#856/1336 短編
★タイトル (AZA ) 97/ 8/12 1: 0 ( 59)
お題>ノックの音がした>逐われる者 杠葉純涼
★内容
ノックの音がした。
短剣を鞘から抜き払い、構えると、カミュウは戸の蝶番の側に身を寄せた。
こんな山中の、何年も使われていなかったであろう廃屋だからこそ、安全だ
と考え、身を隠す一時の場と定めたのだ。来客とは、尋常でない。
夜とは言え、存在を外に知らす軽率な振る舞いは、していない自信があった。
ならば、可能性は三つに絞られる。この廃屋が実は空き家でなく、主人が帰
ってきたか、全くの偶然で旅人でも立ち寄ったか、あるいは追っ手が文字通り、
においを辿ってきたのかもしれない。
殺生はしたくない。来訪者が、たとえ追っ手であっても。無論、むざむざと
やられるつもりも毛頭ないが、相手を殺してまで生き延びては、何のための逃
亡か分からなくなる。
人殺しの汚名をすすぐ。
この一点のために、危険を顧みず、脱走した。
追っ手が来たとしても、一太刀も交えず、振り切るのが最上。剣を使うにし
ても、命に関わる傷を負わせたくない……。
カミュウは、手にした短剣を一瞥した。
と、そのとき、扉がふわりと押し開かれた。
息を飲むカミュウ。が、次の瞬間、己が目を疑うことになる。
中に進み入ってきたのは、薄ぼんやりとした光を放つ、得体の知れない物。
観察を続けた後、やがてカミュウは理解した。
影猩猩。
ここは、人類に駆逐された(ことになっている)先住者の仮宿だったらしい。
現れたのが獣とあって、カミュウは内心、安堵していた。
無論、獣相手だからといって無益な殺生をよしとするつもりは全くない。影
猩猩は大人しい獣と聞いている。このままカミュウが立ち去れば、襲ってくる
ことはないだろう。簡単な手荷物を、部屋の真ん中に置いたままだが、惜しい
物は何もない。あとから回収も可能だろう。
短剣を収め、気配をなるべく押し隠しながら、カミュウは開いた扉を迂回し
て、外に出ようとした。
が、その片足だけ外に踏み出した時点で、カミュウは立ち止まった。
何かを聞いたような気がした。
音……いや、声だ。
振り返ると、影猩猩が床にうずくまり、鳴いていた。
人語ではないが、獣の咆哮でもない。
「鳴く」と表現するよりも、「泣く」とすべきかもしれない。それほど、影
猩猩の上げる声は、悲しげな情感に満ちていた。
元々、彼ら影猩猩は相当な社会形態を有していたという説が有力である。有
力であるが、握り潰されてきた事実。
カミュウはそれが真であったのだと、今、その目で見知った。
影猩猩は、両手に人形のような物を抱いていた。衰弱しきった、あるいはす
でに命をなくした子であるらしい。
あたかも人間の親が子に語りかけるように、影猩猩もまた、腕の中に横たわ
る子に語りかけていた。切々とした口調が、カミュウには恨み節に聞こえる。
山を切り拓かれ、木を伐採され、川を堰き止められ……餌を失い、住処を逐
われた影猩猩らは、人の手の届かぬ荒涼地に逃げ込み、現在、人間が捨てた山
に舞い戻ってきた。多くの犠牲を払って。
しかし、かつての楽園も、人の手で散々に荒らされ、打ち捨てられるまでに
貧しくなってしまった。再びこの地が、影猩猩にとって天国となるかどうかは、
疑問である。
カミュウはふと思った。
濡れ衣を晴らし、自分を陥れたかの者を没落させることが、果たしてできる
のだろうか。もはや、取り返しの着かないところまで、事態は進んでしまって
いるかもしれない。
だが、何もせず、ひっそりと生きるのみなどという真似は、決してできない。
今なら間に合う。そう信じて、突き進むしかない。
中途半端な形の月の下、カミュウは正面を見据え、歩み出た。
しばらくこの地で世話になった礼に、せめて種を蒔いてやろう。
−−未だ終わらず