AWC 二月の事件(下)    永山


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#133/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  03/02/14  00:18  (351)
二月の事件(下)    永山
★内容                                         05/08/22 01:25 修正 第2版
 怖気を振るうような仕種のあと、脇戸は網を水に突っ込んだ。しばらく魚を
追い掛け、やがて一匹を捕獲した。細くて小さいが威勢のいい奴で、網の中で
ぴちぴちともがいている。
「入れてくれ」
 紙コップを突き出す。脇戸は、だが首を傾げた。
「チョコが溶けきってないが、いいのかねえ?」
「ある程度は溶けていたから、大丈夫だと思う」
 脇戸は網の上下を返して、魚を入れた。
 香取と脇戸は額を寄せ合うようにして、上から覗き込む。
 水中の魚は、ほんのしばらくの間だけ泳いだが、じきに異変を来した。尾び
れの動きが忙しなくなったかと思うと、痙攣を始め、壁にぶつかる。その反動
で中程に行き、再度の痙攣。これを繰り返した後、体を横にして、ぷかりと浮
かび、動かなくなった。
「この即効性も考慮して、青酸に間違いないと思う」
 喉を鳴らした脇戸に、香取は平板な物腰で言った。文字の世界とは言え、殺
人事件に関する知識と慣れがある分、冷静でいられるのだろう。
「雪のせいで無茶苦茶やで」
 廊下の方から、杉本の張り上げた声が届いた。足音も、走ってはいないが、
どたどたと騒々しい。戸口に姿が見えたところで、続けて言った。
「『豪雪のため、到着まで相当時間を要することになると予想されます。現場
保存を心掛けて、待つように』やて。全然頼りにならんわ」
「仕方がないです。たとえやんでも、除雪に時間が掛かりそうだし」
 そう話す香取の口元が、かすかに笑うように緩んでいた。この事態を歓迎す
る気分が、無意識の内に出てしまったのかもしれない。
「杉本先輩。さっき、熱帯魚を使った簡単なテストを行って、チョコレートに
毒が入っていたと分かったんです」
「まじか?」
 片方の眉を上げた杉本に、最前の紙コップを示す。魚はまだ浮いていた。生
き物の死体が苦手なのか、杉本は口元を手で覆いながら、嫌そうな目つきで確
認をした。
「しかし、妙やな。あのチョコ、江上さんが渡したやつとちゃうか。バレンタ
インの」
 テーブルに残るチョコレートを見やり、杉本が疑問を呈する。
「やはり、そうなんですか」
 魚の死体入りコップを机の端に置き、香取が聞いた。
「いや、俺かて、しかと見た訳やない。見えたのは包みだけで、中身が何かは
分からへん」
「包み紙なら、見たんですね? チョコの下敷きに使われているあの紙、違い
ますか」
「……赤い色をしてたんは覚えてるけどな。プレゼントのチョコを包む紙なん
て、どれもこれも似たようなもんや。色さえ近かったら、区別つかん」
「そうですか。でも、他にチョコは見当たらないようですし――」
 台詞を切って、香取は部屋奥の片隅に足を運んだ。屑篭を覗き込み、手で少
しかき回して、「他の包装紙もない」と言った。
「東尾部長がここに持ち込んだチョコは、あの毒入りの一つだけということで
すね。そして江上先輩は、ここに着いてから渡した。論じるまでもなく、江上
先輩が渡した物こそ、毒入りチョコ……となってしまいます」
「信じられへんな」
 自ら証言したにも関わらず、杉本は首をしきりに捻った。それから後輩二人
や宮下の顔を見渡す。
「おまえらも見とったやろ、さっきの。あれが演技や言うんか?」
「いえ、本気に見えました。だからこそ、悩んでます。とりあえず、チョコに
毒を入れる機会が第三者にあったかどうか、確かめたいですね」
「無意味じゃないか、それって」
 脇戸からの異議。香取は眉間にしわを寄せて、理由を待った。
「確かめるってのは、江上先輩に聞くしかない訳だろ? 先輩が毒を入れたん
だとしたら……もし仮に、だぜ。仮にそうだとしたら、他人が毒を入れる機会
があったようなことを答えるに決まっている。先輩が、他人が毒を入れること
はできないという返事をしたら、チョコが東尾先輩に渡ったあと、毒混入の可
能性を検討しなくちゃならねえ。だが、死んだ人に話は聞けないぜ」
「なるほど。筋道が通っている」
 残念そうにうなだれた香取。白旗を掲げた彼に、不意に宮下が話し掛けた。
「紙コップ、片付けとこうと思うんだけれど」
「ああ、あれですか」
 香取が明確な返事を出す前に、宮下はせかせかした足取りで机に近付き、コ
ップに手を伸ばそうとする。
「やっぱり、ちょっと待ってください」
「え」
 肩越しに振り向いた宮下。手元への注意が疎かになったか、指先が紙コップ
の縁に当たる。すると、コップは思いの外傾き、倒れてしまった。中身がテー
ブルにぶちまけられる。と言っても少量の水と、死んだ魚が一匹。通常なら、
たいした被害にはなり得ない。
 だが、今は違う。チョコレートが水を被ってしまっていた。
「あ……ごめん、なさい。手が」
「しょうがないですよ。元々、毒入りのチョコなんだから、実験に使った水を
被ったぐらい、何ともないはずです」
 先輩を気遣う意思の表れだろう、香取は素早くフォローした。同じ一年の脇
戸も追随する。
「そうそう。警察の到着も遅れるって言うんだから、それまでに乾くこと間違
いなし。あ、魚だけは片付けないと」
 そのまま手を伸ばす脇戸に、香取が鋭い声を発した。「おい、素手は危い!」
 同級生の警句に、脇戸は肩を震わせ、腕、いや、肩ごとと言っていいくらい
大げさな動作で、手を引っ込めた。
「そ、そうだったな。はは」
 わざとらしい笑い声を立てた脇戸だが、すぐに口をつぐむ。場にふさわしく
ないと思い直したらしい。
 彼に替わって、香取が自らのハンカチを手袋として使い、魚を紙コップに戻
した。下手にチョコに触れないので、水は放っておく。暖房の効果もあって、
じきに乾こう。
「あ、そうだ。警察の遅れって、どのくらいになるのか分からないんすよね?」
「せやな。はっきりしたことは言わんかった」
 杉本の返答に、脇戸はためらいがちに続けた。
「だったら、その……東尾先輩が傷むっていうか、この状態を保つっつーか、
要するに、エアコンは切っておいた方がよくないかなと」
「言いたいことは分かるけど、現場保存せいって言われとるしな」
「正確に記録を取っておけば、大丈夫だと思います」
 香取が述べる。
「記録って、何の記録や?」
「現在の室温、エアコンの入っていた時間、エアコンの設定温度、それから僕
らがここに入った時刻も必要かな。これだけ分かっていれば、警察なら多分、
検証可能ですよ。欲を言えば、エアコンを入れる前の室温もほしいところです
けど」
「それを記録しとったら、警察から文句言われへんいうこっちゃな?」
「確信はありませんが、無策でいるよりはましでしょう」
「よし。それやったら、記録してから、止めたろ」
 杉本が決断を下すと、宮下が動いた。「書く物、持ってくるわ」
 紙コップの束だけを抱えて、出て行こうとする。
「頼むわ。あ、ジュースも持ってって行かへんのか」
 杉本が床に置かれたペットボトルを指差す。きびすを返そうとしていた宮下
は動きを止め、腰を折ってペットボトルを掴んだ。
 彼女が出て行った直後から、香取はエアコンの操作パネルに近寄った。そこ
にある液晶表示に、顔を寄せようとしたそのとき、電子音が鳴った。
「何や?」
 ぽろろんという音の繰り返しに、杉本と脇戸も集まる。香取が答えた。
「――延長するかどうかのサインみたいです。これ、運転時間を指定しない限
り、入れてから三時間が経過すると、自動的に切れるタイプなんですね」
「てことは」
 急いた動作で、杉本は自分の左の袖をまくった。腕時計が覗く。
「十一時二十五分ちゅうとこか。おまえらの時計は?」
 脇戸、香取の順に答える。「似たようなもんです」「同じく」
「東尾の奴が、疲れたとか言うて部屋に戻ったんが、八時半頃やったから、だ
いたいおうてるな」
「宮下先輩がジュースを運んで、こうなってるのを発見したのが、十時四十五
分頃でしたね」
 一つ一つ確認をしている最中に、宮下が紙とボールペン、それに下敷きまで
持って戻って来た。

「え? 心筋梗塞?」
 刑事からの知らせに、江上や香取を始めとする超常現象研究会メンバーの誰
もが、異口同音に意外の声を上げた。
 警察が東尾の別邸に到着したのは、翌朝早くだった。来るまではもたもたし
ていた彼らだ、捜査の手際はさすがによく、てきぱきとこなしていった。香取
達は身元の確認と簡単な事情聴取を受けたあと、意外なほどあっさりと解放さ
れた。
 そしてさらに二日後、説明があるからと、六人揃って管轄の警察署に呼ばれ
た次第である。
 長机を前に、横一列に座った高校生達を相手に、四十前後と見える面長の刑
事は言った。
「そうとしか思えんのだよ。いや、正確には、医者の見立てが、そうだと結論
を出したという意味だが」
「ど、毒を飲んだ痕跡はなかったっていうことですか」
「なかった。ガスならともかく、粉末、あるいはそれを溶かした液体の形で、
青酸系毒物を摂取したのなら、まず間違いなく正しく判定できる。端から、青
酸毒の疑いを持って臨んだのだから、誤りようがない」
「病死、ですか」
 江上が聞いた。綱渡りに挑むかのような、慎重で、探りを入れるニュアンス
が含まれていた。
「さっきも言った通り、心筋梗塞。調べさせてもらったところ、死んだ彼、ス
ポーツ心臓なんだってね。若い内にこうなる可能性は、一般の人に比べると高
いそうだ。旅の疲れに土地の寒さが重なったことも、遠因かもしれん」
「あ、し、しかし」
 香取はどもりながらも言葉を紡いだ。今にも、パイプ椅子を蹴飛ばして立ち
上がりそうな勢いである。
「ど、毒はどうなるんです。あのチョコには毒が入っていたはずです。それに、
青酸特有のアーモンド臭だって」
「それなんだがね」
 刑事は顔を手のひらで上から下へと撫で、ため息をつくと、奇妙な笑みを見
せた。苦笑に困惑が混じったような、不思議な顔つき。
「まず、アーモンド臭なんだが……君が最初に言い出したんだっけな」
 手で差され、香取は黙ってうなずいた。
「これまでに実際に嗅いだことは?」
「いえ。ないです。けど、小説でよく出て来るし」
「私は刑事であって毒の専門家じゃないが、小説に出て来るアーモンド臭に関
しては、世間の人達に誤解を与えるようだ。あのアーモンド臭というのは、ロ
ーストしたアーモンドの香ばしい匂いじゃなく、アーモンドの実そのものの匂
いなんだ」
「え……っと」
 絶句する香取。杉本や脇戸達も、ぽかんと口を開けたり、目を激しくしばた
たかせたりと、呆気に取られたらしい。
 香取は顔を赤らめながら、刑事に問うた。
「だけど。アーモンド臭、香ばしい方のアーモンドの匂いがしたのは事実です。
どうしてなんでしょうか?」
「そこまでは分からんよ。心臓に変調を来す直前まで、アーモンドの入った物
を食べてたんじゃないか」
「で、でも、あの部屋にあった食べ物は、チョコレートだけで……」
「待って、香取君」
 江上の声が響く。皆の目が集まったところで、彼女は乾いた唇を湿して、言
葉を重ねた。
「あのチョコレートの中には、アーモンドを入れた物もあったのよ」
「え」
「彼、アーモンドチョコが好きだったから、かなりたくさん使った。好きな物
を先に食べる方だし」
「……それを……早く……言ってほしかったです」
 蚊の鳴くような声になった香取だが、最後の確認をする気力だけは残ってい
た。絞り出すような口調で、刑事に尋ねる。
「そ、その。アーモンドの実の匂いって、スーパーなんかで売ってるナッツ類
のアーモンドとは、全然違うものなんですか」
「全然違うと言っていいだろうね。表現しづらいが、杏や桃が腐ったような匂
いと言う人が多い。まあ、香ばしさからはほど遠いな」
「そ、そうなんですか」
「ついでに付け加えておくと、青酸毒の匂いをはっきり分かるくらい嗅いだら、
人体に悪影響を及ぼすこともあるそうだ。もし今後、同じような場面に遭遇し
ても、無闇に嗅がないように」
 刑事は冗談めかして忠告を発すると、うなだれる香取を放って、さっさと次
の話に移った。
「だが、問題は残っている。これこそ、君達に再び集まってもらった最大の理
由でもあるんだが……青酸系毒物が検出されたのも、また事実なんだよ」
「そうっすよね。魚が死んだんだし」
 脇戸が早口で応じ、相槌を打った。
「毒はチョコから検出された。ただし、チョコの中に混じっていたのではなく、
チョコ表面に塗ったような具合だった」
「チョコを完成させたあと、青酸毒の水溶液に浸したということですか」
 言ったのは、チョコレートを作った本人。江上は不平そうに口元を歪め、刑
事を睨んでいる。
「作り方はどうでもいいんだ」
「私が彼を殺そうとして、毒をチョコに入れた。けど、毒の効き目が発揮され
る前に、心臓の病気で死んでしまった、と決め付けるんですね? だって、私、
あのチョコを完成させたあと、誰にも触らせていないもの。他にそんなことで
きる人、いるはずない」
「早合点しないでくれよ。不可解なことがもう一つ、分かったんだ。東尾君の
指や手に、毒が全く着いていなかった。おかしいだろう?」
「ほんまか。そら変や」
 普段の饒舌が消えていた杉本が、眉間にしわを作って言った。
「チョコ表面に着いとう毒が、指にもちょっと移るはずやのに、着いとらへん。
そんな訳あるかいな。なあ、江上さん」
「なに?」
「東尾は、チョコ食うのに、いちいち箸つこうたり、ちり紙で包んだりなんか、
せえへんわな?」
 突飛もない質問に、江上はしかし、真面目に、くすりともせずに答えた。
「ええ。いつも指で摘んで食べていたわ」
「そやろな。ううん、分からん」
 かぶりを強く振った杉本。他に発言する者もいない。
 刑事が口を開いた。
「こういう状況なもんで、まあ、東尾君の死に関しては事件性がなくなったが、
青酸系の毒物が存在したのはまぎれもない事実だし、彼はいかにして毒を口に
しなかったのか、指に毒が着いていないのは何故かという二点を解明しない限
り、事態の収まりがつかない」
 黙って俯き、考え込んでいた様子の香取が、顔を起こした。
「……」
 何かを言おうとしたが、口を動かしただけで、言葉はすぐには出て来ない。
「どうしたんだ?」
「いえ。何でもありません」
 すっかり自信喪失してしまったか、香取は肩を縮こまらせ、下を向いた。
 刑事は似合わない微苦笑を見せてから、「ま、そういう訳だから、何か気が
付いたこと、思い出したことがあったら、いつでも言って来てほしい。足を運
ぶ時間がないときは、この署の捜査課に電話して、私の名前を出してくれたら
いいから」と言い置いた。

「あの日、台所仕事をしたのは、くじ引きで決まった宮下先輩と、片瀬、君の
二人だけだった」
 東尾がサークル旅行の最中に亡くなったという話題も、ようやく沈静化した
頃、香取は片瀬を相手に、昼休みの貴重な時間を費やしていた。
「改めて言わなくたって、分かってることじゃない」
 片瀬はため息に合わせてそう答えると、肩越しに広い教室内を振り返った。
女友達数名がお喋りに興じ、楽しげに笑い声を立てている。
「十時半頃、ジュースを注いで回ってくれたのは片瀬だったよね」
「そうよ、感謝してよね」
「そのとき、準備をしたのは?」
「準備も何も、買ってきたペットボトルと紙コップを出しただけでしょうが。
もちろん、りんごの皮を剥いたり、お菓子の袋を開けたりもしたけど」
「だから、その紙コップを準備したのは、君、宮下先輩のどっち?」
「……二人とも、ってところね」
 肩をすくめ、頭を左右に小刻みに振った片瀬。
「タツゾーも知ってるでしょうけど、あの紙コップの束、部室からわざわざ持
って来たのよね。開封して使い差しのと、未開封のを一つ。使い差しのが六つ
で、リビングにいた私達六人分にぴったりだったわ。それで、宮下先輩は、未
開封のを丸ごと抱えて、部長の部屋に行ったのよ」
「江上さんに言わずに、だったよな、そのこと」
「うん。私があんた達に注いであげてる間に、さっさと行っちゃうんだもんね。
別にいいんじゃない? 私もあのとき言ったけど、当番は私達なんだから」
「う……ん。未開封の紙コップの束を、丸ごと全部持って行ったのが、気にな
るんだ。封を破いて、一個だけ取り出して持って行けばいいのに」
「それはそうだけど。一刻も早く、部長にジュースを届けたかったんじゃない
かしら。疲れたって言ってた部長が心配で」
「なるほどね。だが、僕は違うことを考えた――あれは被害者に対し、毒も何
も中に入ってません、安全ですよと、心理的にアピールする狙いがあったんじ
ゃないか、って」
 香取の台詞に、片瀬は一瞬、ぽかんとし、次いで表情を歪めた。
「何を言ってるの? まさか、宮下先輩が毒を……って? でも、コップなん
て全然関係ないじゃない。毒はチョコに入っていたんだから」
「入ってたんじゃない、塗ってあったんだ」
「同じよ」
「全く違う。様相が異なってくる。チョコの中に毒が混入していたなら、包装
ごとチョコをすり替えない限り、作った人物以外の誰も毒を盛れない。しかし、
表面に塗ってあったのなら、あとからでも可能だ」
「包みを開けて? まさかね。第一、あのチョコは副部長の他は、誰も触って
ないんだから」
「東尾先輩は間違いなくチョコを食べたにも拘わらず、毒を摂取していなかっ
たし、指に毒は付いていなかった。だが、チョコには毒が塗られていた。この
矛盾を解消するには、東尾先輩が亡くなったあと、チョコに毒が塗られたと考
えればいい」
「……分かんないこと言うわね」
「そんなに頬を膨らませると、不細工に見えるぞ」
「指差すなっての。いいから、続きを早く! 聞いてあげてるんじゃない」
 声を大きくした彼女に対し、香取はしーっと静かにさせるポーズをやってか
ら、得意げな顔つきになった。
「僕らはもう一つだけ、不可解なことが起きたのを知っている。警察だって知
ってるけど、あまり重要視してないみたいだ。それはつまり、紙コップの中で
チョコを溶かした水に、熱帯魚を入れると、死んだという事実だ」
「チョコに毒が塗ってあったんだから、当たり前でしょ」
「チョコに毒は塗られていなかったと考えるんだ。少なくとも、東尾先輩が亡
くなるまではね」
「……それなら、紙コップの中で魚が死ぬ訳が」
「あの紙コップには元々、青酸毒が塗ってあったとしたら、どうだい?」
「は? そりゃあ、魚は死ぬでしょうけど、そんなことって」
 信じられないとばかりに、首を左右に振った片瀬。だが、その両眼の向く先
は相手から離れない。
 香取は殊更に声量を落とし、ゆっくりと言った。
「僕が何を言いたいのか、もうそろそろ察しが付いたかもしれないけど。恐ら
く、宮下先輩が紙コップに毒を仕込んで、東尾先輩を殺そうとしたんだよ」
「……さっき言った紙コップって、そういう理屈」
 ふうん、と感心したのかしていないのか、気のない息をこぼした片瀬。香取
は低いが確信ありげな口ぶりを保ち、推理披露を続行した。
「いかなる動機があるのかとか、どうやって毒を手に入れたのかについては、
僕は分からない。方法だけは想像できる。未開封の束の一番上の紙コップに、
前もって毒を入れたんだと思う。水溶液にして、注射針で送り込めば簡単だ。
ビニールの包みは破いていずれ捨てるから、気付かれる心配もまずない。多分、
宮下先輩は、東尾先輩に毒入りジュースを飲ませ、死なせたあと、紙コップを
回収し、部屋のドアを閉めてから、僕らを呼ぶ気だったんじゃないか。『いく
らノックしても返事がない』とでも言って。皆と一緒になって第一発見者を装
う、そんな計画だったものと想像してる。ところが、実際は大違いで、ドアを
開けてみて驚いた。狙った相手は、すでに倒れ、息絶えていた。通常の精神状
態なら、急病を真先に思い浮かべるところを、今まさに毒殺を決行する気でい
た宮下先輩の思考は、全く別の方に向く。『私より先に、誰かが毒殺したんだ』
と考えた先輩は、同じことだと思ったんだろう、当初の計画通り、僕らを呼ん
だ。しかし部屋まで戻って改めて遺体発見者になった直後、重大な点に気が付
く。手元にある紙コップをどうするか。正確に言えば、紙コップの毒をどう始
末するかってこと。放っておくのは、いつ使うか分からなくて、危険だ。警察
に通報したあと、気を落ち着けようということで、皆で何かを飲む可能性が大
きいしね。だから処分するべきなんだけど、今さらビニールを破り、一番上を
取り出してどうこうするのは不自然だし、かといって全部まとめて捨てるのも
無理だ。困り果てているところへ、僕が声を掛けた」
「魚を使って実験のくだりね。もう飲み込めたわ。全部話さなくていい」
「そうかい? 要するに、一番上のコップを使って実験をしたために、元から
仕込んであった毒で魚を死に至らしめたのを、チョコから溶け出したものと勘
違いした。そのことに気付かぬ僕や脇戸、杉本先輩を目の当たりにした宮下先
輩は、この状況を利用することを思い付いた。きっとこの時点ではある程度冷
静になって、東尾先輩が病死したっていう線も思い付いていただろうけど、魚
が死んでしまった以上、もはや後戻りできない。毒はチョコに入っていたと見
せかけるべく、ひと芝居を打ち、コップの中身を、机にぶちまけた」
「もういいって言ってるでしょっ」
 小さいが、明らかに不機嫌と分かる金切り声を上げると、片瀬は椅子を引き、
相手に詰め寄った。
「それで? タツゾーはどうしたいっての? 私にそういうこと話して、これ
は相談? それとも、自慢したかっただけで、これから警察に行くのかしら」
「そっ、それはもちろん、相談だよ」
 気圧されたように上半身を逸らしながら、香取は応じた。それから袖に手を
振れ、腕時計に視線を落とす。
「結果論だけど、毒では誰も死ななかったんだし、東尾先輩の死んだ原因も判
明してるんだから、このことは黙っておくべきだと考えた。警察が気付かない
のなら、そのままにしておこうと」
「ふうん」
 再度、息をつく片瀬。今度のは、感心した雰囲気があった。険しかった目つ
きが、徐々に緩む。
「タツゾーはそう考えてるんだ。それなら、相談にならないわね」
「というと?」
 目を丸くして聞き返す香取に、片瀬はもはや背を向け、立ち上がりながら答
えた。
「私も同じ意見だから、相談するまでもないってことよ」

――終





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