AWC そばにいられると<前>   寺嶋公香


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#425/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/04/30  19:03  (490)
そばにいられると<前>   寺嶋公香
★内容                                         16/09/09 02:53 修正 第2版
「なんかすげー曇ってきたぞ」
 八月も後半に入り、暑さのピークは過ぎたかなと思わせる日曜日の午後。碧
と暦姉弟の家――相羽家に、クラスメート二人が来ていた。
 窓の向こうを見てつぶやいたのは、その内の一人、川内亮介(かわうちりょ
うすけ)だ。窓を背にしていたもう一人のクラスメート、女子の小倉優理と碧
が振り向く。暦も目線を模造紙から起こした。
 川内の言葉の通り、灰色の雲がいつの間にか空一面に広がり、渦巻きだそう
とする様が分かる。
「予報じゃ、夕立があるかもしれないと言っていたけれど、それぐらいじゃ済
まなそう……」
 小倉は不安げに言い、語尾を濁した。
 集合した午後二時には、雲が多いものの晴れ間が確認できたのだが、二時間
近くが経過して、急変の様相を呈している。
 皆が集まったのは、夏休みの宿題を片付けるため。といっても、個々人に出
される宿題を協力して済ませるあれではない。班単位で出された新聞作りの課
題だ。それも壁新聞とホームページ、それぞれにまとめるという、取材や情報
収集、構成力に加えて、ツールの比較も込みのなかなかの難題だ。
「何言ってんの。夕立の前触れって、こんな感じじゃない?」
 碧は気軽な口調で言ったが、言葉とは裏腹に、パソコンをネットにつなぐと、
最新の気象情報を当たった。自分達のいる地域を選択し、雨雲の動きを見る。
「――夕立レベルよりは大雨になるのかな。それでも、ずっと降り続くわけじ
ゃないみたいだから、きっと大丈夫」
「いつ頃やみそう?」
 画面をのぞき込む小倉。まだ降り出さない内から、心配を募らせている。
「十五分もしない内に降り出して、五時過ぎには上がる」
「あ、俺の自転車!」
 唐突に叫んだ川内は、誰にも説明せずに部屋を飛び出した。
「……自転車が濡れないよう、移動させるってところかしら」
 碧が冷静に分析・解釈した。小倉が慌てていないのは、彼女は自転車ではな
く、母親に車で送ってもらってここに来たからだ。帰りも迎えに来てくれるこ
とになっている。
(小倉さんも自転車だったらよかったのに)
 暦は内心、ちょっとした妄想込みの想像を始めた。暦が小倉のことを好きな
のは、半ば公然の秘密と化している。
(大雨で門限まで帰れそうになく、困ってる小倉さんを、車で送り届ける……
運転は母さんに頼むしかないけど。着いて行くぐらいはいいはず)
 好きな異性に好印象を与えるためなら、どんな小さなことでも活用したい。
そんな年頃を迎えていた。ただ、本人に自覚があるところが、同年代の男子と
やや異なる点かもしれない。今の妄想も、もうすでにばからしくなって打ち消
している。
(車でいいのなら、小倉さんの家族が迎えに来れば済む話だもんなー。って、
仮定に仮定を積み重ねてもしょうがない)
 そこへ、川内が戻ってきた。たいした距離を走ったわけでもあるまいに、息
を切らせている。
「どこかに置けた?」
「それが、悪いんだけど、ちょうど母ちゃんから電話あって」
 と、ポケットを指さす川内。そこに携帯電話が入っているという意味だろう。
「洗濯物を干しっぱなしだから、降り出さない内に取り込んでおいてくれない
かって言われた」
 川内の家は母子家庭で、今日も母親は働きに出ているようだ。
「だから一旦、帰って来る」
「しょうがない。気を付けろよ、車とか人とか」
「分かってるって。五分ぐらいの距離だし、大丈夫」
「というか、もう粗方できてるし、いいんじゃない?」
 碧がパソコンの画面を元に戻してから言った。
「どういう意味?」
「天気がどうなるか分からないのに、帰ってまた来るの、面倒で大変でしょう
が。優理みたいに車で送り迎えしてもらえるのならいいけれど」
「だいたいできてると言ったって、完成はしてないんだぞ。いいのか?」
「私はいい。優理と暦は?」
 意見を求められた二人は、少しだけ目を見合わせた。先に小倉が答える。
「私も別にかまわないと思う。川内君、写真を用意してくれたり、ICレコー
ダーでインタビュー取材してくれたり、構成を考えてくれたり、すっごく役目
を果たしてる」
「二人がいいのなら、俺も異議なし」
 暦は答えてから、主体性のない物言いをしたことをちょっと後悔した。本当
は、無理に戻らなくてもいいと最初から思っていた。それを真っ先に口にしな
かったのは、川内の意思を尊重したかったから。
(そもそも、俺がそう言い出したら、小倉さんだけを残したがってるように受
け取られるかもしれないし)
 異性を意識し始めた年頃だと、余計なことまで考えてしまうものだ。
 そんな暦の心中を知るよしもない川内は、「それならお言葉に甘えるぞ。い
いんだな?」と念押しした上で、帰ることを決めた。空模様を気にしつつ、持
ってきた物を急いで集めて、手提げかばんに放り込む。その慌ただしさを保っ
たまま、飛び出していった。玄関で、暦達の母親に挨拶する声――「おばさん、
さよなら!」――がした。と思ったら、何か手土産を渡されて、時間を取って
いる。
「くれぐれも気を付けてよ!」
 窓から顔を出し、三人で見送る。ごうごうと雲と風の音が低く鳴り渡り、冷
たい空気と生暖かい空気が入り混じる。いよいよ降り出しそうな気配に。雷も
鳴るんじゃないかと想像させた。
「窓、閉めよう」
 と、暦が窓を閉め、鍵を掛けたその瞬間、雨粒の落ち始める音が聞こえた。
遅れて雨粒がガラスを叩き、アスファルト道路の色を濃くし始める。
「うわ、微妙なタイミングね」
 そう言った碧は、壁掛け時計を見やった。川内が間に合ったかどうか、気に
したに違いない。少し考え、
「洗濯物は濡れたかもねー。私達の母さんが呼び止めたせいで」
 と苦笑い。
「姉さん、それより早く仕上げよう」
 暦が促して、ようやく本題に戻った。そうして青写真通りに、紙に文章を書
く作業を地道にやっていると、部屋のドアがノックされた。直後、暦と碧の母
親の声が。
「いい? おやつを用意したのだけれど、休憩しない?」
「する!」
 返事をした暦が立ち上がり、ドアを開ける。案の定、母の両手はふさがって
いた。ケーキとカップとポットと紅茶セットを載せたお盆二つの内、一つを引
き受ける。
「調子はどう?」
「その前に、お母さん。さっき、川内君を呼び止めてたでしょ。あれのせいで、
濡れちゃったかもしれないわよ」
 彼が早く帰ることになった事情を、碧が説明する。途端に、母の表情が申し
訳なさげになった。空いたお盆を縦に持ち、肩をすぼめる。
「お菓子を渡していたのよ。ケーキを持ち帰るのは難しいから、他のを開けて。
知っていたら、そんなことしなかったのに……」
「急いでいるの、様子を見て分かると思うんだけどな。立て続けに、一回と二
回を往復してたんだし」
「すみません。会ったとき、謝っといてもらえる?」
「分かった」
 暦の目には、碧の様子はどこか満足げに映った。母親をやり込めて、楽しい
らしい。
(川内のやつだって、満更じゃなかったはず。部屋に来てすぐ、「おまえの母
さん、いつ見てもきれいだな。さすがモデル」って何度も言ってたくらいだ)
 思いながら、母と姉と好きなクラスメートを見比べる。いずれ劣らぬ美人揃
い。順番を付けるとしたら、世間的には母、姉、小倉となるだろう。しかし。
(俺の中では、小倉さんが一番)
 なんて暦が考えた刹那、とうの彼女がこちらを振り向いた。慌てて目をそら
せる。顔に朱が差している気がして、そこを隠すように手をあてがった。
「ねえ、暦君。ここを書いたの、暦君だよね?」
 小倉は模造紙の一角を示している。その両サイドで、母と姉が、何だかにや
にやしているのに気付いた。
「――誤字か!」
 一瞬で察した暦。問題の箇所をのぞき込むと、そこには“5g”とあった。
kg(キログラム)を間違えていた。宿題の進み具合を聞いた母が見つけたと
いう。
「漫然と書き写すから、こういうミスに気付かないのよ」
「お言葉を返す。下書きの文字が悪い」
「うまくやれば、5をkに書き直せるかな。暦君の5って癖があるし」
 姉と弟が責任を押し付け合う隣で、前向きなことを言う小倉。母がため息交
じりに注意した。
「二人ともみっともない。小倉さんを見習って」
「はーい」
「休憩しながら、誤字脱字を探すといいんじゃないかしら。ああ、私がいると
食べにくいわね。それじゃ」
 母親が部屋を退出すると、今度は小倉が息を長く深くついた。
「はあ、緊張した」
 え、っと顔を見合わせたのは暦と碧。姉の方が聞く。
「全然、緊張してるようには見えなかったけれど?」
「だめ。話するのも声が震えちゃいそうで」
「そういえば、優理の方からは話し掛けていなかったわね」
「聞かれても、『はい』とか『うん』がほとんどだった」
 またため息をついて、落ち込む様子の小倉。
「前から感じてたことだけど、うちの母さんにあこがれ、抱いてる?」
「うん。やっぱり、分かる?」
「何となくは。でも緊張するほどのことじゃないってば。普通の人、普通の母
親だよ」
「そう?」
「少なくとも、家では」
「じゃ、外では違うんだ?」
 目を丸くしつつ、納得しているようでもある小倉。
「仕事関係だとね。さすがって感心するところは多々あるわ。考え方もだけど、
それ以上に態度に出る感じ」
「見てみたいなあ」
 そのつぶやきを受けて、碧が暦に目配せした。あとの対応は任せた、という
ニュアンスらしい。
 余計な気を回して……と思いながらも、口に運びかけていたフォークを止め、
暦は言った。
「それなら言ってくれればいい。現場でうるさくさえしなければ、たいていの
場合、見学OKだから」
「ほんとに?」
「嘘じゃないよ。母さんもきっと歓迎する。普段から、もし見学したいという
友達がいれば、いつでも連れて来なさいと言ってるくらいだから」
「それじゃあ……」
「たださ、今、見学したいと思ったのなら、直接言った方がいいよ。あとにな
って僕らが伝えてもいいけれど、それじゃあどうしてあのとき言わなかったの
ってなるから」
「うぅ。勇気が必要だわ」
「何だい、それ。まるで怖がってるみたいじゃん」
 暦は吹き出してしまった。一方、小倉はあくまで真剣だ。
「暦君にはあこがれの人、いないの?」
 と、抗議調で聞いてきた。
(この『あこがれの人』っていうのは、好きな人という意味ではないよな、う
ん)
 念のため考えてから、「いなくはないよ」と正直に答えておく。
「だったら、分かるはず。その人の前に立つだけで、どれほど緊張するか」
「そりゃあ、まあ、ね」
「だから……しばらく時間がほしい。心の準備ができたら、直接言ってみる」
 膝立ちし、小倉は両拳をぎゅっと握る。決意を固めようとしている。
「まあまあ、今は休憩なんだから、そんなに焦らなくても」
 碧が口を挟む。見ると、彼女のケーキ皿はすでにきれいになっていた。
 その台詞に、小倉も座り直し、ケーキに取りかかる。
「よし。先に宿題を片付けましょ」
 三人は模造紙を食べ物や飲み物で汚さないよう注意しながら、誤字脱字チェ
ックを始めた。

 ふっと気付いたときには、大雨になっていた。結果的に、ゲリラ豪雨と呼ん
で差し支えない勢いの雨だった。
 が、それはほんの一時のこと。じきに勢いは弱まり、やがて小雨になり、そ
のままやんだ。遠くの雲の切れ目からは、日の光が差し込むまでに回復してい
る。
「ちょうどいいタイミングで、終わったわね。うん、上等上等」
 碧が満足そうに首を縦に振る。できあがった壁新聞を床に広げ、立って見下
ろしているところだ。
「ホームページのデータ、バックアップもしたし、これでおしまいと」
「壁新聞の保管は、当然、暦君達に任せるから、よろしくね」
「ああ。川内にも、できたって電話しとこうか」
 三人がそんなやり取りをしていると、小倉の携帯電話が鳴った。手に取った
彼女は、ディスプレイを見て、「お母さんだ」とつぶやく。
「――もしもし? うん、終わったところ」
 通話を始め、廊下に出ようとする小倉。ドアを閉めようとしたとき、「ええ
っ? 本当に?」という、明らかに驚きの叫びを発した。
 何ごと?と、暦と碧が廊下に視線を向ける。ドアは完全に閉められていない
ため、小倉の表情が窺えた。浮かぶのは……困惑。
「どうしたんだろ?」
「さあて。迎えが遅くなる、とか?」
 声を潜めて想像を巡らせる内に、小倉の通話が済んだ。
「何かあった?」
「それが……お母さん、来られそうにないって」
「え……何時間も遅れるってこと?」
「っていうか……テレビ、つけていい?」
 小倉の求めに、碧は黙ってリモコンを取り、テレビのスイッチを入れた。
「何チャンネル?」
「どこでも。ニュースか、今の時間帯なら夕方のワイドショー?」
 碧はとりあえずNHKに合わせた。
「ひょっとして、事故?」
「うん。――あ、交通事故じゃないよ」
 暦達の表情が険しくなったのだろう。小倉は慌て気味に否定した。
「さっき、お母さんが言ったの。この近くの道路で何箇所か冠水して、車が通
れなくなってるって」
「なるほどね。運悪く、小倉家とこことを結ぶルートは、全て絶たれたってわ
けか」
「どうしよう……」
 目を伏せがちにし、俯く小倉。彼女の横顔を目の当たりにした暦は、あれこ
れ考えるより先に、「心配すんな」と口走った。
 当然、女子二人の視線を集めることになる。暦は窓の外、町の様子を一瞥し
てから続けた。
「もし――もしだけど、今日、水が引かず、車が来られないのなら、泊まれば
いい」
「え」
「実際、そうなったときは、そうするしかないだろ」
「おー、確かに真理だわ」
 どこか面白がる口調ながら、碧が同意する。小倉はといえば、口元に片手を
やり、しばし思案する仕草を見せた。
「仮にそうなったとして、着る物がない」
「そんなのは、問題にならないわよ」
 碧が即答する。
「私のを貸すわ。色んなとこからもらって、一度も袖を通していないのがあき
れるほどたくさんあるから、選び放題。サイズも合うでしょ、多分」
「そ、そっか」
 戸惑い気味の小倉だが、少し落ち着き、気持ちも傾いたようだ。不安の色が
薄くなり、きつく結ばれていた唇も今は微笑している。
「とにかく、優理はお母さんに聞いてみなよ。泊まっていいかどうか」
 暦が言い、小倉が応じようとする。そこへ碧が声を掛ける。
「ちょい待ち。先に、こっちがOKだってことを確実にしておかなきゃ」
「あ。じゃ、母さんに聞いてくる」
 暦は急ぎ足で母親の部屋に向かった。返事はすぐにもらえた。事情を伝えて
いる途中で、承諾してくれたのだ。
「小倉さんのご家族の意向、ちゃんと聞くこと。それが条件よ」
「分かった。向こうの人が、母さんと話がしたいと言ったら、出てよ」
「もちろん。ああ、それにしても、まさか同じことが起きるなんてねえ」
「同じことって?」
 きびすを返しかけた暦は、母の言葉に動きを止める。
 母の方は、書き物をしていた帳面を閉じると、昔を思い返す風に斜め上を見
やった。
「私とお父さんが高校生のとき、同じことが起きたの。やっぱり大雨で、帰れ
なくなって。車で来ていたわけじゃなくて、自転車だったけれどね」
「高校生で……。それって、どっちがどっちの家に泊まることになったの?」
 息子の質問に答えようとした母だったが、ふと思い出したように話を換えた。
「そんなことより、早く小倉さんに伝えないとだめでしょ」
「あ」
 母の指摘に、来たとき以上に急いで部屋に戻る暦だった。

「あー、落ち着かない」
 トイレに立って一人になったとき、暦はそうつぶやいた。
(小倉さんが泊まるのはうれしいのに、気が抜けない。それに、見つめること
もできないし)
 実際、彼女が泊まると決まったあと、自然に振る舞えず、いつも以上に目を
そらしたり、素っ気なく接したりしてしまっている。
 手を洗ったあと、暦は顔をごしごしこすった。それから、「平常心平常心」
と呪文のごとく唱えた。
 が、子供部屋に戻り、小倉と顔を合わせると、また背けてしまった。避けて
いるんじゃないんだとアピールするべく、さも姉の方に用事があるかのように
声を掛ける。
「ベッド二つしか無いけれど、寝るとこ、どうするのさ?」
「うん? 優理の?」
「言うまでもないだろ」
「そうかしら。私と優理がここで寝て、暦がソファか何かで寝るのが普通だと
思ってたわ」
「そんな――」
 怒ろうとした暦だが、言葉を途切れさせた。小倉の表情を横目でとらえたた
めだ。
「私が急にお邪魔することになったんだから、私がソファで」
「冗談! お――客さんにそんな真似、させられない」
 暦は小倉に向き直り、熱弁を振るった。「小倉さんに」と言いそうになった
箇所は、寸前で「お客さんに」と言い換えた。
「俺がソファでも床でも寝るから、小倉さんは気にしないで、ベッドを」
「あ、ありがと」
 やっとまともに会話できたのと、お礼を言われたこととで、暦はひとまず満
足した。が、碧が水を差す。
「でも……冷静になってみると、暦のベッドで優理に寝てもらうのは、ちょっ
と考えものかしらね」
 えっ、と同時に声を発し、暦と小倉は互いを意識した。すぐそばにいるだけ
に、確実に分かる。
「それは――シーツや掛け布団を総取り替えすれば」
「暦、あんたが決めることじゃないでしょ。優理、どう?」
「全然、平気……だと思う」
 口ではそう答えているものの、小倉には多少、迷っている雰囲気が滲む。見
透かしたように、碧が「ほんとに?」と念押しすると、即座の返事はない。
「誰かドア、開けてー」
 不意に母の声がした。一番近くにいた碧が開けると、敷き布団を両腕に持ち、
上半身がすっかり隠れている母の姿が。
「小倉さんの休むところを用意しなくちゃね。今の内に、運んでおこうと思っ
て。敷くのをあとにすれば、遊ぶスペースは充分あるでしょ?」
 そう言って、三つ折りに畳んだ布団を床に置いた。その母の背中に、碧が戸
惑い気味に話し掛けた。
「え……っと。今、ちょうどその話をしていて、暦がベッドを空けようかって
ことになりかけてた」
「何言ってるの。お客様に普段使ってるベッドで寝てもらうなんて。こうして
ちゃんと布団一式あるのだし……」
 話の途中で、暦達の母は、小倉に目をやった。
「小倉さん、もしかすると、ベッドでなければ眠れない? だったら、他の方
法を考えるわ」
「い、いえ」
 小倉の方は、いきなり話し掛けられたせいもあってか、また例の緊張が現れ
ている。それでも何とか応じた。
「いつもうちでは布団です。あの、お気遣いなくっ」
 声は裏返りそうになっていたけれど。相羽母の方は、花の咲いたような笑顔
を見せた。
「よかった。じゃ、あとは寝間着ね。用意しておくわ」
「はい、ど、どうも」
 ありがとうございますまで言い切らぬ内に、相羽母は出て行ってしまった。
 小倉は両手で頬を押さえ、それから肩を落とした。
「姉さん。結局こうなったけれど」
 暦が詰問調で言うと、碧は首をかしげた。そして潜めた声で、弟に耳打ちす
る。
「だって、あり得ないと思ってたから。これだと、私達三人、同じ部屋で寝る
ことになるわよ」
「――」
 姉と弟だけならいつも通りなので慣れっこだ。だが、クラスメートの異性が
いるのは――下手をすると眠れない。

「私なんて、中学一年生のときに、一つの部屋に女子二人、男子一人の状況で
眠ったことあるわよ」
 碧と暦が母にどういうつもりなのか確かめに、台所に出向くと、こんな風に
言われてしまった。「もちろん、今のお父さんがその男子」とうれしそうに付
け足す始末。
 ちょうど夕食の準備に取り掛かったところだった母は、エプロン姿をしてい
る。元々、年齢以上に若く見えるタイプだが、思い出を語る様は新婚ほやほや
の体だ。
「みんなは小学生なんだし、修学旅行みたいで、きっと楽しいわ」
「夜更かしを小学生にすすめてくれてるの、それって」
 碧が呆れつつ問い返すと、母は「夏休みだし、いいんじゃない?」と答える。
「小倉さんは何て言ってるの?」
「それが、意外と乗り気」
 答える碧の横で、暦はうんうん頷いた。小倉の反応は文字通り、意外だった。
(普通は避けると思うんだけどな。脈ありと受け取っていいのか、これ)
 小倉に言わせると、折角の滅多にない機会だから、二人とおしゃべりをした
いということなのだが。
「だったら、問題なしじゃない。暦だって、一人寂しく、別の部屋で眠りたく
ないわよね」
「別に寂しかないよ」
「そう? 碧と小倉さんのおしゃべりしている声が聞こえてきたら、きっと気
になると思うけれどな」
「それは……」
 気になる。
(姉さんのことだから、小倉さんに、俺についてあることないこと吹き込むか
も……)
 悪い方へ想像が働く。こうなると俄然、仲間外れの形になるのはごめんだと
意を強くした。
「分かった。いつも通り、あのベッドで寝るよ。ただ――姉さん、一つ約束し
て」
「ん?」
 自分に話が向けられるとは思っていなかったらしく、振り返った碧はきょと
んとしていた。
「今日のことは、クラスのみんなには他言無用だぞ」
「何だ、そんなこと。そりゃま、私だって言いふらしたくはない」
 合意成立。
 話がまとまった段階で、母が手を一つ打った。
「さてと。夕食の準備を始めるのだけれど、小倉さんの苦手な物って分かる? 
それから昨日から今日に掛けて食べた物も、分かればいいな。被ったらかわい
そうだから」
 暦がすぐさま答える。
「嫌いな物は、レバーとらっきょう。好きな物も分かるよ。鶏の唐揚げとマカ
ロニサラダ」
「さすがね」
 母の微苦笑混じりの言葉の意味に、暦は遅ればせながら気付いた。顔が熱く
なる。姉の方はもう見なかった。
「昨日食べた物までは分からないから、聞いてくる」
 勢いよくきびすを返して、台所を立ち去った暦。小倉の待つ子供部屋に、足
早に移動し、半開きのドアから中を窺った。
 手持ち無沙汰のためか、床に座り込んだまま、広げた壁新聞のチェックをし
ている様子。暦はドアをノックしつつ、中に入ると、立ったまま用件を伝える。
「そんな、気を遣わせてると思うだけで、ほんと恐縮しちゃう」
 見上げる小倉の困惑顔に、暦は気楽な調子で笑みを返す。
「遠慮しなくていいから。何でもいいと言われたら、母さんが決められなくて
困るかもしれないよ」
「私の答によっては、買い物に行くなんて、まさかないよね? 車の行き来も
怪しい中……」
「それは大丈夫じゃないかな。買い物は昨日行ったばかりで、おかずがある程
度選べるから言ってるんだと思う。あ、今夜は父さんも帰れないから、量の心
配はしなくていいから」
「……そんなに食べないよー、私。食いしん坊じゃないもん」
 むくれる小倉を前にして、暦は慌てた。その場にしゃがみ込み、目の高さを
合わせる。
「いや、そういう意味で言ったんじゃ……。ごめん。謝ります」
 そっぽを向いたままの彼女を見て、言い訳はやめた。ほぼ無意識に正座をし
て、頭を下げていた。無理に好きになってくれとは思わないが、嫌われるのだ
けは勘弁。このあと一緒に過ごすのだし、何よりも気まずい。
 と、下を向き絨毯を見つめる格好の暦の耳に、くすくす笑いが聞こえてきた。
「え」と顔を起こすと、さっきまでのふくれっ面が嘘のように、ころころ笑う
小倉がいた。
「ごめんね。ちょっとからかってみました」
「え、え?」
「からかったと言うより、試しちゃった。碧が前に言っていたの。暦君の前で、
ちょっと不機嫌なそぶりをしたら、慌てる暦君が見られるって。本当にそうな
ったから、びっくりした」
「……」
 姉には一度、思い知らさないとだめなようだ。黙ったまま、心のメモ帳に書
き込む暦だった。
 そんな心の動きは知らず、小倉は笑顔で続けている。
「暦君て、学校じゃ、女子には素っ気ない態度取ること多いよね。でも、芯は
優しいっていうか、相手のことを考えてくれてるっていうか。だから告白する
女子も結構いるの、納得できる」
「――知ってるのか」
「もっちろん。そういう話、女子はみんな大好き。そして暦君がみんな断って
るのも」
「あー、それは――」
「全員断るってことは、つまり、平等に接したいってことなのよね、暦君?」
「……まあ、そういうことにしておく」
 小声で答えると、暦はすっくと立ち上がった。部屋から廊下に出た途端、ぴ
たっと立ち止まる。
 小倉が昨日今日と食べた料理について、まだ何も聞いていなかった。

「母さん、張り切りすぎ」
 子供達がそう評したほど、食卓は大小様々な皿でうめられていた。チキンと
温野菜のラクレット風に、ポテトの冷製スープ。グリーンサラダにはかりかり
に揚げたオニオンを散らして。普通のご飯に加え、高菜を混ぜたおにぎりには、
ベーコンを巻いてある。
「さ、自由に取り分けて、どんどん食べて。デザートも用意してあるけれど、
別腹と言うし、三人とも食べ盛りだから、全然問題にならないわよね」
 手を合わせ、いただきますと唱えてから食べ始める。
 食卓での話題には、まずは学校での出来事が上った。主に相羽母が三人の子
供に聞く形になる。珍しい授業や宿題、校則はあるか、どんなことで喧嘩する
のか、誰がもてるのか、先生は面白いか恐いか等々。答える内に、小倉もよう
やく慣れて、リラックスしていった。
「――少し前まで、碧と暦君、早退するときは二人揃ってだったのに、近頃は
どちらか一人だけってこともあるようになったよね。何か変わったの?」
 暦と碧もたまにモデル仕事にかり出されるが、どうしても平日に重なってし
まった場合、学校を早引け、もしくは遅刻せざるを得ない。周りにはどう見ら
れているのかしらと、相羽母が質問した流れから、小倉がふと思い出したよう
に言った。
「もちろん、一人ずつの仕事が入るようになったからよ」
 相羽母は自分の子供達を等分に見つめた。
「二人セットのときは、双子を珍しがられていたのもあったのね」
「双子ったって、男と女だってのに、時々妙にひらひらした服を着せられてた
まんなかったぜ」
「こら」
 わざと粗野な口ぶりをした暦を、母がたしなめる。
「でも、嫌がらずに続けたことは偉い。碧の方は、男っぽい格好をしても、の
りのりでやっていたように見えたけれど」
「まあね。色んなことをやれて、面白いもん。それに、いくらボーイッシュな
姿をしたって、私の女らしさは隠しようがないっ」
 自信満々で胸を張る碧。正面に座る暦は、大げさに首をかしげてみせた。
「あれれ、さほど女らしくないんじゃないかなあ。おしとやかにはほど遠いし、
腹筋すごくあるし」
「うるさい。いざというとき、見た目を装えるかどうかを言ってるの」
「装わなきゃいけないってことは、元からの女らしさじゃないってことでは」
「二人ともやめなさい。小倉さんが笑ってる」
 母の声に言い合いをストップし、姉弟は今夜のお客、クラスメートを見た。
「あ、これは、面白がって笑ったんじゃなくて、二人とも学校と変わりないな
あと思ったら、何だか微笑ましくて」
 小倉の話に、暦はきょとんとしてから反応する。
「当たり前。何でわざわざ態度を変える必要があるんだか」
「それよりも優理ったら、私達のこと、よく観察してるのね」
「観察だなんて、そんな。碧と暦君、目立つから自然と視界に入るんだよー」
 こんな風に賑やかに進んだ夕食も、デザートが出される段になった。皿を片
付ける相羽母は、「今日は手伝いはいいから、食べ終わったらなるべく早くお
風呂に入りなさい」と子供らに告げた。
「お風呂」
 暦は思わずつぶやいていた。
(さすがに、入浴は一緒にできない〜)
 女子二人を見ると、早速、一緒に入る話がまとまったようだ。きゃっきゃと
黄色い声を上げている。
「暦は先に入りたい? それともあと?」
 碧に問われ、暦は少しだけ時間を取った。が、自分で決めるのは放棄した。
「どっちでも」
「じゃ、私達が先にしようか。お客さんには一番風呂に入ってもらいたいしね。
でも、長くなるかもしれないわよ」
「どっちでもいいって言ったろ」
「優理はどっちがいい?」
 急に暦から小倉に話相手を換える。小倉は暦の方をちらと一瞥し、またすぐ
視線を戻した。
「あとの方がいいかも……。湯船に髪の毛とか浮いてるのを見られるのって、
恥ずかしい」
 そんなことを気にするものなのかーと、暦は変に感心した。
「髪の毛が気になるのなら、すくい取るネットがあるけれど。ま、これで決ま
りね」
 碧の一声で決定した。暦は黙って着替えを取りに行った。

――つづく




 続き #426 そばにいられると<後>   寺嶋公香
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