#3337/5495 長編
★タイトル (AZA ) 96/ 7/31 15:20 (162)
十三と黄金 7 陸野空也
★内容
「待って、待ってください! 私も行きます!」
背後から、猫田の叫び声が聞こえた。
蝶野は内心、ほっとしていた。自分一人では最後まで歩き通せるか、心許な
かったのだ。
「じゃあ、肩を貸してくれないか。実はもう、ふらふらなんだ」
甘えるのは情けなかったが、足が痛くてたまらないのは事実だった。そもそ
も、そのようなことを気にしている状況にない。
猫田は片手に黒猫を抱いたまま、もう片方の手で蝶野を支えてきた。
「すまん。−−道、分かるかい?」
「多分……このまま行けば」
猫田の声は小さかった。ひょっとすると、自信がないのかもしれない。
だが、進まない訳には行かない。進むしかないのだ。
蝶野と猫田は、無言のまま、道を急いだ。途中、背後を振り返ろうとは、決
してしなかった。
やがて。
「見えた!」
蝶野は思わず叫んでいた。覚えのある登山道に出くわしたのである。雨も上
がり、雲間から月が顔を覗かせようとしていた。
「これで助かる」
気が急いていた。蝶野は補助役の猫田よりも、先に足を踏み出してしまった。
その結果、バランスが崩れ、地面のぬかるみという条件も重なり−−。
「あっ」
二人は足を滑らせた。
転んだ先は、ちょうど斜面になっていた。
蝶野と猫田はもつれ合ったまま、斜面を転がり落ちるしかなかった。
転がりきったところで、私は声を出した。
「痛い……。おおお、ミィク。大丈夫だった? 怪我はない? ……ないみた
いね。よかった」
私自身、怪我はなかった。少しだけ安心できた。
ここはどこだろう? 横手を川が流れているから、二つの山の境目だろうか。
「蝶野さんは……」
きょろきょろ首を巡らせる。
人影を発見。
「蝶野さん?」
返事がない。
「気を失っているのかしら。−−!」
違った。人影は……ジュウザ。
あいつは悠然としながらも、素早い動作で、見る間に距離を狭めてきた。
私は動くことができなかった。
「こ、来ないで!」
相手は無言だった。代わりに、手に握られた斧が、これから何をしたいのか
を雄弁に物語っていた。
「来ないで!」
しかし、ジュウザはもう、目前にいた。
私にできるのは、声を上げることだけ。
「嫌……」
ジュウザの奴は、水平方向に斧を振るってきた。
蝶野は全身の痛みに耐えながら、どうにか上半身を起こした。暗くて視認は
できないが、身体中、傷だらけになっているのは明らかだった。
身体が満足に動かせない。
蝶野はすぐさま、猫田の姿を求めた。
探すまでもなく、彼女の居場所は知れた。最悪の形で。
気配と声に気付き、蝶野は一点を見据えた。
「な……あれは!」
そして見てしまった。ジュウザの斧によって、首を跳ねられた猫田を、彼は
しっかりと見た。
猫田の頭部は地面に落ち、転がると、蝶野の方を向いて止まった。目に焼き
付いて、二度と忘れられない光景。
が、今はその悪夢に、自分も引き込まれかねない。蝶野はおぞけを振るって、
立ち上がろうとする。
これは完全に取るべき行動を誤った。派手に転倒してしまったのだ。
ジュウザはまず間違いなく、蝶野がどこにいるのかまでは気付いていなかっ
た。だから、彼は息を殺して殺人鬼をやり過ごすのが得策だったかもしれない。
それなのに、焦ってしまった。自ら居場所を知らせた形だ。
案の定、ジュウザは猫田の遺体を放り出すと、蝶野へと向かって来た。
「く、来るなあ!」
顔をひきつらせ、叫ぶ蝶野。しりもちを着いた格好で、後ずさりするしかで
きない。
ジュウザは瞬く間に追いついてきた。
斧が月明かりに光る。
と、次には、もう振り下ろされていた。
「ひっ!」
無意識の内に、右手をかざしていた蝶野。
斧は蝶野の右手から、中指、薬指、小指の三本を奪った。
「うわあーっ!」
痛みよりも、自分の指が切断されたという事実に衝撃を受ける。
慌てて左手を伸ばし、泥にまみれた三本の指を拾った。そして中指をその切
断面にあてがってみたが、当然のごとく、無駄な行為に終わる。
「あ、あ、あ……」
血が溢れて止まらない手を見て、蝶野は息苦しくなってきた。
そこへまた、ジュウザの斧が動いた。
「げ」
今度は、蝶野の左手から、人差し指と中指と薬指とが失われていた。ジュウ
ザは、明らかに故意にやっている……。
「くぅう」
意味不明の言葉を吐きながら、蝶野は横に転がった。少しでも、この殺人鬼
から離れたい。その一心。
腰の辺りに衝撃。太い木の幹にぶつかり、身体の回転が止まる。
「うう」
その木を背に、上体を起こす蝶野。もはや、逃れる術は……。
ジュウザの腕が伸びてきた。斧を持っていない方のその手は、蝶野の喉を掴
んできた。途端に、人間とは思えぬ、強大な力が圧迫を与えてくる。
「げ、げ、げほっ」
息が詰まる。
苦しさに、蝶野は指の少ない手で、地面をかきむしった。
何か固い物に、右手の親指が触れた。皮膚が覚えているその感触。
(……こいつぁ……)
薄れかける意識を奮い立たせ、蝶野は横目でそいつを確認した。
拳銃が黒光りしていた。
(俺が落としたやつか?)
横を流れる谷川。見覚えがあるような、ないような。
(天の助け。こいつをぶっ放せば)
親指と人差し指だけで、彼は拳銃を掴もうと必死になる。
ジュウザは恐らく銃の存在に気付いていない。が、早くも斧をかまえにかか
っている。
(ま、待て。数秒、数秒だけ、時間をくれ)
震える右手で、蝶野は拳銃を取り上げるのに成功した。幸か不幸か、引き金
を引くのに最低限必要な二本の指は残っていた。
(へ、へへ。心臓にお見舞いすれば、おまえだって)
蝶野は銃口をジュウザの左胸に当てた。
蝶野の喉からジュウザの左手が離れ、斧が振りかぶられた。
「食らえ!」
引き金が引かれる。
ぱーんという乾いた銃声が、林の中をかける。
そして……蝶野の頭部は、胴体から切り離された。
ジュウザは、ひげ面の男を仕留めると全く同時に、胸に激しい痛みを覚えた。
ジュウザはすぐに立ち上がり、胸をかきむしる仕種を見せた。
が、痛みは消え去らない。
斧を手にしたまま、よろめくジュウザ。メタル系のサングラスのため、表情
は読み取れぬが、苦痛の色を浮かべているに違いない。口からは、はーはーと、
息がこぼれている。
「があ!」
突然、大きく吠えたかと思うと、ジュウザは体勢を崩し、横転した。そのま
ま転がっていく。
先には谷川があった。先ほどまで降り続いた雨で、水かさも勢いも普段より
遥かに増している。
ざ−−ぶん。
大きな水音と、高く上がった水しぶきを残し、ジュウザは川の中へと消えた。
私は走った。
やっと、身体が自由になったのだ。
ずっと抱かれたままだったから、逃げるに逃げられなかったけれど、彼女が
死んで、ようやく逃げ出せる。
記憶にある建物が見えた。
私は安堵の息をもらした。人とのふれあいなしに生きていく自信は、私には
ない。
私は坂を駆け上がり、その別荘の庭で大声を上げた。
何度も何度も、とにかく、気付いてくれるまで、やってやる。
「うるさいなあ、もう……」
寝惚けたような声が、かすかに聞こえた。
ついで、窓ガラスが開けられる。
私はもう一度、声を上げた。
「何だ、ミィクじゃないの」
髪の長い人間の女性−−千馬冴子が姿を見せた。簡単な室内着姿の彼女は、
サンダルを突っかけて、庭に出て来てくれた。
「どうしたのよ。あの四人と一緒に行ったんでしょうが」
私は彼女へ駆け寄った。尻尾を立て、なるべくかわいく見えるように。だっ
て、これからは彼女が頼りなんだもの。
「ひっ! ミィク、どうしたの! おまえ、真っ赤に染まってる……」
言われて初めて気が着いた。何か臭うと思ったら、私、血塗れになっている
んだ。猫田−−私の飼い主−−が首を切られたとき、盛大に血が出たから、そ
れを浴びちゃったのね。
「血よ、これ……。何があったのよ?」
千馬の声は震えていた。
私はとりあえず、愛想を振りまくことにした。気に入ってもらわなくちゃ。
「みゃあ」
−−終わり