#837/1336 短編
★タイトル (AZA ) 97/ 8/ 4 0:18 (101)
お題>ノックの音がした>f or m ? 桐鳩吉太
★内容
ノックの音がした。
音を立てた主である男は、扉の前で固唾を飲んだ。
周囲は騒ぎ立てる人、人、人で埋め尽くされている。
闘技場のフィールド、その北端で、男は今まさに決断を迫られていた。
「弱々しいな!」
胴間声が響き渡った。王が豪奢な椅子から立ち上がり、嘲っていた。
「その扉はいたく頑丈にできておってのう! そんな軟弱な叩き方では、何も
響かん。中にいるものが何奴であろうと、気づきはせぬ」
男は王−−彼を裁こうとしている王に背を向けると、再び扉を叩かんと、拳
を作った腕を振り上げた。数刻前のことを振り返りながら。
−−男は選ばねばならない。二つある扉の内、どちらかを。
その一方には美しい女が、もう一方には虎が隠れている。
女を選べば彼は罪を赦され、彼女と一生、添い遂げることになる。
虎を選べば……即刻、死刑が実施される。
扉の真ん前に引き出された際、男は肩越しにちらりと振り返った。その先に
は、彼と恋に落ちた王女がいる。
(さっきの目配せを信じていいのだろうか)
男の脳裏にふとよぎる、一つの不安。
競技場に出て来た彼に、王女はかすかに微笑み、些細な手の動きで、右を開
けろと伝えてきた。
(右を開けなさい、という意味だろう。だが、果たして信じていいものか?
右を選んで、中にいる女性と私が結婚してしまって、王女は本当にかまわない
のだろうか? ひょっとすると、王女は、虎のいる扉を示したのでは? 私と
添い遂げられぬなら、私が他の女と一緒になるのなら、いっそ私を亡き者にし
ようとして……)
かぶりを振る。疑い始めると、きりがなかった。
悩んだ彼は粘りに粘って、王から、「どちらかの扉を一度だけ、ノックして
もよい」という譲歩を引き出すことに成功した。
そして男は、震える手で、ノックをしたのだった−−。
いくら身分が違うとは言え、弱々しいと罵倒されては、男も奮い立たない訳
がない。腕から震えは消え、力がみなぎる。
「先ほどの分は、数に入れないでやろう。さあ、早くせよ」
王の声が聞こえた。
男はもはや振り返りもせず、扉を叩いた。もちろん、右側だ。
野次や歓声の中、必死に聴覚を研ぎ澄ます。
次の瞬間、男の顔色が青くなった。
すかさず身を引き、荒い息を吐きながら、扉を凝視する。
(き、聞こえた……。かすかだが、確かに聞こえたぞ、虎の咆哮が!)
男は、王女を睨みつけてやりたい心境だったが、それ以上に怖さが立った。
(王女は私を死なせたかったのだ……恐ろしい。笑顔で、あのような振る舞い
ができるとは、恐ろしい人だ)
男は呼吸を整え、意を決した。
左の扉へ向かって、真っ直ぐ、歩く。
いよいよ訪れた審判の瞬間に、場内がひときわ盛り上がった。
王の胴間声が響き渡る。
「ほう、そちらを選ぶか? よいのだな?」
「迷いはございません」
最後に一言叫び、男は扉の取っ手に両手を掛けた。力を込め、引くと……。
「あの馬鹿めが、引き裂かれよった」
王が満足そうにうなずく横で、王女は遺体が処理される様を、手すりを越え
て身を乗り出し、食い入るように覗き込んでいた。
「娘よ。全然、悲しんでおらんようだな。少しはおまえも、あの男に未練があ
るものかと思っていたのだが」
「未練? そんなものはありませんわ、お父様」
王女は、フィールドから目を離さず、淡々と返事した。
「彼が他の女と結婚しようが、虎に食われようが、どっちでもよかった」
「そうであったか? あやつが入ってきた折、おまえがあの男に合図を何やら
送っていた様子、見ておったぞ」
「合図? 何のことでしょう?」
視線を父王に向け、きょとんとする王女。
「とぼけても無駄だぞ。右の手をひらひら動かしておったではないか」
「ああ、あれは」
にこりと笑う王女。安心したように、また競技場内に視線を落とした。
「小さな蝶が飛んできたから、相手をしていただけです」
男は幸せに死んでいった。
(王女は、私が他の女と一緒になっても生き延びることを願っていたのだ。ど
うして、疑ってしまったのだろう)
息絶える寸前、そんな彼は最後の疑問を抱え込んだ。
(右の扉を叩いたとき、どうして虎の声が聞こえたんだ?)
遺体の処理が完全に終わって、王女は背もたれにゆったりと身を投げ出した。
「お父様。一つ、教えていただけます?」
「何だね」
髭を一撫でする王は、すこぶる上機嫌らしかった。
王女は、小さく欠伸をしてから、のんびりと尋ねる。
「左が虎だったということは、右の扉の向こうには、女がいたのですね?」
「ああ、いたとも」
前を向いたまま大きくうなずいた王は、不意に王女へ向き直り、くっくと含
み笑いを始めた。
「どうかしたのですか?」
「いや、なに。ふむ、おまえがあの男に執着してるのでないと分かった今、話
してもよかろうな。実はな、わしはあの男を許すつもりはなかった。おまえを
めとろうとした不届き者を、許せるものか!」
「……と言いますと?」
訝る王女に、王はますます得意そうに続けた。
「扉の中にいるのは、両方とも虎だったのだ」
「まあ。それでは、先ほどの裁判はいんちき」
「人聞きの悪いことを言うでない。わしは嘘はつかぬ。左の扉には、あの通り、
虎を入れておいた。雄の獰猛な奴をな。そして、右の扉には、ほれ」
王が競技場内の一角を指差した。ちょうど、右の扉が開かれ、中から何もの
かが引っ張り出されるところであった。
「雌の虎を入れておった。虎でも、女には違いあるまい。美しい女だ」
「−−確かに」
王女はにっこり、笑った。
彼女が見た雌の虎は、間違いなく、美しい肢体を持っていた。
−−終わり