#377/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 11/01/26 23:58 (338)
お題>起死回生 1 永山
★内容 11/01/28 09:41 修正 第2版
友井は編集部一の強面で通っている。わずかでも優しげに見せようと、髭を
伸ばすのをやめたほどだ。
ところが、強面は文字通り表面だけで、恐がりであることも皆に知られてい
た。昔はそうでもなかったのに、高校時代、通学途中に見た轢死体が頭から離
れなくなり、以来、血や死体(人に限らず)に弱くなった。テレビドラマの手
術シーンすら受け付けない。
最初は自分のギャップを恨めしく思ったが、現在では周囲の者皆に知られた
こともあり、ある程度は気が楽だ。そして、“嫌な予感”もある程度なら働く
ようになった。
「衣川先生、よしましょう」
友井のその予感が、まさに今、この部屋に足を踏み入れてはならないと告げ
ている。
「何を言ってるんです、友井さん。自分の仕事場に入らず、回れ右をして帰れ
とでも?」
振り返った推理作家の衣川が微苦笑を浮かべていた。彼も友井の恐がりな性
質を承知している。友井とは反対に、二枚目だがいささか頼りない風貌をして
いるが、女性読者への受けはよい。冬の今頃はいつも、白のセーターに紺のジ
ャケットという組み合わせを着こなし、トレードマークのようなっている。
「回れ右をして、警察に駆け込むべきかもしれません」
「冗談を。返事がないだけで警察に駆け込んだって、相手にしてもらえるもん
か。分かってるでしょう、友井さん」
「ですが……約束の時間に留守にしているなんて、柴田先生には今までなかっ
たし、玄関の靴の数からいって、ここには他に二人はいるはずなんですよ」
「友井さんも気付いていましたか。なかなか鋭い観察眼ですね。実は私も嫌な
感じがしてならない」
ため息するかのように呟くと、衣川はドアノブを再度がちゃがちゃ言わせた。
書斎だけ鍵が掛かっている。他の部屋は、ざっとであるが全て見て回った。い
るとしたら、もう書斎しかない。呼びかけても反応がなく、施錠されていると
なると……。
「ここの鍵は、柴田だけが持っているんだ。人が出入りできそうなほどの窓は
ないし、鍵屋を呼ぶか、ぶち破るしか手がないんですけど、友井さん、どうし
ます?」
「き、緊急事態ですから、ぶち破るのがいいかと」
友井としては、思い切った判断のつもりだった。衣川は、それがさも当然と
いう風に軽く頷くと、ドアから距離を取る。友井も倣った。スクラムを組む。
巨漢の友井と普通サイズの衣川とでは若干、バランスが悪いがやむを得ない。
「それじゃ、いち、に、さんで。一発で開くとは限らないが、念のため、転倒
に注意しましょう」
「分かりました」
そうして男二人は声を揃え、カウントダウンをした。
ドアへタックルを敢行すること三度、ようやくドアは開いた。
扉が内向きに開くと同時に、室内に前のめりに倒れ込んだ友井は、まず梯子
のような物を視界に捉えていた。その物体の正体を突き止めるより先に、頭の
上に何かがあることを察知した。恐る恐る、見上げる。
「――」
叫び声を上げたのは、友井だけではなく、衣川も同様だった。
車を停めきらない内に、下田・花畑の両刑事と目が合った。私と地天馬が車
を降りると、彼らは挨拶もそこそこに、事件現場に通してくれた。
「これが幸島の家ですか。山の中の一軒家とは言え、大きいな」
平屋建てだが、広々としていて住み心地・使い心地はよさそうだ。
幸島大士郎は私と同業者、つまり推理作家である。「あった」と言い直すべ
きかどうか迷う。この度の殺人事件の被害者が彼なのは確かだ。ただし、死ん
だのは片割れのみ。そう、幸島大士郎は男二人――柴田幸一と衣川大和による
共作ペンネームなのだ。
彼らとはそれなりに親しい付き合いをしてきたが、家の行き来はなかった。
衣川から「事件に巻き込まれて難儀している。探偵の地天馬鋭に出馬願えない
か」と打診され、初めて訪れることになろうとは。
「入る前に、事件についてはどの程度知っているんで?」
下田警部が金属製の門扉に手を掛けたまま、足を止めて言った。地天馬が応
じる。
「不可解な状況とだけ。僕自身は、被害者の方達と面識がありませんしね」
「だったら、先にざっと話しておくのがよさそうですな」
下田警部は花畑刑事に目配せし、説明を任せた。私もおさらいしておこう。
この事件で亡くなったのは二人で、柴田幸一の他に、彼の恋人である赤坂美
子と、彼の双子の弟・幸二が命を落としていた。柴田に弟が、しかも双児の弟
がいるとは聞いていなかったので、驚いている。一卵性ではないが、顔立ちや
体格はそっくりらしい。
現場は今、眼前にある家で、幸島大士郎としての仕事場であると同時に、柴
田幸一の住居であったと聞く。柴田は独り身で、恋人や弟を家に呼ぶことはあ
っても、住まわせはしなかったところを見ると、この家は基本的には仕事場な
のだと線引きしていたのだろうか。尤も、共作パートナーの衣川を同居させる
こともなかったのだから、単に独りになれる時間と空間を確保したかっただけ
かもしれない。
花畑刑事の話によると、当初、事件は簡単に片付くと見なされていた。それ
もそのはず、ドアも窓も内側から施錠された家屋内で、赤坂が刺し殺され、柴
田幸二は毒死、幸一が首吊り死体となっていたのだから。
「赤坂殺害の凶器は包丁で、家の台所に置いてあった。犯人が犯行後、元に戻
したらしい。以上のことから、『柴田幸一が恋人と弟を殺害後、家中の戸締ま
りをし、自ら命を絶った』か、『幸二が兄とその恋人を殺害後、家中の戸締ま
りをし、自ら命を絶った』かのどちらかに思えたんだが、詳しい検死の結果、
おかしな事実が見つかった。まずは、幸二の首に首吊りをしたような痕跡があ
った。これはまあ、犯行後に首吊り自殺を試みるも失敗し、毒に切り替えたと
解釈できなくはない。だが、死亡推定時刻が出るに至り、いよいよおかしくな
ってきた。各人の死亡推定時刻が、赤坂美子は今月十六日の午後四時から六時、
柴田幸一は同日午後一時から三時、幸二は同日午前八時から十時と出た。幸一
にしろ幸二にしろ、加害者が被害者より先に死ぬなんて、普通はあり得ないっ
て訳さね。さらに、首吊りによる縊死に見えた柴田幸一が、実は幸二と同じ毒
による死亡だと判明する」
「幸一や幸二はどんな形で毒を飲んでいたんです?」
地天馬のこの問い掛けには、下田警部が答える。
「二人とも、毒の入った激辛カレーパンを口にしていました。状況から、自ら
食べたと推測できる。兄弟の内、少なくとも幸一は辛い物が好物で、激辛カレ
ーパンは特に好きだったと分かっています。この家に出入りする他の者、つま
り衣川や赤坂は辛い物が苦手で、激辛カレーパンを食べることはない」
「なるほどね。意味ありげだ」
「もう一点、妙なことがありましてね。現場の部屋には電気敷布が乱雑に丸め
られた形で放置されていた。どうやら柴田幸一の寝床から引っぺがされた物ら
しいんだが」
「もしや、死体の体温を保つことで、死亡推定時刻を狂わせようというトリッ
クが使われたんじゃありませんか」
警部の話の途中で、私は思い付きを言った。地天馬も同じことが気になった
らしく、無言で軽く頷いている。対して警部は何故か首を捻りつつ、答えた。
「遺体を温めるのに使われたのは確かなんだが、妙なのは、温められたのが柴
田幸二だったらしいんですよ。付着していた微細な繊維を調べると、電気敷布
に巻かれていたのは、幸二に間違いないと」
「……温めておきながら、三人の中で一番最初に死んだと鑑定されたんじゃあ、
無駄骨だ」
「ええ。温め方が足りなかったのかもしれないが、他の二人の死亡推定時刻か
ら推して、犯行に掛けた時間はかなり長い。温める時間が足りなかったとは思
えず、一帯で停電が起きた事実もありませんでした」
停電の可能性まで思い当たり、すでに調査済みとは、下田警部もなかなか鋭
い。
「興味深い話ですね。とりあえず、先を続けてください」
「第三者によって確認されている三人それぞれの最後の姿は……赤坂が十六日
の昼、友人と食事をともにしている。柴田幸一は前日から取材旅行に出ており、
当日は学生時代の恩師に、推理小説のネタの取材を兼ねて会いに行く予定だっ
たのが、相手の都合が悪くなり、急遽取りやめ。持っていたデジカメを調べる
と、デパートや動物園で時間を潰していたと分かり、裏も取れた。正午前に食
堂で昼食を摂る姿が目撃されており、自宅で殺害されたとすれば、帰宅時間の
計算も合う。幸二の方は、今ひとつはっきりしない。工場勤務だが、当日は休
業日。友人は多くなく、休みだからと言って誰かと約束していたという話は出
ていない。携帯電話を持っておらず、通信記録から手掛かりを探ることができ
ない。ないない尽くしですよ」
肩をすくめた下田警部に、地天馬が「優秀な警察が、何も分からないはずが
ないでしょう」と先を促す。
「同居の父親に聞いたところ、『午前中に出掛けて行った。今日も遅くなるか
らと言い残していた』という話でした。ああ、柴田兄弟の両親は離婚して、幸
一は母方に、幸二は父方に引き取られたんです」
「今日もというからには、これまでも休日に出掛けて遅くに帰って来るケース
があったんですね」
「ええ。といってもここ最近のことのようで」
「柴田兄弟が両親の目を盗んで会い始めたため、と考えてよさそうだ」
「同感です。というか、それしか考えられん。事件当日も幸二は幸一の家に出
向き、そこで殺されたという構図が描ける」
私は警部の話を聞く内に、気になったことがあったのですぐに聞いてみた。
「幸二は辛い物が好きだったんでしょうか」
「父親や会社の同僚らに聞いてみたが、好きでも嫌いでもなかったんじゃない
かという答で一致していましたよ。激辛カレーパンを口にしたとしても、おか
しくはない」
私は辛い物が好きでも嫌いでもないと自負しているが、「激辛」と付く名前
の食品を積極的に食べたいとは思わない。私のようなタイプは、「辛い物が嫌
い」となるのか。いや、ならないだろう。
そんな小さな疑問を言葉にすると、地天馬が応じた。
「一理ある見方だが、幸一と幸二は仲のいい、久しぶりの再会を果たした双子
なんだ。兄の好物を自分も試してみようと考えるのは、さほど不自然ではない
んじゃないか」
「ふむ。そういう見方もあるか」
「そのおかげで幸二が死んだのなら、悲劇以外のなにものでもないが」
「地天馬さんも幸二は巻き込まれたと考えている? 我々も一緒ですよ」
下田警部が我が意を得たりと、満足げに首肯する。
「犯人は幸一を狙って激辛カレーパンに毒を仕込んだが、幸二が食べてしまっ
た。幸二殺しは、犯人にとって誤算だったに違いない」
「その第一候補が衣川大和という訳ですね」
一度死んだ者が甦り、生者を刺し殺してから、また元のように死んだ、など
というオカルトじみた解釈を警察がするはずもない。当然、犯人が別に存在す
るとの判断で、捜査が続けられた。
そこでまず、衣川の事情聴取が行われた。この時点で動機は定かでなかった
が、密室トリックまで弄して奇妙な殺人現場をこしらえるのは、いかにも推理
作家がやりそうな犯行だと判断されてしまったようだ。
「柴田幸一の相棒、衣川に話を聞いたところ、色々と興味深い話が出て来た。
共作作家というのは表向きだけで、実際には衣川は一文字も書いたことがない
というんだ」
「え?」
私は思わず声を上げた。初耳だ。双子の弟がいた事実よりもびっくりしたか
もしれない。つい、興味本意で質問した。
「そ、それは、執筆を柴田が担当し、他は衣川がやるという意味ですか?」
答えてくれたのは下田警部。
「いや、共作作家の実態そのものが、なかったに等しいらしい。本人の弁では、
たまに資料集めをしたりアイディアの相談に応じたりしていたが、共作作家と
呼べるレベルじゃなったと自嘲してましたな。書こうと試みたことはあるが、
柴田の域に達するのは容易でないと気付き、放り出したと。彼が幸島大士郎と
してやった一番大きな仕事は、インタビューなどの広報活動だったとか」
「ははあ。何でまたそんな関係になったのでしょう……」
「これまた衣川の弁によれば、柴田幸一とは大学のサークルで知り合った。夏
合宿で海に行った折、溺れた幸一を助けてやり、やたらと感謝された」
「その合宿場所、幸一の地元だったもんだから、無事と分かったあとは大いに
冷やかされたんだと。地元で溺れるなよってね」
花畑刑事が厳つい顔に笑みを浮かべ、割り込む形で付け加える。下田警部は
無視するかのように、続きを話した。
「以来、幸一は衣川に恩返しを考えていた節があって、卒業後も職が定まらな
いでいた衣川を、ラノベ――でしたかな? ラノベ作家として売れ始めていた
幸一が、共作のパートナーになることでしばらく面倒を見ようと誘った。時期
を同じくして推理作家への転身を図り、見事に成功した訳です」
幸島大士郎は、確かに成功を収めたと言えよう。小説を原作としたドラマが
二時間物のシリーズとして定期的に制作され、新作のために南米へ取材に出掛
けたこともあると聞いている。一方で、ライトノベル時代の持ちキャラをミス
テリで活躍させた作品も人気を博し、アニメ化の話が出ているはずだ。羨まし
い限りである。
「幸一が執筆している間、衣川は職さがしに精を出していたんだが、あいにく
と一月十六日前後のアリバイがない。我々警察も他に有力容疑者が浮かばない
現状では、被害者達と最も親しかった衣川に注目せざるを得ません」
下田警部の口ぶりは、私に気を遣ったのか、若干言い訳がましく聞こえた。
「今聞いた話だと、衣川にも動機があるとは思えません。柴田に食わせてもら
う格好になっていたのに、その柴田を殺すなんて」
逆ならまだしも……とは言葉にしなかった。
「裏付けはまだですが、いくつかの想像はできますよ。たとえば、幸一は赤坂
との結婚を考えていた節がある。いくら命の恩人でも、永遠に養う義理はない
し、夫婦生活の邪魔になる。幸一が衣川に『そろそろ出て行ってほしい』と持
ち掛けていたのかもしれない。現状に甘えていたい衣川は、柴田兄弟と赤坂を
殺し、印税その他の独占を目論んだとしたら」
「それが動機なら、共作作家の実態がなかったことを、自分から打ち明けるも
のでしょうか?」
私のこの疑問に対し、花畑刑事が口を挟んだ。
「実態があろうがなかろうが、契約上は幸島大士郎名義の作品について、衣川
にも権利が保証されている。むしろ、あとからばれて疑われるより、率先して
話しておくのが吉だと計算したのかもしれん」
「……しかし……だとしても、柴田の弟や赤坂さんまで殺すことは」
「恋人間や兄弟間の殺人を隠れ蓑にしようと利用しただけかもしれないし、ま
だ他にも動機があるかもしれない。その辺も含めてこれからの捜査にかかって
いる」
「毒の入手経路は? 何の毒か聞いていませんが、一般人が手に入れるのは、
相当困難なはず」
「その点に関しては、衣川本人から証言を得てましてな。南米諸国を取材旅行
した折に、現地特有の蛙が分泌する液体から作られた粉末状の毒を、こっそり
と買い入れたとかで、けしからん事態だ。ただ、衣川だけではなく、柴田幸一
や同行した編集者も購入していた。編集者の友井という男から証言が取れ、確
認できた事実です」
再び下田警部が答えたところで、今度は地天馬が割って入る。
「使用された毒が、誰の所有していた物だったかは、判明しているのですか」
「柴田幸一の物だと推定されている。衣川、友井両名の毒を提出されたところ、
未開封の状態でしたんでね」
「あくまで推定ですね。それに衣川の証言だと、紛れ――不確定要素が多い」
「紛れとは?」
「柴田幸一の毒がどこに保管されていたのかを、衣川が知っていたとしたら、
取り替えたり盗み出したりと、やりたいようにできるという意味です。それに
しても、不可解な様相だ。『柴田兄弟の間での殺し及び赤坂殺害後、犯人は自
殺した』との筋書きを描いていたなら、死亡推定時刻の齟齬は何故起きたんだ
ろうか。おまけに柴田幸一は毒で死んだのに、首吊り死体を装わされている。
犯人は科学捜査をあまりにも過小評価しているか、自身の知識がひどく乏しい
だけなのか」
「……そこなんです、引っかかりは」
一瞬詰まった下田警部は、程なく、あっさりと認めた。
「ついでに密室も。まことに厄介な事件で、地天馬さんからのサポートは歓迎
したいのですが、衣川が無実という方針なら、ぶつかることになる」
「衣川を犯人と想定していながら、密室の謎に頭を悩ませているのですか。衣
川はここの鍵を持ってはいない?」
家屋の方にあごを振る地天馬。下田警部は即座に頷いた。
「持っています。ただし、家の玄関及び勝手口の鍵のみで、各部屋の分は、柴
田幸一がキーホルダーにまとめて身に着けていた。三人の遺体は一つの部屋で
見つかったんだが、ドアは施錠されており、唯一の鍵は幸一の服のポケットか
ら出て来た。鍵なしで施錠するには、ドアを閉めた状態で、ノブの中央のボタ
ンを室内側から押し込まなければならない。密室の謎は残るんです」
「念のために伺っておきましょうか。鍵の複製の可能性は?」
「専門家によると、複製が難しいタイプではあるが不可能ではないらしいので、
当たってはいます。でも、ここ一週間足らずの聞き込みでは、まったくの空振
りに終わっている。加えて、ノブ中央のボタンには、真新しい指紋のような痕
跡が不鮮明ながら残っていた。人物の特定にはまだつながっていないが、我々
がまだ存在を掴めていない人物が関係したことを示唆している。これらのこと
を勘案して、鍵の複製の線はないと思って捜査を続けるべきでしょうな」
「ふん。そろそろ、現場を見せてもらう必要がありそうだ」
「では、中へ。触ってもかまわんが、むやみに物を動かさないように。一部を
除き、発見時のままにしてあるので」
前置きが長引いたが、ようやく門を通り、玄関から上がる。
「どんないきさつで事件発覚に至ったんです?」
「十八日の昼間、先ほど名前の出た担当編集者と衣川が揃ってやって来て、異
変に気付いたと聞いてますね。次の書き下ろし作品について、色々と決めなけ
ればいけないことがあったとかで」
家の奥へと廊下を少し進み、左に折れたところへ案内された。机に書架、パ
ソコン……書斎らしい。無論、遺体は搬出されているが、部屋のあちらこちら
には捜査の痕跡の一部が今も残る。それよりも何よりも、入って数歩の位置に
ある高さ八十五センチほどの脚立が異彩を放つ。この部屋にそぐわないこと、
甚だしい。
「踏み台の上、梁があるでしょう? そこに梱包用の丈夫なロープを通し、輪
っかが作ってあった。柴田幸二はドアの方に身体の正面を向ける形で、吊られ
ていたんで、発見者二人はドアを開けるなり、思わず叫び声を上げたと言って
いる」
「天井が高く、梁まで距離があるとは言え、この脚立は高すぎやしませんか。
サイドのボルトを調節することで、まだ低くなるようなのに」
地天馬が脚立を観察しながら言った。下田警部が呼応した。
「最初に違和感を持ったのは、この脚立でしてね。自殺するのに、こんなに高
い踏み台はいらないだろうと。それで詳しく調べると、首を吊ったときとは似
て非なるロープ痕だと分かった。角度に若干の差異があった」
「確かに、首吊り自殺するのにここまでの高さは不要だ。しかし、僕が今言っ
ているのは、犯人が偽装首吊りの小道具に使うにしても、この脚立は高すぎや
しないかということ」
「つまり、どういう意味です?」
「犯人の計画では、この高さが必要だったんじゃないか? そう考えれば、ド
アノブの高さに注意が向くだろう」
地天馬が指差す方を見る。この部屋のドアノブは、脚立よりも少しだけ高い
位置にある。目算で、九十センチといったところだろうか。
「ノブがどうだと言うんで?」
花畑刑事が、ノブと脚立、さらに地天馬の顔とを順に見ながら言った。
「柴田幸一の身長を僕は知らないが、警察がこの現場を調べて、とりあえずは
首吊り自殺かもしれないと考えたのだから、首を吊った状態での幸一の爪先は、
脚立より少し高いところに来ていたはず。合ってますか?」
「え? ええ、そうなるな、うん」
思い出す風に上目遣いになりつつ、花畑刑事が答える。下田警部も頷いてい
た。
「すると、幸一の遺体を、足首付近を持って振り子のように揺らせば、爪先が
ドアノブに当たり、ボタンを押し込んでロックすることもあり得るんじゃない
か」
「……そんなことがあるでしょうか」
「被害者の身長や体重を考慮し、ロープの長さと脚立の高さとで調節すれば、
ノブのボタンを押すのにちょうどよい位置が見つかるかもしれない。現時点で
は、可能性でしか言えない。ただ、死後硬直を起こしている死体なら、固さは
充分じゃないかな」
「だが、咄嗟の思い付きで、そんなにうまく調節できるとは考えにくいですな。
繰り返し実験したらうまく行くとしても、何度もぶつけた足の指先に痕跡が残
るもんでしょう。警察が見落としたとでも?」
「いいえ。でも、『咄嗟の思い付き』と決め付けるのなら、それは警部の思い
込みだ。柴田幸一は推理作家なのです。生前に実験し、成功していたのだとし
たら、簡単でしょう」
「なるほど」
感心して見せた警部の横で、花畑が声を大きくして反論に出た。
「いや、やはり変だ。柴田幸一が犯人なら、地天馬さん、あんたの想像で辻褄
が合う。だが、幸一は被害者の一人と目されているんだ」
「花畑、おまえの早合点だ。よく思い出せ」
下田警部が苦笑混じりにたしなめる。私も話を聞いている内に、地天馬の言
葉の意味を理解していた。
花畑刑事は警部の方を振り向き、怪訝そうに眉を寄せた。
「何をですか」
「衣川をだよ。幸一と一緒にトリックを試す人物がいたとしたら、そいつはパ
ートナーの衣川しかいない。衣川は『柴田幸一の身体を使った密室トリック』
を確実に成功させる位置を把握していた可能性がある、ということだ」
「――ああっ、そういうことか。しかし衣川が犯人なら、そんな事実があった
としても、認めるはずがないっ」
「先に証拠の有無を調べるべきだ。……下田警部、柴田幸一の遺体は裸足だっ
た、などということはありませんよね?」
地天馬が期待しない口調で尋ねる。下田警部の返答は、意外だった。
「何故か裸足でしたな。この季節、家の中でも靴下ぐらい穿きそうなものだが。
事実、二足分の靴下が脱ぎ散らかしてあった。尤も、おかげで脚立を調べて、
幸一の足の指紋が付いていないと分かり、首吊りが完全に偽装であると断定で
きたんですがね」
「ほう、それはいい。すると、幸二の方も裸足だったのでは?」
「その通り。赤坂美子はちゃんとストッキングを身に着けていたし、柴田兄弟
が自宅では靴下を脱ぐ、そういう家庭に育ったせいかと軽く考えていたが、事
件に関係あるんで?」
「まだ分からない。仮説があるだけでね。今重要なのは、足の指紋です。ドア
ノブのボタンから検出された真新しい指紋があったでしょう?」
「――そうか、あれは柴田幸一の足の指の! 部分指紋だったし、ノブに付い
ているから、てっきり、手の方だとばかり。先入観を持ってしまっていた」
「まだそうと決まった訳じゃない。警部、確認を」
冷静に話す地天馬の声を、私はぼんやりと聞いていた。犯人が衣川である可
能性が、次第に高まるように感じた。
――続く