣に答えた。誓って言う」
「唐沢君が、どうして……」
「俺も、涼原さんが好きだからさ」
間髪入れず、唐沢が言った。決意の固さを物語るかのように、唇はきつく結
ばれていた。真剣な眼差しが、純子を捉える。
純子は、耐え切れないものを感じて、顔をそらした。身体ごと向きを換える
と、足元で砂利の音がした。
(何て言えばいいのよ。私が相羽君を好きだって、さっき言わせたくせに、告
白なんかしてきて……)
筋道を立てて考えられる状態でない。口を開いてみたが、ただ乱れた呼吸音
が漏れ出ただけだった。
「正直に言って――」
唐沢が、物腰を若干やわらかくして、始めた。それに合わせたみたいに、雲
間から太陽が覗く。川面に反射しての眩しさに、目を細めた純子。
「――君と付き合いたいと思ってた。今も心の一部では思ってる。相羽を出し
抜いてでも、涼原さんをものにしてやろうと考えたさ。だけどね、相羽と君が
互いに好きなのに、こんな状態になってる。それを知っていながら、目を瞑っ
て、君に手を出すことは、俺にはできない」
「……唐沢君」
「焦れったいんだよ。早く付き合っちまえよ! それが正常なんだよ。分かる
だろ? そうしたら俺も区切りをつけられる」
「そんなの……でき」
「できないのなら」
唐沢が一歩踏み出し、純子の手を取ろうとする仕種を見せた。身を固くした
まま、そんな唐沢を見つめ返す純子。
「できないのなら、俺と付き合ってくれ」
「――っ」
後退した純子を、唐沢が腕をつかまえ引き留めた。首を振って離れようとし
たが、できない。スマートな唐沢に、こんなに腕力があったのかと驚かされる
ほど強く握りしめられている。
「は、放して」
「逃げそうだから、だめ」
「痛い」
純子の小さな悲鳴に、唐沢は慌てたように手のひらを開いた。純子は握られ
ていた箇所をさすりながら、考えをまとめようとした。実際のところ、痛みは
ほとんどない。
「悪い。つい、力が入った」
「ううん、大丈夫……」
「涼原さん。俺と相羽のどちらかを選べと言ってるんじゃない。相羽と付き合
えないのなら、俺のところに来い。そう言ってるんだよ」
説いて聞かせる風な口調の唐沢。いつも通り優しさを含んでいるが、それ以
上に強引な響きを持っていた。
純子は気付かなかったが、唐沢の耳の後ろには、大粒の汗が下へ伝った痕跡
が一筋、あった。今また新たな粒が、じんわりと浮き出る。気温は高くなく、
風が時折吹くほどなのに。
「君を想う気持ちの強さなら、相羽に負けているつもりは全然ない。付き合っ
てくれるなら、俺、女子達とのデート、きっぱりやめるよ。涼原さんを泣かせ
はしない」
そう言われた純子は、まさに泣きそうだった。きわどいところでこらえてい
る。迷いが、涙を押しとどめていた。
(相羽君をあきらめるには、私が誰か別の人――唐沢君?――とひっついてし
まえばいいのかも……。でも。唐沢君のこと、嫌いじゃないけれど。でも、私
が好きなのは)
そのとき、純子の前に、影が差す。唐沢が太陽を背にして立った。
「俺は、君を世界で一番、大事にする。……それでも、相羽の方がいいか?」
「……」
「答がイエスなら、周りを気にせずに、相羽の胸に飛び込みゃいいんだよ。何
遠慮してるんだか、俺には分からないね。友達が大事って言うのは、女友達だ
けを大事にするって意味かい?」
「……お願い。意地悪を言わないで……お願いよ、唐沢君」
耐え切れなくなった。とうとう、涙が純子の頬を伝った。
本人は、しずくが顎先を離れて初めて気付いた。手をあてがって、隠そうと
する。あっという間に、指先が濡れた。
唐沢の片手が、ジャケットの胸ポケットに伸びる。ハンカチの片隅が覗いた。
だが、唐沢は布を押し戻す。
「あとで、相羽が合流するから」
代わりに、感情を殺したような平板な声で、言った。
「そのとき、俺は消えるから。ハンカチは相羽から貸してもらいな。そうでな
けりゃ、それまでに泣きやんで。そして相羽に言うんだ」
省略する唐沢。純子も、何を?と聞き返しはしなかった。
「さて! 戻るとしますか」
唐沢は声を転調させると、ことさら陽気に促した。そして自転車のスタンド
を倒し、純子をじっと見守った。
「もう少しだけ、待って」
ハンバーガーショップで、いくらか早めの昼食を取った。大きな窓に面した
宿り木の席からは、往来が広く見渡せる。天気が曇りがちのせいか、土曜にし
てはさほど人通りは多くない。
大方食べ終え、純子がため息をしきりについていると、隣に座る唐沢が何気
ない調子で聞いてきた。
「俺のこと、嫌いになった?」
「え……ううん」
「じゃ、好きってこと?」
「それは」
純子の困った顔に、唐沢は笑い声を立てた。氷が溶けて再び飲めるようにな
ったジュースを引き寄せ、ストローに口を付ける。
「ごめんごめん。もう意地悪しないつもりだったのに、勝手に口が動いちまっ
た。ねえ、涼原さん。嫌だったら、言ってくれていいんだ。俺はさっさと退散
する。相羽には、俺は用事ができたからと」
「そんなこと、ない」
純子は唐沢の方を見ないで、首を振った。ちょっぴりかすれ気味の声で、ゆ
っくり喋る。
「誰かがいてくれないと、泣き出してしまいそう」
「その誰かってのは、俺でもかまわないのかな」
一旦、口をつぐんだ唐沢。それから、自身以外には聞こえそうにない音量で、
ぼそりと「原因を作った俺でも」と付け足す。
純子は何度も拭いた指先を、また拭った。フライドポテトの油は、一切残っ
ていない。
「あのね、唐沢君」
「うん」
「よく考えてみたんだけれど……今日は、ありがとう」
「――大したことじゃないさ」
抜けるような笑みを、仕方がないように浮かべた唐沢。紙コップを掲げて、
重さを確認するみたいに数度振ると、溶け残った氷のぶつかり合う音が小さく
聞こえた。
「まだ残ってるな」
つぶやくと、コップの蓋をストローごと外して、唐沢は氷を口中に放り込ん
だ。わざとらしく、景気のいいほど大きな音を立てて噛み砕く。
(唐沢君は、私のことを思って、言ってくれたんだ)
一瞬だけ目を閉じ、そう理解する純子。感謝の気持ちで一杯になる。
でも、そのことと、相羽に想いを伝えることとは、全くの別物。とても言え
ない。唐沢に促されたからと言って、翻意すれば、富井や井口達を二重、三重
に裏切ることになってしまう。
「唐沢君、お腹いっぱいになった?」
「あ?」
「お礼に、ごちそうしようかなと思って。一個じゃ足りないんじゃない、やっ
ぱり。好きな物頼んで」
「いいよ、そんなの」
「大丈夫。唐沢君から見れば、私はスターなんだから」
河原でのことを思い出しながら、冗談めかして言う純子へ、唐沢は少しだけ
怒った口ぶりになって、告げた。
「俺はね、女の子におごらせるような真似は、しないの。男尊女卑とか差別と
かじゃなく、俺の信条なの。その上、今日は涼原さんの誕生日じゃないか。誕
生日に、他人におごるやつなんて、聞いたことない」
「……そう、ごめんなさい」
純子がうつむいて静かになると、唐沢は気まずそうに口元をむずむずさせた。
やがて何かを思い付いたようにうなずき、咳払いをした。
「あー、ただ、特別な事情がある場合は除く。たとえば、勝負に破れての罰ゲ
ームとか、将来俺からおごり返す機会が頻繁にあるとか」
「……じゃあ」
頭を起こす純子。
「今日はおごらせて。またいつか、私がおごってもらうという約束で」
「しょうがねえなー」
唐沢は椅子の背もたれを掴み、後ろを振り返った。そちらの方向に、メニュ
ーの一覧が掲げてあるのだ。
「お言葉に甘えて、さあて、何を食べようかね」
――つづく