#5028/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 2/29 1:53 (184)
そばにいるだけで 45−1 寺嶋公香
★内容
カレンダーを上から一枚、手でめくり上げ、月のほぼ真ん中に当たる日付を
見つめて考え込む。バレンタインデー、今年は登校日に当たっていない。
何曜日だろうと純子達三年生には、あまり関係ない。高校受験が終わってい
ればいつでも渡せるだろうし、終わっていなければバレンタインデーどころじ
ゃないに違いない。
「今年は渡そう」
声に出し、意志を固める。
これまでも相羽にチョコレートをあげたことはあった。しかし、自分の気持
ちをこれほどまでに意識して、そしてチョコレートを男の子にプレゼントしよ
うと思ったのは、今年が生まれて初めてだ。
(ふってしまった私から渡すのはおかしいかもしれないけれど、想いのほんの
一部でも表したいから、だから許して)
実際には、謝っても簡単に許してもらえるとは思っていない。富井や井口達
にも申し訳が立たない。故に本命チョコの色彩を鮮明にしてはいけない。恐ら
く、義理チョコを装った物になるだろう。
机に就き、開いた問題集の上に頭を載せ、横を向いて静かにつぶやいた。
(このままだと、落ちちゃうかもしれないよ)
声音にはせず、口を動かすだけ。
勉強が手に着かない日々が続いている。気が付くと、相羽のことを考えてい
る。心配している。
(異性を好きになったとき、女は男ほどのめり込まない……って、先生が言っ
てたのに。嘘だわ)
大学受験後の十九歳何名かを対象にしたリサーチ結果として、興味深い結果
があるという。受験シーズン中に恋愛をして不合格の憂き目にあった人数は、
女性よりも男性の方が圧倒的に多いらしい。それだけこの世代の男はのめり込
みやすく、女はクールでドライ……というのが、その英語の先生の話の趣旨だ
った。今の純子には、ちっとも当てはまらない。それとも、大学受験と高校受
験とでは、また違うのかな?という解釈さえ浮かぶ。
「断られた相羽君は、受験に集中してるのかな……」
思わずつぶやき、それからやおら身を起こすと、純子は問題集を引き寄せた。
勉強するぞ、夕飯までは苦手科目を重点的にやるぞという決意が固まった。
だが、ものの五分も経たない内に、邪魔が入る。
邪魔と言っては電話の相手――香村に失礼だ。母から送受器を受け取り、不
機嫌にならないように高い声で応対に出た。
「はい、代わりました。香村君?」
「その声が聞きたかった。久しぶり」
香村の声もトーンが高いように聞こえた。加えて、楽しげに弾んでいる。息
抜きができてリラックスしているようだ。
「毎回、久しぶりって言ってるような気がするわ」
「実際そうなんだから、仕方ないね。はは。忙しすぎ、人気ありすぎるのも考
え物ってやつ」
アイドルが言うと真実のことなのだから、別に嫌味には聞こえない。
「そんな僕も、やっとスケジュールの見通しが立ってね。三月に丸一日、休み
が取れそうだよ」
と、具体的な日付を挙げる香村。純子は一言、
「よかったね」
と淡泊な調子で応じた。すると送話口が沈黙し、その内、ため息混じりの台
詞が届いた。
「……他人事みたく言われちゃうと、困ってしまうんだけどな」
「あ、忘れてるわけじゃないのよ」
純子は送受器を持ったまま首を振った。
「受験が終わらないと、私の方は何とも言えないから」
「ああ、そうだったね! いけない、僕の方こそ、すっかり忘れてたよ」
「香村君は、高校は……」
純子の探りは入れるような口調は、快活な返事にかき消される。
「あ、結局、タレント活動を買ってもらって、推薦入試で合格っていう形にな
った。してもらったというか。あとは中学卒業の方が心配でさ。出席日数不足
にならないよう、必死で登校してるんだよ」
「それは……おめでとうございます」
何と言っていいか分からないので、丁寧に祝福して、ぺこりと頭を下げた。
電話の向こうでは、香村が楽しげに爆笑していた。
「どこかおかしい? 本気で言ってるんですけど」
すねた響きになる純子の声。
「私自身の受験がどうなるか分かんないんだもの。そういう不安なときに、合
格したなんて話を聞かされたら、羨ましくなるわ」
「ふふ、それもそうだろうねえ」
「とにかく、今はそういうわけだから」
こんな話題を持ち出したせいで、またぞろ勉強が気掛かりになってきた。気
の急く純子を、香村が快活に呼び止める。
「じゃあさ、無事合格したら、教えてよ。それでお互いの合格祝いを兼ねてデ
ートしよう。さっき言った日に。いいね?」
「それは……まあ、約束だったし」
合格できなかった場合のことは考えないようにして、純子は承諾の返事をし
た。前回、自分の都合で香村に無駄足を踏ませてしまった負い目もある。今度
は相手に合わせなくては。
「ああ、これで三月が凄く楽しみになった!」
香村は最後まで無邪気な物腰だった。
* *
信一が首をすくめたのは、二月の寒さのせいではない。
ガードレールの向こうの道を、自動車が数台、一団となって走り行く。騒音
が短く湧き起こり、徐々に緩和された。
「遅ればせながら、明けましておめでとう」
信一は寒空の下、酒匂川愛理と対峙していた。
まさかこの時期に再び姿を現すとは、予想していなかった。車の後部座席の
ドアを開け、乗るように促してくるが、断った。
それでも祖母の前まで行くと、一応の礼儀として、信一は無言でお辞儀をし
た。固い動作で軽く腰を折る。
「信一君。手を出して」
「……何ですか」
「お年玉をあげましょう」
「いりません」
最初にお辞儀をしたのがいけなかったのか。気を全く許していないことを示
したくて、信一は付け加えた。
「新年の挨拶を交わすほど、よい関係にあるとは思えないんだけどな。まして
や、お年玉なんて」
「そうよねえ、残念なことに。この歳になって、孫に嫌われるなんて目に遭う
とは、悲しくなるわ」
酒匂川愛理は台詞の通り、悲しみを前面に押し出した口調で言った。去年、
会ったときに比べて饒舌になっている。しかも張りのある声で、某かの決意さ
え感じられた。
「何がいけないのかしら。原因が分かれば、修復できると思わないかい?」
「思いません」
「あら、どうして?」
「お互い、理解し合えない。そんな気がするから」
「歩み寄りが大切よ。言っていること、分かるわね?」
シートにゆったりと座ったままだった愛理は、若干、身体を起こした。
「私がこうして出向いてまでして頼んでいるのよ」
「どこが歩み寄りなんですか」
もし祖母が冗談でなく言っているのだとしたら、感覚がずれていると痛切に
思った。
予感が起こる。話し合えば話し合うだけ、距離が開いていくような。
「あのね、信一君。今日は私の話をとにかく聞いてちょうだい。長くなるから、
座ってほしいのよ」
手と目で招く祖母へ、信一は首を横に振る動作で答えた。酒匂川はかつて、
今よりもずっと幼かった信一を連れ去ろうとしたことがあった。簡単に信用し
ろと言われたって、できるものでない。
「新野(しんの)、キーを」
愛理は運転手に命じて、エンジンを切らせた。それだけでなく、キーを抜か
せると受け取り、それを信一へと差し出す。
「これを渡しておきましょう」
「……三十分だけです。受験生の三十分は貴重なんだ」
信一は折れた。理屈では割り切れない情がある。やはり、完全に無視するこ
とは難しい。恐らく、不可能。
「酒匂川の家は、少し以前から、大変なことになっているのよ」
オーバーな物言いだった。信一を全くの子供扱いしたいのか、一緒に驚いて
ちょうだいと言っているのにも等しい。
だが、信一は耳を傾け続けた。
「そもそも、信一君のお父さんに戻って来てほしいと言ったのは、跡を継ぐは
ずだった秀一が……あなたから言えば伯父にたる人がね、子供をこしらえる前
に、病死してしまったからなのよ」
「知っています」
父が酒匂川に戻ってくるよう、執拗に頼まれていた背景だけはおぼろげなが
ら聞いている。伯父の病名や逝去したときの年齢など、詳しいことは知らない。
「それなら、私達が宗二に戻ってくれと言ったのも分かるでしょう。ぐずぐず
する内に、宗二まで死んでしまうなんて……ついてなかったわ」
いちいち癇に障るのは、気のせいだろうか? 信一は思った。思うだけで、
なるべく考えないように努めた。
「今や、私達には信一君しかいない。ぜひ酒匂川家を継いでほしいのよ。詩津
玖さんの育て方がよかったのでしょうねえ、優秀に育っているみたいで、その
点は申し分ないわ。グループの長として申し分ない」
「伯父さんが亡くなられたあと、僕の父がいなくても、ずっと無事にやって来
れたんでしょう? だったら、これからも同じようにすればいい」
「そうは行かないのよ。だからこそ、こうして頼みに来ているというのに」
やれやれと、困り顔に笑みを交える酒匂川愛理。しわが寄って、人の好いお
ばあさんに見える。
「これまで酒匂川グループを引っ張ってきたのは、あなたのおじいさん、酒匂
川友彦よ。大変豪快で、決断力のある人だけれど、それでも私と同い年だから
ねえ。分かるでしょ、信一君。老いには勝てなくてねえ、随分と弱気になって
しまって。秀一が亡くなったときはまだ踏ん張りも利いたようだけれど、宗二
が亡くなってからは、まあ私が言うのも何だけれど、衰えが目立つようになっ
て。私が必死になって支えていればこそ、何とかうまく行っていたようなもの。
それももう限界が見えてきたようなの。今の内に跡継ぎをはっきりさせておけ
ば、信一君、あなたが大人になるまでの間は、私達で持ちこたえられることで
しょう」
「……」
相手が意思を解いたげに見つめてきたが、信一は無言を通した。きっとこの
人は他人に物事を頼んだ経験に乏しいのだろう、そう思うことにした。
(普通に頼まれたってやっぱり嫌だけれど。せめて、先に謝ってほしい。僕の
父さんと母さんを、そっちから縁切りしておいて、都合のいいときだけ血縁者
面して近寄ってくる……)
思いをぶちまけずに済んだのは、血のつながりがあるからかもしれない。
酒匂川愛理は大事な孫の沈黙を、自身の言葉足らずだったと解釈したと見え
る。再び口を開くと、あれやこれやと説明を積み重ねた。祖母と孫の間で交わ
される会話にしては、かなりぎこちないやり取りがしばらく続いた。
約束の三十分を超えたところで、信一は車の外の景色を気にする素振りをし
た。これには愛理もさすがに気付く。
「返事を待ってあげるから、今日の話、よく考えてちょうだいね。お母さんと
相談してもいいけれど、自分の考えで決めるのよ」
「分かりました」
淡々と答えてドアを押し開け、出て行こうとする信一に、愛理は声を掛けた。
この瞬間を待っていたかのように。
「J音楽院を受けたんですってね」
はっとして振り返るが、ちょっと考えて分かった。確か奥寺と言ったか、興
信所に調べさせたのだろう。
「わざわざそんなことしなくても、うちに来れば、日本の音楽科のどこへだっ
て入れてあげられる。惜しいわねえ。あなたの才能を伸ばしてあげたいのよ」
僕のピアノを聴いたことないくせに――吐き捨ててやりたかったが、寸前で
思い止まった。関屋先生の言葉を思い出したせいもある。
「次があるのなら、そのときは子供扱いしないでください」
小さな声だったが、しかと言い渡すと、信一はドアを丁寧に閉めた。
――つづく