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★タイトル (lig ) 06/09/01 20:34 (288)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[04/10] らいと・ひる
★内容 06/09/04 20:29 修正 第2版
■Everyday #3
とても痛かったことを覚えている。身体の痛みなら我慢すればいい。
でもありすにとって、心の痛みは耐え難いものだった。
うっすらとして霞のようになってしまったあの頃の記憶。忘れたい記憶を無理矢
理封じ込めた結果がこれだ。
そんな事だから時々夢を見てしまう。罪の意識に苛まれ、夢の中では霞んでしま
っている少女の事を。
「タネちゃん帰ろ」
そう呼ばれて振り返る。そこにはありすと同じ三つ編みのお下げ髪の女の子が立
っていた。
大親友だと彼女は思っていた。
学校ではいつも一緒にいて、放課後もいつも一緒に遊んだ。
三学期の終了日に交わした言葉が蘇る。あの子と同じクラスでいられた最後の日
でもあった。
「学年上がっても、またキョウちゃんと同じクラスになれるといいね」
ありすは心の底からそう思っていた。
「うん。そうだね」
『キョウちゃん』と呼んでいたあの子もありすと同じ心境だったのかもしれない。
転校してきたあの子に初めて声をかけた小学四年生の冬。それから二人の時間は
ずっと一緒に流れていくのだと思い込んでいた。今思えば幼い考えである。
だから新学期になって学年が上がり、クラス分けの発表を見た時、ありすはどう
して『キョウちゃん』の名前が同じクラスに見つからないのだろうかと、ずっと探
し続けていた覚えがある。
ショックは大きかった。
しかし、離ればなれになるわけではない。同じ学校なのだから、授業中以外は会
うことも可能だし、放課後になれば以前と変わりなく二人で遊びに行くことができ
るのだ。二人は前とあまり変わらない生活であることを願い、そしてその事に納得
したつもりだった。
ところが、新学期が始まるとありすの周りにも徐々に変化が訪れてしまう。
一番の変化はクラスメイトとなった成美と美沙との出会いだった。
おっとりしているが芯の強い成美と、行動力があって情に厚い美沙。この二人と
仲良くなるのにそれほど時間はかからなかった。
そうしていつの間にかありすは、成美や美沙などのクラスメイトたちと過ごす時
間も大切になってしまったのだ。本来なら、それはとても自然な出来事であった。
だが、大親友のキョウちゃんは、その当時のクラスメイトとの交流をあまりよく
思っていなかったらしい。自分以外の友達と親しくする事に対し、不機嫌そうな態
度を取るばかりだった。
「タネちゃん。あたしよりクラスの子を優先するの?」
「……」
「あたしの方が前から約束してたじゃない」
「そうだけど……」
「あっちに行って遊ぼうよ」
キョウちゃんの気持ちはありすには痛いほどわかった。彼女にはまだ親しいクラ
スメイトはいなかったのだ。心細く思う彼女がありすを頼ってしまう気持ちは理解
できなくはない。
だから、その場の情に流されてしまう。優柔不断な、クラスメイトと親友を天秤
に掛けるようなどっちつかずの返事で言葉を濁す日々が続いていく。
―「今日の放課後は絶対空けておいてね」
―「休み時間はうちのクラスに絶対遊びに来てね」
―「来週の日曜日も一緒に遊びに行こうね」
まるでありすを必死で捕まえていたいかのように、朝の登校時や放課後だけでは
なく授業の合間の休み時間まで足を運んでくる。そんな彼女の行動は、ありすにと
って重荷にしかならなかった。
もちろん彼女の事は嫌いではない。だから、できる限りは受け入れてあげよう、
そう思っていた。
成美や美沙に相談したところ、一緒に遊べばいいじゃないかと、単純な解決方法
を提示してくれた。今まで、どちらかを選択するような方法をとっていたありすに
とっては、それは目から鱗が溢れるような名案であった。
ありすは早速、キョウちゃんにその話をもちかけた。人見知りの激しい子ではあ
るが、彼女の説得が効いたのか、期待半分不安半分といった表情でそれを受諾して
くれたのだ。
日曜日にありすと美沙と成美とキョウちゃんの四人で待ち合わせをして隣駅にあ
る少し広めの公園に向かう。そこでフリーマーケットを開催しているので、それを
見に行くことが目的だった。
最初は警戒して人見知りの激しかったキョウちゃんも成美や美沙の誰とでも分け
隔てなく接する性格もあってか、次第に馴染んでいったのだ。
「キョウちゃんさん、あちらにネコのぬいぐるみがありますわ。とてもかわいらし
いと思いませんか」
愛称の『キョウちゃん』にまで『さん』を付けるところが成美らしくもある。と
はいえ、旧来の友人のように彼女を扱ってくれていたのだ。
「あ、本当だ。うん、かわいいね」
成美が笑いかけ、それに対して当初はぎこちなく笑みを浮かべていた彼女も、公
園に到着した時にはもう満面の笑みを浮かべていた。
ありすはそんな彼女を見て安心する。
だから気が緩んでしまったのだろう。帰り道、ふと明日の宿題の事を思い出し成
美に話を振ったところから歯車が狂い始めた。
「ありすさんも慌て者ですね。明日は算数の授業はございませんよ」
「そうだよ。明日の三時間目は体育だって」
「水泳の授業でしたわね。そういえば葛西さんも張り切っていらっしゃったわ」
「葛西さんは、小学校に入る前からスイミングスクールに入っていたらしいよ」
「だったらわたしも負けらんないね」
明日の宿題から明日の授業、続いて水泳、クラスメイトの話題と三人だけで盛り
上がる。
気付いた時、キョウちゃんは数メートル後ろをとぼとぼと歩いていた。その表情
には疎外された事による悲しみに溢れていた。
ありすが駆け寄って話かけるものの、それは逆効果であった。彼女の顔を見た途
端、泣き出してしまい、そのまま逃げるように駆け出していった。
それから一週間、キョウちゃんは学校を休むことになる。
ありすは何度も何度もお見舞いに行き、その度に謝罪した。最初は拒んでいたキ
ョウちゃんも落ち着いてくるとありすを許してくれた。
結果、彼女と仲を修復する為にありすは我が侭を聞くことになる。何があっても
彼女との約束を最優先とすることを誓ったのだ。
だが、いつしかありすはそんな彼女との仲に重みを感じてしまう。それまで対等
であった友人関係が、主従関係とも思えるほどになってしまったのだ。
原因はわかっていた。ありすが彼女を甘やかし、我が侭を言いたい放題にさせて
しまったからだ。
友人と遊んでいるのに楽しくない、そんな状態がありすの身体にストレスを溜め
させた。
ちょっとした事でイライラして、時には彼女と喧嘩になりそうになったこともあ
った。
唯一の安らぎが、授業前の数分や掃除の時間等に成美や美沙たちに話しかけても
らえる時だった。
「ありす、来週の日曜日空いてる?」
体育の着替えの時に、美沙がそう聞いてきた。空いてるとは答えられない。予定
はまだないけど、予定は入るかもしれない。なにより親友との約束を最優先にしな
ければならないとありすは思っていた。
「……」
「ありすさん、最近元気がないようですから、ぜひお呼びしたいと思ったのですが」
成美の真っ直ぐな瞳で見つめられると、なぜか後ろめたい気持ちになる。
「どこか遊びに行くの?」
訊いてもしょうがないことはわかっていた。でも、ちょっとした好奇心が彼女の
心をくすぐった。
「実はさ、成美の誕生日なんだよね」
「毎年、お友達を家にお呼び致しておりますの。質素なパーティーですが、ありす
さんにも来ていただけたら嬉しいですわ。もちろん、プレゼントなんていりません。
わたくしにとっては来ていただけるのが、最良のプレゼントなのですから」
「誕生日かぁ」
「無理にとは言わないよ。来られるようだったら来な。それで、楽しもうよ」
クラスメイトの誘いはありすにとって確かに嬉しかった。この何日かのモヤモヤ
した気分が晴れそうだった。
あれだけ我が侭を聞いて毎日付き合っているのだから、一日くらいいいじゃない
か。そんな気持ちがありすの中に芽生えていた。キョウちゃんも一緒に呼んではど
うか、と成美は言ったが、また同じ過ちを繰り返してしまいそうなのでありすは自
分一人で行くことにする。
「うん。じゃあ、空けとく。楽しみにしてるね」
そんな言葉を成美たちに返した。それは久しぶりの心からの笑顔だった。
しかし、その週の土曜日にキョウちゃんはこんな誘いをしてくる。
「ね、明日さ、遊園地行こうよ。そんで、一日たっぷり遊ぼう」
その日は成美の誕生日だった。約束は彼女の方が先である。一日くらいなら、許
してくれるだろう。そんな軽い気持ちで答えた。
「あのね。明日は無理なんだ」
「どうして?」
キョウちゃんの無邪気な問いかけは、心にナイフを突き立てられるようだ。
ありすは口淀む。はっきりと友達と約束があると言ってよいものなのだろうか。
そうしたら、また駄々を捏ねられるのではないか。そんな不安が彼女を包み込む。
「うん、用事があるから」
「だったら断って、その用事」
彼女は笑ったまま、それが当然であるかのように言ってくる。
あまりにも簡単に出てきたその言葉に、ありすは一瞬耳を疑った。今までずっと
親友である彼女を優先してきたのだ。それがわからないのだろうか? ありすには
無性に腹が立った。
「そんなこと……」
身体が怒りで震えているのがわかる。今まで我慢していただけに、そのはけ口を
心が求めていた。
「え?」
「そんなことなんで言うのよ。なんでそんな簡単に命令するのよ。あたしたち友達
じゃなかったの。それなのに、なんで命令なんかするのよ」
「……タネちゃん?」
ありすがいきなり怒り出したので、彼女はびっくりしたように目をまんまるくし
て動揺している。
「もう、キョウちゃんのわがままには付き合えないよ」
言ってはいけないとわかっていても止めることはできなかった。
それでも、どこかで落ち着かなければという考えも頭の隅に残る。だから、大き
く深呼吸をした。だけど、心のもやもやは晴れやしない。
「タネちゃん……」
彼女は言葉を失っていた。瞳を潤ませて、今にも涙が溢れそうだ。
「しばらく会うのやめよう」
このまま会っていてはお互いの為にならない。ありすが甘やかしてしまったから
彼女はここまでつけ上がってしまったのだろう。
だから、その時はそれが一番良い選択だと思った。
「どうして?」
「あたしはキョウちゃんの物じゃないんだよ。あたしだってあたしの生活がある。
この世界はあたしとキョウちゃんの二人しかいないわけじゃないんだよ。だから、
キョウちゃんのわがままだけに付き合うわけにはいかないの」
怒りは収まらなかった。ありすは感情のまま言葉を吐き出し続ける。
「ごめん。ごめんなさい。わがまま言ってたのは謝る。謝るから、明日だけは一緒
にいて。お願いだから」
「無理だよ。キョウちゃんの為にずっと誘いを断っている友達の、一年に一度しか
ない誕生日なんだよ」
「でも、明日だけは……」
しつこく食い下がる彼女に、ありすの苛つきは頂点に達する。
「それのどこがわがままじゃないって言うの?!」
「……」
キョウちゃんは何も言えなかったのだろう。それからはありすの怒声をただ黙っ
て受け止めているだけだった。
だが、何も言わない彼女が今度は逆にありすの怒りにさらに火を注ぐ事になった。
「キョウちゃんなんか大嫌い!」
ありすにとって、それが彼女と交わした最後の言葉だった。
その翌々日、キョウちゃんは転校した。
ありすがその事実を知ったのは、さらに二日後のことだった。
知らなかったとはいえ、それが取り返しの付かない事だと気付いてしまう。
後で聞いた話だが、彼女の両親は離婚し、急遽転校という事になったらしい。本
人はきっと混乱していたのだろう。一日でも長くありすと一緒に居たかっただけな
のだ。
それなのに、拒絶という最悪の形で別れを迎えてしまった。
どうして彼女は転校の話をしてくれなかったのだろう。
理由さえ話してくれれば、ありすはその残された日々を大切に過ごしたと思う。
でも、もしかしたらその問いかけ自体が間違っているかもしれない。
転校の事を話したら、ありすには同情というフィルターがかかってしまう。だか
らこそ、純粋に友達として最後まで過ごしたかった彼女は、転校の話ができなかっ
たのだろう。
それは昼下がりの事だった。
クラスメイトの各々は友達と歓談したり、本を読んだり、体力の余った男子生徒
達は校庭でサッカーでもしているのだろう。ありすは、図書館から借りた本を読も
うとしたが、精神的にそれを行えるような状態ではなかった。ここ数日見る夢が、
彼女の心を蝕んでいたからだ。
「悪意ってさ、自覚のある人より自覚がない人の方が多いよね」
ノートから目を離し、目の前で写譜をしている成美にそう問いかける。彼女は音
楽の先生から借りた練習曲の譜面を自分の五線譜ノートに写しているのだ。楽譜く
らい買えばいいじゃないかとありすや美沙は思うが、譜面を覚える為に必要な事な
のだと成美は言う。彼女にとって、ピアノは弾くだけではなく、その音符に触れる
ことから始まるのだろう。
「悪意ですか?」
「悪意ってのは本来自覚があって他人に害を与えようとする心なんだけど、その
『害を与えよう』という部分が麻痺して自覚がなくなってる場合が多いんじゃない
かって」
写譜をしていた成美の手が止まり、心配そうにありすを見つめる。
「創作ネタ……とは違うようですね」
「うん。夢でさ、昔の事思い出しちゃってね」
「もともと善と悪なんて立場によって変わるものじゃありませんか。それは、創作
を行っているありすさんの方がよくわかっているはずですが」
「でもさ、その時は自覚なくても後で『あれは悪意だったのかな』って後悔しちゃ
うじゃない」
「悔やんでいるんですか?」
「例えばさ、誰かを虐めている人間がいるでしょ。虐めている方は悪意ではなくて
ただ『からかっているだけ』。でも、虐められている方は『悪意』以外のなにもの
でもない」
「そうですが……でも、ありすさんの悩んでいることはまったく別の問題だと思い
ますよ」
ありすの口調から何か気付いたのだろうか、成美は柔らかい笑みを浮かべそう言
った。
「そうかな? 根っこの部分は同じじゃない」
「ありすさんが悔やんでいるのは、キョウちゃんさんの事じゃありませんか?」
ちょっとした会話だけで、成美はありすの心を見透かしてしまったようだ。彼女
の鋭い部分にありすは頭が上がらない。
「うん。そうなんだけど」
隠していてもしょうがないと、ありすは素直に認めることにした。事情も知らな
いわけではない。
「その事についてはもう十分苦しんだじゃないですか。自覚のない人はそんな辛い
顔はしませんですよ」
「罪は罪だからね、自覚ができたからといってその罪自体が消えるわけじゃないよ」
ありすは深く溜息を吐く。
二人の間にしばしの沈黙が訪れる。成美もありすに対し、どう言ってあげれば良
いのかがわからないのだろう。
そんな中、美沙の元気な声が聞こえてくる。
「成美」
男の子達と一緒にサッカーをやってきたであろう彼女は、午後の授業開始までま
だ余裕のある時間に早々と帰ってきた。
「お願いあるんだけどさ。数学の宿題あったじゃん。あれ見せてくれない。今日当
たりそうなんだよ。さっきまですっかり忘れてて」
「ありすさん」
成美は美沙ではなくありすの方を見る。そして微笑みながらこう言った。
「ここで美沙さんの為にならないと、宿題を見せてあげないことは善意でしょうか?
それとも悪意なのでしょうか?」
「へ?」
ありすは急に話を振られて、素っ頓狂な声を出してしまう。
「宿題を見せてあげることは簡単です。でも、簡単に見せてあげることで美沙さん
はそれに甘えて自力で宿題をやらなくなってしまう可能性もあります。友達だから
甘えさせてあげるってのは、わたくしは間違っていると思いますけど」
「あのー、成美? 数学の宿題は?」
状況がわからない美沙は、不思議そうに成美に問いかける。
「今回は自力でやってください。まだ授業が始まるまで時間がありますから」
「ちぇっ、しょうがないな」
美沙はそう答えると、自分の席へと戻ってノートを取り出す。たぶん、今日彼女
が当たる箇所のみに絞って自力で解こうとしているのだろう。
「ありすさん」
呆気にとられていたありすは、成美の呼びかけで我に返る。
「何?」
「根本的にはありすさんの考えは間違っていなかったと思います。だからそこに
『悪意』などあるはずもありません。でも、何かが間違っていたというならば、そ
れはお互いを理解する為の話し合いがなされなかったことです。相手が悪意を持っ
ているかどうか、自分が悪意がないかどうか、それらをきちんと確かめ合わなかっ
た事自体が間違っていたのでしょう。悔やむべきはその部分です。それと、この問
題で一番重要なのは二度と同じ過ちを犯さないという事ではないでしょうか。だと
したら、今のありすさんは十分それを理解していると思いますよ。でなけば、わた
くしはありすさんを友人などとは思わないでしょうから」
成美の言葉には確固たる信念が込められていて、強い意志を感じる。ありすの曖
昧な揺れる心を時々こうやって諭してくれた。そんな彼女に感謝をしながらも、キ
ョウちゃんを優しく諭してやれなかった事をありすは後悔する。
今のありすならもう少しあの子の気持ちを理解してあげることができた。自分の
気持ちを上手く伝えることができた。
時間はもう巻き戻ることはない。
そんな事を考えているとふいに創作のアイデアが浮かび上がってくる。
人物設定、情景描写、台詞、そして感情の流れ、……。
後悔の念に駆られている時だというのに不謹慎だということはありすも自覚して
いる。
だが、時に自分自身の痛みさえ喰らう彼女の中の創作の虫は、恐ろしい速度で成
長し始めていた。最後にはありす自身の人格さえも喰らい尽くすのではないかと恐
怖するときもある。
目の前の成美は、そんなありすの内部を理解してくれるだろうか。優しく諭して
くれた彼女をまるで無視するような形で、創作の虫は自身の制御を離れていくのだ。
なんて勝手なのだろうか。
それでもありすは、物語を生み出す事を嫌いにはなれなかった。