#5456/5495 長編
★タイトル (AZA ) 01/07/28 23:42 (199)
さわられたい女 1 寺嶋公香
★内容
相羽信一は頭を振って、軽い不安を取り除いた。吊革に片手で掴まった姿勢
で、人の波に身を任せていた彼は、ふと、おしくらまんじゅうを想起した。
(密閉空間だからこそ、こんなに暑くなるんだよな。小さいとき、外でやった
おしくらまんじゅうは、なかなか暖まらなかった)
人身事故により列車の運行に遅れが生じ、車輌内は大混雑を来している。駅
に着いても、ほとんど人を乗せられずにドアが閉まり、また出て行く。あと十
五分もすれば、退勤や下校時刻のラッシュに重なるため、今以上に混み合うに
違いない。
(まだ、間に合うはず)
涼原純子の姿が、再び脳裏に浮かぶ。電車に乗る前に、彼女の携帯電話に、
念のため一報を入れておこうとしたのだが、つながらなかった。遅れはしない
と思うのだが、気にしてしまう。
相羽は、電車が速度を落としたのを機に、吊革を持つ手を交代した。そのつ
いでに、ズボンのポケットに右手をやり、懐中時計を引っ張り出す。
(待ち合わせの時刻まで、あと三十五分ぐらいか)
頭の中でおおよその到着時刻を算出しようとした矢先――。
「ど、どこさわって、たんですか」
女性の声がした。細く、なまりが濃く残る声。どもっているので分かりにく
いが、九州の方だろうか。
「あ、あなた、つ、次の駅で、降りてください」
このときになって、相羽は初めて、女性の言葉が自分に向けられているのだ
と理解した。
ぼんやり眼だった相羽が、表情を変え、相手をまじまじと見返す。
女性は小柄で、最初の声でイメージしたよりも、ずっと若かった。二十歳そ
こそこといったところだろうか。狭苦しい車内で見えづらいが、黒っぽい地味
な衣服は、左胸にある蝶の刺繍が唯一のお洒落という感じだ。
「ち、痴漢したでしょ、あなた」
「そんなことしていません」
相羽は静かに答えた。
「何かの勘違いです」
答えながら、もしかして時計を出し入れする動作が、誤解を招いたかなとい
う考えが脳裏をかすめた。
しかし、それは女性の次の発言で打ち消される。
「い、言い訳するの? ずっとさわってたくせに」
ずっととなると、先ほどの懐中時計の件は、全く無関係だ。相羽は困惑した。
本物の痴漢がいて、そいつと自分は間違われたらしい……。
周囲の目が集まっていた。乗客は男性が多いが、女性もちらほらいて、何や
ら囁き合っている二人組さえいる。
ここで抗弁すべきかどうかを逡巡する間に、電車がプラットフォームに滑り
込んだ。
「さあ、降りてくださいっ」
決死の覚悟のような調子で叫び、女性が相羽の手を掴み、押す。相羽の方が
開いたドアに近いのだ。
相羽は極力ゆっくりした足取りで、プラットフォームに降り立った。逃げる
つもりは全くないという意思表示のためだ。ただ、面倒に巻き込まれたなとい
う疲労感が、急速に身体の中を満たしていく。
相羽の手首を掴んだまま、依然として必死の形相でいる女性も、下車した。
他にも数名、降りた模様だ。そして、中の乗客達数名が好奇の目を外に向けた
まま、電車は発車した。
相羽は、即座に警官の詰め所に連れて行かれるのかと思っていたが、女性は
困惑した風に立ちつくし、やがて左手の親指を口にやって、爪を噛む。
(二人だけになって、恐怖感を覚えたのかな? でも、それを僕が慰めたり、
気を回したりするのも妙だし)
手持ちぶさたになり、駅の時計に視線を向ける。
(最近では冤罪を防ぐ目的で、いきなり逮捕されるケースは減ってきたと聞く
けれども、それでも……このまま駅事務室や警察に行ったら、現行犯逮捕され
たことになるとも言うし。いずれにしろ、長引くな。遅れてしまう。連絡取ら
せてもらえるだろうか。とにかく、早くすませたいんだが)
首を巡らせ、鉄道警察隊の詰め所を探す。幸か不幸か、今いる位置からは、
見当たらない。
相羽はやむを得ず、駅員が通り掛かるのを待って、呼び止めた。三十代半ば
ぐらいの駅員は妙な雰囲気を察したか、「どうかなさいましたか」と聞き返す。
当然、女性が主導権を握って喋り出すだろう、反論はそのあとだと腹を据え
ていた相羽は、黙って顎を振った。
ところが、駅員が顔を向けても、女性は話し始めようとしない。頬を強ばら
せ、何かを迷っている態度が垣間見られる。
「どうされました?」
駅員が改めて聞く。しばらくしてやっと面を起こした女性は、相羽を横目で
ほんの数瞬見やると、すぐまた顔を背け、まなじりを決して口を開いた。
「こ、この人が、私の身体を、さわってたんです。で電車の中で」
「――こちらの方の話は、本当ですか」
目つきを厳しくし、相羽に向ける駅員。
相羽はきっぱり、「違います」と答えた。ほんの三秒ほど、にらみ合いのよ
うになる。駅員は目から力を抜いて、逸らすと、ため息混じりに聞いた。
「お二人は、知り合いではないですよね?」
「はい」
駅員は一つうなずき、今度は女性に何か話し掛けた。
(昔、テレビ番組で、痴漢の疑いを掛けられた男が詰め所に連行されるシーン
を流していたのを見た憶えがあるけれど、それとはちょっと違うな。駅員も慎
重な感じがする)
これがたとえば、小説を書くための取材ならどんなにいいことか。そんな考
えが、ふと浮かぶ。
「間違いじゃありませんね?」
「ま、間違いじゃないわ。信じられないのですか、わ、私の言うことが?」
「その点について私は判定を下す立場でないので、ご了承願います。このあと
どうするかは、とりあえず、二人で決めていただくしかありません。ただ――」
「ちょいと、お嬢ちゃん」
駅員が皆まで言わぬ内だった。新たな人物が割って入ってきた。声のした方
を向くと、小柄な初老の、いや、おばあさんが立っていた。少しばかり腰が曲
がっているが、それ以外は健康そうで、血色もいい。頭髪はすっかり白くなっ
ているが、上品な身だしなみをしている。
相羽だけでなく、女性も駅員も、呆気に取られた風に黙したままでいると、
そのおばあさんは、歩み寄ってきた。足の運びは、かくしゃくとしたものであ
る。
そして突然、大声を張り上げる。
「聞こえなかったのかい?」
外見と性格は、なかなか重ならないもののようだ。しわがれ声なのはいいの
だが、調子がやけに荒っぽい。
駅員が首をぶるぶるさせ、耳の穴をいじりながら応じる。
「聞こえていましたよ、おばあちゃん。それで、おばあちゃんは、この人達の
どちらかとお知り合いですか」
「いいやっ。赤の他人だがね。さっき、同じ電車に乗っておって、この人らの
すぐ近くにいたんだよ」
「それでは、何かを見ていたんですか」
関心を寄せる駅員をまるで無視し、おばあさんは女性に対し、さらに一歩、
にじり寄った。
「あんた、何で嘘を言うね?」
「な、何を言い出すのよ、う、嘘、だなんて」
声を震わせる女性。身体まで震えていた。
「私はちゃんと見ておったよ。この若い衆が」
と、おばあさんは相羽を指差した。真っ直ぐ伸びた人差し指に、相羽は気分
的にのけぞった。
「吊革をずっと掴んでおったのを。空いていた手で、あんたの身体をさわるの
は、立っておった位置から言って、無理だわさ。まあ、この手が蛸のお化けみ
たいに伸びるんなら、話は別だけどもね」
言いながら、おばあさんは相羽の左腕を取り、ちょっとさすった。思わず苦
笑いの相羽。
(ありがたい証人だけれど、どうしてこの人、僕の方を見ていたんだろ)
疑問が浮かんだが、現在、それを考えている暇はない。何を置いても、まず
濡れ衣を晴らさねば。
「こちらの方の言われる通りです。何らかの誤解があって――」
「ねえ、お嬢ちゃん」
相羽の、駅員への話が最後まで終わっていないのに、おばあさんはやはり女
性に話し掛けた。
「どうして、こういう真似をするの?」
「……」
女性は塩を振られた青菜のように、しゅんとなっていた。最初の頃に見られ
た覚悟めいたものも、現時点では消え失せ、うつむく。
相羽は、手首にかかる女性の指から、力がほとんど抜けていることに気が付
いた。ただ触れているだけである。手をそっと引いても、逃がさないでおこう
という動作は最早なかった。
「何をうじうじしてるんだい。さっさとしないか。喋っちまえばすぐなんだか
らねっ。人様に迷惑掛けてることを、分かってるのかい?」
女性がまだ何も言ってないのに、決めて掛かる口ぶりのおばあさん。声を張
り上げるものだから、通りすがりの人や電車を待つ人達が、好奇の眼差しでち
らちら振り返る。
駅員は駅員で、腕組みをして、困ったように首を傾げる。女性の方に疑惑の
目を向け始めたのは確かだ。どう対処すべきかで、手をこまねいている。
「あの……」
相羽は頭をかきながら、探るような口調で切り出す。おばあさんと駅員の目
が集まった。
「こんなところでは人目がありますし、どこか部屋で、座って、ゆっくり聞き
出すというのはどうですか」
駅員が同意する雰囲気を匂わせ、なにがしかの返事をしようとしたが、それ
に被さり、おばあさんが発言した。
「おまえさん。何でもっとがみがみ言ってやらないのさ。こういう場合は、び
しっとその場で言わなきゃ、分からせられないよ」
「僕もそう思います」
収束の光が案外簡単に見つかったこともあり、穏やかな笑みで相羽が答える。
おばあさんは、まぶたの面積を小さくして、驚くやら呆れるやら、何とも言え
ない表情をした。
「ただ、この場から少し歩いて、駅員さんの部屋に入っても、大きな違いはな
いでしょう」
「……当のおまえさんがそう言うんなら、仕方ないね。やれやれ、長くなりそ
うだね」
大儀そうに伸びをして、おばあさんが駅員に目線をやる。早く案内しろ、と
いう意志が込められていた。
「あ、いや、話し合いをされるなら、どこかよそで。駅の事務室や警察へ行く
と通常、その、何ですな。現行犯逮捕の扱いが適用されるのですよ」
「やはりそうなんですか。でも、駅員さん、そこを何とか。僕もやってないん
だから、現行犯逮捕は困りますが、落ち着いて話せる場所が必要なんです」
面倒を抱え込みたくない素振りの駅員に、相羽はすかさず言って、軽く頭を
下げた。隣で、少し距離を置いて立ち尽くす女性の肩が、小刻みに震えるのを
見たから。
「しかし……それなら、そこいらのベンチ――」
ベンチでは、人目を遮れない。相羽は首を左右に振った。
「業務の邪魔にならないようにしますから、お願いします」
「……しょうがありませんね」
やっと折れた。先頭に立って、案内する駅員の背後を、相羽とおばあさんと
女性が、ぞろぞろと着いていく。
「お時間は、大丈夫なのでしょうか?」
相羽はおばあさんに聞いてみた。すると相手は下から、きっ、と見上げた。
「予定はあったさ。けど、どうでもいい予定だから、いいんだよ」
「すみません」
「何言ってるんだい。おまえさんのためだよ。私がいなけりゃ、困るだろ。も
っと大ごとになってたに違いないんだからね」
「はあ」
相羽はまた頭をかいた。
壁に仕切られた狭い空間に入ると、途端に、女性は涙ぐんだ。
「とりあえず、お三方で話し合ってください。何かトラブルがあったら、警察
に知らせますからね」
これ以上の関わり合いを避けたいのか、それとも仕事で忙しいのか、駅員は
そそくさと立ち去る。
三人だけになると、女性はいよいよ涙をこぼし始めた。
「泣いてるばかりじゃ、分かんないよ。迷子の子猫じゃあるまいし」
相変わらずきつい物腰の女性を、相羽は手で制した。
「まずは、座りましょう。折角椅子があることですし」
部屋には丸椅子が四脚あった。粗末な木のテーブルも、折り畳まれて、壁に
立てかけてあるが、これは出さなくていいだろう。
おばあさんがいきなり口火を切る。
「お嬢ちゃんがいつまでも本当のことを言わずに、最初の主張を繰り返すんな
らね、私はいくらでも証言してやるつもりだよ。この人は、痴漢なんかしてな
いってね」
「あの、もう少し、静かにいきませんか」
相羽が言うと、おばあさんは歯痒そうに口をもごもごさせた。そして片手を
上げ、指差してくる。
――つづく